2幕 飛都の子ら 4
首都千城から程遠く離れた乾暖州の田舎道で、煌玄は馬を止めた。道端の屋台に風車がいくつも飾られ風に回る様子に、目を奪われた。風車売りとは懐かしい、と煌玄は思った。大風の少ない千城宮に住まいを移してからの二十余年見かけたことがなかったが、風温州の別邸で育った幼少期、色とりどりの風車が回る屋台は身近な光景だった。煌玄の後ろから子供が数人ばたばたと走ってきて、それぞれに気に入った風車を手に取った。頬かむりを被った店主がすっと手を差し出すと掌の上に子供が小銭を落とした。子供が風車を頭の上に掲げながら煌玄の横を走り去っていく。煌玄は馬を降り、屋台へ歩み寄った。
「乾冷州では豪族が蜂起の準備をしていると聞きますが、このあたりは実にのんびりしていていいですね。」
煌玄はにこやかに店主へ声をかけた。
「乾冷は気候が悪い。あんなところに長くいたら誰でも殺気立ちまさぁ。」
煌玄はおや、と眉を上げた。小柄な老婆だと思っていた店主の声は若い女性である。
「では私も気を立てないよう気をつけなくてはいけないですね。」
「これから乾冷州に?」
「ええ。」
「千城から来なすったのか?乾冷の視察?」
まあ、そんなところです、と煌玄はあいまいに濁し、微笑んだ。頬かむりの下から鋭く煌玄を観察する店主の視線が肌を刺すようだった。
「あんた、帝王軍の高官だね。」
煌玄は微笑んだまま、一つの風車に手を伸ばした。
「どうしてるよ?あれは。」
「あれ、とおっしゃいますと?」
「フクロウさ。」
煌玄は思わず店主の顔を見た。
「相変わらず偉そうにしてるかい?」
「鳥市のフクロウのことでしたら、処刑されました。三年も前のことです。」
店主が吹き出すように笑った。
「知ってるよ。公開処刑を見に行った。あれが殺される様を楽しみにしてね。」
店主の顔から笑みが消え、じっと煌玄を見上げた。
「だけど絶望したよ。ここまでこの国が腐ってるとは思わなかった。」
煌玄は手を伸ばしていた赤い風車を指でつまんだ。
「ひとつ、もらいましょう。」
「なぜ、あいつを殺さなかったんだ。」
小銭を台に置き、煌玄は微笑みを湛え、店主を見つめた。
「フクロウなら、死にましたよ。フクロウなんて大罪人は、もういません。」
屋台に背を向け、煌玄は歩き出した。強く風が吹き、拳の中の赤い風車がカラカラと音を立てて回った。
ホオジロと言ったか、確かに色白だ、と煌玄は思った。
奥宮の謁見の間で、羅梓依は不機嫌であった。
「帝軍第三部隊軍将、三位、麗威にございます。」
膝を折り頭を下げる麗威を羅梓依は不満げに見下ろし、扇で口元を隠した。
「昼の外周警護は彰豼指揮する第四部隊が務めさせていただきます。夜は私ども第三部隊が正后様をお守り致しますので、どうぞご安心してお休みくださいませ。」
羅梓依は扇をパチリと閉じ、行け、と身振りで示した。
「は。失礼仕ります。」
麗威が座を辞し、奥宮を出ると、奥宮の入り口に彰豼が待っていた。
「彰豼。」
彰豼は気付いて手を上げた。
「正后様のご様子は?」
「ご機嫌斜めだ。」
二人は連れだって回廊を渡り武官屋敷へ向かった。
「そりゃあ、大事にしていた猫があんな形で殺されてまだ犯人が見つからないんだからさぞご不安だろう。」
「猫の件は元帥のご領分だろう?元帥がお一人でやったって足りるんじゃないのか。」
「元帥はお忙しいから。」
「忙しいものか、帝軍のお飾りが。」
彰豼は麗威の口を押えた。
「おい、元帥を悪く言うな。」
麗威は彰豼の手を払う。
「悪くなんか言ってない。本当のことをいっただけだ。元帥だって先日ご自分でそうおっしゃった。」
「麗威、お前だけだぞ、帝軍で元帥のこと悪く言うの。」
「もっといるだろう。」
「聞いたことがない。」
「おまえが疎いだけだ。」
「いいや、いないね。じゃあ麗威の隊の軍士が元帥の悪口を言うのを聞いたことがあるか?」
麗威は口を噤んだ。ほら見ろ、と彰豼が勝ち誇ったように笑った。
「うるさい。」
「そういうの良くないぞ。」
「そうじゃない。」
俄かに緊迫した麗威の表情に、彰豼ははっとして振り向いた。
「戻るぞ、彰豼。」
走り出そうとした麗威に、小刀が投げつけられた。彰豼が剣を抜き払い落す。
「あそこだ!」
麗威と彰豼は小刀が飛んできた方角の屋根の上に、人影を見定めた。人影は屋根の尾根を走りだす。逆光になり顔を見ることができない。麗威は走りながら隊の軍士へ向け指笛を吹いた。城内警備をしていた弓隊が指笛に反応し集まってくる。二人は塀へ飛び乗り、屋根へ移り走り出した。二人の前方を長い髪をなびかせ走るのは女のようだ。見たことのない様式の丈の短い衣服からすらりと伸びる細い脚が駆ける。
麗威の指笛を聞きつけた灯己と蘭莉が駆けつけた。麗威の合図で一斉に矢の雨が尾根の女に降りかかる。女は俊敏な身のこなしで四方八方へ跳び矢を避けたが、その拍子に屋根から転がり落ちた。女は器用に受け身を取ったが、欄干を飛び越え駆けつけた蘭莉に取り押さえられた。灯己は女に駆け寄ると襟元を引き裂いた。女の左肩に焼き付けられた印を目にした灯己は、眉を顰めた。そこへ、突然悲鳴をあげて降ってくる者があった。一瞬、皆が驚き、女から手を離した。
あ、と灯己が声を上げた。
「捕らえろ!」
女は蘭堂の手をすり抜け、忽然と姿を消した。
皆が茫然と、女の消えた空間を見つめた。
「消えた?今、このへんがぐにゃっとしたよな?」
彰豼が目を瞬き、女の消えた場所に手を当てるが、それはただの宙である。
引っ張った者がいる、と蘭莉は思った。空間移動を操る何者か、妖魔か神苑の者が、侵入者に手を貸した。
「元帥、私が追跡を。」
「待て、蘭莉。」
歩み出た蘭莉に、灯己は耳打ちをした。蘭莉は灯己の顔を見上げ、僅かに驚いたような表情を見せたが、万事心得たというように頷くと、駆けて去った。
騒めく軍士達の足元で伸びている男を、麗威が殴りつけた。先ほど空から降って来た男だ。男ははっと意識を取り戻し、目をぱちくりさせた。
「おまえ、不意をついて現れることで先のやつを逃がしたな?」
麗威は男を後ろ手に捕らえ、前髪を掴み前を向かせた。
「え、え、何のこと?何?ここ、どこ?」
男は狼狽え、きょろきょろと何かを探す素振りを見せた。
「どこの手先だ?」
「どこのって、いや、どこなのここ。」
男は見たことのない黒の上下揃いの服を着ていた。金のボタンがいくつも並んだ詰襟の上着に、白く軽そうな靴。灯己は嫌な予感がした。
「私が調べる。地下の牢へ連れていけ。」
灯己の命令に麗威が男を引っ立て連行した。男は喚いた。
「は?ちょっと!おれ違うって、ねえってば、ちょっと、ペル、どこ!?おい、ペルってばー!」
嫌な予感が的中し、灯己は苛立ちに短く叫んだ。
牢の中で、達はぐるぐる巻きに縛られ転がされていた。牢の前には屈強な男が立ち、達を睨んでいる。
「ねえ、おれ何もしてないんだけど、ねえ、聞いてる?」
屈強な男は黙ったままぴくりともしない。階段を降りてくる踵を鳴らす音に、達は顔を上げた。屈強な男が頭を下げたのは、背の高い女だった。
「おい、あんたが偉い人か?ねぇ、おれなんもやってないんだけど!ここがどこなのかもわかんないんだけど!なんで縛られてるの?」
背の高い女がじろりと達を見た。冷ややかな瞳に、怒りが灯っている。
「何もやってない?あの侵入者に逃げる機会を与えただろう?」
「侵入者とか知らないし!偶然なの、偶然。ハプニングね、おれ、深い訳があってこっちに来たのは、」
「偶然に深い訳があるか。」
ぴしゃりと言葉を遮られ、達は身を竦めた。
「ふざけるのもいい加減にしろ、元帥の御前だぞ!」
屈強な男が怒鳴った。
「どうしても口を割らないようだな。いいだろう。あとは私がやろう。」
女の言葉を聞くやいなや、屈強な男は哀れむような目で達を見た。
「え?おい、何だよ?何?やばいのか?この女がやばいのか?」
達の問いには答えず、男は出ていき、女だけが残った。女は忌々し気にわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「まったく面倒な失態をやらかしたな、ペル・ロディ。」
階段の闇の中に金の文様が現れ、その中からペルが姿を現した。
「ペル!」
「どうもすみません、ご迷惑をおかけしまして。達を紹介しようと思ってね?連れてきたんだけどなんか取り込んでたから様子見てたらね?達が足を滑らせてさ、まさかあそこへ落ちるとはね。はい、これがアルから連れてきた上田達です。」
女は顔を歪ませ、大きな音で舌を鳴らした。
「死神の遣いが目の前に現れて良いことが起こるわけがないのはわかっていたがな。」
ペルは肩を竦めてみせた。足元に金の文様を描いていく。
「ペル、待って、どういうこと?ここが飛都?薫がいるっていう。」
「達、さっき逃げた女を見たか?」
さっき逃げた女。ああ、おれが落ちたとき下に居た女の子か、と達は思い出した。
「ああ、ちらっと見たけど。」
「あれは薫だったか?」
「いや、違うけど。」
「ちゃんと見たのか?」
「だからちらっとしか見てないけど。薫じゃなかったよ。」
「でもあれは達の学校の女の子が着る服と似ていただろう?何て言うんだっけ、アルで言う、制服、だっけか?」
アル?と達は聞き返した。
「ああ、アルってのは、達たちの住んでいる世界のことをこっちではそう呼んでいるんだ。」
「こっちからすれば空想の世界に過ぎないけどな。」
と女が口を挟んだ。
「ペルが現れると絵空事がどんどん現実になっていく。本当にアルから来たのか?」
「うん。ほら、触ってごらんよ。」
ペルが達の手を取り、女に差し出した。女の手が達の手首を握った。眉を顰めて達の顔を見る。
「なるほどな。」
女は達の手を放した。何がなるほどなのか、達にはさっぱりわからなかったが、女は納得した様子だった。
「さっきの制服、うちの学校のによく似てたけど、あれは薫じゃないよ。それに薫の目は緑じゃないし。」
「絶対に薫じゃないな?」
何度も同じことを聞かれ、達は不服を込めてペルを見返した。ペルがたじろぐように頷いた。
「うん、そうだな。おれたちは達を信じるほかないからな。」
「なぜ、あの女はアルの恰好をしていたんだ?」
女の問いは、達も疑問に思っていたことだった。
「おそらくは、わざと、達に見せたんだろうな。あんな一瞬で達がここまで確信をもって別人だと言い切るとは思わないだろう?姿形が似てりゃ、少しは動揺する、普通は。あの女を薫だと思って探し始める。」
「薫の捜索を撹乱させるためってこと?」
「しかし向こうはよく、おまえたちが現れる時を知っていたな。」
女の指摘に、ペルの表情がぎくりと歪んだ。
「グレイスは昔、まだ神苑にいたころ、時を管理するサイという女神の配下にいたんだ。それで、未来を把握する術の知識がある。」
「サイって、妖戦記に出てくる、見えない目で未来を見るっていうあれか?でもこの世でそれができるのはサイだけで、そもそもサイはその目で見た未来を教えることを禁じているんじゃなかったか?」
「グレイスはサイを連れ去って姿をくらましたんだ。」
「は?」
「まあ、この話はいいよ。」
「いや、よくないだろ。サイがグレイスの手の内にあるなら、何でも見えちまってるってことじゃねえかよ。」
「いいんだ。グレイスはサイを監禁しているってことになってるけど、本当は違うから。」
「どういうことだよ。」
「まあ、いいだろ。今はそれをどうこう言ってる時じゃない。」
達は二人の会話について行けず、交互に二人の顔を見やった。女がじっとペルを睨み、ペルは蛇に睨まれた蛙のように身を竦めている。しばらくそうしていたが、ペルが観念したように息を吐いた。
「なんで灯己ってそんなに人の嘘に敏感なの?」
女は一度だけ瞬き、表情を変えずにペルを見下ろした。
「正直、お前のこともこのアルのことも、グレイスだっておれにはどうだっていい。でも、協力するからには真実を知る権利があるんじゃないか?」
「まあ、その通りだね。でも、いい?この真実を知るからには覚悟してよ。灯己はこの帝国の住人が知ってはいけないことを知ることになるんだよ、だから、達と薫のこと、決着がついたら、灯己の記憶から消させてもらうからね。」
女は表情を変えずに頷いた。
「好きにしろ。元からない記憶だ。」
ペルは改まって女に向き直り、口を開いた。
「本当は、サイなんて実在しない、妖戦記の架空の女神だ。神話の便宜上造られた女神。グレイスが、サイなんだよ。」
「は?」
「グレイス自身が、すべてを見る目玉を持つ者ってことだよ。」
「じゃあ、グレイスにはこっちのこと、全部見られてるのか。」
「うん。まあ、そうだね。でも、ほらこういうふうに結界を張ればある程度は見えなくなる。」
「じゃあなんだ?ずっと結界張ってろってか?」
「うん、でも逆に、結界を張っちゃうと、グレイスに見られたくないことしてるってばれちゃうからな。」
「なんなんだよ、打つ手ねえじゃねえかよ。覗かれ放題かよ?」
「ね、だからこれ言いたくなかったんだよ。この真実知ったところで嫌な気分になるだけで何もできないんだから。」
ねえちょっと、と達は話に割って入った。
「おれのこと忘れてません?話についていってないの、おれ。」
「あ、そうだ、達、忘れてた。」
てへ、とペルが舌を出してウインクをして見せた。東京で何を覚えてきたんだ、と達は呆れた。
「灯己、これがこの前言ってた件。お願い、協力して。」
女はじろりとペルを睨んだ。
「わかっていると思うが、このまま取り調べもなしに無罪放免ってわけにはいかないぜ?こいつは大勢の前で大騒ぎ起こしてるんだからな。どうするつもりだ?」
ペルがもう一度舌を出して片目を瞑った。
「どうしましょう?」
女が忌々しげに息を吐いた。
「本当に、おまえが現れるとろくなことがねえよ。」
「そりゃそうです、なんせ死神の遣いですから。」
「こんな騒ぎになったらおまえが当初計画したようにおれのお付きとして素知らぬ顔で城に潜り込むなんてのは無理だ。」
二人は黙りこんでじっと達を見た。女が腕組みを解き、口を開いた。
「しばらくはここでじっとしていろ。策を練る。逃げようなんて思うなよ。」
「て、言われてもなあ。おれは今直ぐにでも薫を見つけに行かなきゃならないんだもの。」
達の反論を女が低い声で一喝した。
「黙れ。ここではおれが法だ。」
達は心の中で叫んだ。理不尽!
「いいか、悪いようにはしないからおれが次に来るまでおとなしくしていろ。」
女は背を向け、牢の階段を上って行った。
「何、あのひと怖いんですけど。そしてやたらめったら偉そうなんですけど。」
ペルが達に顔を寄せ、囁いた。
「達、灯己には逆らわない方がいいよ、彼女、飛都帝国軍の最高権力者な上に、元殺し屋だから。」
「は?」
「それも士官学校の新しい歴史の教科書に載ってるくらい有名な殺し屋だからね。」
ははあ、なるほどなるほど、道理であれはひとを殺したことある目だぜ、と達は頷いた。もちろん、人殺しの目を見たのは初めてだったが。ま、とペルが気持ちを切り替えるように明るく達の背を叩いた。
「ここは焦っても仕方ないから、灯己に任せよう。どうしても寂しくなったらおれが来てあげるから、ね?おれの名を呼んでくれよ、ペル・ロディって。」
この能天気な死神の遣いに任せて大丈夫だろうかと達は首を傾げた。不安しかない。




