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バス停で慧と別れ、そのあとすぐやって来た赤と白を基調とした車体に揺られること約十五分。簡素な住宅街から背の高い建物が次第に増えだしたころ、優太を乗せたバスは終点吉祥寺駅前に到着した。
ぞろぞろと降車する人の流れに乗り、カードリーダーにICカードを翳す。運転手のくぐもった「ありがとうございました」を背中に優太は地に足をつけた。
物静かな雰囲気が漂っていた車内とは違い、駅前は人々の喧騒に満ちていた。
周囲を軽く見渡せば、ちらほら制服姿の学生たちの姿が散見される。時間帯は夕暮れ時。中にはスーパーのレジ袋を片手に慌ただしく買い出しを終えた主婦たちの姿もある。でも、基本その多くはスーツ姿の社会人。
そうした中でも、多くの人たちが行き交っている場所がある。そこは、吉祥寺市が誇るアーケード街、吉祥寺サンロード商店街。通称サンロード。
地元市民に長らく愛されるそこは、JR中央線・京王井の頭線吉祥寺駅北口ロータリーから、五日市街道にかけて東方向に真っ直ぐ伸びる一本道。
本町新道を挟んで、A地区・B地区に別れ、長さにして約300メートルもあり、内装された店舗も『一店逸品街』のコンセプト通り、老舗から最新型のトレンドショップ、スーパー、カフェ、アミューズメント施設など、多岐にわたるジャンルを揃えた店舗がいくつも軒を連ねている。
優太はその人混みから背を向けた。
優太が住むマンションは駅を挟んだ反対側の南口にあるのだ。
大型家電量販店を曲がった先、徒歩で約十分程度。すっかり疲弊しきった体を癒すため、自宅に向かう足取りも自然と早くなる。
けれど、その道すがらに優太の瞳はとある異変を捉えた。それはバス停から少し離れた公衆電話のすぐ脇。
「おいおいマジか」
優太が目にしたのは、見知った制服を身に包み、迷惑そうに対応する女子高生と、その女子高生にしつこく話しかける中年男性の姿。
困ったことに、中年男性の挙動は怪しい。
Yシャツにだらしなく緩んだネクタイをぶら下げ、頬は明らかに赤い。表情は一貫してへらへらしていて手振り身振りもふらふらでなんだか覚束ない。傍から見ても、彼が酔っ払いだということは一目でわかった。
ふと、今日の放課後、担任の教師が言っていた話を思い出す。最近、駅前で多発している女子高生ナンパ事件だと、察するのに時間はいらなかった。
「おいおいマジか……」
だからと言って、現場に遭遇するとは誰が思うだろうか。驚きより先に、実際目にしてみると、本当にやっている人がいるんだなぁという素直な感想が浮んでしまう。
「……」
そして、その後にやってきたのは、面倒ごとは避けたいというありふれた気持ちだった。
一瞬、見て見ぬ振りをしようかと迷う。正直なところ、今日はもう疲れている。原因は言わずもがな。
それに、面倒ごとにはなるべく関わらないほうがいいのは自明の理。ましてや、あえて自分から飛び込むなんて愚行以外の何もでもない。
軽く周囲を見渡すと、優太同様に気づいている人がちらほらといる。みな、様子を窺っているようで、行動に移している人はいない。その間にも、女子高生への迷惑行為は続いている。
まぁ、気持ちはわかる。自ら面倒事に巻き込まれたいと思う人は普通いない。できれば避けたいと思うのが普通で、間違った感性だと頭ごなしに被弾するのはあまりにも横暴だろう。
現に、優太の目の前の男性も、ちらちらと問題のふたりを窺うだけ窺って、結局は目を逸らし、自分には関係ないと歩き去って行く。その姿を見て、なら自分も……と見て見ぬふりで立ち去る人たちが続く。
まるで、何事もなかったかのように、まさに他人事。赤信号もみんなで渡れば怖くない。
「はぁ……、くだらねぇ」
なら、優太だってそのひとりになればいい。右にならえでいい。みんなやっていること。同じように、知らぬ存ぜぬで見なかったことにすればいい。平和な日常が担保されること間違いなし。迷う必要など、どこにもない。
「……ほんと、くだらねぇ」
そのはずなのに、気持ちとは裏腹に先ほどから見下ろす足は一向に前に進んでくれない。
自分の愚かさ加減を恨みながら、優太はふたりのほうに歩みを向けた。すると、今度は驚くほどすんなりが足が動いた。
件のふたりとの距離が縮まっていくと、その会話の一端が徐々に聞こえてくる。
「あのー、わたし、これから待ち合わせがあるんですけど……」
困惑に満ちた声は明らかに迷惑そうだ。
「そんなこと言って、どうせ暇なんでしょう? えぇ? だいじょうぶだいじょうぶ、お礼ならたぁーんまり出すからさ、ほら、行こうよ」
女子高生はやんわり断るも、すぐさま陽気な男の声が被せられ、状況は平行線を辿っている。比例して女子高生の表情はますます困惑したものになる。
「えっ、いや、ほんと大丈夫ですから」
今度はきっぱりと断った。勇気を振り絞り、精一杯。
けれど……、
「えっ、何? もしかして君、彼氏とかいるの?」
その勇敢さを嘲笑うように、女子高生が引き下がった分だけ男が食い下がる。さらに一歩、もう一歩と女子高生ににじり寄る。その様子はまるでイタチごっこ。でも、あまりにも一方的過ぎてちっとも笑える要素がない。
「いや、その……」
詰め寄ってくる男に女子高生は萎縮し、声もだんだんと頼りないものに変わっていく。完全に及び腰だ。これはもう見逃せないレベル。
「いないの? なら、いいじゃん。ほんと、少しだけだからさ」
ほんの一瞬気圧された女子高生の隙を、男は目敏く見逃さなかった。周囲の人たちもさすがに注意するべきか様子を窺いはじめる。
一方、自分の行き過ぎた行動に顔を赤らめた男は気付かない。女子高生に煙高られているのすら気付いていない。
「えっ、いや、だから、そのっ…………」
「いいじゃんいいじゃん、ほんの少しだけだからさ」
そして、ついに男の手が女子高生の右腕に伸びる。途端、女子高生はきゅっと目を瞑った。
「……」
だが、男の手が女子高生に届くことはいつまでもなかった。それもそうだ。その直前に男と女子高生の間に優太がするりと割り込んだのだから。
「んー? ひっく、なんだ、君はっ? 誰だぁ、君は?」
突然の乱入者に、男性は後方に二、三歩よろけながら蕩け切った目で優太を睨む。吐き出された息は相当に酒臭かった。
これは完全に黒。そう判断してからの行動パターンを、優太はあらかじめ決めていた。
「おい、こんなところにいたのかよ。……ったく、ちゃんと指定した場所で待ってろよな。めっちゃ探したんだぞ」
優太はそう嘯きながら流れるような動作で女子高生の右手を掴む。その顔は見事なまでな彼氏ずらが浮かべられている。
優太の登場に周囲からも安堵の声が漏れた。
「ちょっ、きみっ、おい!」
反対に、自分の行動を阻害された男は憤る。それは男としてのプライドか、それとももう一押しで成功したとでも思ったかのか、どちらにしろそんなちっぽけなプライドなど捨ててしまえばいいのに……。
「ほらっ、行くぞ」
酔っ払いは無視するに限る。アルコールは人の判断能力を低下させる。そんな人など相手をするだけ損、優太は華奢な右手を引いて、駅前の方へと足を向けた。
「あ、あのっ……」
急速に変動する状況に女子高生自身もまた、戸惑いと驚きに圧倒されるひとり。でも、優太の腕を振りほどこうとはしない。その冷静さと正しく状況を見極める視野の広さは今の優太にとって何よりも有難かった。今ここで手を振り払われてしまえば状況はさらにややこしいものになってしまう。
しかし、だからといってまだ油断は許されない。
優太は駅中に向かうその道すがら、終始戸惑いを見せる女子高生の小さな耳に口元を近づける。そして、囁くように一言。
「家、どこ?」
「え……」
なるべく簡潔に尋ねてみたが、女子高生は目を丸くして固ってしまう。戸惑った反応。うまく状況を呑み込めていないのだろう。それとも伝え方が悪かったのか。まあ、どちろにしろ伝わっていないのなら、もっとはっきり言ってやるべきだ。
「家まで送ってく」
「えっ……? えっ!? あっ、いやでも、その……」
女子高生は一瞬驚くも、すぐに困惑げな表情で少し先の地面を見て答えを窮した。
気持ちは痛いくらいにわかる。出会って早々名前も知らないような他人から突然家まで送ると言われたら優太だって戸惑うしちょっと怖い。通報されないだけマシだと言えるのかもしれない。
しかし、彼女がどんな答えを口に出そうが出さまいが、優太の答えは最初から決まっていた。
「後ろ」
ぽしゃりと呟きちらりと視線だけを後方へ。女子高生もつられるようにその視線を追い、はっと息を呑んだ。
おそらく、彼女も目にしたであろう、つい先ほど、彼女自身に恐怖を与えたあの男の姿を。
その漠然とした恐怖が、彼女の躊躇わせていた口を開かせる。
「……南口の方、です」
「了解」
そこから、二人に間に会話という会話は交わされなかった。
街ゆく喧騒の中でも、すれ違う人混みの中でも、無言のまま女子高生の手を引いて歩くだけ。
小さな横断歩道を渡り、ふたりはエスカレーターから構内へと足を踏み入れた。
時刻はすでに帰宅ラッシュ時を迎え、多く人たちで溢れかえっている。
吉祥寺駅には、中央線、中央・総武線/東西線、井の頭線の三番線が通っており、優太たちが通過した中央改札口からは、ちょうど帰宅を遂げた社会人やら学生が出てくるところだった。
「この辺まで来れば大丈夫か……」
背後に視線を配りる。さすがにあの酔っぱらいも付いて来ていなかった。とりあえず一安心。気を張っていた体から緊張感が薄れていくのを実感する。
「あ、あの……」
安全マージンを確保をしたところで、ふと隣から声を掛けられた。
視線を向けると、明るい髪色がちらりと煌めく。ミディアムヘアの女子高生がちらちらとこちらの様子を窺っていた。心なしか頬が赤い。なんでだろう。
「あの、その、あの……うぅ……」
視線が合うと、彼女は目にみえて気恥ずかしそうな反応を見せる。
何事? としばし思いつつ、彼女を観察している自分の右手に違和感。見ると、華奢な少女の手を既視感のある左手が握っている。その左手に感じる仄かな温もり。それが自分の左手だという事実に気づくのに、優太は一秒ほど時間を有した。
「っ! わわわ、悪いっ」
言うが早いか、慌てて手を離す。
「い、いえ……」
少女は自分の手をさすりながら蚊の鳴くようにそう呟いた。ただ、彼女も動揺しているのか、きょろきょろと動く視線は忙しない。
二人の間に流れる空気はぎこちなく、互いに次の言葉が見当たらない。
自然、二人の間には重たい沈黙が流れる。
そして、その息苦しい世界に終止符を先に打ったのは優太のほうだった。それを皮切りに、二人は再び歩き出す。
「家、駅からどのくらい?」
「えーと、歩いて十分ぐらい、です……」
肩越しにちらりと見やると、俯いたままの表情には微かな遠慮の色が浮かんでいた。
一方、そんな優太の視線を機敏に感じ取った女子高生は、優太の意図を察し、一人慌てふためきだす。
「あっ、いえ、そこまでしてもらわなくても大丈夫です。帰り道は比較的に人通りの多い道ですし……。それに…」
「それに?」
何か言いづらそうに言い淀む女子高生。視線は、優太の後方に気になるものでもあるのかそちらに向いている。
ふと、いわれも根拠もない嫌な予感が優太を襲う。
首をぎしぎし動かし少女の視線を追うと、人混みの中から敵意をむき出しにして歩いてくる人物がいた。一瞬だけ目があったような気がしたのは気のせいだろうか。気のせいだと信じたかった。
「そそそ、そっか……じゃあ、俺はこの辺でっ」
「あっ、ちょっと——」
最後に女子高生が何かを言いかけるが、タイミングよく井の頭線の改札口から大量の人が吐き出され、優太の姿は瞬く間に人混みの中へと消えてしまう。
「……お礼、言えなかったなぁ……。あっ、でもでも同じ高校の制服だったし、チャンスはあるよねっ!」
ひとり、その場に残った少女はぎゅっと拳を握りしめ、次のリベンジの機会に決意を固めたのだった。