定点眼球
ずっと、ずっと待っているのである。
日没を称え続けた廃線のホームで、ただじっとかしこまって座って待っているのである。
すれ違う蛍の仄明かりを横目に、ただ一人が再び訪れることを願って、割に合わないことだと理解しながら、ただずっと待っているのである。
出会ったのは、もう随分前のことである。
吾輩の想い人である紗代子はとても麗しかった。
吾輩等が近付けば、戻す事が出来ないほど汚してしまうと何度思ったことか。
そうだ、あの時は唐紅のワンピースを着ていた。
吾輩が臆病でままならないのに、初めて背中から強く抱かれた日。
恐ろしい程、綺麗だった……唯々、奇麗だった。
淡い蝉の音だった、とてもとても遠くに聞こえていた。
あの日は特に暑かった……今ではそれ程では無いのだろうが、その夏一番の暑い日だった。
人間が溶けて液体になり、蒸発してしまうのではないか。
いや、していたのであろう……そんな暑い空を、吾輩は見上げていた。
確か、夜は花火をすると子供達が言っていた、ここからでも見えるのだろうか、音だけでも聞けたら幸いであろうか。
紗代子は吾輩を激しく抱いた後、興味が尽きたとなおざりに捨て置いて行ってしまった。
やはり、吾輩では吊り合わんものであろう。
そこに不満が無かった、一度でも抱かれた事こそが誉れであった。
そして、暫くすると五月蝿い音を立てながら横に座ろうとする男が現れた。
「お前も紗代子にやられたのかい」
とてもくぐもった不快な声だった。
この男に紗代子と呼び捨てにする権利があるのだろうか、とても胸くそ悪いものであった。
「はは、お互い様ねぇ格好だな」
吾輩の頭を馴れ馴れしく撫でてくる。
汚れた手で触るな、と手を払い睨みつけてやったが。
「怖い怖い、まるで紗代子みたいだぁ」
凝りもせず、執拗に撫でてくる。
その口を噛み付き引き裂いてやろうと思ったが、そもそもこの男は汚れている。腐ってしまうような人間に構う必要は無いと無視を続けた。
「……紗代子はどうなってしまうのだろうか。あれ程綺麗で残酷で自由な奴は居ない。誰の手にも落ちず、生きていくのだろうか。」
寝ながら世迷言を言っているが、綺麗で自由なことは吾輩も思っていることであった。
それでも口を開く気にはなれなかった。
「……あちらこちらで、神隠しが起こっているそうだ。何れ、紗代子も……捕まって…………しまうのだろうか」
男は、息も絶え絶えに微睡みに落ちていった。
神隠し……確かに何時の時代も、それに近いことは起きるものである。
ただ、多くは口減らしの子供の為の方便である。
実際に神や、それに近いものに連れて行かれた者は居るのであろうか、いや落ちたモノは居るのであろうか。
そうである……紗代子、紗代子なら、選ばれるかもしれない。
それ程に魅惑的な女性も、人間も他には居るまいよ。
吾輩も慣れぬことで疲れたのであるか、微睡みに落ちてしまいそうである。
この男の傍で眠るのは、いささか気が引けるのだが……仕方あるまい、魅惑的な睡魔には勝てぬものである。
そして、吾輩はその日から……幾日も幾日も、紗代子が来るのを待っているのである。
気が付いたときには、あの男はもう居なかった。
けたたましく走る箱にでも連れて行かれたのであろう。
吾輩も重い腰を上げて、うだるような暑さに陰を探しながら、紗代子が再び来るであろう駅で待つことにしたのである。
日の出間近の事であった。
珍しく近付いてくる人間の気配があった。
「ここが、あの」
「そうだ、ここがあの事件以来廃線になった例の駅だ」
男女二人組であった。
紗代子以外に興味はないが、やっぼたらしい服装であり、恋人でもまぐわいまでは経験してないであろう、初心な男女である。
「自然が豊かなところなのに、どこか物悲しい」
「人の手が入って、放置されたものはどこか不釣り合いな印象を受けるのだろう」
「そうね、高速道路の予定地のまま放置されたものは不気味……野晒しにされた人工の鳥居みたいで」
「面白いことを言うね。人工の鳥居か……廃駅なら、人工のお寺や神社みたいなものかもしれないね」
「そう言われると、ちょっと怖いわね。昔は掲示板に利用客が自由に書いて待ち合わせとかに使っていたそうじゃない、それは」
「それは、絵馬に当たりそうか。意外と当てはまりそうで、面白い案だな」
「あまり茶化さないでよ、本当に怖いんだから」
「ごめんごめん、そもそも人工の鳥居や寺や神社って、人が作ったものだから、矛盾している話さ」
「……でも、人工って付けると人間が自然に逆らい勝手に作ったものみたいで、嫌な響き」
と、要領を得ぬ話を飽きもせずに続けている。
本当に怖いのなら、今すぐ引き返せばいいものである。
惚れた弱みか、怖いがり可愛く見せたいのか、あざといものであるな。
その点、紗代子は自由奔放であった。それであり、優雅であったのだ
「きゃーーーーーーーーーーーーーー」
突然、女の方が悲鳴を上げた。
……あれを見つけたのかもしれない。
吾輩は声の元へと忍び寄った。
「これ、これ……これ」
「白骨化した遺体だね……綺麗に白骨化してるな」
「い、いいから、早く行きましょう。ここだと電波も繋がらないし、一度離れないと」
「ふーん、頭蓋骨がひび割れ凹んでいるな……ほぼ一撃か」
「こんなとこでいつもの悪癖を出さないで、早く行きましょう」
「……仕方ない、一度戻るか」
我先にと逃げる女と、名残惜しそうに何度も振り返る男。
何にせよ、不味いな。
早くしなければ。
同じ日の日没間近。
廃線のホームでかしこまって座って待っているのである。
随分汚れてしまった。
人間とはこんなに重いものだったか。
はてさて、紗代子は来るであろうか。
あぁ、綺麗だった……まっこと奇麗であった。
蛍が細やかに祝福するように、けたたましく走る黒い箱が、やっと吾輩の前に現れたのである。
そして、ゆっくりと止まり、扉が開いた先に。
翌日、警察と共に再び白骨化した遺体を発見した場所に戻った男女二人は、奇妙な跡を見つける。
その跡を追っていくと、廃駅のホームへ続いており、途切れた先には白骨化した猫の死体と、人間のようなものを引き摺った血の跡が、到底人一人では足りない程の血の跡が、電車に乗ったかの如く途切れていたのである。
元々は、長編のプロットのつもりで非公開にしていましたが、なかなか書けないので公開しました。