2幕 飛都の子ら 7
灯己が千城宮に着き、大階段に足を掛けると、血相を変え灯己目掛け階段を駆け下りて来る者があった。風のように駆けるそれは帝王付き双子女官長のひとり舞霧であった。千城を離れている間に面倒が起こったことを灯己は察した。そしてその通りであった。
蘭莉が珠峨の下女を妖術で殺した疑いで捕縛された。
舞霧に引き摺られるようにして灯己が自身の執務室に入ると、そこで待っていた双子の片割れ夕凪がさっと頭を下げた。
「灯己様、お帰りなさいませ、お待ち申し上げておりました。」
灯己の執務室にはもう一人先客があった。第二位執政官、確か名を木槌という、恰幅の良い男がいかめしい顔で椅子に座っている。灯己は名をうろ覚えであったが、二位殿と言っておけば間違いないだろうと思いながら執務机の椅子に腰を下ろした。
「これは二位殿、お待たせ申した。して、どのようなお話か?」
ことのあらましはここへ来るまでに舞霧から聞いたが、灯己はあえて明るい声で素知らぬふりをした。木槌はじろりと舞霧を睨んだ。
「女官長殿から聞いておりませんかな?」
「蘭莉を拘束されたと聞き申したが、私が留守の間にそのような措置を講じるとは早まりましたな。帝軍の裁事は全て私に任されている。私に許可を取るのが筋でありましょう?」
「元帥殿は武官筋のお方、蘭莉殿の肩をお持ちになるは目に見えております。」
灯己はにこやかに笑って見せた。
「これは馬鹿にされたものだ。武官が不祥事を起こしたならそれを処分するのが私の仕事。私情で部下の肩を持つ気は毛頭ございません。ことの成り行きをありのままにお話し願いたい。」
「蘭莉殿は珠峨殿の下女を殺したのですぞ。」
「蘭莉が殺したと、直に見たものが?」
「直に見ずとも、死体を見れば一目瞭然。あのように頭部だけ爆発させるは蘭莉殿が得意とする術の為せる技。あの妖術を他に使える者はおりません。」
「蘭莉は自分でやったと申しているのか?」
「蘭莉様は自然に爆発したとおっしゃっています。」
と夕凪が答えた。木槌のふくよかな面がかあっと赤く染まった。
「そのようなことがあるものか!言い逃れにそう言うより他にあるまい。」
「確かに、蘭莉は手を触れずに他人の体を爆破させる妖術を身につけている。我が軍であの術を操れるのは蘭莉一人であるのも事実。しかし、妖術を戦場のほかで使うことを軍律は固く禁じている。蘭莉は二百年この帝軍に仕える優秀な軍士だ。軍律を犯すとは私には信じがたい。」
ふん、と木槌は鼻を鳴らした。
「蘭莉殿が優秀な軍士であることは聞き及んでおりますが、同時に優秀な間者だとか。その噂は元帥殿もご存じでありましょう?」
蘭莉め、と灯己は苦々しく心の内で舌を鳴らした。やはり一位殿に気付かれて手を回されたではないか。
「噂が事実とは限りません。」
「蘭莉殿が一位殿の周囲を秘かに嗅ぎ回っていたことも調べがついているのですぞ。」
灯己は鳥市時代に散々男どもを震え上がらせてきた鋭い一瞥を木槌に向けた。
「蘭莉が一位殿の何を嗅ぎ回っていたと?蘭莉がそうしたからにはそうさせる疑わしき所以が一位殿にあったのではないのですか?」
灯己に睨まれ木槌はさっきまで真っ赤だった顔を真っ青にした。それは、と口籠る。
「それは対立する一位殿を出し抜こうと、ありもしないことを探っていたのでございましょう。」
灯己は声を張り上げた。
「蘭莉が私欲でそうさせたと?それこそ疑わしい。蘭莉はそのような私利私欲の勝る軍士ではありません。」
木槌は太った体を縮こまらせた。長年二位に甘んじているとはいえ、腐っても執政官である木槌は口上には自信があった。裏街の出の無学の女と侮っていた灯己にここまでやり込められるとは思いもしなかった。
「やはり元帥殿は配下がかわいいと見える。そのように肩入れされてはお話になりませんな。」
「私情で配下をかばう道理など私にはない。蘭莉が一位殿の使いを殺したというのが事実なら私が罰を下すまで。しかし今までの話ではその事実が見えてきません。蘭莉はああ見えて老練な軍士です。戦場では何千人と殺してきた。殺すとなれば手抜かりはありません。本当に蘭莉がやったのであればこのように無様な見つかり方はしませんよ。蘭莉のやり方とは思えません。蘭莉に会わせて頂きたい。真偽を問うのが私の役目です。」
「それはお断り申す。」
「なぜです?」
やっとお鉢が回ってきたというように、木槌は鼻息荒く髭を撫ぜた。
「軍部内の不祥事であれば元帥殿に裁きを委ねるは当然。しかし今回は文官と武官の、いいえ、千城全体にかかわる事件。元帥殿の出る幕ではござらん。私は裁きを頼みに来たのではなくその事実をお伝えしに参ったまで。」
「配下の不祥事を私に裁かせないと?」
眉を顰める灯己の顔を木槌は満足そうに眺めた。
「これは決定事項ですぞ。今回の件は近々開かれる代表二位会議で裁かれることがすでに決まっておるのです。」
「それは帝王の宣下か。」
「もちろんにございます。」
灯己は双子女官長を見た。夕凪と舞霧はさっと目を伏せた。何を考えているあの馬鹿帝王、と灯己は怒鳴りそうになるのをなんとか宥め、木槌に向き直った。
「代表二位会議で裁かれるということは、もちろん、武官第一位煌玄の意見も考慮されましょうな?」
木槌はにやりと笑った。
「もちろん、と言いたいところですが、生憎、煌玄殿は帝命で乾冷州に出向いておられますからな。」
「それでは軍部からの出席者はいないではないか、それで公平な決議が下るとお考えか?」
木槌は居丈高に声を立て笑った。
「軍部の方がいらした方が公平な決議になることの疑わしきかな。元帥殿、もはや騒ぎ立てたところで手遅れ。これは決定事項ですぞ。帝のお決めになったこと。元帥殿のこの件への一切の関与を許さぬと、帝のお言葉にございます。謹んでお受け下さい。」
灯己の口が言葉を継がぬうちに、木槌はその肥満体に似合わぬ俊敏さで逃げるように部屋を出ていった。怒りでわなわなと肩を震わせる灯己を、双子は戦々恐々として見守った。
「正気かあの馬鹿は!」
あの馬鹿こと帝王燈羨は天蓋の中にいた。
「だってしょうがないだろう?」
寝台の天蓋の中で寝転がったまま、燈羨は己に向かい合った。
「文官達がすごい剣幕で訴えてきたんだから。」
「蘭莉を見捨てるというのか?蘭莉がいままでどれだけこの燈家に忠誠を尽くして来たか、おれよりおまえの方が知っているだろう。」
天蓋の外から今にも燈羨を殴りそうな勢いの灯己に、燈羨は肩を竦めて見せた。
「だからだよ。今まで僕が蘭莉を贔屓しすぎたって言うんだもの。そうじゃないってわからせるには文官の話を聞いてやるほか無いだろう?」
そんな子供の悋気をなだめるようなやり方があるか、と灯己は更に憤った。
「だからといって会議に軍部から誰も出ないなど、蘭莉の不遇処置は決まったようなもの、二位会議を開くまでもないじゃないか。煌玄を呼び戻せ。」
「だめだよ。あれは今乾冷州の頭に話をつけさせているんだから。乾冷州の豪士どもが蜂起しようとしているのは灯己だって知ってるだろう?灯己がいけないんだからね。この大変なときに松山なんかに行ってるから。灯己が乾冷州に行っていればあいつらだって一日で平伏したろうに。」
「おれが松山に行ったのはお前のためだ。」
憮然として灯己は答えた。
「わかってるよ。あの刺客のことだろう?それで何かわかったの?」
「わかったこともあるが、まだ調べなければならないこともある。」
燈羨は、ふうん、と気のない返事をした。二人のやり取りをおろおろと見守っていた双子女官長が堪らず口を挟んだ。
「灯己様。代表二位会議には私どもも参じます。」
「帝が愚かな宣下をされぬよう、私どもも努めますので。」
燈羨は口を尖らせた。
「愚かな宣下などしやしないよ。僕は蘭莉が好きだ。ちゃんと蘭莉の言い分だって聞いてやる。悪いようにはしない。」
「そうしなければいずれ困ることになるのはおまえだ。このままでは武官たちが黙ってはいないぞ。」
「だからそれを宥めるのが灯己の仕事だろう?うまく言いくるめてよ。」
灯己はじっと燈羨を見つめた。
「おまえ、蘭莉が一位殿を探っていたのを知っていただろう。おまえにはそれを止めることもできた。こうなることを、わかって止めなかったんじゃないだろうな。」
「僕が?まさか。」
燈羨は面白がるように目を細めた。灯己は心の中でくそ、と悪態を吐いた。蘭莉が仄めかした燈羨への疑惑をあの時無理やりにでも聞き出しておくべきだったと後悔した。
「羅梓依が何と言おうとも、僕は蘭莉の味方だよ。」
「正后様が?正后様が代表二位会議に出るのか?」
宮廷のしきたりに暗い灯己でも眉間に皺を寄せる程、それは不自然なことだった。これまでの歴史の中で正后が政治的会議に出席した記録はない。あの暴君阿陀良でさえ、夫である紫芭を公の政治の席に伴ったことはなかった。
「死んだ珠峨の下女、あれは元々羅梓依の女官だ。竜胆家にいたころから羅梓依に仕えていたから、羅梓依は心穏やかじゃない。」
「その女官がどうして一位殿の元へ?」
「珠峨が気に入って羅梓依から譲ってもらった。」
「気に入った?男女の仲だったということか?」
「そうではないだろう。珠峨は男色だ。」
釈然としない、と灯己は思った。
「羅梓依ときたら、最近やたらと口を出すようになってね、今度のことだって、蘭莉が自分を狙ってやったことだと言い出す始末だ。」
「正后様が?」
「頭の悪い女の出来の悪い想像事だよ。まったく、この城に来た頃に比べると人が変わったようだ。」
その燈羨の言葉に、灯己は引っかかりを感じたが、
「面倒くさいなあ。第三妃、娶ろうかなあ。」
という燈羨の間の抜けた冗談に思考を乱された。
「面倒だろうがてめえの女だろ。」
灯己は乱暴に扉を開け、燈羨の寝所を出た。
「それで、帝はなんと?」
麗威の問いに、武官の広場に集まった軍士達は食い入るように灯己を見つめた。
「帝は以前から蘭莉には目をかけてくださっている。悪いようにはせぬと仰った。」
軍士達の吐いた溜め息に不安と安堵が入り交じる。
「蘭莉の沙汰については私からもよく帝に申し上げるゆえ、あまり心配をするな。いいか、くれぐれも怒りにまかせて行動を起こすようなことはするな。何を言われてもじっと堪えるのだ。帝が正しき沙汰を下してくれることを信じて静かに待つように。」
軍士達から不満の声が漏れ、ざわめきが広がっていく。灯己は声を張った。
「私はおまえ達がそうしてくれることを信じている。」
軍士達がはっとしたように、口を噤み灯己へ視線を戻した。
「いいな?」
灯己の問いに、軍士達は一糸乱れぬ所作で敬礼した。灯己はほっと息を吐いた。
軍士達をそれぞれの詰所に帰し、灯己は麗威と彰豼を連れ執務室へ戻った。
「おまえ達は蘭莉が一位殿の周囲を探っていたことを知っていたのか?」
麗威と彰豼は目くばせし暫く迷っていたが、彰豼が口を開いた。
「おれ達にも詳しいことは知らされていませんでしたが蘭莉様は理由なく一位殿と対立していたわけではありません。」
「何を訝しがっていた?」
「おそらくは、一位殿の出世に関わることを。」
彰豼は灯己に向き直り、声を落とした。
「先帝の御代に、先帝のやり方をよしとしない官人たちが春宮羨様、つまり燈羨帝を立てようと動いていたことはご存知ですか。」
灯己はああ、と頷いた。ご存知も何も、その諍いの中で幾人かの反燈峻帝派の官人を殺したのは灯己だ。
「一位殿はその動きの中で頭角を現し、燈羨帝の御代になると同時に高位を授かったと言われていますが、先帝の御代、一位殿は夜回り番だったのです。」
夜回り番は夜中に千城各所を見回る任務で、十位から八位の官職のつかないものたちが七日ごとに割り当てられる。彼らは正式に位持ちとして官吏帳に記されているが、夜回りの報酬だけでは到底食っていけず、多くは昼間にも千城市中で何らかの仕事を掛け持ちしている。いわゆるお雇い貴族と呼ばれる零細貴族で、雨寂の生家がそうだった、と灯己は思い出した。雨寂の父は最下位の十位だったと聞いたが、年若い雨寂にもこの家業の知識があったおかげで鳥市の灯己たちは夜回り番の回る時刻や順番など詳細に知ることができたのだ。
「ただし、一位殿がそれだったことは蘭莉様の調べによるもので、公にはされていません。燈羨帝を立てる企ては燈峻帝に反感を抱くごく一部の文官の間で進められていたことで、その企ても、突然の燈峻帝の崩御によってうやむやになり、だれがその企みに加わっていたのかという記録は残っていないのです。ですが、八位の夜回り番がその企てに加わっていたのは不自然ではありませんか?」
確かにその通り、八位という低位も、夜回り番という職も、春宮からは遠いところにある身分だ。
「その八位夜回り番だった珠峨が一体どうして執政官一位まで上り詰めたんだ?」
ちらり、と彰豼が麗威へ視線を投げたが、麗威は口を開かなかった。足元からゆっくりと血が抜けていくように少しずつ青褪めていく麗威を、灯己はじっと観察した。彰豼が続けた。
「珠峨殿が神式官三位の時、先帝の御代から難航していた竜胆家との縁談をうまくまとめ、正后様付き躾役となったことを足掛かりに、正后様のお口添えで執政官三位に官替えされました。それから瞬く間に一位になられたのは元帥もご存知かと存じますが、八位夜回り番だった珠峨殿がどのようにして神式官になったのかは記録がないのです。神式官は主に竜胆家の世話や帝王との取り次ぎをしているため、他の官職との接触がほとんどない上に、先帝が暗殺された夜に、文官書庫にも火が回り、それまでの記録の多くが焼けてしまったのです。」
その火事の発端は灯己にあった。灯己は申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、彰豼は気まずい面持ちの灯己には気付かない様子で話を続けた。
「帝はいつなんどきどの者をどの職におつけになろうとお思いのままです。たとえ低位の夜回り番であろうと、見どころがあれば神式官にお取り立てになったとしても不審はありません。それにも関わらず蘭莉様があれほど不審がっておられたのは、やはり何かあると思えてなりません。」
その不審に帝が噛んでいるのかと問うた灯己を見つめ返した、蘭莉の強張った頬を灯己は思い返していた。今目の前にいる麗威はあの時の蘭莉と同じ顔をしている。
「麗威、何か思いあたることがあるのか?」
麗威は俯いていた顔をはっとしたように上げた。
「いえ。」
「蘭莉が今のお前と同じような顔をしていたことがあった。あのとき、無理やりにでも話を聞いていたら、こうはなっていなかったかもしれない。言わなければならないことは口が利けるうちに言ってくれ。」
麗威の瞳が揺らいだ。俯き、しばし逡巡した。灯己は辛抱強く待った。
「蘭莉様のことですが。」
麗威は重い口を開いた。
「蘭莉様は妖術を使っておりません。」
「どういうことだ?」
「あれは、蘭莉様のお力ではありません。夢に、見たのです。」
夢?と彰豼が頓狂な声を上げた。
「何言ってんだよ、夢の話なんて。」
灯己は彰豼を制し、麗威に先を促した。
「夢に見たという形ではありますが、あれは、何者かの目を借りて、あの場を、覗き見せられたのです。」
「強制的に夢に見せられたと?」
麗威はこくりと頷いた。灯己は目を瞑り、ゆっくりと息を吐いた。すべてを見ることのできる目玉を持ち、夢を操る者を、灯己は知っている。
「何を、見せられた?」
「下女の死はあたかも蘭莉様が妖術を使ったかのように仕立てられていましたが、違うのです。」
「違うって?」
彰豼の問いに、麗威は口を噤んだ。
神言反呪なのか、と問う灯己の眼差しに、麗威は、真っ直ぐに見つめ返し、頷いた。
やはり、そうか。
麗威にそれを見せたのは、麗威が神言反呪を知る者だからだ。グレイスは麗威に覗き見せることで、蘭莉の身の潔白を証明させるつもりなのだろうか。
神妙な面持ちで黙り込む灯己と麗威に、彰豼が痺れを切らした。
「どういうこと?麗威はそれを見させられたことに心当たりがあるの?」
その問いに、麗威の瞳が狼狽えるように揺らいだのを灯己は見逃さなかった。
「いや、ないよ。」
いや、まだある。麗威はまだ言っていないことがある。しかし、麗威の口はそれ以上何も語ろうとはしなかった。言えぬのは裏神格家としてか。もし家ではなく麗威として言えぬことがあるならば、グレイスに付け込まれる隙がある。グレイスが夢を見せたのは、決して親切心からではあるまい。灯己はじっと麗威の開く意思のない口元を見つめた。麗威が口を開くには、まだおれの信用が足りないのだ、と灯己は心の中で項垂れた。
気持ちを切り替えるように灯己は咳払いをし、口を開いた。
「おまえたちに言わなければならないことがある。逃げたウエダタツだが、花街に潜伏しているのを見つけた。」
麗威と彰豼は目を見開き、色めき立った。
「元帥が捕縛を?どのように?」
質問攻めにしようとする彰豼を宥め、灯己は二人を椅子に座わらせた。
「ウエダタツは牢番を殺していない。牢番を殺しタツを逃がしたやつが内部にいる。ウエダタツと取引をし、しばらく泳がせることにした。逃がしたやつの出方を知りたい。」
麗威と彰豼は顔を見合わせた。
「おまえたちには申し訳ないが、もうしばらくあの噂に耐えてくれないか。」
「それは構いません。」
と彰豼が答え、麗威も頷いた。
「あの女の刺客はどうされたのですか?あれも元帥の御領分だと蘭莉様が。」
「あれはまだだ。だが、蘭莉の言う通り、私に任せてほしい。」
彰豼は渋々といった様子を隠さずに、しかし、灯己への期待も隠せぬきらきらとした瞳で、は、と返事をした。
灯己は二人を詰所に帰すと長い息を吐きながら寝椅子に体を沈めた。
「聞いていたか?」
灯己の問いに、部屋の隅の暗闇に金の文様が浮かび上がり、その中からペルが現れた。
「夢に見たってさ、この件にグレイスが噛んでるってこと?」
灯己はぐったりと椅子の背に凭れながら、ああ、と返事をした。
「他にそういうことをできるやつがいるか?」
「だって神言反呪の件に、グレイスは絡んでないって。」
ペルは半ばむきになったように反論した。灯己は首をもたげペルを見た。
「だからなんでそれが言い切れるんだよ?」
「それはだって、グレイスは神言反呪を知らないから。」
「なぜ?」
「神が禁じたからだ。」
「神苑の反逆者が神の教えを律儀に守ってるってのか?」
ペルは口を閉じ目を伏せた。小さく息を吐く。
「でも、それはそうだとしか言いようがない。」
拗ねた子供のように、ペルはじっと俯いていたが、しばらくして顔を上げた。
「麗威は、知ってるんじゃないの。誰が神言反呪を使ったのか。なんでもっと問い詰めなかったんだよ、命取りになるよ、蘭莉みたいに。」
灯己はじろりとペルを睨んだ。
「おい。おれがおまえに体よくつかわれる筋合いなんてこれっぽっちもないんだぜ、勘違いすんな。グレイスも神苑もおれには関係ないって忘れたのか?おれは、おれの命を繋いでいる燈羨の犬だ、おまえに指図される覚えはないぜ。」
ふん、とペルは顔を背けた。
「よく言うよ。おれがいなかったら灯己なんかグレイスの思うがままだよ、グレイスの怖さ知らないくせに!」
不意にぞわりと肌が粟立ち、ペルははっとして灯己を見た。灯己の肌から妖気が昇っていた。初めて灯己に会った時、灯己を包んでいた炎と同じ妖気だとペルは思い出したが、同様のものでありながら、今灯己を包むそれは比べものにならないほど禍々しい。
「黙れ小僧。」
灯己の口から洩れ出る、地を這うような魔物の声にペルの体は芯から震えた。全身の毛が逆立つ。喉が鳴る。
「貴様ごときが偉そうに、貴様こそ神の威を借りる者、神の名を使わなければ何もできないくせによく恥ずかしげもなく威張れるものよ。」
カタカタと歯の鳴るのをペルは止めらない。ち、と灯己が舌を鳴らした。
「勝手に喋んなくそ妖魔。無駄に怖がらせてんじゃねえよ。」
忌々しく悪態を吐く灯己に、魔物がくくくと笑うのが聞こえた。
「確かに、おれはグレイスがどんなに怖いか知らねえよ。こまごまとちょっかい出してきて面倒くせえ奴だなくらいにしか思ってない。おまえとグレイスの間に何があったのかも知らない。昔おれとあいつの間に何があったのかも知らない。それを知りたいとも思わない。」
灯己が話すにつれ、だんだんと妖気が灯己の中へ収斂され、魔物の気配も消えて行った。ペルは青褪めたまま灯己を見上げた。
「灯己はグレイスも、その魔物も怖くないの?」
「怖いなんて感覚は麻痺してる。ペル、おれがおまえに協力してやってるのは、燈羨のためになると思うからだ。おまえのためじゃない。そもそも、おれは神を信じていないんだ。」
ペルは目を瞠った。ここにこうして神苑の遣いが姿を見せているのに、こうして言葉を交わしているのに、信じていないとは。
「信じずとも、神は存在するよ。」
「いるからなんだっていうんだ?おれは今までひとを幾人も殺して来た。その中には神苑の信者もいたよ。神を信じようとも、死ぬものは死ぬ。だから、おれはわかったんだ、神はいるのかもしれない、でも、助けてはくれないって。」
ああ、と短い悲嘆がペルの唇から零れ落ち、大きな両目から涙が流れ落ちた。
この世のひとが気付いてはいけないことを、灯己はいとも簡単に口にする。気付かせてはいけないことだったのだ。神が丁寧に丁寧に創った、美しい世界だ。この美しい世界を創った創造神への崇拝をいっぱい体に詰め込んで産み落としたのに、どうして灯己のようなひとが生まれてしまったのか。この世のひとびとは、ただ、神を愛してさえいれば幸せであったのに、神を信じないなんて。
「ペル?どうした?」
ペルはただ涙を落としていた。
「灯己はひどいよ。」
「は?」
「灯己はひどい。どうしたら灯己のようなひとができあがるんだろう、神の創ったこの世界で神を見捨てるなんて、まるで。」
まるで、燈王じゃないか。
ペルが大きな目に涙をいっぱいに湛えて見上げると、灯己は笑っていた。
「ひでえ顔だな。そんな泣くことねえだろ。何を信じて何を信じないかはおれの自由だ。おまえが気に病むことじゃない。」
「グレイスも信じないつもりなの?あれは確かに存在してるだろ、話しだってしてる。」
「そうだな、だから、いるはいるんだろ。それできっと消えることもないんだろ。だから、適当にあしらうしかやり過ごす方法はないんだろうな。」
「灯己はグレイスの恐ろしさを知らないからそんな悠長なこと言ってられるんだよ。」
灯己の黒水晶を填め込んだような目玉がちらりと動き、ペルを見据えた。ペルは目を逸らさずに堪えた。灯己に殺されてきた人々を思った。彼らは皆この瞳がこの世で見た最後の記憶だったのだろうか。あるいはこの瞳に映る己の姿か。
「死ぬことのないおまえにも恐ろしいことがあるのか?」
「きっと、灯己にはわからない。」
灯己は鼻で笑った。
「それを言われたら会話が終わるぜ。」
その通りだ、とペルは力なく頷いた。あの時、灯己に声を掛けたのは間違いだったのかもしれないと思い始めていた。声を掛けたのは、炎の中にいる灯己を救えると思ったからだったが、それはひどい勘違いだったように思えてならない。灯己と話していると思考と現実が食い違っていくような違和感に心が侵食されていく。思っていた世界がそうではなかったと気付かされるような不快感に、目を覆いたくなる。ペルはふらりと歩き出し、灯己に背を向けた。
「そうだよ、この話はもう終わりだ、おれは行かなければ。」
「達の居場所、教えたからな、顔を見せてやれよ。」
「うん。」
ペルは足元に文様を描き、その中へ飛び込んだ。闇の中へ沈んでいく。ペルは闇の中で強く念じた。神は絶対に消えない、神はいるのだから。どんなに抗おうと、神の手から逃れることはできない。灯己だって例外ではない、あの燈王だって、神の呪いに絡め取られた。燈の一族は神に呪われている。呪われ続ける。呪われろ、呪われ続けろ。闇の中に紡がれるペルの呪詛は泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消え、ぷくぷくと音を立て闇に溶け、そうしてその闇を吸いペルの肺は呪いでいっぱいになった。ペルは闇の中で泣いていた。燈王がはじめに神を見捨て、神は絶望し神苑を捨てた。出奔した神の足跡を、ペルは追い続けていた。




