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この世に神がいようとも  作者: 群青のはる
13/30

2幕 飛都の子ら 5

 燈火(ともしび)の森の夜は木々の枝に妖魔の魂が宿り、小さな提灯をたくさん灯したように明かりの瞬く様が美しい。灯己が夜警の晩、晶は居間の窓からそれを見るのが好きだった。晶は広い屋敷に一人だったが、屋敷は暖かく、布団はふわふわで、何一つ不満に思うことはなかった。時々やって来る双子妖魔の飯は不気味だったが、長く牢で暮らしていた晶には食べ物の味についてとやかく思う習慣がなく、時々雨寂の飯を思い出しあれはおいしかったと思いつつ、双子の不味い飯でも気にせず食した。晶は幸せであった。雨寂と暮らしていたころも、晶は幸せだと思っていた。晶は何も知らなかったが、雨寂は何でも知っていた。この世のことをたくさん教えられた。そして、師姉にまた会えることも、雨寂は知っていた。フクロウの公開処刑から帰って来た雨寂に、フクロウとして処刑されたのが別人だったと知らされた時、晶は嬉しさのあまり泣いた。

「師姉は生きているから、絶対におれ達に会いにきてくれる。それまで生きるんだぞ、いいな。」

 雨寂との約束を守り、晶は生きた。一度も牢から出ずに虐げられながら育った体は炎症だらけで、免疫を持たぬため何度も流行り病にかかった。しかし雨寂は決して見捨てず、どこからか薬や栄養のある食材を貰ってきては晶に与え、薬草を煎じて軟膏を作り、少ない稼ぎの中工夫を凝らしおいしい食事を作ってくれた。そうして晶は少しずつ元気になった。

「師姉に再会した時、おまえが元気でなけりゃ、おれが怒られるからな。」

 その言葉の通り、師姉が二人の前に現れた時、晶はすっかり元気な少年になっていた。師姉は二人を抱きしめて笑った。

 燈火の森の明かりを眺めながら、雨寂も一緒に暮らせたらいいのに、と晶は思った。妖魔が怖いなんて言っていないで、一緒に住んだらいいのに。何も怖いことないのに。

「それはあなたがまだ妖魔の恐ろしさを知らないからそうお思いになるのです。」

 囁き声に、晶はぞっとして振り返った。晶は窓辺から離れ、暖炉の前に進んだ。暖炉の前の寝椅子に凭れるひとの姿が火の明かりに照らされている。

「だれ?」

 暗がりの中で金の瞳が晶を見つめた。

「初めまして。それとも、お久しぶり、と言うべきですか、晶様。」

「知らないひとが、勝手に家に入らないで。師姉の家だよ。」

 金の瞳のひとは動じずに、長い爪の生え揃った白い手で、晶を手招きした。

「震えていますよ。さあ、こちらへいらして火におあたりなさい。」

「ここは師姉の家、それは師姉の椅子。」

「そうですとも。ここは師姉の家、これは師姉の椅子、ですがあなたは私のものです。」

 晶は怪訝に眉根を寄せ、金の目玉を見た。

「私は優雅な讃美歌と申します。あなたを貰い受けに参りました。申しましたでしょう、あなたはここにいるべきおひとではないと。」

 晶は首を振った。

「あそこはそうだった。でも、ここは違う。おれはここにいるべきひとだ。」

 優雅な讃美歌がくすりと笑った。

「覚えているではないですか。知らないひとなどと冷たいことをおっしゃって、ひどい方。」

「今、思い出した。」

「思い出したのは、私のことだけですか?あなたが何であるか、あなたは思い出さなければいけませんよ。」

「おれが、何であるか?」

 どうせこの森には癖者の妖魔しか訪ねて来ない、と師姉が言っていたことを晶は思い出した。これもその類なのだと思った。相手にしてはいけない。

「あなたはご自分のことを何も知らないのですね。お可哀想に。知りたくないのですか?あなたが知ることを望むなら、私は教えて差し上げますよ、さあ、こちらへいらっしゃい、さあ。」

 相手にしてはいけない、近づいてはいけないと心の中で言い聞かせても、晶を招く白い指に引力が備わっているかのように、晶は体が引かれ、一歩、二歩と足を踏み出してしまう。

「さあ、いらっしゃいな。」

 長い爪が、晶の頬の傷に触れようとした時、晶は灯己の声を聞いた。

「晶、起きろ!」

 晶は目を開けた。暗い居間の寝椅子に横たわっていた。

「暖炉が消えていたぞ。こんなところで寝たら寒いだろう。」

 灯己はぼんやりとした表情の晶の顔を覗き込んだ。まだ夢の中にいるのか、目の焦点が定まらない。

「今、いたよ、金の目の。」

 それだけを言い、すうっと睡魔に魂を吸い取られるように目を瞑った。

「晶。」

 灯己は晶の体を揺さぶってみたが、深い眠りに落ちたようだった。灯己は晶の体を抱き抱え背負った。

 金の目の。

 晶の部屋へ続く廊下を歩きながら考える。

 金の目の。

 冷たい吐息が耳を舐め、灯己はぞっとした。温かかった晶の体温がいっぺんに下がり石を背負うように背が冷たい。

「振り向かない方がよろしいですよ。私の顔をした晶を、見たくないでしょうから。」

 灯己は足を止め、振り返らずに訊いた。

「晶に何をした。」

「夢を媒介にちょっとお体を拝借しているだけです。」

「出ていけ。」

 背の冷たいものが震え、笑ったのだとわかった。

「出ていきますとも、あなたが私と遊んでくださるのなら。」

「なぜおれに付きまとう?」

「大好きだからです。あなたも、この晶も。お二人とも、大好きなのです。ですから、お二人が真実をご存じないのが可哀想で仕方ないのですよ。」

「真実?」

「聞く耳を持つな。」

 ひどい耳鳴りに襲われ、灯己は顔を顰めた。意図せぬ力が体の奥から沸き上がり、晶の体を床に叩きつけ、その体を床に押さえつけていた。

「出ていけ、おまえなど、おれの相手ではない。」

 大地を轟かす妖魔の声が、灯己の口から発せられる。くくく、と晶の顔がグレイスのように笑った。

「相変わらずあなたはこのお方に甘いこと。」

 灯己は体の中に、重く、息を吸う気配を感じた。びりびりと内臓が呼応する。めきめきと骨が軋むような力が体の中から沸き、晶の体を押さえる力に重量が増していく。晶の顔が苦痛に歪んだ。

「やめろ!」

 灯己の叫びに、はたりと力が抜けた。灯己は慌てて晶を抱き起こした。気を失っている。グレイスの気配は消えていた。

「おい、魔物、勝手なことするな!」

 じっと息を殺す気配だけが、体の中にある。

「おれに棲みつくなら勝手なことするな、勝手にしゃべるな。」

 ふ、と鼻で笑われた気配に、灯己は更に苛立った。

「おい、勝手なことするなら出ていけよ。」

「馬鹿め。出ていかれるものか。」

「ああ?てめえ、出て来いよ、ぶっ殺してやる!」

 逆上した灯己は散々に喚き散らしたが、魔物はそれから一度も口を開かず沈黙を貫いた。その怒りは夜警明けの灯己の体力を著しく消耗し、灯己は晶を自室の寝台に運ぶと同時に眠りに落ちた。

「灯己、大変だよ。」

 灯己は体を揺り起こされ、目を開けた。ペルが灯己の顔を覗いている。

「ねえ、達がいなくなったよ!」

 灯己は目を擦って起き上がった。

「灯己が付いていながらこんなことになるなんて。」

 灯己は眠い頭でペルの慌てる様をじっと見つめた。肩の関節をパキパキと鳴らすと、寝台の横に置いた刀を手に取った。

「ねえ、灯己、聞いてる?手分けして探そうよ。早く見つけなきゃ。グレイスの仕業だったら殺されちゃうよ!」

 灯己は寝台から降り、溜息を吐いた。

「おまえなあ、さっきの今でよくもぬけぬけと。」

 灯己の刀が煌き、ペルを斬りつけた。ふわりと身を躱したペルに灯己は間髪いれずに飛びかかり、斬りつける。ペルの体が歪み、消えた。

「しつこいんだよ。夢の中までまとわりついてくんな。」

 消えたペルの体が再び窓辺に現れた。ぐにゃりと歪んだ顔が、グレイスの顔になり、にやりと笑った。

「夢の中なら邪魔されませんでしょう、あの無粋な妖魔に。」

「いいかげんにしろ。」

 灯己は刀を鞘に収めた。夢の中であれば斬ることは叶わない。

「あのアルの人間が逃げましたよ。」

 灯己は憮然としグレイスの白い顔を見た。

「おまえが逃がしたんじゃないのか。返せ。あれはペルからの預かりものだ。」

「私ではありません。やはり思った通り。灯己様が私を疑うと思い、教えて差し上げに参りましたの。アルの人間とはどこまでも世話の焼けるものですね。お気の毒さま。」

「てめえの目は何でも見えるんだろ。教えるなら居場所まで教えろ。」

 おや、というように、グレイスが眉を上げ、灯己を見据えた。ふふ、と笑いながら軽く頭を振った。

「あれの行方は私も存じません。私、ああいう非力の輩には興味ありませんの。私はあんな人間のことなど歯牙にもかけておりませんから。それなのにわざわざ教えて差し上げる、私の優しさ、お心に染みましょう?」

 は、と灯己は苛立ちを吐き捨てた。グレイスは大げさな身振りで、心外だ、という顔をして見せる。

「優しさを示したいなら薫とかいうアルを元に戻せ。」

「それはできません。頼まれて、はいわかりました、と従うようでしたら、私、神苑の反逆者と呼ばれていませんもの。」

 灯己は強く舌打ちをした。

「薫はどこだ。」

「思いのほか、お近くに。お気づきにならないだけで。本当に灯己様、あなたは何も見えていない。ねえ、灯己様。灯己様こそ、そのお体に宿る妖魔の目玉で見たいものすべてを見ることができますのに、いつまで目をつぶっていらっしゃるおつもりですか?宝の持ち腐れも甚だしい。爪を隠し続けては能無しと同じ。それでは私と戦えませんよ。」

「戦う?」

 灯己は怪訝な面持ちで問い返した。

「戦うつもりなんかない。おまえと戦う理由がない。」

 微笑みを湛えていたグレイスの表情がすっと凍り、冷たい瞳で灯己を見下した。

「ございますよ。」

 灯己は背を向け、寝台に戻ろうとした。

「おまえの敵は神苑だろう。おれには関係ない。」

「ございます!」

 グレイスの声の剣幕に灯己は驚き振り向いた。グレイスの瞳が怒りに燃え顔はひきつり体が震えている。灯己を罵倒しようと開いた口からは怒りのあまり言葉が出てこない。初めて見る感情がむき出しになったグレイスの表情に、灯己は呆気にとられた。二人は、しばらくの間無言で対峙した。グレイスは徐々に荒い呼吸をおさめ、落ち着きを取り戻すとくすくすと笑い出した。

「記憶を失うことがこうも便利とは。」

 灯己を見下ろす瞳には敵意の炎が灯っている。あからさまな侮蔑の色を含む声色に、しかし灯己は思い当たるところがない。

「なにが、あった。おまえと、おれに。」

 なにかあったのだ、記憶を失くした子供の頃に。

「焦らずとも、すぐに私が思い出させて差し上げます。暫時待たれたし。」

 グレイスがぱちんと指を弾くと、灯己は目を覚ました。屋敷の扉を激しく叩く音がする。軍士が達の脱獄を大声で叫んでいる。灯己は長い息を吐いた。少しも眠った気がしなかった。


 達が脱獄を決行したのは、グレイスが灯己の夢に現れたほんの少し前のことであった。達の逃れた牢には、牢番の屍と一枚の紙切れが残されていた。その紙切れを拾い上げた彰豼は首を傾げた。

「これは神言呪(しんごんじゅ)か。見たことのない文字列だ。」

 神苑信者の間で心を静めるまじないとして古くから伝えられる神言呪だが、神苑信者ではない彰豼には馴染みのないものだった。竜胆家の親戚の麗威ならわかるかもしれないと思い、彰豼はその紙切れを持って灯己の執務室へ向かった。夜警明けの定時報告に麗威が訪れる時間である。同時に灯己への報告もでき丁度良い。

 灯己の執務室の控えの間に居た麗威の耳にもウエダタツ脱獄の知らせは入っていたが、彰豼から渡された紙切れを見た麗威は、顔色を変えた。

「これを、読んだのか?」

 麗威は青褪め、血走った目で彰豼を見つめた。

「ああ。読めなかったけど。」

 麗威の表情が悲愴に崩れ、迷うように目を瞑った。呼吸が荒くなっていく。

「おい、どうした、麗威、大丈夫か?」

「その神言呪を見たのはおまえひとりか?隊の者は?」

「いいや、おれだけだ。死んだ牢番の体の下にあった。骸を運び出した時におれが気付いて拾った。」

「そうか、なら、いい。彰豼、よく聞いてくれ。」

 彰豼は麗威に顔を寄せ、麗威の言葉を待った。麗威が自らの両耳に手を添えるのを見て、彰豼は不審に思ったが、それを問う間はなく、限りなく吐息に近い麗威の声が彰豼の耳に囁かれた途端、ふわりと魂が抜けたように、意識を失った。

 麗威は震える自らの掌を見ていた。カタカタと歯が鳴っている。

「麗威、どうした。」

 振り向いた麗威の怯え切った顔を、灯己は驚いて見つめた。

「元帥、いつから、いつからそちらへ。」

 歯の根が合わず、呂律が回らない。

「今だ。戸を開ける音が聞こえなかったか?」

 いつも冷静沈着な麗威のこれほど動揺した姿は初めてだった。足元に倒れている彰豼に灯己は気付き、この場の異常性を察した。灯己は彰豼の手を取りすぐに脈を確かめた。気を失っているだけのようだ。

「何があった?」

 何をした、と訊くのが正しいだろうか、と灯己は思った。場の状況から麗威が彰豼の気を失わせたことは明らかだった。しかし、武術の腕前は彰豼が圧倒的に勝る。彰豼が倒れているのは不自然なことだった。

「禁を犯しました。元帥、どうかこの場で私をお斬りください。」

 灯己は跪く麗威の前にしゃがみ、震える麗威の肩をゆっくり撫でた。

「麗威、おまえも知っていると思うが、私は人を斬ることにはもう飽きているんだ。訳を話せ。」

「申せません。」

「麗威。そうはいかない。彰豼には牢を逃げた者について聞かなければならない。牢番が一人死んでいるんだ。」

 びくり、と麗威の体が硬くなった。手に握る紙切れがくしゃりと音を立てた。

「それが牢に落ちていた紙か。」

 紙に触れようとした灯己の手を麗威が払った。

「いけません!見てはいけません。」

「どういうことだ?」

 麗威は目を固く閉じぐっと奥歯を噛んだ。何度も息を吸っては吐き、吸っては吐き、繰り返し呼吸を整えた。そして、瞼を上げた。

「他言無用にございます。」

 麗威の低く静かな声に、灯己は麗威の覚悟を察した。麗威の血走った目が、じっと灯己を見上げた。灯己は頷き、麗威を立たせると、奥の部屋へ促した。

「我が麗家が、竜胆家の縁者であることはご存知でありましょうが、数ある縁戚の中で、我が麗家は唯一の裏神格家にございます。」

「裏神格家?」

 灯己は仮眠室の暖炉に火を灯すと長椅子に麗威を座らせ、その肩に毛布を掛けた。

「神苑の禁術である神言反呪(しんごんはんじゅ)を預かる一族にございます。彰豼を眠らせたのも、禁術神言反呪の一つ、忘言(ぼうごん)の一節にて、一時の記憶を消したのでございます。」

 灯己は麗威の横に腰を下ろし、話を続けるように促した。

「神言反呪を預かる裏神格家の者でも、この呪法を使うことは固く禁じられております。しかし、禁を犯しても記憶を消さなければならない、決して知られてはいけない呪法を、彰豼は知ってしまった。」

「それが、その紙にある言葉なのか。」

 麗威は頷いた。

「ひとたび唱えるだけで、命を落とします。」

 その言葉を口にし、やっと人心地ついたように麗威は短く息を吐いた。

「もとは、今言うところの神言反呪こそが神言呪でありました。しかし、その呪詛の強さがために禁術となり、今日、ただ心を静めるためだけの僅かな効力をもつ呪文が、神格家の神言呪として広められております。」

「おまえのほかに神言反呪を知る者は?」

「我が一族では私のみ。四年前、父が亡くなる前に秘密裏に受け継ぎました。他の者は我が一族が裏神格家ということも、裏神格家の存在自体も知りません。」

「他に知るものがいるとすれば、神格家ご当主様のみ、ということか。」

 麗威が、さっと顔を上げた。

「まさか、ご当主様が禁を犯すことはありません。」

 灯己は麗威の手を毛布の上から握った。

「麗威、牢にいた達という囚人は、この飛都の文字が読めない。神言呪の神の字も知らない。だから、こうやって紙に書いて人に読ませることは不可能だ。神言反呪を知る何者かがこれを牢番に読ませた。」

 麗威は絶望の眼差しで灯己を見上げた。

「麗威、そんな顔をするより、達を掴まえて真相を明らかにするほうがお前らしいとは思わないか?」

 麗威の愁眉がほんの少し開いたようだった。

「はい。」

 麗威は立ち上がると、暖炉へ向かい、手の中の紙切れを火の中へくべた。

「千城の街に慣れない者であればまだ遠くへ逃げていないでしょう。私は千城の墨区へ。彰豼を起こして参ります、彰豼には千城緑区を。」

 灯己は首を横に振り、立ち上がった。

「彰豼はしばらく寝かせておけ。彰家の屋敷に使いを出し迎えに来させる。突然高熱が出て倒れたことにでもしなければ辻褄が合わない。彰豼はおまえに殴られて気を失ったと言っても納得しまいよ。いつも冷静で十手先まで考えてから行動すると言われる麗威が、詰めの甘いことをしたな。」

「申し訳ございません。」

 麗威は恥じる顔を見せませいと顔を伏せたが灯己のからからとした笑い声に驚いて顔を上げた。

「いつもつんけんしているおまえにも、かわいいところがある。」

 麗威は頬が真っ赤になるのを自覚し、灯己から顔を反らした。

「言っておきますが、私は元帥を認めたわけではありませんので。今回は一大事なれば仕方なく、御助力をお願いしているにすぎませんので。」

 灯己は面白そうに笑いながら麗威の肩を叩き、扉を開けた。

「わかっている、わかっている。さ、達を探しに行くぞ、隊を集めろ。」

 麗威は悔しさと恥ずかしさで今にも地団駄を踏みそうであったが、なんとか気持ちを抑え、灯己の後に続いた。


「えー!達、逃げちゃったの!?」

 素っ頓狂な声を上げたペルを、灯己はじろりと睨んだ。灯己が館に戻ると、ペルは居間の長椅子で晶と供に見たことのない菓子を食べていた。

「あ、これ?これアルのお土産。食べる?綿菓子。」

「逃げちゃったのー、じゃねえよ。いつも用もなくうろついてるくせにどうしてこういう時に限っていないんだおまえは。」

「おれはおれでいろいろやることあってうろついてんの。今日はアルに行ってたんだもん。他の世界にいる時は飛都のことなんか全然感知できないんだからしょうがないじゃん。いくらおれが全能とはいえども。」

「そういうのは全能って言わねえんだよ。グレイスに真似されてることも知らずに呑気なもんだな。」

「え、グレイス?おれの恰好して来たわけ?げえ、吐き気する!」

 ペルは大げさな身振りで長椅子に倒れ込んだ。

「まさか灯己、騙されたの?」

 灯己は深い溜息をついた。

「そんなわけねえだろ。気配が違いすぎる。」

 ペルはぱっと顔をあげ頬を綻ばせた。

「そりゃそうだよ、この神秘的なまでにおぞましい存在感は死神の正当な遣いであるペル・ロディにしか醸し出せないもん。」

 灯己は得意気なペルの両耳を引っ張り、伸ばせるだけ伸ばした。

「これか?この驚異的なまでに阿呆らしい存在感のことを言っているのか?」

「なんか耳がよく聞こえない。」

「早くこの耳に詰まってる虫引っ張り出して達探させろ。聞こえやすくなって一石二鳥だろ。」

 ペルは頭を振って灯己の手から逃れた。

「痛いんだよなあこれ。」

 ペルが鼻に両掌を当て、片方ずつ鼻をかむと掌にいっぱいに黒い虫が現れた。晶がぎょっとしてそれを覗く。ペルは中庭へ歩いて行き虫を放した。ペルが耳と鼻の間の管に飼う失せ物探しの虫には、晶と雨寂の居場所を探し当てた実績がある。

「いいんだけど、この虫は時間がかかるんだよね。まだ遠くに行ってないなら自力で探す方が早いよ。」

「遠くに行ったかどうかもわからねえよ。連れ去られた可能性だってあるんだからな。とにかく表街には第三部隊を、中街には第四部隊を配した。裏街の探索は雨寂に頼んである。おれも行く。」

 晶が灯己に外套を渡し、灯己はそれを羽織った。それを見てペルも立ち上がった。

「じゃあおれは千城裏の山の方を探してみるよ。」

「もし、麗威たちが先に捕まえてしまえば、再び達を逃がすことは困難になるぞ。必ず帝軍よりも先に見つけろ。」

「うん。」

 部屋を出ていこうとするペルを灯己が呼び止めた。

「おまえは神言反呪を知っているのか?」

 ペルは足を止めたが、振り返らなかった。

「おまえ、この件が片付いたらおれの記憶を消すと言っていたよな。麗威が使った忘言を、おまえも使うのか?」

「おれは知らない。おれが使うのは全く別の、文様術だ。」

「神苑で神言反呪を知る者は?」

「もちろん、存在は知っているよ。でも、その言葉を知るものはいない。」

「グレイスも?」

 ペルは頷いた。

「神は、かつてこの地の人々に神言反呪を与えたのち、自ら忘言を唱えすべて忘れてしまわれた。神苑には一言も伝えられていない。」

「なぜ?」

「さあ。なぜだろうね。本当のところ、神は、」

 ペルは思い留るように言葉を切った。

「いや、今は達の行方を探すのが先だしね。大丈夫、達の命はおれの手の内にあるんだから、何か異変があればすぐにわかる。達が生きてるのは確かだ。」

「生きてればいいってもんでもないだろ。神言反呪を知るものが、達を連れ去ったのだとすれば、」

「だけど、狂言の可能性だってある。」

「狂言?」

 思いもよらない言葉に、灯己は眉根を寄せた。

「神格家による帝王派裏神格家への嫌がらせ。おれは、そっちの可能性の方が高いと思うよ。」

「どういうことだ?」

「帝王一族と竜胆家は今でこそ縁戚だけど、長い間反目していたからね。」

「竜胆家が、帝王派である麗家を嵌めたってのか?」

「辻褄が合う。」

 そうだろうか、と灯己は首を捻った。

「神格家当主弥杜徽(みずき)と言えば、清廉潔白頭脳明晰、人格者以上の神格者と崇められるご当主様だろ?そんなことするとは思えない。」

 は、とペルが鼻で笑った。

「神格者なんて笑わせるね。あれだって千城の俗物たちと大差ない、情の脆いただのひとだ。じゃなければいくら妹にせがまれたって竜胆家の者を千城なんかに嫁がせない。清らかな聖域白山(はくさん)で育った者を王魔の住処千城に嫁がせるなんて水滴を炎の中に落とすようなものだよ。今の神格家は神の威を借る商人だ。今はもう、あいつらに神苑との繋がりなんて一縷もない。賢明な弥杜徽はそれをわかっていながらお家の為に利用してるんだ。」

 灯己はまじまじとペルを見つめた。

「お前が人を悪く言うなんて珍しいな。」

「神苑の者からすれば、神の名を騙って商売するなんて汚らわしいこと甚だしいからね。神が何者かも知らないで、あんなのはごっこ遊びだ。」

「神が何者かも知らないで?」

 ペルはぎょっとして口を閉じた。喋りすぎたことをごまかすように、わざとらしく作り笑いを浮かべた。

「まあ、こんな話はどうでもいいよ。とにかく、達の無事を信じて。」

 ペルは素早く足元に文様を描くとその中に飛び込んで消えた。晶が目を瞬き、ペルの消えた空間をしげしげと見つめている。

 ペルの残した言葉が灯己の胸に引っかかっていた。神が何者かも知らず。神の正体。

「師姉。」

 晶に呼ばれ、灯己は我に返った。微笑み、晶の頭に掌を置いた。

「おれも、達を探しにいくよ。もし、達がこの屋敷に来たら引き留めておいてくれ。」

「達って?」

「ああ、そうか。晶、おれの目を覗いてみろ。」

 灯己は晶の前髪を掬い、自らの額を晶の額につけた。晶が灯己の目を覗いた途端、灯己の目が赤く変わり、その目に風変わりな黒い服を着た男の姿が映った。しかしすぐに焦げ付くように男の姿は消え、燃え上がる炎が瞳から入り込み体の中を駆け抜けた。晶は驚きに後退った。心臓の音が、耳の中へ激しく脈打つ。

 灯己が額を離し、瞬きをすると、目の色は黒く戻っていた。

「じゃあ、行ってくる。留守を頼んだよ。」

 灯己は晶の頭を軽く撫で出ていった。晶はその後ろ姿を呆然として見送った。体中の血という血が煮え滾るように熱い。あの炎を知っていると思った。牢から逃げ出した、あの朝に師姉が纏っていた炎。あれが、師姉の中にいるという魔物なのだろうか、と晶は考えた。ならばなぜ。晶は胸に掌を宛てた。なぜ、この体がこんなにも呼応するのか。

「あなたはここに居るべきおひとではない。」

 晶はぞっとし、背後を振り返った。そこにいると思った優雅な者の姿はなくほっとし、しかし同時に僅かな落胆にも気づき、激しく狼狽した。

「あなたが何であるか、あなたは思い出さなければいけませんよ。」

 耳の中で何度もあの声が反芻し、思考を浸蝕していく。思い出すも何も、生まれた時からあの暗い牢しか知らない、何者であるかなんて考えたこともない、ただの木偶、肉の塊と言われ続けてきたのだ、あのひとに。あのひと。晶は慌てて頭を振り、脳裏に克明に浮かんだあのひとの姿を消し去った。ほんの一瞬思い出しただけで、牢の中の冷たい石の感覚や湿った埃の匂いまでも蘇り身震いした。牢を出てから今日まで一度もあのひとを思い出さなかったのは幸せだったからだ。思い出したくない。あのひとを思い出すと、あのひとの真っ暗闇の瞳に映る自分の顔を思い出す。醜い自分の姿を。晶の記憶の中にある、あの人に見つめられる自分の姿は不幸そのものだった。


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