2幕 飛都の子ら 3
羅梓依は自室の窓辺で欄干にもたれかかり、雨に濡れる紫陽花の花を見ていた。手を伸ばし、濡れている紫陽花の花に触れようとし、しかしもう少しのところで届かない。
「正后様。」
名を呼ばれ、羅梓依はぎょっとして手を引っ込めた。振り向くと名を呼んだのは珠峨であった。
「正后様、雨にお手を濡らしてはお体を冷やされますよ。」
珠峨は窓辺の簾を下げた。
「それに、この庭のものに触れてはなりません。帝からそのように仰せ遣っております。」
羅梓依はそっぽを向いた。
「いいえ。私の庭ですもの。」
「帝が賜れた庭ですわ。この千城、いえこの飛都の国にあるものは全て燈羨帝王のもの。」
「手を触れるにも帝の許しをいただかなければならないなんて。帝はわたくしに冷たすぎます。」
ふふふ、と珠峨が笑った。
「燈羨様が正后様に冷たいですと?まさか、私にはそのようには見えませぬ。正后様がそのように思われるのは、帝王が帝王らしくあろうと務められている証拠でございましょう。良き帝王は身内にこそ厳しくあられるのでございます。」
「そのようなこじつけは聞きたくありません。」
羅梓依は金切声を上げた。
「公務が忙しいのならばわたくしとて我慢しましょう、しかし、このような仕打ちは耐えられません。」
「帝が、第二妃を娶られるお話ですか。」
もうその噂が奥宮に届いているとは、正后付き侍女の誰かが近侍と寝たか、と珠峨は思った。
「神格家の私を蔑ろにし、武官の娘を迎えるなど、竜胆家の名に泥を塗るようなもの、このような辱めを受けるとは思っておりませんでした、珠峨。」
神格家などと、畏れ多いことを、と珠峨は冷たい瞳で正后を見下げた。近頃の竜胆家は準と名乗るのを止めたのか、不遜なものよ。
「このような名ばかりの飾り物になるために私は正后となったのですか、珠峨。」
責め立てる羅梓依を、珠峨は優しく手招きし、その胸に抱いた。
「正后様、相手から好かれるためにはただ待っているだけではだめなのですよ。好かれたいと思うのなら好かれる努力をしなければなりません。格式や名前なんてものはただの飾り、ひとがひとを好きになる本質ではございません。精進することです。そして強くなるのです。」
「強く?」
「帝は、お強い方がお好きなのですよ。第二妃として迎えられるとお噂の卯杏殿は第三部隊で弓の名手であられますし、そうそう、正后様はご存じでして?この度、帝は新たに帝軍にある方を迎えられました。」
「帝軍のことはもう私、信じておりませんの、私の猫が無残に殺されたのはあの方たちのせいなのですから。」
「ええ、仰せの通りにございます。そうなのです、せっかく正后様がお願いされた四将の更迭ですが、なんと、その上役に命じられたのは裏街の出のお方なのですよ。」
さっと羅梓依の顔に嫌悪の色が浮かんだ。
「そのような無秩序が許されまして?」
「許されるも何も、帝の思し召しですから。」
「私は嫌です、珠峨、帝を説得しては頂けませんの?」
「難しゅうござますね。帝は大変あの方を気に入っておられますから。なにせ、お強いのです。あの方は大変お強い。この飛都でもっともお強いのです。帝の御心からあの方への羨望にも近い愛情を追い出すのは難しいでしょうね。」
「愛情!」
羅梓依は愕然とし悲愴に顔を歪めた。
「珠峨、わたくしが強くなれば、帝はわたくしに心を傾けてくださるのでしょうか?」
珠峨は優しく羅梓依の長く豊かな髪を撫でつけた。
「試される価値はございましょう。神格家の正后様を差し置いて、裏街の出の方が帝のご寵愛を受けるなど帝国の恥でございますもの。」
「なんと憎いこと。」
「そうですとも、正后様こそもっとも帝のご寵愛を受けるべきおひと。」
「どうすればよいのです、珠峨、この千城で私の味方はそなただけなのです、珠峨、どうか私に力を貸して。」
「もったいないお言葉。私は正后様の腹心の下僕でございます。なんなりと仰せのままに力を尽くす所存にございます。」
珠峨は羅梓依の足元に跪いた。
「私、強くなりたい。力が欲しい。」
「痛みが伴うとしても、それでも?」
「構いません。なんでもしますわ。力を得ることができるのなら、飾りだけこの名も、この体も惜しいと思いません。」
珠峨はにこりと微笑んだ。
「よくぞ仰せになりました。それでは、私にお任せください。」
「すべてそなたに託します、珠峨。」
珠峨は頭を垂れ、羅梓依の手を取ると額に掲げた。
夕暮れ時の燈火の森に訪問者があった。灯己の館の門前に、双子の妖魔女官夕凪と舞霧は佇み、幾度も訪いを告げるが返事がない。夕凪と舞霧は扉に進み、不作法を承知で扉に耳を付け中の様子を窺った。
「気配がありませんわね。」
舞霧の言葉に、
「ええ。まったく。」
と夕凪が同調した。
「灯己様はもうお帰りになられたと、煌玄様は仰ってましたが、どこかに寄られているのでしょうか。」
夕凪と舞霧が諦めて背を向けた時、扉がぎいっと音を立て、細く開いた。二人は振り向いたが、灯己のいるはずの空間には誰もいなかった。二人が視線を少しずつ下げていくと、扉の隙間から恐る恐る二人を見上げる少年がいた。三人はじっと見つめ合った。
「どちら様でしょうか。」
少年の発した鈴の音のような声が双子の胸を震わせた。夕凪は動揺を隠すように咳払いをした。
「私どもは帝王の女官長を務めます、夕凪、そしてこちらは双子の片割れ、」
「舞霧と申します。灯己様はご在宅でしょうか。」
「今戻ったところだ。」
少年の頭上に影が落ち、はっとして双子は振り返り身を引いた。灯己が軍服の外套を脱ぎ、少年に渡した。
「晶、客が来ても扉を開けなくていい。どうせこの森には癖者の妖魔しかいないのだから。この二人もそうだ。」
双子は顔を見合わせ、肩を竦めた。
「何の用だ、こんなところまで。」
「灯己様、ご機嫌麗しく。」
「先日のお顔見せの宴で披露された笛の見事でしたこと。」
「私も驚きましたわ、あの笛をあれほど見事に奏でられる方がいらっしゃるとは。」
灯己は小蝿を払うように手を振った。
「いい、そういうのは。本題を言ってくれ。」
双子はぴたりと口を噤み、顔を見合わせた。
「帝がお呼びです。」
「暇つぶしの話し相手なら断る。」
「いいえ、重要なお話ですわ。」
「とりあえず入ってくれ、扉を開けておくと妖魔の魂が入ってくる。」
虫が入るから戸を閉めろと言うような調子の灯己の言い種に双子は改めて驚いた。ひとは妖魔を恐れる。女官として千城へ入る前の夕凪と舞霧も散々ひとから忌み嫌われてきた。灯己のように妖魔を恐れもせず嫌いもしない者は珍しい。しかしそうでなければ、こんな森を住まいとして宛がわれたとして暮らしていけないだろう。
晶と呼ばれた少年が扉を開き、双子を家の中へ招いた。二人が中へ入ると背後で灯己が扉を閉めた。
「灯己様、あちらの稚児はどなた様でしょう?」
「先日参りました際にはいらっしゃいませんでしたよね?」
「ああ、昨日から一緒に暮らしている。」
双子は目を瞬いた。
「帝にはお許しを?」
「この館に入るとき、呼び寄せたい家族がいればいつでも呼んでいいと言われたよ。」
それは帝の本心ではあるまい、と双子は思った。灯己に家族がいないことを帝はご存知であるし、何よりこの森で暮らせる者がいるはずがないと帝は高を括られそう仰せになったのだ。
「弟君でしょうか?」
「いいや、違うよ。晶という。」
その回答は何の説明にもなっていなかったが、要するに説明する気がないのだと察し、双子は詮索を諦めた。
「晶、また出なくてはならないから、外套を取ってくれ。それから、夕飯はこの女官に作ってもうといい。」
双子は驚いて灯己を見上げた。
「私どもですか?」
灯己はさも当然というように頷いた。
「お前達が暇だということはわかってるんだ。」
それについては反論できなかった。煌玄が士官学校や上官専科へ通っていた頃は双子もこまごまと燈羨の面倒を見ていたが、今や殆どの時間、煌玄が燈羨に付きっ切りである。
「いえ、でも、明日から煌玄様が地方視察へ参られますから、そのご準備できっと今夜は帝の元をお離れになりますし。」
「私どもが帝のお傍におりませんことには。」
「あの煌玄が明日の用事のために今日燈羨の傍を離れるものか。」
双子はぐっと言葉に詰まった。灯己の言う通りである。晶が外套を灯己に手渡すと、灯己はそれを羽織り、館を出て行った。双子は顔を見合わせ、慄いた。料理など生まれてこの方一度も作ったことがなかった。
燈羨の執務室の長椅子に座ると灯己はその長い脚を燈羨の前で組み、むすりとした表情のまま燈羨を見やった。燈羨は灯己が不機嫌であればあるほど面白いという様子で、灯己の視線を見つめ返した。
「猫の首切りの件、何の報告もないのはどういうつもりなの、灯己。」
正后の飼い猫惨殺事件の追及は、燈羨が元帥灯己へ命じた初仕事であったが、灯己は手を付ける気にならずにいた。
「では聞くが、燈羨、奥宮の守りは緋天殿よりも厳重だと言うのに、どこをどう通れば曲者が侵入できると思うんだ?獣同士で争ったことにして収めろ。」
「獣が生首を丁寧に羅梓依の枕元に置くかな。これは羅梓依に何か含みがある者の仕業としか思えないよ。」
「正后に含みがある者だ?そんなやつがいるものか。正后様の存在はこの千城では毒にも薬にもならないというのに。」
燈羨が口角を上げた。
「言うね。」
灯己は言葉が過ぎたことを恥じ、燈羨から目を逸らした。しばらく黙っていたが、息を吐き、言葉を継いだ。
「だって、妙だろ。こんな嫌がらせ、正后様にする必要性を感じない。する必要のある人物がいたとして、奥宮に入れる人物は限られている。できるのは正后様に近しい者だ。この件、あまり大げさにしない方がいいと思うぜ。」
「今更だよ。もう大げさになっている。だってこのせいで、四将を入れ替えることになったのだからね。元帥の登用だってそうだ。それなりの成果を見せてくれなくては。」
「正后様には獣同士で争ったと言えばいい。」
「后はあれでもう十七だよ、それを鵜吞みにする年ではないよ。それに、あれはあれでもう引っ込みがつかなくなっているんだ。癇癪で四人もの職を奪ったんだからね、少しは痛い思いをしたらいいんだよ。」
灯己はじっと燈羨を見つめた。燈羨はその視線に眼差しで問い返した。
「おまえ、まさか、正后様を痛めつけるために、正后様の身内の犯行とわかっていてことを大きくしたんじゃないだろうな?」
燈羨は声を立てて笑った。
「まさか。僕はそれほど策士じゃない。」
どうだろうか、と灯己は思った。春宮であったころの燈羨については子供じみた言動の我儘宮という噂しか聞かなかったが、この城に入り燈羨をいう帝王を知るにつれ、おそらくそうではないのだろう、と灯己は思うことが多くあった。
「僕が策士であるなら、わざわざ珠峨を一位殿に登用しない。父がそうであったように、僕が一位殿になればいいのだから。」
一位殿の名に灯己は蘭莉の言葉を思い返した。灯己は注意深く燈羨を見つめ、口を開いた。
「ならば、四将をまとめて更迭したいと思った輩が、うまくやったか。」
燈羨は首を振った。そんな者はいないよ、と言いかけ、ふと、宙に視線を止め、いや、と首を傾げた。
「一人いる。僕だ。」
灯己は表情を変えずに燈羨を見つめた。
「僕がやったと思う?灯己。」
灯己はゆっくり首を振った。
「おまえは猫を殺さずとも、好きな時に好きなだけ好きな者を好きな位につけられる。」
「そうだよ。だから僕は猫の件がなくったって、灯己を僕の元帥にすることはできたんだ、いつでもね。でも、いい機会だろう?灯己が事件を解決してくれたら、羅梓依もきっと灯己を好きになる。」
「まるでおれが正后様に嫌われているようじゃないか。」
「好かれていると思っているの?」
灯己は首を竦めた。
「興味ない。正后様に好かれたところで、おれはもうこれ以上昇りようがないからな。」
ああ、と燈羨は灯己の皮肉の意図を汲み、息を吐いた。
「珠峨を疑っているんだね?」
「その裏だ。珠峨が正后様にそうさせた、と思わせたい誰かが。」
燈羨は可笑しそうに笑った。
「灯己がそれを言うの?それを言ったら一番に疑われるのは蘭莉だ。」
灯己は驚きに目を見開き、燈羨をまじまじと見つめた。
「蘭莉が珠峨に不審を抱いていること、知っているのか?」
「知っているよ、蘭莉は隠し事ができないんだ。」
あの馬鹿正直馬鹿、と灯己は頭を抱えたくなる。ならば、その不審に燈羨が関わっていると疑われていることにも、気付いているのか。
「蘭莉が何を疑っているのか、わかっているのか?」
「僕と珠峨の関係だろう?あれの出世があまりにも早いから、何かあると思っているのだろう。八位の夜回り番が三年足らずで一位殿だものね。だけど、それに何の不思議がある?僕は僕が必要と思いさえすれば、才のある者をいくらでも高位につけることができるんだから。」
燈羨は頬から笑みを消し、灯己の目をまっすぐに見つめた。
「蘭莉も珠峨も僕の心なる臣だ。どちらも僕の后の猫を殺したりしないよ。」
その燈羨の言葉の中に、灯己は得体の知れない気味の悪さを感じた。
「それを言ってしまったら、全員そうだろう。誰も正后様の猫を殺しはしない。」
その通りだと灯己は気付いた。燈羨の言葉はおそらく正しいのだ。ずっと抱いていた違和感の正体に、灯己はやっと思い当たった。
「おまえ、この件が解決されることを望んでいないんだろ?だからおれに押し付けたな?軍士では許されないが新参かつ最高位のおれならわかりませんでしたで済ませることができる。」
忠誠心の塊である帝軍軍士が知るには、酷な事実だ。
「正后様の自作自演だなんてな。」
燈羨は天を仰いだ。
「もう少し難事件の迷宮を彷徨っていてほしかったな。」
「いつから気付いていたんだ?」
燈羨は微笑み、首を振った。
「それは重要じゃない。灯己、君はただ、羅梓依の機嫌を損ねないことだけを考えてくれればそれでいいんだ。」
「つまり、永遠に犯人捜しをし続ければ正后様が満足するというのか?」
燈羨は頷かなかったが、否定もしなかった。それはつまり肯定の意だった。灯己は長椅子の背もたれに深く身を預け、ゆっくりと息を吐いた。
「歪だよ、おまえたち夫婦は。」
「僕は恐妻家なんだ。」
燈羨が声を立てずに笑った。灯己は燈羨の顔に貼り付いたような微笑を、怪訝な面持ちで見返した。
「噂じゃ正后様はおまえとの食事を拒み、自室で一位殿のご用意されたお食事ばかり召し上がられるらしいな。」
「どうも食の好みが合わなくてね。互いの嗜好を尊重した結果だ。」
「意地を張らずに歩み寄ったらどうだ?正后様のお気持ちを思えば第二妃を娶るは逆効果だぜ。」
「へえ、第二妃のことまでよく知ってるね。」
「よくは知らねえよ。女官が話しているのが耳に入っただけだ。麗威の隊の者だと。」
「卯杏というんだ。弓の名手でね。」
燈羨は口を噤むとぼんやりとした表情を浮かべた。灯己は言葉を継ぐのをしばらく待ったが、燈羨はぜんまいが止まったように宙を見ていた。先ほどまで狡猾と尊大を併せ持ついっぱしの王の顔をしていたのに、こうして宙を眺める燈羨の顔はずいぶん幼かった。興味が失せたか、と灯己は思った。第二妃にもまた、興味がないのだろう。
「燈羨。」
灯己が呼びかけると、燈羨は、うん、と返事をし灯己へ視線を戻した。
「猫の件はしばらく犯人を探す振りをしていてやるから、あまり正后様を蔑ろにするな。正后様をこの千城に迎えたのはおまえなんだから。」
心底面倒だと言うように燈羨は息を吐いた。
「この縁談は父が進めていたものだ。神苑の存在がお伽話となった今でも神苑の正当な遣いである竜胆家は根強く民衆の信仰を集めているからね。繋がりを持つに越したことはないと。」
溜息を吐きたいのはおれの方だ、と灯己は思った。
「おまえ、興味ないんだろう?二妃を娶ってもまた同じようなことになるんじゃないのか。」
「卯杏は聞きわけが良いから羅梓依のようにはならないよ。僕が卯杏を娶るのは羅梓依のためさ。」
「どういうことだ?」
「僕は羅梓依を愛していなし、卯杏もまた愛さない。愛されない者同士悲しみを分かち合えば仲良くできるだろう?」
「おまえは頭がおかしい。」
「おかしくないよ。」
燈羨は立ち上がり、灯己の前に歩んだ。長椅子に膝をかけ、灯己の目を上から覗き込む。二人の鼻先が触れ合った。
「好きでもない女と子をなさなければならない僕の気持ちが灯己にはわからないんだね。」
「帝王とはそういうものだろう。」
灯己の冷たい瞳が燈羨の黒い目玉を見つめ返した。わなわなと燈羨の黒目が揺らぎ、一筋の涙が流れ落ちた。
「すべて灯己のせいなのに。灯己がいけないのに。」
触れそうになる燈羨の頬を、灯己は押しやり、立ち上がった。
「変な言いがかりをつけるな。」
明日から煌玄が傍を離れるから情緒不安定になっているのか、と灯己は思った。
「奥宮の守りには扉番に加えて麗威の隊から夜警を出す。昼間の外周警備も彰豼の隊から増員しよう。少しは正后様のお心の頼りになるだろう。」
燈羨は灯己の座っていた長椅子に顔を埋め、しくしくと泣いていた。
「燈羨。もういいだろう?煌玄を呼んできてやるから。」
「灯己がいて。灯己が僕の傍にいてよ。」
灯己が忌々しく息を吐くと扉を叩く音がした。
「煌玄にございます。」
灯己はつかつかと扉へ向かい、取手を引いた。扉の前で膝を折る煌玄に、顎で燈羨を指すと、煌玄は微笑み頷いた。灯己は煌玄を執務室に招き入れ、そのまま執務室を後にした。ずっとそこに居たのならもっと早く扉を叩いてくれればいいものを、と灯己は忌々しく思った。煌玄という男は軍士としてはたいそう有能だが、躾役としてはどうかと思う。いったいいつまで燈羨を子供のままにしておくのか、腹立たしかった。
灯己が屋敷に戻ると、嗅いだことのない妙な匂いが屋敷に立ち込めていた。灯己帰宅の物音と聞きつけ、晶が走ってやって来た。ぴたりと灯己の後ろに隠れ、灯己を仰ぎ見る。
「どうした?」
居間の扉を開けると、その匂いが強烈に濃くなり、灯己の鼻をくすぐった。
「おまえたち、何を作ったんだ?」
食卓の上にはぐつぐつと泡を立て煮える鍋があった。見たことのない虫や小妖魔が緑の液体の中に浮いている。
灯己の帰還に、双子は顔を青くし、振り向いた。
「灯己様。おかえりなさいませ。」
「晶になんていうものを食べさせてるんだおまえたち。」
双子は慌てて鍋に蓋をした。
「晶様はうんと召し上がってくださいました。」
確かに双子の言う通り、晶の皿には虫や小妖魔の殻がたくさん積んである。
「うまいのか?それ。」
晶は首を振った。
「雨寂のごはんのほうがずっとおいしい。」
そりゃあ雨寂の飯と比べたら双子が不憫だと灯己は思った。雨寂は鳥市でずっと賄を任されていた腕を生かし、鳥市離散後は貴族御用達の料理店の下働きに潜り込んで晶と暮らす日銭を稼いでいたらしい。そうして三年、飛都一の繁華街である中街に小さな飯屋を出すまでになった。
「私ども、料理は不得手でございまして。」
ずっと灯己の背に隠れるようにくっついている晶に、灯己は首を傾げた。
「どうした、晶さっきから。」
「この人たち怖い。」
双子は慌てふためいた。
「いえ、私たち何もしておりませんわ!」
「じいっと見るよ。」
「いえ、ただ、誰ぞに似ているお顔だと、話していただけでございます。」
「晶が?」
灯己はしゃがみ晶の顔を覗き込んだが、思い当らなかった。
「妖怪のおばさんたちに慣れないものを食べさせられて緊張したんだろう。」
「まあ、灯己様!私たちおばさんではございませんよ。」
「ああ、おばあさんだったな。」
灯己と晶は声を立てて笑った。その様子に、双子は顔を見合わせた。
「帝が途中で泣き出してな、今頃煌玄が手を焼いているだろう。おまえたちも行ってやれ。」
灯己の言葉に、双子は、は、と頭を垂れた。
「また御用の際はなんなりとお申し付けください。」
「じゃあ少しは料理も練習しておけ。ではまた明日。」
「おやすみなさいませ。」
おやすみなさい、と晶の麗しい声に送り出され、双子は屋敷を出た。振り向くと、閉まりゆく扉の隙間から、笑い合う灯己と晶の姿が垣間見えた。
双子は言葉少なに森を抜け、緋天殿の回廊へたどり着いた。灯己のことを思っていた。
「あのようにお笑いになる灯己様は初めて見ましたわ。」
夕凪の言葉に、舞霧も頷いた。
「ええ、とても楽しそうで。」
「灯己様が我が帝に捕まってからのこの三年間、あのように楽し気であったことは一度もありませんでした。」
「ええ、だって我が馬鹿帝が灯己様に無理を仰せになるのですから。」
「馬鹿がなんだって?」
空から降って来たその声に、双子はびくりとして足を止め、天を仰いだ。回廊の向かいの欄干に、燈羨が頬杖をつき月を眺めていた。双子は急いで笑顔をつくり、膝を折った。
「これは帝王、今宵はまだ執務室におわしまして?」
燈羨はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「帝王付き第一位女官長殿が帝王のお付きを放り出しての夜遊びとは偉くなったものだ。」
可愛げのない態度に、煌玄殿の胸の中で泣いていたのではないのか、と双子は心の中で舌を鳴らした。
「帝のご命令で灯己様のお屋敷に参っておりましたのでございますよ。」
「僕が命令したのはまだ陽のあるうちだったが、あそこに輝いているのがおまえたちには太陽に見えるのか?」
「灯己様に夕食を作るよう仰せつかりまして、このように遅くなりました。」
「夕食?おまえたちの料理など想像するのも恐ろしいな。」
「こう見えましても私たちなかなかの腕前ですのよ、見た目は悪くてもお味はもう、今日もたくさん召し上がっていただいて。」
そこで舞霧ははたと言葉を止め、片割れの顔を見た。片割れの夕凪も同時に舞霧の顔を見、双子は燈羨の顔を見上げ、また顔を見合わせ、頬を紅潮させ頷き合った。
「そうですわ、このお顔!」
「ええ、私も今それを!」
双子は興奮し手を合わせ握り合い、しばらくの間ばたばたと大きく頷き合っていたが、だんだんと冷静さを取り戻し、その思い当たりがあり得ないことだと気付いた。
「とは申しましたが、まさかでございますわね。」
「私たちときたら、いつも恨みがましく思っているものですから、ちょっと似ているだけですぐそのように思ってしまうのですわ。」
「困ったものですわねえ。」
こそこそと囁き合う双子の姿に、燈羨は嫌悪の色を露わにした。
「何をこそこそ話している?」
双子ははっと手を離し、頭を下げた。
「いえ、何でもございません。」
「気持ちの悪い双子だ。おまえたちのような魔物を素手で食らう粗野な妖魔を拾って来て女官長に仕立てた父の気がしれないよ。おまえたち、僕に隠し事をしようなどと思うな。」
「めっそうもございません。隠し事など。」
「そう仰いますが帝、妖魔だからこそ、この千城に巣食う妖魔の善し悪しを見分け、帝をこうしてお守りできるのですわ。」
「どうだか。再び異形同士で手を組みこの城を乗っ取ろうと、機会を狙ってるんじゃないのか?」
双子はふつふつと沸き起こる腹立たしさをかろうじて隠しにこりと笑って見せた。
「帝、いい加減になさってくださいな。あんまり私どもを怒らせると取って食ってしまいますわよ。」
燈羨は軽く鼻で笑った。
「おまえたちのような下等な妖魔にこの僕が食えるものか。僕の体には焔鷙が棲んでいるんだ。僕に逆らってばかりいると焔鷙が目覚めた時おまえたちこそ炎に焼かれるぞ。」
双子は口を閉じ、じっと燈羨が去るのを待った。明日からこの帝王のお守りの一切が圧し掛かると思うとうんざりした。燈羨が煌玄へ見せる可愛らしさの半分でも自分たちへ見せてくれたら、少しはこの憎たらしさも消えようものを、敬愛してやまない亡き燈峻帝の若き頃の姿に日増しに似てくる燈羨が、可愛げのない口をきくのが口惜しくてたまらなかった。




