#—— 9 ——# La Fin
さらさらと優しい風が頬を掠める。肌をかい撫でていくそよ風に促させるように、優太の沈んだ意識は微睡みの中からゆっくりと引き上げられる。
徐々に開けていく世界。かすみがった視界の先で純白のカーテンがゆらゆらと誘うように宙を舞っていた。
——ここは?
薄らぼんやりとした頭に浮かんできた最初の疑問。仄かに香るアルコールの匂い。全身覆うさらさらとした感触。
意識の水面下を漂う優太は、遅れながらに自分の体が横たわっていることを知覚した。
「んっ……」
微睡みからトンネルを抜けるみたいに鮮明なる意識。
そして、自分の右手を包み込む暖かく、柔らかな何か。
それは不思議と心安らぐ気分にさせてくれる。本能的に離したくないとさえ思えてくる。
それが混迷した意識の中だからなのか、はたまた赤子が本能的に母親に抱く欲求的なものなのか、直上的になった頭で優太はそんなことを考えた。
離したくない、ずっと握っていたいーー潜在意識がそう促すように、無意識のうちに優太はその手を握り返していた。
「──っ!?」
水面のように静まりかえった世界の中で、ひとつ、息を潜めた驚き声が聞こえた気がした。
握った手の感触からもそれは伝わってきた。
その正体を探ろう思い、優太は右手の中にある何かをさらに強く握り締めると、今度は怯える子供のようにそれはびくりと小さく震える。
その感触を手に改めて疑問に思う。
今、自分は何を掴んでいるのかーー。
しかし、その正体を確かめる暇もなく、その何かは優太の手の中からするりと抜け出してしまう。
そうこうしている間に、優太の意識も着実に鮮明に、覚醒へと歩みを進めていき、そして、
「……気がついた?」
どこか聞き覚えのある鈴音のような声が、静かな世界にゆっくり溶け込むように広がる。
「……」
瞬きを数回。謎の感触に包まれた右手の先を追うと、自分の右手にそえられた白くて華奢な手があった。
「……」
首を元の位置に戻し、既視感のある天井を見上げる。
そして、一度小さく息を吐き、軽く周囲を見渡した。
身体を測る際に使用する計測器具類が部屋の隅の方にあって、その横には体重を測る体重計があった。
その時になって初めて、「ああ、ここは……」と自分が寝かされていた部屋の名前が思い浮かんだ。
「あっ、まだ、寝てないとだめだから」
ほぼ無意識に体を起き上がらそうとしたら、きっぱり宥められてしまった。
突然のことで動揺している自分を自覚した。
優太は自分が寝かされていたベッドサイドに用意された椅子に座る、ひとりの女子生徒を視界に映した。
途端、間抜けに横になっている自分に対して羞恥心が湧いてくる。
ほんと、我ながら単純すぎるなぁと内心、呆れてしまう。
「……大丈夫、平気だから」
未だに頭痛が伴うのは確か。殴られたのだ。痛みをともって当然。左手で摩った箇所には小さくも確かなコブがあった。
「ほんと? 無理とかしてない? あっ、頭の他に痛いところは?」
幼い頃の面影を残した表情で、彼女は甲斐甲斐しく寄り添ってくれる。
「ないよ、全然。この通り、大丈夫だから」
軽く肩を回し、首を左右に曲げて答える。
小さく笑ったのはせめてもの強がりだった。
「ほんと?」
「ほんとだって、だから、そんな顔すんな」
本音を言えば、今も頭痛めいたものはあるし、欲を言えば、あと少しだけ眠っていかった。
でも、それはできない。できるはずもなかった。
どこの世界に、目下でスカートの裾を握りしめ、今にも泣きそうな表情を浮かべる幼馴染みを前にして、誰がもう無理ですと言るやつがいるだろうか。
そんな態度を取れば、さらなる心配をかけることになる。また、あの日のように、彼女を泣かせてしまう。
彼女の涙を見ることに比べれば、こんな痛みはささいなものだと思えた。心の奥底から、そう、思えた。
「それよっか、俺、さっきまで意識を失っていたんだよな?」
ぷつりと途切れた最後の記憶は昼休みの屋上。
そして今いる保健室。
現状の様子を鑑みた結果、昼休みの最中、自分の身に起きた事の顛末を察することはそう難しくなかった。
「うん……」
「そっか」
雪音が俯き、肯定した。
弱々しい返事だった。つい、つられるようにして見ると、その表情は優太の知る凛とした面差はなく、幼い頃に再三見てきた弱気な面持ちをどこか想起させていた。
そんな顔、見たくなかった。
反射的にそう思った優太は、次に気になった疑問を口にすることで話の軌道修正にかかる。
「ということ倒れた俺をここまで運んでくれたのは……」
「私と、真帆の……彼氏?」
「かれし?」
確認のない疑問めいた雪音の発言に、思わず言葉を反芻する。
少し考えたあと、何となく、ピンとくるものがあった。
「なぁ、もしかしなくても、その真帆って子……」
「うん、私と同じ生徒会の」
「あ〜」
言われて合点がいった。
とある男がナイスガイな笑顔でサムズアップしている姿が思い浮かぶ。
「うん、そいつはまだ彼氏とは少し違うな」
かと思えば、心底残念そうに肩を落とす友人の姿がありありと思い浮び、霧散していった。
「え、まだ?」
「あー……」
微妙な表情を浮かべる優太。
言いずらそうに頬をかき、視線が左右に泳ぐ。
雪音はそれ以上の追求をしてくることはなかった。
優太の分かりやすい反応を前に、これは藪蛇になると察してくれたのだ。
「でも、なんで阿久津が……」
ただの偶然にしておくには、少々出来すぎていると思う。
「その阿久津くんだけど、優太が気を失ったあと、すぐに屋上にやって来て、ここまで運ぶ手助けしてくれたの」
すごく助かったけど、まるで狙いすましたかのようなタイミングだったーーと、雪音が湛えた微苦笑が言外にそう語っていた。
果たしてそれは単なる偶然か。
あるいは、別何かか。
考えるまでもなく、答えるまでもなく。
何を知らない雪音は単なる偶然だと思っているかもしれない。
ただ運が良かったと思うかもしれない。
でも優太は、そんな彼の行動に必然性を感じた。
昼休みにおける優太の行動を、彼は知っていたのだから。
「……まあ、あとでちゃんと礼を言わないとな」
「うん、そうしてあげて。阿久津君、すっごく心配してたから」
「それで、肝心なその阿久津は今どこにいるんだ?」
言いながら室内をぐるっと見渡す。視界の届く範囲にお目当ての姿は見当たらない。
「今は、授業を受けてるはずよ」
「授業?」
「だって、今、五限目の途中だから」
「えっ?」
雪音の視線を追いかけるように壁掛け時計を見ると、確かに秒針は十四時十分を示していた。
五時間目の授業終了時刻は十四時二十分。
つまり、すでに優太が気を失ってから一時間以上が経過していることになる。
「まじか……」
そんな長時間、気を失っていたとは思いもせず、思わぬ現実を目の当たりに優太の思考はぴたりと固った。
固まった優太の脳裏を過ったのは、片眉を釣り上げ腕を組む、あの英語教師の顔だった。
つい最近、授業を耽って雷を落とされたばかりで、ただでさえ面倒なことになっているのに……。何度思い返してみてもあれは嫌な思い出だ。
そうやって、無意識に辟易とした表情を浮かべる優太に前に、雪音は努めて平静に声を掛けた。
「安心して。優太のことは、ちゃんと担任に報告してあるから」
「え? 嘘……まじで? もしかしてそれも阿久津が?」
願ってもいない幼馴染みの言葉に、優太の顔は一瞬にして喜色に染まる。もし、あの親友が伝えてくれたのならジュースの一本くらい奢ってやってもいいとさえ思った。
けれど、そんな優太の考えは、次に口を開いた雪音の言葉が否定される。
「ううん、それは田辺先生が。五時間目の授業が始まる前に直接報告しに行ってくれて」
「さいですか」
頭の中に優しげな笑顔が特徴的な女性保健教諭の姿が思い浮び、もう一方で悔しげに地団駄を踏む友人がいた。
まあ、何はともあれとりあえずこれで一安心。
もう二度と刻々と行われるあの説教は懲り懲りだったのだ。
一番の憂いは晴れた。晴れたけど、すぐに次の疑問が思い浮かんできた。
「それで、その……雪音はこんなところに居て、平気なのか?」
忘れてしまいそうになるが、現在は五時限目の途中なのだ。この学校の生徒である雪音には参加する義務がある。もっといえば成績にも直結してしまう。
「それは大丈夫。一応、担任の先生の許可はちゃんともらってる。だから、大丈夫、平気」
優太のぎこちない配慮の言葉に、すこし顔を伏せて雪音がしどろもどろにそう教えてくれた。
「そっ、そっか……。ならいいけど……」
「う、うん……」
互いに憂いが解消されたせいか、あるいは五年ぶりの時を経て、物静かな室内に二人きりという不慣れで落ち着かない状況がそうさせてくるのか、自然と二人の言動をぎこちないものへと変った。
実際、返事をする優太の声は不自然なほどぎこちなく、相対する雪音もスカートの上に重ねた手が微かに震えている。
一見、第三者からすれば、視線も合わせることもないふたりの蕪雑な様子から、実はふたりが幼馴染だとは想像できないだろう。
どちらかと言えば、今の二人の姿は付き合いたてのカップルのような初々しさが滲み出ている。
このままでは気恥ずかしくて死にそうになった優太は、少し痛む頭を働かせ、他に気になることはないだろうかと無理やり思考を巡らした。
すると、一つだけ、肝心なことを聞き忘れていたことに気がついた。
「なあ……一つ、聞いてもいいか?」
そう前置きをする優太の言葉に、雪音は「うん」と顔をあげた。
「俺が気絶した後、あいつは……あの先輩はどうなったんだ?」
意識が暗転する直前、右手を盛大に腫らせた末吉海が屋上から去っていく姿は今でも記憶に新しい。
保健室を見渡す限り、その先輩の姿は見えない。右手を腫らしていたし、治療くらいはここへお願いに来てもおかしくないと思った。
別に心配をしているわけではない。
どちらかと言えば、ざまぁ見ろと思う。
そんな自分を否定するつもりは毛頭ない。
ないけれど、それはそれとして……あれだけ派手に喧嘩をしたあとだからか、妙に気になってしまうのだ。
あの怪我は見るからにあとに尾を引きそうな感じがして辟易としてしまう。
「あー……、あの人は……」
優太の素直な疑問に、雪音は心底答えずらそうに視線を横に逸らした。意味ありげな言動に、嫌な予感がぞわぞわと背筋を駆け抜けていく。
「もしかして……」
「あ、私たちが怒られるとか、そういうんじゃないよ?」
「えっ? てっきり俺は、あの怪我を負わせたことをチクられて、説教されるとばかり……」
校内で学生が怪我を負った際、最初に訪れるのは保健室が基本だ。一旦そこで怪我の加減を見極められ、かすり傷のような軽度なものであれば治療されるのだが、重度の場合は即刻病院に向かうことを勧められる。
問題は、その際に必要となってくるのが怪我を負った理由。
学校の教師とは、保護者から学生を預かっている身分にある。その教師には、当然のように学生を危険から護る責任がついて回り、その責任を果たさなければ、教育者は、PTA、ひいては保護者か、一同に叩かれ、下手をすれば監督不行届きで責任を問われることになる。
そうなれば、いくら国家公務員である教師とはいえ言い逃れはできない。最悪、懲戒免職を言い渡されるか、自責の重さに耐えきれず、辞任を申し出ることになるかもしれない。
つまり、そうした状況に陥らんためにも、教師には生徒が怪我を負うリスクを徹底的に排除し、厳しい審査を行わなければならない。
優太が危惧していたのは、海が怪我をした要因の一端は自分にあるため、それを逆手にとられ、学校側に言いつけられてしまうか否か。
もし言いつけられたら、言い訳できない立場に否応なく立たされ、面倒なことになるなんて目に見えている。
正直、それだけは避けたいと優太は思っている。つまらない喧嘩で退学とか笑えない。気を失う羽目になったのに、それでは割りに合わない。
第一、喧嘩を吹っかけてきたのは海先輩の方で、どちらかといえば優太は被害者側だ。
喧嘩両成敗と指摘されればそれまでだが、それでは理解はできても納得がいかない。さらにこの件で雪音が巻き込まれるのはもっとありえない。
そう思っていた矢先に、雪音によってその可能性は綺麗さっぱり払拭されてしまい、正直戸惑いを隠せなかった。
当然、その根拠となる理由も気になるはするが……。
そこまで考えていると、視界の端で、雪音がスカートのポケットからおもむろにスマホを取り出す。
と思ったら、画面上に慣れた手つきで指を踊らせると、「これを聞いて」と下部のスピーカーを優太に向けてきた。
何事かと耳を傾けると、最初はノイズ混じりでよく聞き取り辛く、何を言っているのかわからなかった。
視線だけで「これは何?」と雪音に問うと、彼女は「いいから」と言わんばかりに頷いてきたので訝しげに思いつつも言われた通りしていると、再生されるに連れてどこか聞き覚えのある低い男の声が聞こえてきた。
それは次第に明確になり、つらつらと嘲笑う言葉たちがスピーカーから解き放たれ始め、静かな保健室の中に木霊する。
そして、その煩わしい声が聞こえなくなるまで、時間にして約三分ほどかかった。
「……雪音が落ち着ている理由はこれか」
今しがた聞かせされた録音だけで、雪音の意図することを理解するには十分だった。たしかにこれがあれば先ほどの優太の憂いを、雪音は意図もたやすく一蹴することができる。
が、肝心なのは、この先だ。
「これ、どうする?」
はからずも、これは今後のふたりの行く末を、今回の事の顛末を左右する貴重な音声データだ。それだけに、扱いも慎重になってくる。
「うーん」
雪音の質問に、優太はどうするべきが正解か頭を捻った。
できればこれは提出せずに穏便に事を済ませたいと思う。いやもちろん、報復してやりたいって気持ちもある。あるにはあるけど、大事にされるのもめんどくさいと思ってしまう自分もいる。
ならば、雪音はどう思っているか。
付き合うことを強制された雪音のほうが、自分よりも精神的な苦痛を味わっていると思う。そしてそう思うと憤然とした怒りが腹の底から湧き上がってくるし、もし彼女が許せいないと主張するならば相応の覚悟も辞して事に当たる必要が出てくるだろう。
でも、それはあくまでも優太の主観でしかない。すべては言葉にして、尋ねてみなければ、わからない。
そう思い、気になった質問しようと顔をあげた優太を、遮るように雪音のほうが先に声をあげた。
「ごめん、質問変える。優太はこれ、どうしたい?」
「俺は……か……」
「うん。実際、私よりも酷い目に遭ったのは、優太の方だし、この音声の処遇は優太が決めてほしい」
「……まぁ、それならいいけど、お前はそれで納得できるのか?」
「……どうだろう。場合によっては納得できるかどうかはわからないけど……」
そこで言葉を区切り、雪音は真っ直ぐ優太の目を見て言った。
「優太が決めたんだったらそれに納得するよ、私は」
愚直なまでに真っ直ぐな答え。
今度は優太のほうが答えを窮した。
別に、雪音の言葉に不服や反感を抱いたわけじゃない。真逆だ。ただ純粋に、単純に、無関係なまでに、五年間の時を経てさらに綺麗になった彼女の真剣な顔に見惚れてしまったのだ。
彼女の覚悟を前に不謹慎だろうか。でも、そう思ってしまうほどに、優太の幼なじみは魅力的に成長ていた。
「優太?」
いつまでも黙りを決め込む優太を、雪音は不思議そうな目で見てくる。それだけで、自然と頬が熱を帯ていき、心臓なんて痛いくらいに跳ね上がってしまうからいかんもしがたい。
五年ぶりに言葉を交わしただけで、優太の心はどうしようもないほど舞い上がってしまっている。
だから、
「俺、やっぱ好きなんだ……」
思わず口からこぼれた言葉は、完全にら無意識だった。
「えっ?」
「あっ」
そして、今し方自分が何を口走ったのか理解したときにはすべてが手遅れだった。
「あっ、いやっ、これはっ、その……」
五年間気づかないようにしていた感情。
ずっと心の奥底にしまい込み、上手に付き合ってきた想いの丈。
もう叶わぬものだと思い込み、ひとり、勝手に諦めていた願望。
それでも一度抱いた想いは、そう簡単に抑え込んでいられるほど優等生じゃないから。
無意識でも、はらりこぼした言葉だとしても、自覚してしまったその感情は、もう、止めどなく溢れてきて。
それに、一度言葉にしてしまった以上、今さらごまかす気にもなれなかった。
偽って、繕って、目を逸らして……そうやって逃げるのは、もう懲り懲りだ。
「……」
優太はベッドの上で居住まいを正す。
ひとつ唾を飲み込んだあと、さっと目を伏せた。
自分の気持ちをもう一度確かめるように。
再認識したのは雪音へと抱く、変わらない想い。
それは、甘く、でもどこかほろ苦い、ビターみたいな味わい。
これが恋の味だと口に出せば、誰もが声を大にして笑うだろう。阿久津あたに言ったときには優太も笑ってしまう自信がある。
だけど、それが本心だから。偽らざる本当の気持ちだから。
だから、もうこれは仕方がない。
笑いたければ、いくらでも笑ってくれて構わない。
みんなの笑顔に貢献できて何よりだ。
「……」
瞑目し、呼吸を整える。
ありったけの思いを言葉に——その全部を言葉に乗せて、優太は以前として硬直して動かない雪音の大きな瞳を見つめ、そっと口を開いた。
「好きだ、雪音。俺は、お前のことがずっと好きだった」
「……っ」
真っ直ぐこちらを見詰め、放たれた言葉。
そのすべてに一切の嘘偽りがないのは、ちゃんと雪音にも伝わってきた。
だから、今、心臓は、こんなにも、こわいくらいに、早く、熱く、律動している。
たった一つの呼吸すらままならないほどの熱が全身を駆け巡っていく。
雪音の表情の変化に、優太もすぐに気がついていた。
最初は何を言われたのかわからないといったような呆けた表情から今は、耳の先まで真っ赤にした表情になっている。
万華鏡のようにころころと入れ替わる表情が、自分の嘘偽りない思いの丈が無事に彼女に伝わったのだと、そう教えてくれた。
ずっと大事にしまい込んでいた想い。
誰かさんのように伝わっていなかったという悲惨な事態だけは避けたかった。
ふたりの間に静寂だけが流れる。
その間に、優太は彼女の表情に微かな陰りが差し始めていくのを見逃さなかった。
先ほどの凛とした表情が、強い彼女の現れだとしたら、今の仄暗い表情はその真逆の部分を表しているのだと思う。
「嬉しい……けど、その告白に答える『資格』は、私にはない……」
開いた口から吐き出された言葉は自嘲色に染まっていた。
「『資格』?」
思いもしなかった言葉。
優太はその言葉の意味がまるでわからなかった。
「うん、五年前のあの日、優太の前から立ち去ったあのときから……私には優太の隣にいる『資格』がないの。今回の件だってそう。私があのとき逃げ出していなかったら、たぶん、優太が傷つくこともなかった……」
「だから、俺の告白は受け入れられないと?」
優太の言葉に、雪音は小さく頷いた。
言葉は発さずにまるで何かに耐えるように。
俯いて表情までは見えなけれど、今の雪音は、優太には泣いているように見えた。
当然、優太には人の心を読むことはできない。
今、彼女がどんな想いを抱き、どんな気持ちで優太の告白に答えを出したのかも……。
けれど、優太の中にはひとつだけはっきりした答えもあって。
「じゃあ、何も問題はないな」
「え?」
思ってもみなかった優太の切り返しに、今度は雪音のほうが素っ頓狂な声を上げる。
そんな雪音を優しく見つめ、優太は然もありなんと口を開く。
「だってそうだろ? その『資格』ってやつは、俺が傷ついたかけたからとか、あのとき俺の前から逃げ出したからとか……要するに俺が迷惑をこむったから、それを悔やんでお前が勝手にそう言い出していることだろ?」
「——っ」
優太の言葉が、一本の矢のように雪音の胸に真っ直ぐに、ずんと突き刺さった気がした。
ずっと悔やんでいた。
悩んでいた。
もがいていた。
心残りになっていた。
どうしてあのとき、あの場から、立ち向かおうとせず、向き合おうとせず、言葉すら、交わそうとせずに……逃げ出してしまったんだろうと。
あのとき、もう少し自分に勇気があったのなら、彼と向き合う覚悟があったのなら……そう、これまで数え切れないほど後悔してきた。
だから、いつの日か、あの日のように、再び笑い合える日がくるなんて幻想は抱かなくなっていた。その資格すら、この手の中には無いと思っていた。
なのに。
それなのに。
現実は雪音の意思とは反対の方向に進んでいくばかり。
同じ高校に通うことを知った日には本当に驚いた。
同じクラスにならないものかとヒヤヒヤもしたし、校内で偶然出会さないか細心の注意を払い続けてきた。
今思えば、それも一重に、雪音が抱く優太への後ろめたさに原因があったから。
だからあの日、彼女に、桜美彩花に『資格はない』と指摘されたとき、驚きはしたけれど、それ以上に深く、深く、胸に突き刺さってきたのだと思う。
なんだらったら今もその感情はこの胸に刺さっている。
優太からの告白さえも気づいた時には拒否してしまっていたのがその証拠だった。
これで全部終わったと思った。
開き直って、大丈夫だよって、隠し通せると思った……。
それなのに、どうしてだろう。
蓋を開ければ、結局、隠し通していたもの全部、それはもう見事に看破されてしまっている。
そして、看破されてしまった以上、もう隠し通せる自信は雪音の中には残っていなかった。
「つまり、俺が許せば、何も問題はなしっ!」
そんな丸裸になった冷えきった心に、そう断言する優太の言葉がゆっくりと暖かく染み込んでくる。渇いた心に優しい温めり染み渡っていく。
「だったら、なおさら答えは決まってる。俺は、最初からお前のことを——」
その先の言葉を、優太は口にすることはできなかった。
言葉にする前に、雪音の細い人差し指が唇に押し当てられたから。
まるで、それ以上言葉にするな——と言わんばかりに。
表情は、長い前髪に隠れてはっきりと見えなかった
。でも、何かを堪えるように結ばれた唇が、言葉以上の気持ちを語っていたから必要なかった。
このまま押し黙ることもできた。
彼女の意を汲んで、口を閉ざし、はっきりと言葉にしないことも……恐らくできた。
現に雪音はそれを望んでいるし、きっと、明確にされたら彼女は困ってしまうだろう。
そんな雪音の心情は、優太も理解していた。意を汲んでいた。
でも、だからこそあえて口にするべきだと思った。
「お、俺はな、最初からお前のことを許して——」
唇に押し当てられた人差し指から逃れ、もう一度、自分の声と言葉ではっきりと口にしようと試みる。もう言い訳も誤魔化しもどうしようもない羞恥心すら取っ払っている。裸の心で向き合う。
そして、そんな二度目の挑戦は、突如近づいてきた桜色の唇によって失敗に終わってしまったのだった。
「……」
蛍光灯の光が遮られ、視界に陰が落とされる。
唇に触れる、ふにっとした柔らかな感触。
熱い吐息に鼓膜を撫でられ、接近した肌からは僅かに上気した体温を感じた。
匂いは不思議としなかった。
「……」
それは、時間にすれば一秒に満たない僅かな出来事。
唇に何かが当たったかと思えば、気のせいだと思える程度には一瞬の出来事。
けれど、再び蛍光灯の光が、彼女の赤く染まった顔を照らしたときには、気のせいでは済ませられないほどの実感を伴って、すべてが現実へと引き戻してくる。
そして、思考も徐々に回り始め、幻かと思われる一秒は、猛烈な羞恥と驚きに変換され、優太目掛けて容赦なく襲い掛かってきたのだった。
「……は? え? へぇぇええぇぇ!?!?」
情けなくも絶叫にもならないどうやって出したんだと言いたくなるような声を上げながら、優太は、シーツを引きずるようにして後ろの壁まで後退した。
膝にかかっていた掛け布団を胸の辺りまで掴み上げ、その姿はなんとも言えない乙女チックな雰囲気を醸し出しているのは無意識だった。
「……」
「……」
キスをした彼女とキスをされた彼。
両者の間には、過去に類をみないほど重たく、笑っちゃうほど気恥ずかしい沈黙が流れた。
そんな沈黙を破るように校舎を震わせたチャイムはいつもより大きく聞こえるも、左胸を打つ鼓動のほうが、手を伸ばせば届く距離にいる相手には聞こえてしまいそうなくらい、高鳴って気が気じゃない。
顔を伏せた雪音が、桃色に頬を染めてこちらに視線を向けてくる。
前髪の隙間から覗く瞳はゆらゆら揺れ、よく見ると、髪の隙間から覗く白い耳は真っ赤に染まっていた。
——さっきのあれはなんだったのか?
真っ白な頭の中で何度も何度も反芻されるは先ほどのキスの意味。
何度考えてみてもその意味は優太にはわからない。
わからないけど、答えなんて、涙に濡れる彼女の瞳を見ればそれだけで充分だった。
そんな些細なことに今さらながらに優太は気づき、自分の体から力が抜けていくのがはっきりわかった。
結局、優太が一番知りたかったのは、雪音の気持ち。
理由なんて、言葉なんて、後付けだって構わない。
ただ、知りたかった。
想いが伝わったのだと、認めてほしかった。
今は、ふたりの想いが繋がっているのだと、心から実感したかった。
たったそれだけ。
その全部を、雪音の瞳が教えてくれていた。
思い返せば、すれ違いばかりの道の上をお互いに歩き続けてきた。
時には迷い、壁に遮られ、進行方向すらわからなくなって。
それなのに、想う思いは募り行くばかり。
気持ちだけが突っ走り、現実と理想を行き来して、その度に落胆させられて、そのくせ想う思いには歯止めは掛からずに、今日までずっと、ずっと、突っ走ってきた。
そうして辿り着いた、確かな現実がここにはあって。
そこには一番いてほしかった人が待ってくれていた。
だから、今、優太は笑っていられる。
雪音と一緒に、大切な幼馴染とともに。
今日という日は、すれ違いばかりの日々の中でやっと見つけたふたり交点。
一度は離れ、もう二度と重なることはないと思った日もあった。
それでも諦めなかった想いが、一度は離れてしまった彼女との距離をもう一度引き合わせてくれた。
風が吹く。ふたりを祝福する暖かな風。
窓際に置かれた花瓶の中で、見事に咲き誇った一輪のアネモネが、重なりあったふたりの間で、優しく揺れていた。
あざした!




