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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
14/30

2幕 飛都の子ら 6

 珠峨はじっと天井を仰ぎ物思いに耽っていた。冴え冴えとした瞳は天窓から射す光に透かされ、淡く幾色にも輝いている。寝椅子にゆったりと凭れ、珠峨の膝を枕にし横たわる羅梓依の豊かな髪を丁寧に梳いた。

「羅梓依様。」

 羅梓依の目は虚ろに開かれ何も映していない。

「私のかわいい羅梓依様。私は羅梓依様のお気持ちがとてもよくわかりますわ。羅梓依様のような立派な神格家の后がありながら、粗野な武官から后をもらうなど、羅梓依様を軽んじているとしか思えませんもの。これは軍士どものたくらみでございましょう。私が羅梓依様に気に入られていることをやっかんでおるのです。蘭莉軍将が密かに私の周囲を嗅ぎまわっていることをご存知ですか?あのような輩はやることが乱暴ですよ。そうそう、今度の卯杏殿のことだって、卯杏殿には許嫁が決まっておりましたのに、それを白紙にしてまで帝に取り入って。ここだけのお話ですけれど、卯杏殿の本来のお相手は、」

 障子に女官の影が映った。

「珠峨様。彰豼様と麗威様がお見えになりました。」

 珠峨が羅梓依の耳にふっと息をかけると、羅梓依が息を吹き返したように瞬きをした。

「通しなさい。」

 障子の向こうで彰豼と麗威が膝を折る。

「正后様に謹んで申し上げます。本日は珠峨殿の執務室にて謁見の機を賜り恐悦至極に存じます。第四部隊軍将彰豼よりご挨拶申し上げます。わが隊の本日の任務、つつがなく務めさせて頂きました。」

 麗威が挨拶を引き継いだ。

「これより彰豼が隊に代わり、我が第三部隊が夜警を務めさせて頂きます。正后様におかれましてはどうぞごゆるりとお休みくださいませ。」

 障子が開く気配に、二人は身を固くしたが、そこに立っていたのは珠峨だった。

「御苦労さまでございます。ところで、あの逃げてしまった刺客はまだ捕まりませんの?」

「は。蘭莉が第二部隊、手を尽くし追っておりますが、いまだ。」

「そうですか。あの蘭莉殿が隊ならば、きっと仕留めてくれると心待ちにしております。」

「そうでしょうか。」

 幼い子供のような声に、麗威と彰豼はさっと顔を深く伏せた。身分の高い軍将であっても正后が軍士に声をかけることは滅多にないことである。

「同じ穴の狢でしょう?軍部がしでかした始末を軍部に任せてもうやむやにされるのがおちです。」

 顔を伏せたまま、麗威は、とおっしゃいますのは、と怖々訊ねた。

「例の刺客、麗威が逃がしたのではございませんの?」

 麗威と彰豼はぎょっとして思わず顔を上げた。御簾の奥からじっと二人を見据える気配に、二人は慌て再び頭を垂れた。

「彰豼、そなたは刺客が逃げた時、検分の最中に高熱を出し記憶が曖昧のようだと聞きました。」

「は。面目次第もございません。」

「代わりに検分を引き継いだのは麗威だそうですが。その経緯こそ疑わしいことばかり。」

 麗威は深く頭を垂れた。実際にはぴんぴんしている彰豼に熱を出していると思い込ませしばらく寝所に押し留めるのは至難の業であったが、御治療院の病理学と薬学を首席で修めた後士官学校へ進んだ麗威の言うことならばと、半信半疑ながら彰豼はおとなしく二日ほど床に就き、事なきを得た。しかし、まさか彰豼の熱病の一件を正后様がご存知であるとは思いもよらず、麗威は俄かに緊張した。

「は。」

「竜胆の血縁でありながら、王魔の犬となった麗一族を我らが何と呼んでいるかご存知ですこと?」

 麗威は息を飲んだ。

「汚らわしい二枚舌の麗家は王魔の炎で焼け死ねばよいのに。」

 色の失せた麗威の横顔を、彰豼が案ずるように見やった。

「麗威、そなたのおっしゃることなど、どれだけ信じる価値がありましょう?そなたが逃がしたのではないと、証明する術はありませんわ。」

「正后様、それはあまりにも。」

 思わず声を上げた彰豼を麗威が手で制したが遅かった。羅梓依の視線が彰豼へ向けられる。

「そもそも、あの刺客は、彰豼が引き入れたと考えられませんこと?第二妃に決まった卯杏さんは彰豼の許嫁だった方なのでしょう?」

 彰豼はぎょっとして顔を上げた。それは子供の頃からの決まりごとであったが、卯杏に内示が出た時点で両家で白紙に戻し、帝のお耳にも入らない手筈になっていた。

「許嫁を帝に取られた恨みから、このように刺客を放ち、帝を狙ったのではございませんの?」

「まさかそのようなこと!」

 堪らず声を上げたのは麗威だった。羅梓依は冷たい視線を麗威に向けた。

「ならば麗威に尋ねますが、あなたの隊の弓の名手と謳われる卯杏さんが弓矢、一本も刺客にあたらなんだことをどう説明するのです?」

「それは、弓の名手といえども、あのような俊足の輩には追いつけないことも。私の訓練不足でした。将である私めの責任にございます。」

「もちろんあなたの責任ですわ。ですが、それだけでしょうか?彰豼と麗威はたいそう仲がよろしいとか。彰豼と麗威でしめし合わせ、刺客をおびき入れ、逃したのでありませんこと?そう考えるのが、もっとも道理ではありませんこと?」

 麗威と彰豼は愕然と御簾を見つめた。扇の下で珠峨の頬が綻ぶ気配を察しながら、言葉を継げなかった。

「それが事実であるならば、大変なことですわ、麗威殿、彰豼殿。」

 しばらくじっと身を固くしていた彰豼が、突然上着の釦を取り、ばっと片肌を脱いだ。羅梓依は思わず声をあげ、顔を覆った。

「彰豼殿!正后様の御前でなんという、」

 珠峨の叱責を遮り、彰豼は声を張り上げた。

「正后様!どうかお顔を逸らさずにご覧いただきたいのです。この忠誠印を、正后様はご覧になったことがありますか。」

 羅梓衛は恐る恐る彰豼の腕の忠誠印に目を向けた。

「この忠誠印は我らが士官学校の卒業試練に合格し、帝軍への入隊を認められた証として頂く焼印でございます。熱した鉄の型を押すこの焼印は、われらの肌を焼き、肉を焼き、三日三晩、肌がはれ上がり、水ぶくれとなり、夜は痛みで眠ることもできず、半年もの間、その痛みが引くことはございません。しかし、われらにとってこの肉の痛みほど名誉なものはございません。この焼印は私の体が、私の心が、帝のものであると認められた証。われら帝軍士は、帝のためなら我が肉を喜んで焼きます。我らはそのような覚悟で幼い時よりこの焼印をこの腕にいただくことを夢見て励んでおるのです。この体よりも、命よりも大事な帝の正后様を危険な目に曝し申すとあれば死を与えられても足りません。」

 彰豼の啖呵に呆気にとられすっかり色を失った羅梓依に目をやり、珠峨が咳払いをした。

「男子が正后様の御前に肌を曝すものではありません。」

 珠峨は回廊に出ると後ろ手にぴしゃりと障子を閉じた。二人に顔を寄せ、声を落とした。

「正后様は新しいお妃様のことで気が立っておられ、あのような想像ごとを仰られるのです。お気に召されますな。私から申し聞かせましょう。」

 麗威は頭を下げた。

「は。かたじけのうございます。」

「さ、もう行ってください。」

 二人は頭を下げ、場を辞した。廊下を歩き、扉番から見えないところまで来ると、どさりと力が抜け、麗威は壁に背を預け、彰豼は床に手をついた。

「き、緊張した。」

 彰豼が顔面蒼白になりながら呟き、麗威は額の汗を拭い頷いた。

「いや、よく言ってくれた、彰豼。助かったよ。」

 彰豼は体を起こした。

「正后様があのようなことをおっしゃるのははじめて聞いたよ。この千城にいらしたばかりのころとは別のお人のようだ。麗威は小さなころから知ってるんだろう?」

 ああ、と麗威は小さく頷いた。

「この城に来て変わってしまわれたのだろうか?お召し物もお香も、どんどん煌びやかになられていくし。」

 返事をしない麗威の顔を、彰豼が覗いた。

「気にしているの?正后様のお言葉。」

 麗威は自嘲的に微笑み、首を振った。

「いいや。竜胆の者がどれほど燈一族を嫌っているかは昔からよく知っているからな。」

「正后様もそんなにお嫌いな燈家へよく后に入られたね。いくら時の帝王燈峻様のご命令といえ、そんな犬猿の仲の一族に嫌々さ。」

 彰豼の言葉に、麗威は思わず、ふふ、と笑みを漏らした。

「犬猿の仲なんかじゃないさ、燈峻様は竜胆家など歯牙にもかけておられなかった。昔から竜胆家が一方的に噛みついているだけだ。それに、正后様は嫌々ではないよ。」

 彰豼が、え、と聞き返したが、麗威は聞こえない振りをした。

「私はもう行く。将が夜警に遅れると士気が下がる。」

「あ、ああ。よろしく頼む。」

 麗威は軽く彰豼の肩を叩き、回廊を歩き出した。二枚舌の麗家は魔王の炎で焼け死ねばよい。羅梓依の言葉を思い出し、微笑む。

 この婚姻を望まれていたのは羅梓依様だというのに、と思うと笑いが込み上げてくる。羅梓依様のお気持ちを察しうまく立ち回ったのが、当時神式官として竜胆家との連絡役を担っていた珠峨殿だった。もしあの時私が先にそうしていたら、一位殿のお立場が私のものになっていただろうか、羅梓依様のご寵愛が私のものに、と考え、麗威は頭を振った。いや、出来るはずのないことだ、私には。


 一方その頃達は、脱獄したことで麗威や彰豼に嫌疑がかけられていることなど知る由もなく、一人千城の街を彷徨っていた。帝軍士らしき者を見つけては隠れることを繰り返し、脱獄してから三日、追っ手を逃れ続けていたが、空腹の限界を感じ始めていた。しかし、飛都の通貨を持っていない達には、食べ物を買うことができなかった。そうこうしているうちに、達は色とりどりの商家が並ぶ路地に迷い込み、そこで目を回し倒れた。

 目を覚ました時、達は座敷の布団に寝かされていた。丁度良く襖が開き、粥の入った椀を盆にのせ入って来たのは目の覚めるような美女だった。

「お目覚めでごんすえ。」

 変な言葉遣いだと思ったが、そもそもこの世界自体が変だと思っていたので達は気にせずにその女に話しかけた。

「ここ、どこ?おれ、どうした?」

「軒先で倒れてごんす。ゆっくり休まれんせ。」

 女は傾国の微笑みを浮かべ、達に粥の椀を差し出した。達はそれだけで胸がいっぱいになった。

「あの、ここは何かのお店なのかな?」

 達は布団の上に正座し、頭を下げた。

「お願い、おれ、ここで働かせてもらえませんか?」

 女は大きな目を更にひと回り大きくし、達を見つめた。

「ここで助けてもらったのも何かの縁、頼っていたひととはぐれちゃって行くところがないんだ、お願いします!」

 達は土下座しひれ伏した。

「お願いします!」

 女は困ったように達を見つめていたが、くすくすと笑いだした。

「へえ、そこまでおっしゃられんば、ようごんす、でも、うちがなんの御店(おたな)がご存知にならさった後で音を上げるは無しえ。」

 耳慣れない節まわしに戸惑いつつも、要は何の店かも知らないでそんなこと言って知った後でやめたいと言っても駄目ですよということだろうと達は理解した。達は胸を叩いた。

「体力には自信あるんで、どんな重労働でもどんとこいです。」

 しかしこの後すぐに達はこの口約束を後悔することになのである。


 千城宮では、達を逃がしたのは彰豼と麗威に違いないという噂で持ち切りだった。彰豼が目をやると女官たちはぱっと視線をそらし恭しく礼をするが、彰豼が通り過ぎるとこそこそと顔を寄せ合いちらちらと彰豼を見やりながら立ち話に花を咲かせる。そんな女官たちを振り返りながら歩く彰豼に、麗威が苛立ちを露わにした。

「ああもう鬱陶しい!なんだってきょろきょろして歩くんだおまえは。」

「最近、よくいろいろな人と目が合うような気がするんだ。」

 鈍感な彰豼に麗威は大きな溜息を吐いた。

「よく目が合うような気がする?気じゃない!実際に噂しているんだろうが!」

 麗威の怒鳴り声に、噂をしていた人々はぎょっとして振り返った。当の彰豼は、やっぱりそうなのか、と呑気な感想を述べた。

「あの刺客のことだよ、私とお前が逃がしたんじゃないかって、もっぱらの噂だよ。だからって、いいか、お前はきょろきょろするな、お前は何も後ろ暗いことなんかないんだ、堂々としてればいい!」

 麗威の啖呵に、噂していた人々はそそくさとその場を離れた。麗威は彼らの姿を見やり、ふん、と荒く鼻息を吐いた。歩き出した麗威を、彰豼が追った。

「だけど、そんな噂が立って、帝はどうお考えになるだろうか。」

「帝は疑いはしまいよ。」

「卯杏のことだよ。」

 思いがけない名に、麗威は彰豼を振り返った。

「こんな噂が立っても帝は卯杏をかわいがってくださるだろうか。」

「彰豼、その名はもう口にしないと約束したはずだよ。」

 彰豼ははっと口を押え、麗威を見た。

「卯杏は妹のようなものだから、心配なだけだ。」

 歪な彰豼の微笑みに、麗威は息が苦しくなった。麗威は彰豼の手を優しく取り、握った。

「もうすぐ交代の時間だ。まっすぐ屋敷に帰ってよく休め。な?」

 彰豼は首を振った。

「少しでもあの刺客の手掛かりを掴まなくちゃ、おれはおれが許せない。」

 麗威の手を静かに払い歩き出す彰豼を、麗威は慌てて追った。

「待て、彰豼、お前、このところ夜に調べ回っていて寝ていないんだろ?そんなんで昼の務めが全うできると思っているのか?」

「だって、」

「落ち着いてください、手掛かりなら見つけましたから。」

 そう言って彰豼の肩を叩いたのは麗威ではなく、蘭莉であった。二人は驚き、その巨躯を見上げた。

「蘭莉様、いつ千城にお戻りに?」

「今しがたです。」

「調べていたあの女の刺客のこと、何かお分かりになったのですね?」

 蘭莉が頷くのを見た二人は感嘆の溜息を吐いた。瞬時に嗅いだ刺客の匂いだけで尻尾を掴むとは、さすが「千城の番犬」の異名を持つ男である。二百年以上帝王から重宝され続ける能力は伊達ではない。新任の将である彰豼には及ばない経験の差があった。彰豼はぐっと蘭莉に身を寄せ、気炎を吐いた。

「刺客の捕縛、どうかこの彰豼めにお任せください。」

 しかし蘭莉は首を振った。

「いいえ、元帥にお頼みしましょう。」

 意気を削がれ、彰豼は怪訝な面持ちで蘭莉を見上げた。

「元帥ですか?」

「ええ。私には応じないあれも、元帥ならば、どうにかしてくださるでしょう。」

 要領を得ない蘭莉の答えに、彰豼と麗威は揃って首を傾げた。

「ですから、彰豼殿は体を休めてください。心配いりませんよ。」

 彰豼は子供のように口を尖らせた。

「元帥でなければいけない理由が?」

 麗威も口をへの字に曲げ考えた。老練の妖魔に適わず、元帥に適することがあるならば暗殺術くらいだろう、と。しかし帝のお許しさえあれば、蘭莉は妖力を使うことができる。数いる妖魔の軍士の中でも蘭莉にしか使うことができない、一瞬にして何千もの敵を爆死させる術である。刺客を殺すこと、もしくは刺客の根城を根絶やしにするのが目的であれば、蘭莉のほうが適任ではないか。

「手柄をわざわざ元帥にお譲りになるのですか?」

 子供のような麗威の問いに蘭莉は微笑んで首を振った。

「元帥の御領分なのです。」

 蘭莉の確信した通り、蘭莉の報告を聞いた灯己は翌朝早くに一人で千城を発った。

 陽が頭の上に昇る頃、千城の喧騒から遠く離れた「松山」と呼ばれる山里に灯己は立った。強い風が灯己の軍服の裾を翻し過ぎていく。灯己は風の過ぎた方を振り返り、遙か下方に千城の都を見下ろした。人の気配を察し山道を見ると、野菜の入った籠を担いだ少女が歩いて来る。少女は灯己に気付き、小さく会釈をして通り過ぎようとした。灯己は苦々しく頬を緩め、もし、と少女に声を掛けた。

「義葦殿でいらっしゃいますな。」

 少女ははじめきょとんとした顔を見せたが、暫くの逡巡ののち、にやりと笑った。

「おまえが来るのはわかっていた。できれば会いたくなかったが。」

「久しぶりだなじじい。」

 姿形は自在に変えることができても、声は変えられない。可愛らしい姿の少女の口からしわがれた老翁の声が零れ出る気味の悪い様に、灯己は苦虫を噛みしめたように顔を顰めた。

「その格好、まさかおれの目をごまかそうとしてか?」

「それだけじゃねぇ。昔の恨みでまあだおれを狙ってるやつが何人もいるんだ。じじいの姿じゃうかうか出歩けん。ここじゃなんだ、ついて来い。」

 義葦に案内されたのは山里の奥に設えた大きな一軒家だった。義葦は戸を開け、灯己を入るよう促すと、後ろ手に戸を閉めた。両手で顔をぐしゃぐしゃと弄ると灯己の知る義葦の顔が現れた。

「帰ったぞ。」

 義葦が声をかけると奥からわらわらと小さな子供が出てきた。

「細々とやってるって噂の割には子供が多いじゃないか。」

 子供たちは義葦から野菜を受け取りながら、灯己を不思議そうに見ている。

「口減らしに売られる餓鬼の数は帝王が代わろうと大してかわらんさ。おい、おめえらは奥に行っていろ。」

 義葦に追い払われるように子供達は荷物を持って奥へ引っ込んだ。義葦は竈に火を入れ、食事の支度を始めた。

「まだ、あくどい商いをしているのか?」

「手が後ろに回るようなことはしとらんよ。あいつらは下働きとして貴族に買われる。暗殺稼業はおめえらでもうたくさんだ。第一、帝軍元帥があのフクロウだなんて噂が立っちまっちゃ、刺客雇って帝王に刃向かおうなんて誰も思わねえよ。」

「それがそうでもない。そのフクロウ元帥率いる帝軍に切り込んできた輩がいてね。」

「そりゃ命知らずな。」

「ああ、まったく、あの向こう見ずの怖いもの知らす、まるであんたに初めて仕事をさせられたときの自分を見ているようだったよ。」

 野菜を切る義葦の手が止まった。

「あれはただの刺客じゃない。あんたに育てられたおれが見てそう思うんだ、間違いないだろう。あの娘の身のこなし、鳥市の義葦に仕込まれたとしか考えられねえ。」

 灯己はじっと義葦の背を見つめた。

「どういうつもりだ、じじい。」

「おれはおめえが帝王につかまってからは一度だって殺しの仕込みはしてねえよ。おれじゃあねえ。」

「じじいの他に誰があんなことを仕込めるってんだよ。」

 義葦は口を閉じ、野菜を切る手を再び動かし始めた。まな板を鳴らす小気味よい音がしばらく続いた。

「昨日蘭莉が来ただろう。あんたは子供の振りをしてしらばっくれたそうだが、あんたの匂いをあれは覚えていたぜ。昔蘭莉と何があったか知らねえが、あれに匂いをかがれたら逃れられねえよ。それに。」

 灯己は言葉を切った。言葉を継ぐのを暫く躊躇った。灯己は深く息を吐き、それを言った。

「これと同じもんを見た。」

 灯己は自身の左肩に手を当てた。

「一生消えない、おれが鳥市だった印だ。これがある限り、おれはおれが鳥市の売りもんだったことを忘れることはない。」

 義葦は観念したように息を吐いた。

「その刺客ってのは、目の玉の緑の娘か?」

「そうだ。」

「それなら(すい)だ。一年程前、ここから貴族に買われていった。でもおれはな、あれに殺しは仕込んでねえ。仕込もうと思ったって仕込めねぇよ。あれは奇鬼児だ。」

 灯己は耳を疑った。

「奇鬼児は体も心も弱いからな。貰い手はねえだろうって諦めてたんだが、口がきけねえのがいいって買われていったよ。人に言えねえことやらせるんだろうとは思ったが。」

 灯己はじっと考えを巡らせた。

「義葦。確かに多くの奇鬼児は体も心も弱い。体に重い失陥がある。でも彼らは失陥の代わりに、ひとや妖魔よりもひとつだけ秀でた能力を持つようにできているらしい。それを見つけさえすれば、奇鬼児でも特殊な仕事で千城に仕えることができるって城に入る前に聞いたことがある。あんたはそれを見逃したままその子を売っちまったんじゃないか?」

 ぎょっとしたように、義葦は灯己を顧みた。

「そんな馬鹿な。」

「誰だ?誰がそいつを買ったんだ?」

「それは言えねえ。門外不出だ。」

「その翠という娘を買ったやつが、見つけたんじゃないか?翠が鳥市並の身体能力だってこと。」

 義葦は困惑を露わにし、目を伏せた。

「義葦、答えろ、誰に売った?」

 義葦、と灯己は注意深くかつての育ての親の横顔を見つめた。これを言うしかないのか、と小さく息を吐く。

「義葦。また人殺しの親になるつもりか?」

 これだけは言いたくなかった、と灯己は目を瞑った。修羅の道を歩かされたとしても記憶を失くした子供時代を生きて来られたのは義葦のおかげであることを、わかっていた。そして今義葦がかつての業を償うようにまっとうな孤児拾いとして生きていることを灯己は蘭莉の報告で知っていた。

 苦しそうに目を瞑る義葦の口から言葉が紡がれるのを、灯己はじっと待った。

「カラスだ。」

 やっと開いた義葦の口から零れ出た思いがけない名に、灯己は息を飲んだ。

「カラスだと?」

「そうだ。あのカラスだ。このおれが見間違えると思うか?」

 あのカラスが生きているというのか、と問う灯己の眼差しに、義葦は頷いた。

「化けて出たとは思えねぇ、立派な恰好をしてやがった。」

 灯己は頭を振った。

「そんなはずはない、あいつはおれがこの手で殺したんだ。全部、灰になった。」

 義葦は懐から煙草を取り出し咥えると竈の火を先端に移した。口から煙を燻らす。

「高貴なお方に仕えていると言った。そのお方のために一人、女の奇鬼児が欲しいと。それ以上はなにも言わねえ。それだけだ。」

「本当に、繰弄だったのか?」

 義葦は深く頷いた。灯己は義葦の目の中に嘘を探したが、全ての事実を打ち明けたのだと灯己にはわかった。灯己は混乱した頭を抱えたまま、義葦の隠れ里を後にした。思いがけず激しく気が動転していた。気付いた時、灯己は雨寂の店にいた。

 中街霜町(なかまちしもちょう)にある飯屋「松江(まつえ)」の二階座敷の畳の上に、灯己は旅支度のままぺたりと座り込み、ぼんやりと窓の外を見ていた。真っ赤な夕陽が中流商家の建ち並ぶ中街の騒めきを照らしていた。階段を上って来る足音が聞こえた。

「師姉。」

 襖が開き、前掛け姿の雨寂が顔を覗かせた。灯己はぼんやりと振り返った。

「店はいいのか。」

「ああ、今は飯炊きも配膳も雇ってるから。」

「繁盛しているんだな。」

 雨寂は照れ隠しのつもりかおどけた顔で肩を竦めて見せた。

「まあどうにか。鳥市で仕方なく飯番やってた腕がこんな形で身を生かすことになるとは思ってもみなかったけど。」

 それで、と雨寂は声を落とした。

「じじいのところへ行って、何があった?幽霊にでも会ったみたいな顔して来たからびっくりしたぜ。」

 動揺し、灯己は胸を押さえた。雨寂が灯己の顔を覗き込んだ。

「師姉、どうしたの。」

「じじいが、会ったって。」

「幽霊に?」

 灯己の答えに雨寂は笑ったが、じっと顔を青くしたままの灯己の様子に、雨寂は笑みを消した。

「カラスが、来たと言ったんだ。」

 雨寂は瞳を動かして灯己を見た。

「カラスが、生きているのか?」

 考えてみれば、と灯己は思った。生き残って鳥市の技術を伝承できるのは、じじいと、おれと、雨寂だけだ。行方がわからない津柚は暗殺術を習得できずに交渉人になったのだから他人に技を仕込むことはできない。鳥市のような技をあの娘に教えることができるのは、死んだ繰弄しかいないのだ。

 灯己と繰弄はしばらく言葉を発する気になれず沈黙に浸っていた。陽が段々と落ち、二人は暗がりに沈んだ。ふと、雨寂が顔を上げ、灯りを、と言い、行燈に火を入れた。

「もし、本当に繰弄が生きているなら、津柚姉が知っているかもしれない。」

 柔らかい光が灯己の頬を照らした。

「津柚が?」

「津柚姉は、いつも繰弄のことを気にかけていた。何があったって繰弄の味方だった。もしかしたら、繰弄は津柚姉にだけは姿を見せているかもしれない。津柚姉の行方は知れないけど、死んだ者よりは探しやすいんじゃないかな。おれ、店が暇なときに探してみるよ。」

「雨寂。すまないな。」

 雨寂がにこりと笑った。

「師姉。繰弄が生きているなら、そんな顔することないじゃないか?あんな別れ方をしたんだ、おれはもう一度繰弄に会いたいね。師姉だって、そうだろ?」

 雨寂の邪気のない笑顔に釣られるように、灯己は眉尻を下げた。

「ああ、そうだな。」

 雨寂の言う通りなのかもしれない、と灯己は思った。しかし、繰弄が生きていたとして、殺したことが帳消しになる訳ではあるまいとも思った。確かに、殺したのだ、灰にした。あれは夢ではなかった。夢。あ、と灯己は小さく叫び、口を押えた。繰弄が生きていることに動揺しすっかり本来の目的を忘れていた。何のために翠の身元を調べに行ったのか。翠が薫詮索の陽動であるなら、翠を用意したのはグレイスなのだ。つまり、繰弄の仕える「高貴なお方」とは、グレイシー・ディティであるというのか。灯己は背に負ったグレイスの冷たさを思い出し、ぞっとした。すべてを覗く目玉を持ち、ひとの夢を操れる神苑の反逆者であれば、一度死んだ者を蘇らせることも可能なのだろうか。ペルに報告しなくては、と灯己は重い腰を上げた。

 灯己は雨寂と別れ、街をぶらぶらと歩いた。繰弄のことを考えているうちに、足が花街へ向かっていた。繰弄と組んで一番数をこなしたのは花街での殺しだった。刺客に殺されるような男は女をよく好んだ。そして、花街での殺しはやりやすかった。華やかな大通りから一本へ入ればいくつもの裏路地があり、そこはいつも闇だった。どの店も似たような楼閣が連なる構造は一度侵入するコツを掴めば簡単に忍び込むことができた。潰れる店があっても居抜きで新しい店が開く。花街はずっと変わらない。大通りから裏のどぶ溝まで、灯己は花街をすべて把握していた。目を瞑っても歩くことができる。

 陽が沈み丁度あちらこちらの軒先に色とりどりの明かりが灯されはじめた花街の入り口、朱塗りの大門を灯己が潜ると、居残りの客を見送る娼妓とすれ違った。千城の花街には珍しい、背の高い娼妓へ目が向く。灯己は立ち止まり、その娼妓が客を見送るのを待った。振り返った娼妓は灯己とぶつかりそうになり、さっと顔を伏せた。

「失礼致しました。」

 灯己は吹き出し、面白そうに頬を緩めた。

「こういう時ここいらの女は、ごめんなんし、と言うんだよ。」

 娼妓がはっとしたように顔を伏せたまま、上目遣いに灯己を見上げた。灯己はにやりと笑った。

「見違えたな、達。道理で見つからないわけだ。」

 それは娼妓に女装した達であった。達の顔がさあっと青褪めた。

「おまえの匂いを蘭莉に嗅がせておかなかったことを後悔したが、花街にいたのであれば蘭莉であっても見つからなかっただろうな、香の匂いがきついと言って蘭莉は花街を嫌うから。」

 達は大声で、あ、と叫んで灯己の背後を指さした。灯己の隙をついて走り出そうとしたが、灯己は達の腕を掴み、地面に叩き落とした。土埃が立ち上る。突然宙がひっくり返り全身が痛みに襲われた達は何が起きたのかわからなかった。衝撃と痛みに涙が滲んだ。覗き込む灯己を見上げ、やっと自分が伸されたのだとわかった。

「痛いわ!ここまでするか!?」

 灯己は通りで大の字になっている達を見下ろした。

「なぜ逃げる?おれはおまえの敵じゃない。」

 達は体を起こした。

「だって、逃げるなって言われたのに逃げちゃったし、それに噂で、おれが脱獄したせいであんたの部下に疑いがかけられたって聞いて。」

「それでおれが怒っていると?」

 灯己は達の頭を軽く叩き、汚れを払った。

「餓鬼が気を使うな。確かに厄介なことにはなったがな。まあ、なにはともあれ、おれに見つかったことを感謝しろ。もし帝軍が先におまえを見つけていたら、おまえなんぞ一瞬でこの世の塵と化していたよ。」

 胃がきゅうと縮み、達は顔をひきつらせた。

「へえ、よかったわ、じゃあ。」

「安心しろ。おれが見つけたからには死なせやしねえよ。おれから逃げられるなんて思うな。」

「優しいんですか?怖いんですか?」

 灯己はまじまじと達の装いを眺めた。

「その格好、花街のなんというところに厄介になっている?」

 立ち上がりながら、華巻(はなまき)、と答えた達は、灯己が目を丸くし、ほおお、と芝居がかった感嘆詞を口にしたことを怪訝に思った。

「おい達、おれに悪いと思うなら、おれの頼みの一つくらいきいてくれてもいいだろうな。」

 頼みごとというより脅しじゃないか、と達は思った。

「まあまずはお前の厄介になっている姉さんに挨拶をしに行こう。これからも面倒をかけるのだから。」

 これからも?と達は聞き直した。

「え、おれをペルのところへ連れていくんじゃないの?」

 灯己は面白そうににやりと笑う。

「なぜ?自ら好んで逃げ出したやつを連れ戻す筋合いがあるか?」

 達は嫌な予感に顔を歪ませた。

「働かざる者食うべからずだ、そうだろう、達。」

 何やら愉快な様子の灯己を伴い、達は妓楼華巻の暖簾を潜った。花街の最深部に聳え立つ、一等煌びやかな妓楼華巻は今夜も盛況である。達が戻ると、童女がわらわらと集まり、灯己の靴や上着を脱がせようと手を差し出したが、達はそれをやんわりと遮った。

「この方はお客様ではないの、大姉様を呼んできておくれ。」

 達の立ち居振る舞いに灯己は感心した。

「ずいぶん娼妓が板についているな。大したものだ。」

 灯己に褒められ複雑な心境の達は言い返そうと口を開いたが、芳しい匂いに背後を振り返った。灯己の目が、僅かに見開かれ、奥の扉から現れたそのひとを凝視した。妖艶な微笑みを湛え、傾国の美女がしずしずと二人に歩み寄った。

「これはこれは、お連れ様が見つかったそうで、よかったえ。なあ、達。妓楼華巻の主、嬋紕(せんび)と申しんす。」

 華巻の主であり自らも最上格の娼妓である嬋紕に粥を差し出された時、達は今まで見たどの女優よりも美しいと驚いたが、嬋紕の比類なき美しさを前にしても動じない灯己を見て、達は嬋紕を見た時よりも驚いた。

「達がお世話になりました。お礼申し上げます。」

 堅苦しい灯己の挨拶に、嬋紕は微笑みを絶やさず首を振った。

「いいえ、達はよく働いてくれんしたえ。こちらが礼を申さなければならないくらいでごんす。」

「今後のことについて連れと相談したいのですが、部屋を一つ貸してもらえませんか?」

 ええ、ええ、もちろんでごんす、と言い、嬋紕は灯己を手招いた。

「こちらへ。」

 嬋紕は二階の座敷へ二人を通すと、ごゆっくり、と言い残し優雅な身のこなしで立ち去った。灯己は襖に耳を寄せ、嬋紕が遠ざかるのを確かめてから達を顧みた。

「あの女、おれのことを知っているな。」

 は?と達は聞き返した。

「灯己って軍の偉い人なんでしょ?普通に知られてるんじゃないの?」

 灯己は襖に背をつけ立ったまま、達を見下ろした。

「座ったら?」

 達は座布団を勧めたが、灯己は首を振った。

「おれの顔を知っているのは帝王と軍士、文官では二位以上だけだ。」

 もしかして、と達は思った。

「灯己も大姉様のこと、知ってた?」

「華巻の嬋紕は花街の顔役だ、花街で知らないやつはいない。まあ、今もそうだとは思わなかったが。あれは妖魔か?昔と何も変わらないな。」

「昔会ったことあるなら灯己のこと知ってても不思議ないじゃん。」

「花街にはもうおれの顔を知ってるやつはいない。皆殺した。あの女とは顔を合わせてないはずだ。」

 灯己は昔殺し屋だったとペルが言っていたのを思い出し、達は少しだけ灯己から距離をとり座り直した。

「何か、嫌な感じがするな、あの女。それにあの匂い、いつだったか嗅いだ覚えがあるが、」

 そんなことないよ、と灯己の言葉を遮り達は反論した。

「すごく、いいひとだよ、行き倒れていたおれを介抱して、ここで働かせてくれたんだから。」

 達の言葉に、灯己は片眉を上げた。

「確かに、華巻に拾われたことは幸運だったな。ここは千城でも三位以上の高官しか入ることのできない高級妓楼、女は上玉しか雇ってもらえない花街一の妓楼だ。ここにいれば高官の妾だって夢じゃないぞ。」

「冗談やめて。拾ってくれたのが妓楼だって知らなくて、流れで仕方なくやってるんだから。」

「なかなか似合っているじゃないか。華巻には珍しいが大柄な女を好む輩がいれば重宝されるだろ。」

「蓼喰う虫も好き好きみたいな言い方やめてください。お姉さんたちの手伝いしたり居残りのお客さんの話相手になってるだけだから。」

 灯己はふうん、と口角を上げ、襖に背をつけたまま片膝を立て座った。左手には鞘に収まった刀を持ち、右手は柄に添え、警戒を解こうとしない。怪訝な達の視線に、灯己は、気にするな、と言った。

「こういう場所にいるときの癖だ。それで、どうやって地下牢から逃げ出した?牢番を殺したのは誰だ?」

「牢番が勝手に死んじゃったんだよ。なんか、変な呪文の書いてある紙を読んで。」

「その呪文の紙切れはどこから?」

「わからない。牢に、女の人が来たんだ。たぶんその人が持ってきた。」

「女?誰だ?」

「死角になってて声しか聞こえなかったけど、話しぶりからすると、身分の高い人なんじゃないかなあの牢番よりは。」

 女か、と灯己は考え込んだ。達を殺すための神言反呪だったのか、逃すための神言反呪だったのか。麗威たちが達を逃がしたという噂がかなり広まっていることを考えると、ペルの言った麗家への嫌がらせという可能性が無いこともない。灯己は息をついた。

「まあ、おれが考えるより麗威に話して調べらせる方が良いな。達、おまえは他に思い当たることがあればすぐ言えよ。」

 あのさ、と達は灯己ににじり寄った。

「おれって今も軍から追われてるんだよね?灯己が見つけて殺したってことにはできないの?あんなに軍服がうようよしてたら歩きづらくってしょうがないんだけど。薫探すのだってやりづらいよ。」

「できなくはないが。しばらくはこのままにしておいた方がいい。神言反呪の女の目的がわからないからな。お前を殺すことが目的なら、その女は今もお前を探しているだろう。お前がおれに殺されたと知れば鳴りをひそめてしまうかもしれない。」

 ああ、と達は明るい声で手を叩いた。

「あれでしょ、知ってる、泳がせるってやつ。」

「表に出る時はその格好をしていれば大丈夫だ。似合ってるしいいじゃないか。だれもお前が華巻で娼妓やってるとは思わない。」

 達は肩を落とした。

「まじかよー。」

 それに、と言い、灯己は目を瞑り耳を澄ました。女の香の甘い匂い、気だるい騒めき。

「懐かしい。この街は昔と少しも変わらない。ここの地理なら目を瞑っていてもわかる。」

 灯己は目を開け達を見た。

「おまえを隠しておくには恰好の場所だ。それにここはありとあらゆる男がやってくる。薫を探すのにこれほどいい場所はないんじゃないか?」

「どういう意味?」

「この千城の過半数は男だ。そのうちの大部分がこの花街に集まる。下手に千城をうろつくよりこの花街にいたほうがずっと安全で情報が集まるってもんだ。おまえはここにいて男どもからうまく薫の情報を聞き出せばいい。」

「だって、薫はあっちの世界にいたときとは全く別の姿をしているかもしれないんだろ?」

「そうだな。例えば、急に人格が変わった女がいないか、とか、新しく千城の高官付きになった侍女がいないか、とか、そういうことを聞いていけばいいんじゃないか?」

 達は不審な面持ちで灯己を見つめた。

「真剣に考えて言ってる?」

「もちろん。そんなことより達、頼みがある。」

「そんなことって言った!そんなことって言ったな!」

 喚き立てる達を無視し、灯己は話を続けた。

「カラスを探してほしい。」

「は?」

「カラスはあの薫のふりをして逃げた少女と繋がりがある。本当に生きていればの話だが。あれは翠という名で奇鬼児だ。じじいの話じゃ口がきけないらしい。カラスはあの少女を連れている可能性が高い。」

 話を取り合ってくれない灯己の様子に、達は破れかぶれな気持ちで組んでいた足を畳に投げだした。

「烏なんてその辺にいっぱいいるでしょ。」

 天井を仰いだ達の視界に、ぬっと灯己が顔を出した。

「わ、何?」

「おれの目を見ろ。」

 灯己が達の頭を掴み額に自分の額を当てた。達が灯己の目を覗いた途端、灯己の瞳が赤く変わり、知らない男の断片的な映像が駆けた。慌てて灯己の手を振り払い、達は尻餅をついて逃れた。

「何、今の。」

「今の男がカラスだ。本当の名は繰弄。昔、おれの仲間だった男だ。」

 ばくばくと鳴る心臓に手を当て、達は灯己を見上げた。灯己はさも当然のようにやってみせたが、目の中に見せたいものを見せることができるなんて、見たことも聞いたこともなかった。この世界に来てまだ日は浅いが、そんな便利なことができるなら、やっているひとの一人や二人見かけることがあっていい。男女の距離が密な妓楼ならなおさらだ。達は漠然と、このひとはおかしいと思った。つくりが違う。妖魔なのだろうか、でなければ、おそらくひとの中でも異端だ。その上そのことに自分で気付いていない。

「この男が、あの少女を介してグレイスと接点を持っているかもしれない。あいつがこの妓楼にくるかどうかは分からないが、生きているならこの街に来る可能性はある。もし、カラスを見つけたらすぐにおれに使いをよこせ。中街の霜町に松江という飯屋がある。そこの主人の雨寂という男に知らせればおれに伝わるようにしておく。中街霜町ならここから目と鼻の先だ。そのくらいのことはできるな?」

 ああ、と達は身の入らない返事をした。ちらり、と灯己の黒い瞳に鋭く一瞥され、達は生返事をしたことを咎められるかと身構えたが、灯己は何も言わずに立ち上がった。

「ペルにはおまえの居場所を伝えておく。おれもまた来てやるから心配するな。」

 達は幾分か拍子抜けし灯己を見上げた。

「なんかあった?」

 灯己は驚いた様子で達を振り返った。

「なぜ?」

「いや、だって、なんか、ハリがないとうか、元気ないというか。」

 灯己は片眉を上げ、軽く達の頭に手を乗せた。

「餓鬼が気を使うなと言ったろう。じゃあな。」

 灯己は手にした外套を翻し羽織ると座敷を出て行った。達は灯己の後姿を見送りながら、先ほど見せられた光景を思い出していた。子供の時分から大人になるまで繰弄という男の様々な姿を見たが、最後に見せられたのは、男が炎に包まれ灰になる一瞬だった。生きたまま変色し顔を引きつらせて、男は灰になった。今際の際、男に差し出された手は、灯己の手だったのだろう、その手も燃えていた。一体何があったのか、おれには想像もできない人生が灯己にはあるのだな、と思いながら達は畳に寝転がった。なんだかどっと疲れ、このまま寝てしまいたかったが、達は立ち上がり、鏡を取り出すと身なりを整え科をつくってみた。妓楼の夜は長い。体力だけが取り柄だ、と胸を叩き、達は襖を開け、賑やかな下階へ降りて行った。

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