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吉祥寺駅。そこは、東京都武蔵野市の中心にして年間約十五万人をも超える人々が日々利用する市の玄関口である。
そんな吉祥寺駅の中央口前に広がるロータリーに一台のバスが重たい車体を響かせながらやって来たのがほんの数分前のこと。
現在、そのバスから降車を果たした雪音は、行き交う人たちの中をすり抜けるように歩いていた。
ざわつく駅前の喧騒、雑踏は鼓膜を震わせ、横断歩道の甲高い音響が耳の中にしつこく残響する。
そのすべてを振り払うように、雪音は都道115号線沿いに足を向けた。
そろそろあたりも暗くなりはじめる時間帯のせいか、行き交う人たちの多くがスーツ姿の社会人。
彼らが帰路に着く光景は、学生が活動する時間の終わりを告げているようにも思える。この時間帯にもなると制服姿の学生のほうが目立ってしまう。
最近では女子高校生をターゲットに定めた迷惑行為が増えているという注意喚起もあった。雪音も周囲に気を配りながら、なるべく人通りの多い道を選んで帰宅を急ぐ。
ほどなくして、十字路の信号機に捕まった。
信号が赤から青に変わるわずかあいだ、雪音は過ぎ行く自動車のテールランプを見るとはなしに見ていた。
「ん?」
しばらくして、交差点を挟んだ反対側から雪音に向かって手を振ってくる存在に気がついた。
重なり合う人混みのなか、確認できたのはその人物が部活動のジャージを纏っていることくらい。周囲は薄暗く、街灯やテナントビルの光量だけでは人物の特定まではきなかった。
それでも、雪音にはある種の心当たりのようなものがあった。
もっとも決定的だったのが、既視感を覚えるジャージを着用していること。そして体格。加えて雪音に対してここまで親しげな仕草を取る人物などにもなれば、いくらなんでも限られてくる。
周囲の目を気にしながら、雪音もとりあえず小さく手を振り返した。でも、すぐに周りの視線を気にして引っ込める。それからは、信号機が青に変わるのをじっと待った。
三十秒もしないうちに青色へ変わる。スタートラインに立つ陸上選手よろしく真横に並んでいた人たちがほぼ同時に動き出す。その中から雪音は条件反射の如く微動する足を抑え、一歩身を引いた。
そして、身軽なフットワークを携え、人垣の向こう側からひとりの少女が駆け寄ってくる。
「雪音さぁーんっ!!」
名前を呼ばれ、雪音の疑念が確信へと変わる。高い声と歌でも歌ように弾む口調を雪音は知っている。
互いの距離も近づくのにつれ、ぼんやりとしたシルエットはより明確に彼女を映し出した。
肩まで切り揃えた黒髪。わずかにあどけなさが残るも整った顔立ちと、浮かべたその笑顔は行き交う人々たちの中でも一番きらきらと輝いて見える。そのすべてが雪音の頭に浮かんだ人物像と寸分の狂いなく当てはまっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ~……うん、やっぱり雪音さんだった」
雪音の元へ息を切らながらやって来た少女のことを、もちろん雪音は知っている。これで知らない人物だったらただのホラーでしかない。
彼女は今年で中学三年を迎え、来年には高校受験を控える受験生でもある。
彼女とは、福岡に移り住む前から懇意にしており、こっちに戻ってきてからも、またこうして気さくに接する間柄になっていた。
あれから四年。彼女、片瀬舞生はすっかり大人の女性へと成長中である。
そんな彼女と再会を果たしたのは、福岡から帰ってきた高校一年の春。実に五年ぶりの再開だった。
最初に声をかけてきたのは舞生から。
雪音は声をかけられるまで気づかなかった。いや、正確に言えば、気づけなかったのだ。
当時、小学生だったあの頃とは随分と大人びていたせいかもしれない。
そのことを素直に話すと、舞生は嬉しそうに頬を緩めていたのは今でも記憶に新しい。でも、それと同時にどこか寂しそうな表情を浮かべていたのも忘れてはいない。
再開した当初、ふたりの間に流れる空気はぎこちなかった。
少なくとも、雪音から何から話していいのかわからなかった。
単純に、「元気にしてた?」とか、「可愛くなったね」とか、そんな当たり障りもないことでも言えたらどんなに楽だったか。
でも、当時の雪音はそれができなかった。雪音には、舞生と再開するための心の準備がまるでできていなかったから。
きっと、舞生もそのことに気づいていた。それでも彼女はあえて触れずにいてくれた。持ち前の明るさと人を思いやることのできる優しさで毅然とした態度でいてくれた。あの頃と変わらない笑顔を見せてくれた。雪音はそんな彼女の心の強さに救われたのだ。
それからは実にスピーディーに物事が進んでいった。いや、厳密には勧められたといったほうが正しい。再会の挨拶もそこそこに半ば強制的にLINEのI Dを交換させられ、その場で次の再開を約束させられてしまったのだから。
そして今ではちょくちょく買い物に付き合うくらいには、二人の関係は改善され、あの頃に戻りつつある。
雪音はそんな舞生の明るさについていくことしかできなかった。その明るさに甘えてしまった。そんな資格など、自分にはないと自覚していながら……。
だから、めんどくさいだとか、相手にしたくないだとか、そういった感情は一切なくて。今でも一途に慕ってくれる舞生のことを雪音も好いている。彼女が好意を向けて続けてくれる限り、雪音から舞生を嫌うことはない。
「奇遇だね、雪音さん。もしかして、仕事帰り?」
雪音の格好を上から下へと眺めた舞生がおちゃらけた口調を叩く。
「仕事じゃないって。ただの生徒会の業務だよ、業務」
世間一般的な社会人が熟す業務に比べると、今行っている生徒会の業務はほんのお遊びみたいなものだと雪音は思う。いや、それどころか部活動に所属していない身としては、いい暇つぶしみたいなものだとすら思える。少なくと、雪音はそう思っている。
そのことをありのまま告げると、見るからに舞生の表情は苦々しいものへと変わっていく。その大きな瞳からは、自尊心の揺らぎのようなものを感じ取れた。
「あたしには絶対に言えないセリフだよぉ……」
がくり肩を落とした舞生は何やらショックを受けている様子だ。
「ふふっ、そんなことないと思うけど……」
そう擁護しつつ、重めのため息を吐くその姿に雪音は既視感を覚えた。
途端、ちくりとした痛みが胸を刺す。
つい、無意識に重ねてしまった。記憶の中に残る、あの少年の姿を——。
「雪音さん?」
たったそれだけのことで心が曇っていく。ざわついてしまう。胸が苦しくなる。
「ううん、なんでもない」
今、上手に笑えているだろうか。そんなことが無性に気になった。彼女だけにはなるべくこの気持ちを悟らせたくなかったから。
「もうっ、雪音さん! 人が本気落ち込んでいるのに笑うなんて酷いよっ!」
「ごめんごめん。悪気がないのは本当だから」
「もぉ、わたしはいたってマジメに言ってるのにぃ~」
「ごめんって」
舞生の底抜けた明るさに、気づけば雪音も笑っていた。
他人を巻き込み、自然と笑顔にさせるところが舞生の長所だと雪音は思う。自分も、そうあれたのなら……と考えずにはいられない。
でも、隠すことに慣れてしまった自分には、彼女と同じように振る舞えないことはきちんと理解しているつもりだ。
きっとこの胸の内を、この素直な後輩に伝えれば、彼女は「そんなことはない」と必死に励ましてくれるかもしれない。彼女がそういう性格だってことを雪音は知っている。
たぶん、弱音のひとつ雪音がこぼしたところで彼女は彼女のまま、彼女らしく接してくれる。そんな心の強さを彼女は持っている。かつて、自分も持っていた、そんな強さを……。
「……ほんとうですかぁ?」
頬を膨らませた舞生が疑いの目を向けてきた。やはりころころと変わる表情は見ていて飽きることはない。思えば、その笑みはどことなく真帆に似ている気がした。図らずとも、彼女と懇意になった訳を垣間見てしまったかもしれない。
「雪音さん?」
そんなことを考えていると、訝しげな声が思考に割り込んできた。
「ん?」
なんでもないように返事をしてから、雪音は舞生に視線を向ける。
「なんか、今、考えごとしてました?」
「えっ? あー……、うん、まぁ、ちょっとね」
「……雪音さん、なんか、嫌なことでもありました?」
「えっ?」
舞生の思わぬ指摘に雪音の心臓は煩く高鳴った。慌てて代わりの言葉を探すように視線を周囲に這わすけれど、当然そこらに都合の良い言葉など転がっているはずもなく、
「なんか、今日の雪音さん、ちょっと元気ないなぁと思いまして……あっ、もしかしてあたしの勘違いでしたか?」
「え、あー、うん、私には特に思い当たる節はないから……」
「……むぅ、それ、ほんとのほんとですか?」
「う、うん……」
誤魔化そうとすればするほど、舞生の視線はますます訝しげに染まっていく。
正直、これはもうダメかと思った。ならばいっその事、この胸の奥底に眠る感情をさらけ出し、ひけらかせ、同情してもらえば楽になれるのかもしれない。
彼女が彼の妹であることを利用することを厭わなければ、自分のプライドなどに拘らなければ、この身を縛る鎖から解放されるかもしれない。
立ち止まる真帆と雪音の姿を通りかかった人たちが不思議そうに眺めては去っていく。ひとり、またひとり、そして何人過ぎ去っていったか数えきれなくなったとき、雪音は意を決して口を開こうとした。
「じ、実は——」
「ところで雪音さん! あ、すみません、いま何か言いかけて……」
「あ、いや、その……、あっ、私のほうは後からでいいから。それより舞生ちゃんは何を言おうとしてたの?」
「あっ、それなんですけど、実はですね、今週の土曜日、あたしの買い物に付き合ってほしくて」
「か、買い物?」
「はいっ!」
言い淀む雪音に対して、ぐいっと身を乗り出した舞生が元気いっぱいに頷く。雪音を捉えて離さない瞳には溢れんばかりの期待で満たさせていた。
「あたし、久しぶりに雪音さんと買い物がしたいんですっ!」
「私と、買い物……」
「はいっ! 雪音さんと、買い物ですっ!!」
言いながら、瞳をさらに輝かせた舞生がぐいっと体を寄せてくる。縮まった距離分、雪音が一歩引き下がる。
「その日、ちょ——っ久しぶりに部活がオフな日なんですっ!」
「へ、へぇ……」
舞生が着ているジャージのエンブレムにはバスケットボールとリングのロゴが貼られており、その背中には学校名と「 BASKETBALL」の文字が躍っている。そこからもわかるように、彼女は地元の県立中学校の女子バスケ部に所属しているのだ。
その実力は二十人を超えるチームメイトの中でも堂々とレギュラーを張っている……と、以前自慢げに教えてくれたのを雪音は覚えている。
ちなみに、休日も何かと練習や試合が組まれているため、丸一日オフという日が滅多にないともボヤいていたことも。
そんな彼女が貴重な休日の一時を使い、自分と買い物に出かけたいと御所望している。雪音にも別段断る理由もない。強いて言えば、今週の休日はたまりに溜まった本を読もうと思っていただけである。
それに、雪音は気付いていた。
名目は舞生の買い物の付き添いみたいことになっているけれど、その実、雪音を気遣ってくれていることに。他でもない、雪音自身のため。
おそらく、人の感情に鋭敏な彼女は気づいているのかもしれない。知らぬ間に表情や声色に現れていたのかもしれない。心当たりも十分すぎるほどある。ヒントは、彼女の苗字に関係する人物だ。
「わかった。それじゃあ今週の土曜日、時間作っておくね」
「えっ、本当ですかっ!?」
自分から誘っておいて舞生は一瞬驚いたような表情を見せた。が、色良い返事を聞くと、すぐにその顔を綻ばせ、無邪気にも喜んだ。しまいには雪音の手を取り歓声をあげている。ぶんぶんと上下に振り回される腕が少し痛い。
「ほんと、ほんとだってっ!」
「う、嘘じゃないですよね!? あとになってやっぱなしとか受け付けませんからねっ!」
「わかった言わない言わないから手を振り回すのはやめてね」
「やったぁーっ! ありがと雪音さん優しいほんとすきすき大好きまじ愛してるよぉー」
「あ〜っ、腕が、腕がもげるから! これ以上振舞わさないでお願いだからこれ以上はほんとヤバいから——」
雪音の悲痛の叫びが夜空の下に響く渡る。それからボルテージを上げに上げまくった舞生から解放されたのは五分後のことだった。
細かい詳細のすり合わせは、追ってLINEで行うことでなんとか話は落ち着き、最後の最後までテンション高めの舞生から晩ご飯の誘いを受けたが、それは丁重にお断りさせてもらった。
「じゃあ雪音さん、土曜日、絶対ですからね!」
そう言って、人混みの中から雪音に向かって手を振る舞生の背中を見送り、雪音も帰路に着く。
「……ほんと、敵わないなぁ」
去り際に見せた舞生の笑顔を思い出しながら、雪音はぽつりと呟いた。口元には自然と笑みがこぼれ、前へ前へと繰り出す足も軽くなっている。
「ほんと、敵わないなぁ……」
あの日、五年前のあの冬の日。
雪音は彼の前から逃げ出してしまった。そして、今日の放課後も……。
現実を受け止めることが怖くて、真実から目を背け、前へ進むことを拒み、いつの日か、そんな自分自身すら拒み、明日への進む活力を見失っていた。
けれど、今は少し違う。ふたつ年下の彼女が明日を生きる活力を与えてくれたから。こんな自分でも彼女を笑顔にさせられることができるから。
「明日も、頑張ろう」
どんなに過去の自分が今の自分を否定しても、今日も雪音は歩き続けられるのだった。