#—— 6 ——#
逃げるように中央棟から出たあと、気がつくと、見慣れた扉の前に雪音は立っていた。
年季の入った木製の扉には、行書体で書かれた生徒会室の四文字。傷だらけの取手。その全てが雪音の知る生徒会室であることを教えてくれている。
「……」
扉の前で一度乱れた呼吸を整える。張り詰めていた体に酸素が行き渡り、徐々にいつもの自分が戻ってくる。先ほどまで顔を出していた感情も、きちんと胸の奥底にしまえている。浮き立つような感覚も、突き動かされるような焦燥も今はない。
最後にもう一度だけ浅く息を吐き出してから、少しだけ曲がっていた背筋を正した。それだけで気持ちが引き締まり、意識を切り替えることができた。
雪音は扉の取手に手を掛けた。年季の入った扉はがらがらと音を立てながら、ゆっくりと開いていく。室内から出迎えの声が聞こえてきたのはそれとほぼ同時だった。
「あっ、雪音ちゃん。おかえりー」
愛嬌のある声に顔を上げると、教室半分ほどの広さがある室内にはひとりの女子生徒がいた。
向かい合わせにされた六つの長机、その上にぐでぇっと体を預けた姿はなんだかだらしない。
ミディアムヘアと笑った表情が似合う彼女の名は、市来真帆。
彼女もれっきとした生徒会役員の一人である。役割は書記。彼女を除いて他の生徒会役員は室内にはいなかった。
真帆は雪音と同学年で、クラスも同じ二年五組。そういう縁もあり、雪音とはクラス内外でも会話する比率が割と高い。
「うん、ただいま」
「うん、おかえりぃ」
明るくて、気さく。顔も可愛くて、性格も良好。彼女には周りを引きつける魅力がある。故に、彼女に対して好意を抱く男子生徒も少なくはなかったはずだと、雪音は密かに思っている。
そんな真帆に近づきながら、ふと思う。
真帆はたしかにモテる。が、なぜかそういった浮き足立った噂はあまり耳にしたことがない。不思議と言えば不思議なのだが、プライベートな話でもあることから、これまで直接聞こうとも思わなかった。
「あぁ、もぅ、遅ぃ〜〜」
そんな彼女は、今、机に顎を乗せ、両手で持ったスマホの画面をむすっとした表情で見つめていた。笑顔が印象的なぶん、唇を尖らせる横顔は珍しい。そもそも、帰宅部である真帆がこの時間帯まで居残りしていること自体稀ではないだろうか。
今日の放課後に行われた生徒会会議だって、部活動に属していない組の雪音が代表して書類を提出する形をもって三十分前には終了している。
自然、今日一緒に帰宅する約束もしていない。雪音には彼女が生徒会室に残っている理由も、不機嫌そうに眉根を寄せている要因にも、これといって心当たりがなかった。
とりあえず、考えていても仕方ないので、雪音は一度疑問を置き、真帆の反対側にある自席に移動した。すると、足をばたつかせた真帆が甘えた声で話しかけてくる。
「ねえ、ちょっと雪音ちゃん、聞いてよぉー」
「ん?」
反射的に相槌を返しながら、自席に座る。視界を上げると、頬を膨らませた真帆がこちらを見ている。
「なにかあったの?」
確実に何かあったんだろうなと思いつつ、雪音は荷物の整理整頓行いながら一応尋ねてみる。その間に、英語や数学、国語、歴史といった教科書類から、筆箱、タオル、スマホ、財布と言った小物類を満足に足る順番にカバンの中に詰め込んでいく。
「それがさぁ、あのバカが私との約束を忘れて先帰ってたの。酷くない?」
飛んできたのは案の定、不平不満だった。なんとなく、ほっとしている自分がいた。
「あのバカ?」
と返答しつつも、雪音は何となく察していた。
「慧だよ、慧、ほら、サッカー部のあのサッカーバカ」
「あ、ああ。阿久津くんか」
「そ。あのバカ。あたしを置いて帰りやがったの」
「ありゃぁー、たしかに、それはちょっと酷いかも」
真帆を擁護しつつ、雪音は鞄のファスナーを閉めながら苦笑を漏らす。バカバカと連呼する真帆もなかなかに酷いと思うが、真帆の言い分もわかる。友人だからという理由もあるが、一番は同じ女として同情は禁じ得なかったから。ついでに、彼女が居残りしていた理由にも検討がついた。
「それじゃあ、真帆はまだ残っているってこと?」
「うん、呼びつけてやったからね。ま、仕返しとしてこっちから帰ってやるのもありだけど?」
「そ、それはちょっと可哀想かも……」
不敵な笑みを浮べる真帆に、雪音は苦笑する他ない。けれど、よく見てみるとわかることがある。それは、真帆自身は言葉とは裏腹にそこまで怒っていないということだ。
や、表情自体はたしかにむすっとしている。しているけど、なんとなく、雪音は同性としてそう感じた。そしてたぶん、この感覚は間違っていない。根拠はないけれど、気持ちは理解できるから。
そんな真帆を見てると微笑ましい気持ちなる。真帆は誰にでも好かれるタイプだ。感情表現が豊かなのも、きっとそれに一役かっているのかもしれない。
あまり感情を表情に出さない雪音とは根っからタイプが違う。羨ましいわけでもないけれど、自分にはない部分だから意図せず目が向いてしまう。
真帆はそんな雪音からの視線を勘違いしたのか、
「あっ、もう鍵閉めちゃう?」
と、先回りしてそう問いかけてきた。左手に持っていた鍵が見えたのだろう。
「うん、そろそろ。時間も時間だし……」
書類を提出してきた雪音には、生徒会室に残っている理由はない。見ると、西の空だって世界の終わりみたいになってきている。
わずかに言い淀んだのは、施錠をお願いするかどうか悩んだから。日頃から行っている仕事を他人に任せてしまうのには、雪音の中ではわずかながらの抵抗があった。
「まだ居残るつもりなら、施錠お願いしたいんだけど……」
まあでも、真帆が居残るというのなら話は別だろう。そう思い、手に持った鍵にそれとなく視線を落としながら尋ねると、真帆は屈託もない笑顔で頷いた。
「わかった、施錠はあたしがしておくね」
「ありがと。それじゃあ、あとはよろしくね」
遠慮がちに改めてお願いしてから、雪音は律儀にも真帆の座る反対側の席に移動して鍵を手渡した。
これで心気なく帰宅できる。最後にカーテンを閉めることもお願いすれば後顧の憂いはない。
雪音がそんなことを思っていると、真帆が下からじっと見つめてきていることに気づく。その丸く大きな瞳には、疑問の色が浮かんでいた。
「な、なに? もしかして、私の顔に何かついてる?」
言いながら、自分の顔をぺたぺた触るもそれらしき手応えはない。手元には鏡はないので、雪音はその代わりにスマホを取り出そうとスカートのポケットに手を入れる。けれど、その直前にあわあわと両手を振る真帆に止められてしまう。
「あー、ちがうちがうよ、雪音ちゃんの顔には何もついていないから安心して」
「ほ、ほんと? ほんとに何もついてない?」
「ほんとほんと! ごめんね、紛らわしいことしちゃって」
「それなら、まぁ、いいけど……」
雪音は真帆の言葉を信じ、スマホを取り出すのは中断した。けど、それならそれで、今度は先ほどの真帆の視線の真意が気になってくる。
「じゃあ、さっきのは、何?なんで、私のことじっと見てきたりなんか……」
「えーと、それは、なんというか……あたし、雪音ちゃんには前々から聞きたいと思っていたことがあったんだけど……今、聞いても大丈夫?」
彼女らしい突拍子のない話の展開はいつものことなのであまり気にならない。それよりも、それ以上に気になったのは、フラットな性格の彼女にしては物珍しい前置きのほう。
「まあ、べつに構わないけど……」
わずかに不安を覚え、体が勝手に身構える。よく見ると、真帆の瞳はきらきらと輝いている。これは早まったかもしれない。嫌な予感がする。でも、考えてみると、質問される前に断る理由も別段なかった。
「ほんとっ!? 嘘じゃないよね! やっぱりあとで無しとか言わないよねっ!?」
「う、うーん。まぁ、さすがにそれは質問の内容によるけど……」
手を合わせてはしゃぐ真帆の喜びように、雪音はやっぱり後悔した。でも、了承した以上、今さら断るわけにもいかない。
予想もできない質問に怯える雪音に対し、真帆は片手を元気いっぱい持ち上てからさっそく話を切り出した。
「じゃあ、質問っ! 雪音ちゃんってさ、結局、どうなの?」
「どう…とは?」
抽象的な質問。雪音がいまいち要領を得ないのも仕方がない。
困惑する雪音の両手を、真帆が急に掴んできた。途端、雪音の中に猛烈に嫌な予感が過ぎていく。これはまずいと思った時には時すでに遅し。
「雪音ちゃんにはさ、好きな人とかいないのっ?」
「す、好きな…ひと?」
その言葉に人知れず雪音の心臓は大きく跳ねた。その心音の大きさが、雪音の真意を何よりも物語っていた。
「そう! 雪音ちゃんって可愛いのに、あまりそういう噂とか、全然聞かないじゃん?」
「え? そ、そうかな……」
咄嗟に目を逸らし、雪音は今からでも話の展開を変えることが出来ないか模索する。でも、そう簡単に彼女の意識を逸らす話題など見つかるはずない。
それでも、なんとか言い逃れはできないかと、雪音は必死に言葉を探した。
その間にも、真帆のボルテージはどんどん上がっていく。
「あたし、ずっと気になってたの! 雪音ちゃん、そういう話、自分からしないからっ」
「そう、かな?」
事実、雪音はその手の話題は避けてきた。そして、これからも避けていく以上、それを今ここで暴露するわけにもいかない。
一方、誤魔化すような微笑みで小首を傾げる雪音に、真帆は非難するようにジト目を向ける。その瞳からは「さっき言いたこと忘れてないよね?」といった言外の警告がありありと伝わってくる。
雪音はつい先ほどまでの自分を恨んだ。彼女の瞳の奥からは、今度こそ逃さないというただならぬ決意を感じる。
「でさ、どうなの? 好きな人とかいないの?」
「えーと、まあ……」
「もー、煮え切らないなー」
雪音の曖昧な返答に、真帆が不満げな声を漏らす。見ると、顔全体でも不満を表現している。
「雪音ちゃんってさ、クラスの男子たちに対しても分け隔てなくクールっていうか、ドライっていうか、それどころか、それらしい反応だってぴくりとも見せないから、なんかもう……あたし的には好きな人とか気になっている人とか、そういった存在がいないのかなぁっと思ってんだけど……」
確かめるように、真帆がちらちらとこちらを窺っている。雪音の反応を見ているのだろう。でもそれは、雪音にとっても好都合だった。なぜなら、お望み通りの答えを口にしてあげればいいだけなのだから。
「……」
でも、どうしてだろう。
「雪音ちゃん?」
困ったことに、続きの言葉がまるで出てこない。いや、出てこようとしなかった。
言えばいい、言ってしまえばいい。たった一言。誰にでも出来る、簡単なこと。
そんな人はいないと、想いのまま、重い口を動かし言ってしまえばいい。
これまでも、そしてこれからも現れるはずがないって——。
「私、は……」
擦れた声が波紋するように部屋の中へと広がっていく。今や真帆も追求はやめ、雪音の変化に戸惑いを隠せていない。
けれど、それも仕方がないと思う。真帆もここまで雪音が同様す姿を見るのは初めてだったから。いつも冷静で落ち着き払っているのが、真帆の知る皆瀬雪音だったから。
一秒が長く、長く過ぎ行く。ふたりの間には重苦しい沈黙が流れる。
この空気を、真帆はどうにかして打開しようと頭を働かせる。理由はどうあれ、この雰囲気を生み出すきっかけを作ったのは真帆なのだ。
「……あの、その……」
でも、なんて言えば正解なのか、どんな言葉ならば、この微妙な空気を払拭できるのか、真帆には思い浮かばなくて。だからと言って考えることをやめるなんて選択肢は残されてない。
考えた末に、真帆は謝罪しかない!──という結論に達した。
「雪音ちゃん、その、ごめ──」
「悪いっ、いや、別に忘れていたわけじゃ……って、あれ?」
真帆の言葉を遮り、生徒会室の扉が勢いよく開く。扉の向こうから現れたのは、長身の男子生徒。阿久津慧だ。僅かに乱れる呼吸から察するに、ここまで走って来たのだろう。
だが、タイミングが悪かった。いや、場合によっては良かったのかもしれないが、慧がそれを知る由はない。
呼吸を整えながら、慧は雪音と真帆を交互に見渡し、それからふぅーと深く息を吐き出した。
「あっぶねぇー、ギリセーフってところか」
「アウトよっ!!」
「あだっ」
真帆に叩かれた頭から小気味の良い音が響く。一方、慧は叩かれた頭を摩りながら唇を尖らせた。
「別に叩かなくっていいだろ……まぁ、確かに約束を忘れ——いや、忘れかけてた俺が悪かったけどよ、俺もちゃんとここまで走ってきたんだぜ?」
「知らないから、そんなの」
「ぐっ」
真帆のこの全否定には、さすがの慧も言葉を詰まらせる。確かに、元を辿れば約束を違えた慧に責任があるのでぐうの音も出ない。と、思ったら今度は背中をぐいっと押さ出され、
「ほら、わかったんならあんたは一旦外で待ってて」
「うおっ、いきなりなんだよ! 」
開いた扉のから室外に追い出されてしまう。そして、文句を言いながらも、慧も大人しく室外に出て行った。
そのやり取りを、雪音は部外者の立場で眺めていた。
「ごめんね、雪音ちゃん。ほんと、あのバカは……」
ふと視線が合うと、真帆は罰の悪さそうな表情を浮かべた。けど、雪音の目にはくすぐったそうな、ともすれば照れているようにも映った。
すぐ扉の向こう側からは、「おい、バカってなんだ、バカって」と、不服そうな声が上がっているが、それも本気で嫌がっていないのはすぐにわかる。
二人だけのやり取りが、繋がりが、幼い頃から築いてきた信頼関係がそこに垣間見えた気がした。
そんなふたりのを見ていると、胸が苦しくなる。息苦しくなる。そしてなぜか邪魔をしてはいけない気がしてきて、
「ごめん、私、用事思い出したから、先帰ってるね」
「あっ、ちょっ、雪音ちゃん!」
「うおっ、なんだっ!?」
「ごめんっ」
真帆の制止の声を振り切り、雪音は生徒会室から飛び出した。
真帆も慌ててその背中を追いかける。だが、廊下に出ても状況についていけず困惑した幼馴染しかいない。
「……なぁ、あれって、追いかけなくていいのか?」
「……うん、今はやめておいたほうがいいかも……」
真帆の言葉に明確な根拠はない。本能的にそう思っただけ。強いて言うなら女の感といったところ。不思議なことに、これは間違っているとは思えなかった。
そこまで考えてから、真帆は一つ小さなため息を吐いた。わからないことをいつまでも考えるのは、真帆の得意とするところではない。むしろ苦手なほうだ。
だから、今回もはぐらかされたことにしておく。いや、むしろそっちほうが都合がいいような気がした。
落ちどころを見つけたところで、視界の端のほうに、ふと紫色が映ったことに真帆は気がついた。反射的に視線を向けると、どういうつもりか、それは慧の右手に小さく収まっている。
「……なに、それ?」
話題を逸らすのにはうってつけだと思い、真帆は慧に尋ねる。すると慧は、僅かに右手を持ち上げてから、ぽつりと経緯を語りはじめるのだった。
「ああ、これか? ここにくる途中で拾ったんだ」
慧の人差し指と親指に挟まれるように持ち上げられたのは、色鮮やかな紫色の花だった。けれど、花弁は開ききっていない。いわゆる開花前の蕾の状態である。
「うーん、確かこのお花って、アネモネ……だったかな」
目線を蕾に合わせ、覗き込むように観察していた真帆がぼそりと呟いた。
「アネモネ?」
花に興味のかけらもない慧は、聞いたことがない花の名称を反芻しながら改めて視線を向けてみた。けど、やっぱりただの花としか言いようがないことに気がつき、早々に観察を打ち切った。
それからふと顔を上げ、未だに物珍しそうに観察を続けている幼馴染を視界に収める。好奇心に満ちた大きな瞳はきらきらと輝いて、心なしか口元にも緩やかな笑みが浮かんでいた。それは、普段から屈託もない笑みを浮かべることが多い彼女にして珍しい、優しげな微笑みだった。
慧はアネモネと真帆の顔を交互に見合わせたあとで、持っていたアネモネを真帆の胸元に押し付けるように手渡した。
「これ、やるよ」
「え? なに、急に……」
突拍子のない慧の行動に、目を丸くした真帆がおずおずとアネモネを受け取った。それから、小さく収まった花と、どこか気恥ずかしそうにそっぽを向く慧を交互に見据え、小さく吐息を漏らした。
気づいたことがある。
それは、自分の鼓動が早くなり、頬が熱くなっていること。そして、上手く思考が纏まらなくないこと。
けど、不思議と嫌じゃない。むしろ、悪くないとさ思う自分がいる。真帆は今、自分がどんな表情を浮かべているのか気になって仕方がなかった。
真帆は顔を伏せ、赤くなった頬を隠すようにアネモネの花を顔の前に持ってくる。今の表情を、目の前の幼馴染に見られるのは嫌だった。
「なに? もしかしてこれ、反省のつもり?」
だから、つい皮肉めいたことを口にしてしまう。自分でも可愛くないと思うけど、ついつい悪態ついてしまうのだ。
そして、いつものように慧が誤魔化す流れになり、現状のまま、何も変わらない。あとから内心猛省に駆られるところまでがすべなくワンセットだ。
……しかし、今日は少し違っていた。
「わ、悪いかよ……」
違っていたのは、他でもない幼馴染の反応である。気恥ずかしそうに視線を逸らし、表情を強張らせ、薄い唇をふるふる震わせて。
その姿は一見、あり得ない振る舞いを行ってしまった自分への羞恥に耐えかねているように見えて、しかし、その姿が図らずも真帆の心臓を再び高鳴らせるに至った。
「ま、まあ、今回だけは許してあげる……」
気づけば、真帆はそんな言葉を口にしていた。だから、我に返った途端、そんな自分が気恥ずかしくなり、真帆は慧の反応を待たずして、アネモネの花を手に持ったまま生徒会室の戸棚の前にそさくさと足を向けるのだった。
両手で抱え込むように持った花を、元々色とりどりの花束が活けてあった花瓶の中にそっと挿し入れる。赤、青、黄色、ピンク、そして今回のアネモネの紫で五色に増えた。
色彩豊かになった花瓶を満足げに鑑賞していると、後ろに人の気配を感じ、途端、真帆は唇をにっと歪ました。
「でも、前回のぶんは許してないから」
「なっ!」
「帰り、ジュース奢りだかんね」
「はぁ!? ちょ、おま——、それはないって、それは横暴ってもんだ!」
「え? なにぃー? あたしには何も聞こえないんだけどぉ」
もちろん、ちゃんと聞こえている。聞こえているけど、聞こえないフリをしているだけ。
「嘘つけっ! この横暴女っ!」
「へ〜、ふ〜ん、そんなこと言っていいんだぁ? あーあ、おばさんに言って慧のお小遣いでも下げてもらおっかなぁー」
「あ、嘘です真帆さんよく見たら超天使だしめっちゃ可愛いし超優しいし全然横暴とはかけ離れた存在だったわ勘違いしてましたすみませんもう言いませんから告げ口は許してくださいマジ勘弁してくださいっ!」
「うわぁ、清々しいほどまでの手のひら返しだよこの男……ちょっとキモいよ?」
「キモっ!? て、テメェ、こっちが下手に出てりゃ好き勝手言いやがって……、言っとくがな、お前の横暴さのほうが百倍性格悪からな!」
「あーあ、言っちゃった。ついに言っちゃった。これはもう、おばさんに告げ口確定ってことでいいんだよね?」
「って思っていた時期もあったなぁ、いや〜あの頃の俺も青かった。ま、今はその横暴さもお前の魅力だ思ってるぜ☆」
「………………ぷっ、何そのウインク、キモぉ〜」
「て、テメェッッ!!」
物静かな廊下の中を、屈託のない会話が飛び交う。廊下に伸びる二つの影を、窓から差し込む斜陽が優しく照らし出していた。