悪役令嬢ですが推しだった婚約者と結ばれたいと思うのはいけないことですか!?〜正々堂々ヒロインに挑むため己を磨くことにした令嬢の結末〜
※軽い嘔吐表現あります
ムキッᕦ(ò_óˇ)ᕤ
バッターーーン
穏やかな陽気に恵まれたガーデンに、ものすごい音が響き渡った。
ユリフォス王国。国土の東には肥沃な大地、西には豊かな森、北には世界有数の鉱山、南には海産物も多く獲れる青い海、と四面を豊かな資源と自然に恵まれたこの国は、周辺諸国からそろって奇跡の大地と呼ばれている。
それが起きたのは、そんな奇跡の国に生まれた王子の、社交会デビューを兼ねた十歳の誕生会が盛大に開かれた場でのことだった。
祝いの挨拶を、と、貴族の両親に連れられて来た王子と同じくらいの歳の令嬢が、王子の前に立った瞬間に、突然、ものすごい音をたてて倒れたのである。
当然、周りにいた招待客たちは呆然。何が起きたのかというどよめきのなか、両親は、一瞬面食らった顔をしていたが事態を理解すると大声で叫びながら娘の体をゆすった。
「アグネス! アグネス!?」
悲壮感あふれる両親の顔と青空の手前、ヘッドドレスについていたピンクの大きなフリルが瞼の上で揺れるのをぼんやりと視界に入れながら小さな令嬢は微かな声でつぶやいた。
「──あ、あくやくれいじょう……」
アグネス・オブ・ノーフィス。
奇跡の国ユリフォス王国の侯爵令嬢。
そして、フィンセント王子の婚約者。
そんな立場にいながら、傲慢な態度でヒロインをいじめ倒す悪役令嬢。
見た目は、艶やかな黒の巻き髪に紅のツリ目が派手派手しくキツい印象を与える……しかし美しいスチル絵……
ん?スチル?
「ってえ? 待って! それって昔読んでた恋愛ゲームの話じゃん!!」
ハッと、ベッドの上で目を覚ましたアグネスはそんな叫び声を上げながら飛び起きた。
「アグネス! 起きたのね!」
「お、お母様?」
その瞬間、強く抱きしめてきたのは母だった。
「ああよかったわ、お医者様は何もないとおっしゃったけどなかなか目を覚さないし魘されているから心配したわ……もう大丈夫?」
「は、はい。あの、お母様……ここは」
「お城にある来賓用のお部屋よ。フィンセント殿下にご挨拶する前にアグネスちゃんが倒れちゃったものだから、陛下が心配されて、使わせてくださったのよ」
「そ、そうなのですか……」
「ええ。ああでも、よかった。お顔に傷もつかなかったし……でも、一度お医者様を呼んでくるわね。いまも変なことを言っていたようだし」
「え、ええ、はい。お母様……」
そんな会話の後、ぱたぱたと部屋を飛び出していく母を見送ってから、アグネスはもう一度くらりと揺れそうになった頭を押さえた。
天蓋付きのベッドからそっと降りると、ふかふかのカーペットを踏みしめながら、部屋の壁に嵌め込まれたステンドグラスのような大きな窓へとよろよろと近づく。
そこから見えるのは、手入れの行き届いた王宮のガーデンと、そこで行われている王子様の誕生日パーティーの様子だ。
それを見下ろしながら、さっき気を失う寸前まであそこに王子に自分を覚えてもらうのだと意気揚々と乗り込んでいた幼い自分の感情と、たったいま蘇った前世の──二十うん歳の年頃の感情と記憶を頼りに、アグネスは目標の彼を探す。
そして──ブルネットの柔らかそうな色の髪とエメラルド色の瞳をもつこの国の王子──フィンセント・ユリフォス・ライズの姿を見つけた瞬間、がくんと膝から力が抜けた。
幼い顔で、大人に混じって柔和な笑顔で挨拶をするフィンセントのつむじを見下ろしながらアグネスは叫び声を上げた。
「ままままま間違いないわ……!」
そして、ぎゅっとドレスのスカートを握りしめて立ち上がると窓の外の天を強く見上げながらこう言ったのだ。
「この世界は、前世の私がめっちゃくちゃにハマってた乙女ゲーム…! そして、あそこにいるのは私の最推し!!」
神はいた!
前世の二十うん歳の女の感情と混ざったアグネスのこの時の心の中はまさに狂喜乱舞だった。
前世で過労死するまでブラック企業に勤め友人も少しずつ去り恋人もできず唯一傾倒していた乙女ゲーム。もしも死んだらその世界に入り込みたいと本気で思っていた。ただの壁でいいからこの世界を眺めたかった。それほどに愛したキャラクターのひとりがいま、静止画でなく動いている。
流行りの異世界転生?乙女ゲーム転生?くぅっ毎朝毎晩願ってみるもんだ……アグネスの頰をそっと涙が伝った。
「しかもっ…しかも! 私、推しキャラの婚約者ポジじゃん!! ヒロインのライバルの悪役令嬢だけど、こ、ん、や、く、しゃ! ポジ!!」
これは!とアグネスは拳を握る。
この時点でもはや前世の記憶とアグネスの心は同化していた。
さて、こうなった場合、巷では、というか前世で読んだこのタイプの話は、普通、破滅フラグを避けるためこの立場から逃げ出したりする策を考えるところ。
だが、この娘、ちょっとばかり違った。
「いやいや破滅フラグ!? 知らぬ! 推しがいて、生きてて、かつ自分と婚約者だぞ! そんな美味しいポジションみすみす逃してたまるか!!」
そう叫びながら、あの場で倒れてしまったのは驚きだったが、ここで思い出せてよかったとアグネスは思った。
ゲームのアグネスは高慢な少女だった。高位貴族であることと王子の婚約者になったことを鼻にかけては自分より下のものを見下し、自分より目立つものがいれば影から嫌がらせをする、そんな嫌な子。一方、ヒロインは平民だが特別な理由で貴族の子女が通う学園に入ることになる主人公。そして、出会った王子やその他の攻略キャラと仲良くなっていくのだが、そこで王子ルートのライバルとして現れるのがこのアグネスなのである。そして嫌がらせをエスカレートさせた結果、罪を犯して国から追放されるのだ。
その救いようのない卑劣な悪女ぶりに王子も王家も家の者もその時点ですでに見切りをつけていたため、だれも庇ってくれなかった。
もしも前世のこの記憶がないまま、ゲームの通りに育っていたら、当然、アグネスの破滅ルートは避けられなかったことだろう。
しかし、いまからであれば、まだ、どうにかして推しと円満な関係を結ぶための努力は積めるのではないかと考えたのである。
あの綺麗な顔を──幼い頃から王子という立場だけを見て近づいてくる大人たちに囲まれるせいで他人に心を許さない腹黒キャラになり──でも王太子として立派な人物であろうとしている、本当は真面目で努力家な姿を──どあっぷで、接写で見れる婚約者の立場。
ゲームのアグネスは、そんなこと気づきもせず自分がどう目立つかどうかばかり気にしていたみたいで、知らなかっただろうけど。
「……私は知ってるわ」
彼が抱えるだろうこれからの苦悩を。
アグネスは、ヒロインほど上手にそれを掬い取って癒やしてあげることはできないかもしれないけれど、せめて、一緒に抱えて差し上げられるような婚約者になろう。
彼に恥じぬ、彼を守れるような強い令嬢になろう。
ただし後から現れるヒロインが彼のルートに入ってこようとしたその時は──
──正々堂々、勝負を挑もう。
そうと決めれば、することはひとつしかないと、アグネスは窓の前から踵を返した。
それから五年の月日が流れた。
フィンセント王子の誕生日パーティーでぶっ倒れた令嬢の話はすでに社交界では有名になっていた。
あれから少しして王子の婚約者となってもなお、どの社交の場にも出てこず、あげく、いつからか王都の邸宅から離れた親戚筋の領地にこもりきりになってしまった令嬢は、哀れ、あれの恥ずかしさから乱心したのだと噂されていた……のだが、
「ダン叔父様! お覚悟!!」
やあーっ!と威勢のいい掛け声とともに少女の振りかぶった大剣とそれを受けた大男の剣の間で火花が散った。キィンという高い音の後に、弾かれる少女の剣。腕を伝わるビリビリとする電撃のような振動に、少女は好戦的な笑みを深くし、回転しながら次の一手を繰り出した。
その速度に一瞬遅れる格好で、男は剣で体の前を庇った。押し合う二人の間で、刃同士が重なり、摩擦によって先ほどよりも激しい火花がギャギャギャッと上がった。
「くっ……なんという重さっ」
唇をかみしめた男がそう漏らした隙を少女は見逃さずに、風のような速度で、横一線に剣を振り切った。
「ぐぅっ……」
ずしん、と鎧の上からでも腹へと響いた剣の重みに男はその場で膝をつくと、少女に対して、上ってきた胃液に少し咳込みながらも両手を挙げて降参のポーズをとった。
「ま、まいった……」
「ふふん、やったわ!」
得意げに鼻を高くして、艶のある黒い巻き毛を肩の後ろへとはらった少女は笑った。
「では、もう一戦……」
「さーて! それじゃあ休憩にしよう。アグネスや、かわいい姪っ子のために、私が隣国の珍しいお菓子を用意しているから先に行っておいで」
「えっ、そうでしたの? 嬉しい! ありがとうございます叔父様」
そう言うと、嬉しそうに紅の目を輝かせた姪っ子、アグネスに、男はでれりと目尻を下げた。まるで至高の絵画から抜け出してきたかのような美しい相貌の彼女は、数年前にとある事情から預かることになった叔父のダン・スコールにとっても大変な自慢だった。
ちゅっと頬にキスをすると、手を振りながら屋敷の中へと駆けていくアグネス。
ダンはその後ろ姿を微笑みながら見送った後、振り向くと、そっと侍従が差し出した袋の中に胃のものを吐いた。
「ふっ、成長期とは恐ろしいな……王宮の騎士団長にまでもなり、戦いに出れば嵐を呼ぶ男とまで言われた私をここまで……まったく成長期は油断ならん……」
貫禄のある髭つきの口の周りを拭いながら豪気に笑うダン。そんな主人からそっと目をそらしながら、侍従が静かに述べた。
「旦那様……恐れながら、三年前からアグネス様の勝ち越しでございます」
「……そうか、女性の成長期は早くて長いのだな」
そういえばもうすぐ学園に入学する時期でもあったなと、思い出してこの夏がダンはアグネスとの最後の休暇だろうとしみじみと考えた。
可愛い可愛い姪っ子は、まだ叔父が本気で相手をしていないと思っているらしく、この休み中に本気を出させます!と朝から晩まで剣だ組み手だ弓だと勝負を挑まれていたが、ダンにしてみればもうお腹いっぱい……いやむしろ胃が何度もひっくり返ってすっからかんなのだという状態を、何度伝えても理解してくれない。自分に憧れてくれるのは嬉しいが期待をかけられることがこれほど恐ろしいものだったかとダンは思っていた。正直、はやく学園始まらないかなと考えている。
もはやどこぞの魔竜が出ても今のアグネスなら倒せるレベルにあった。しかし、何を言おうと、本人は、いえ!そんな程度では足りません!と答える。そして、鍛錬だといい魔物の蔓延る森で一晩中狩り続けてきたりする。
そして、最後にいつもこう言うのだ。
『いいえ、まだまだです! いずれ現れるヒロインの主人公パワーには私のこんな程度の力ではとうてい及びませんわ!』
と。狩りのついでに採ってきたグレープフルーツを素手でジュースにしたりしながら。
「あの子は、いったい何と闘うつもりなんだろうな」
はたして彼女が学園に馴染めるのか、どうにも気がかりな叔父だった。
唯一、少し安心できる点は、婚約者であるフィンセント王子が彼女を蔑ろにせず、むしろ暖かい目で見守ってくれていることであったが──それでも、この数ヶ月あえて会わないことにして徹底的に絞り込んだ彼女は、フィンセントが知っていた以前の彼女とはまたいろいろなところが変わっているはずだ。
たとえば肘を曲げるだけでこんもりと盛り上がる上腕二頭筋、たとえば木の幹に一瞬で飛び上がれるほどのバネのあるガッシリとした大腿四頭筋。たとえば王宮騎士も涙するほどの見事な腹のシックスパック。
彼女は満足しているらしいが、それで心変わりなどされないか──やっぱり心配な叔父だった。
はたしてその頃──
「くしゅん。……噂かな」
くしゃみをしたフィンセントは、執務室に届いたアグネスからの手紙を傍に置くと、にっこりと笑いながら返事を書き始めた。
《……元気にしてるようで何よりだ。お願いされた学園の制服の件は、こちらでうまく調整しておくから心配ないように。……でも少し私も見たかったな、はちきれんばかりの筋肉でぱつぱつになった制服姿とやら……君の筋肉は全身すごく魅力的だからね》
ふと、そこまで書いて手を止めた。
「はぁ……アグネスのまるで肩パッドのような三角筋……背中にりんごでも挟めそうなしっかりと盛り上がった僧帽筋……きゅっとしまったふくらはぎと足首……ほんとうにすべてがすでに素晴らしいからなぁ……こんな入学の目前になって制服が合わないなんて、きっと以前の採寸時からまた筋肉量が増えて厚みが増えたんだろうなぁ……ああ楽しみすぎるっ」
性癖というのか、フェチといったほうがいいのか──うっとりと呟いた王子のそれは、毎年体を作って見せてくる婚約者のせいですでに歪んでいたため、正直なところ、叔父の心配は杞憂なのだった。
一方、そんなひとり語りをしていた彼らの話の主役はというと、すっかり綺麗に無くなった菓子のプレートの上を満足げに見たあと、テーブルの隣にすっくと立ち上がってこんなことを言っていた。
「さーて今日も鍛錬鍛錬! 待っていなさい、まだ見ぬヒロイン! 貴女がどんな強敵だろうと、私は貴女に勝ってみせる! そして、フィンセント様とがっつり幸せになってみせたるわ!」
さて、もはや恋愛ゲームの勝負とは何なのかを履き違えているアグネス。
しかし誰もそんなことを指摘できるはずもなく、また、指摘せずとも、彼女の筋肉にすでに惚れこんでしまっているフィンセントがヒロインに惹かれるはずはないので、ハッピーエンドを迎えることは絶対のシナリオになっているのだが──
「さあ、あと千回!」
ふんっふんっと鼻息を荒くしながらダンベルを持ち上げるアグネスには、まだ別に、知らなくてもよいことである。
結果:悪役令嬢が婚約者と結ばれようと頑張ると、筋肉ムキムキの令嬢が爆誕するが、婚約者も筋肉フェチになるため万事問題なくハッピーエンドになりました。
ちゃんちゃん。
ありがとうございました!
誤字報告があったので修正しました!
シックスパックをシックスパッドって…令嬢の腹に足乗せたらぶるぶる震えてくれるんかよってね…