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【22万PV突破!】Anemone ~ 君とまたいつの日か。  作者: NexT
#── Capture5. Restart! ──#
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#—— 8 ——# 

優太と雪音。

二人の物語もそろそろ佳境へ差し掛かってきました。

少し早いですが、今日までこの【Anemone ~ 君とまたいつの日か。 】を読んでくださった読者の皆様には最大で盛大な感謝を!


拙い文章に分かりずらい言い回しで、みなさんを困らせてしまったときもあったと思います。反省です。


けれど、そんな私に出来るせめてもの恩返しもあると思います。

すなわちそれは、これからも文章を書き綴っていくこと。そして、書き綴った文章で皆様の心を響かせるような、それでいてある種の刺激を残せるような物語を提供することだと思っています。


ゴホン……少し長くなりましたが、私のどうでもいい前置きはこの辺で笑


残り僅かですが、優太と雪音、悩める二人の物語に、もう少しだけお付き合いてしもらえたら幸いです。



 


 遠くのほうから聞こえてくる吹奏楽部の調べ。各々好きな場所から好き勝手に音を鳴らし、ちぐはぐな雑音と成り下がっているそれを、雪音はどこか意識の外で聞いていた。


 ——俺と付き合え


 目の前に立つ男子生徒から綽々(しゃくしゃく)とそう言われた。その言葉に、今、雪音の心はひどく()き乱れている。

 それも当然だ。迫られた選択は、実質ひとつなのだから。


「……私…はっ……」


 六・一インチの小さな画面の中で今もなお苦悶に身を(ゆだ)ね、地面に這いつくばる彼の姿に雪音の心臓は痛いくらいに締め付けられる。胸の前で握る両手は無意識に震え、喉から水分は失われていく。


 考える余地は最初から与えられていないことはわかっている。いや、判らされたと表現したほうが正確で。どう言い繕っても、今、海が行っている行為は脅し以外の何物でもなくて。

 それでも最終的な判断を雪音自身に(ゆだ)ねてきているあたりが、巧妙で卑屈で狡猾(こうかつ)なところだとほぞを噛む。


「私は……」


 意気揚々とこちらを見定める瞳が気に入らない。にやついた表情が、なんでも手に入ると思いあがる傲慢(ごうまん)さな心が気に入らない。自分の都合だけ優先し、人の気持ちを平気で踏みにじるような手段しか選択できない曲がった小根はもっと気に入らない。


 でも、例えそうだとしても、今からそのすべてを雪音は受け止めないといけないのだ。

 正直、反吐が出るほど嫌だ。想像しただけでも億劫になる。

 逃げ出させるものなら逃げ出したい。でも、それと同時にこれは、自分に与えられた罰なのだろうとも思う。

 雪音が想う幼馴染の彼とすべてに()いて対照的な男の彼女になることは、きっとあのときから決まっていたのなら……、逃げ出した雪音にはお似合いの結末なんだろと思う。


「しょうがない……よね……」


 だからしょうがない。最初から決まっていたのなら仕方がない。雪音はそう自分に言い聞かせる。これは自分が()いた種であり、蒔いた張本人が逃げるわけにはいかないのだと。そして何より、雪音自身がこれ以上彼に迷惑をかけたくなかった。傷付く姿なんて、もっと見たくはない。


 だから、握った拳に力を込める。覚悟を決めるときがきた。


 きっとこの告白を受けてしまえば、口にしまえば、彼とは、幼馴染みの彼とは、二度と元の関係に戻れないかもしれない。

 照れたようなあの笑顔も、不器用ながらに見せるあの優しさも、取り柄もセンスもないつまらないギャグだって、もう二度と……。


「……」


 わかっている。そう、わかっているつもりだったのに……。


「なん、で……かな……?」


 そう、覚悟は決まっていたはずなのに……。

 雪音の意思とは関係なく、それは頬を伝う一筋の道となり、灰色のコンクリートを淡く湿らせる。

 いくら制服の袖口で拭っても、とめどなく溢れてくるその涙は、今の雪音の心情を如実に語っていた。


「なるほどな、そいつが答えででいいってことでいいんだな?」

「——ちが、う! こ、これは!」


 これは答えではない——そう続けたかったはずなのに、言葉が喉に詰まったみたく思った言葉は素直に出てきてくれなかった。


「これは、何?」


 海が投げてかけてきた言葉には明確な苛立ちが込められていた。しかし、それも仕方がないと思う。

 今の雪音の心情は、言葉以上に雪音の態度が如実に物語っているのは確かであり、いくら言葉で否定しようが見え透いているぶん言われた本人は面白くないに決まっている。

 だから、たぶん、これがラストチャンスになる。これ以上、言葉を詰まらせれば、その苛立ちは別の誰かに向けられるかもしれない。


 そんな恐怖心が、雪音の最後の躊躇いを押し払った。

 目元に溜まった涙を袖口で拭い去り、今できる最高の笑顔を浮かべ、雪音はそっと口を開く。

 ──幼馴染みの彼と培ってきたこれまでの思い出から目を逸らして。


「わかりました。私は、あなたと付き合い──」


『ます』……そう言葉にするはずだったのに、そのはずだったのに、次の瞬間、雪音の言葉は視界の隅で勢いよく開かれた戸の開閉音に掻き消されたのだった。


「——っ!? どう……してっ……!!」


 もう、涙は見せないはずだったのに。

 望んでいなかった。

 望んではいけなかった。

 最初に逃げてしまった自分は、向き合う資格もないそんな自分は、望んでいいはずがなかった。

 そのはずなのに……。



「——っ!」


 それなのに、彼は現れた。現れてしまった。

 皆瀬雪音の幼馴染——片瀬優太が今この場に。


「もう、終わりにしないか、雪音」


 あの頃と変わらない笑顔を浮かべながら。

 少し低くなった声で自分の名前を呼びながら。


「うっ、うっ〜、なんで…… どうしてっ……」


 どうして彼は、あの頃と変わらない笑顔を浮かべていられるのだろうか。

 そんな笑顔を向けられる資格などあるはずがないと思っていたのに……。


 望んではいなかった。

 望んではいけなかった。

 望んでいいはずがなかった。


「ごめんな、そんな顔させちまって」

「——っ!? ゔゔっ~~!!」


 涙なんて、もう……とうの昔に枯れていると思っていた。

 本当の笑顔の浮かべ方なんて、忘れてしまったと思っていた。

 この胸に湧き上がる胸の高鳴りは、とうの昔に捨て去ってしまったと、そう思っていたはずなのに……。

 それなのに──


「ば、ばきゃあ優太ぁ〜っ!!」


 幼馴染みの顔を見ただけで、その声が自分の名前を呼んでくれた、自分を見てくれた、たったそれだけで、今まで押さえ込んでいた感情の栓は、思い出の蓋は意図もたやすく取り払われてしまった。


「おいおい、喧嘩もできねえような弱虫が今さらなんのようだ?」


 優太は、目も前で涙する幼馴染の頭にそっと手を置いて、背中に庇うようにして前へと出た。

 目も前に見据えるのは、優太よりも体格のいいひとつ年上の先輩。名前は末吉海とでもいっただろうか。慧から教えてもらったことは大して覚えていないけれど、過去に完全敗北を(きっ)した相手だということは今も体が覚えているようだ。


 そんな彼は今、突然現れた優太に苛立ちを込めた瞳を向けていた。

 実際、海は自分の中で湧き上がる怒りに身も心も震えていた。

 これまでの海の人生における告白とは、重要なイベントであり、そんなイベントを半ば強引に邪魔をされるのは、自分の物語に土足で踏み入られるようなものだ。

 ましてや、一度負かした相手に歯向かわれるという行為自体、海が最も嫌う愚行。ただでさえ、自分が狙っていた相手を手に入れるチャンスだったのに、せっかく密に企てた計画だったのに、今この瞬間をもって、その全部を瓦解させられたのだからなおのこと気にならない。


 だから──


「俺の邪魔をしたその意味、わかってんだろうな?」


 地獄の底から唸る声が彼の怒りを如実に表している。

 そして、その言葉の変化にいち早く気づいたのは、先ほどスマホの映像を見たばかりの雪音のほうだった。


「ごめん」


 気づいたときには背中で庇っていたはずの雪音がそんな言葉と共に優太の前に出ていく。一瞬だけ覗けた彼女の横顔にはこれまでに見たことがないほどの決意で染められいた。


「ごめん、優太。私のためにここまで来てくれたこと、本当に嬉しかった。でもね、悪いけど、今はここを立ち去って」


 背中越しに投げかけられ言葉には、雪音の明確な意思が内包されていた。

 これには当然優太は戸惑った。

 雪音を守りたいがために優太はここまでやってきた。けれど、守りにきた本人から拒絶されてしまっては戸惑わないわけがない。何より、今の彼女は明確に強がっている。


「は? ちょっ、え? なんで──」


 雪音の思わぬ返答に戸惑う優太をよそに、海は腹を(ねじ)ったような笑い声をあげた。


「ぷっはははは、こりゃあ傑作だ! ちょーおもしれえじゃん! 主人公気取りではやってきたのはいいものの、そのヒロインから戦力外通告されてやんの!」


 しかし、そんな海の嘲笑など、今の優太にはどうでもいい。つまらない嘲笑などは視界の端で好きなだけ言わせておけばいい。

 今の優太に重要なのは、雪音の抱く真意だけ。だから、それを今からもう一度確かめるために、優太は雪音の前に強引に割って入った。


「悪いけど、それはできない」

「ちょっ、優太!」


 立ち代り前に出てきた優太に、すぐさま雪音の苦情の声が上がる。

 それでも、優太は一切その場を退く気はないと彼女の言葉を受け流す。

 その背に守られた雪音は反射的に歯を食いしばる。

 雪音の本懐は、逃げてほしかったのだ。自分の目の前で、大切な人が傷つく姿など見たい人はいないはずだ。


 だから、そんな思いを抱く雪音は、再度強引に優太の前に出ようとするのは必然で。

 雪音は諦めずに優太の前に出ようとした。簡単に押し退けると思っていた。そのあとは油断などせず、優太をこの場から追い返せば万事解決。

 そうなるはずだった。そうなるはずだったのに、当の優太は、最後まで雪音の思い通りに動いてくれなかった。


「いい加減にしてっ!」


 堪らずあげた雪音の怒声が頭上に広がる高い高い青空を突き抜けていく。


「嫌だ」

「なんで──!」

「嫌だ、絶対退かない」

「なんで……なんでっ! また痛い目に遭いたいの!?」


 雪音から噛み締められるように吐き出された言葉に、ふと優太は疑問に思う。

 彼女の言う痛い目に遭うとは、果たしてなにか——と。

 少し思い返してみると、答えは案外すぐに見つかった。幸い、そう易々と痛い目には遭わないから。

 そして、最近体験した痛い目には煩わしいほど心当たりがある。

 それは先週の金曜日。場所はこの屋上。あの日、この場所で、海から一方的な暴行を受けたあのとき。


 でも、優太はすぐに新たな違和感に気がつく。

 優太の記憶では、あの日の屋上にいたのは海と優太のふたりだけだった。そのはずなのに、先ほどの雪音の口ぶりは、まるであのときの情況を知っているかのようだったのだ。


「……まさか」


 そこまで考えて、優太の脳裏には否定したくなるような可能性が浮かび上がってきた。それを確かなものにするために、恐る恐る振り返る優太の瞳に映ったのは、俯き小さな拳を握りめた幼馴染の姿だった。


「そう、見たの、私……。優太が、あいつに暴力を受けていたところ……」


 細くしなやかな指先で袖口を引っ張りながら、湿らせた声を雪音が発す。見ると、彼女の華奢な肩とその声は細々と震えていてどこまでも弱々しく見えた。そこに、優太の知っている勝気な彼女はどこにもいなかった。


「だから、お願い、そこを退いてよ……」


 それは一種の祈りのようで。


「私のせいで、あなたが傷つくのはもう嫌だよぉ……」


 優太が傷付くのを許容できないという、明確な雪音自身の尊い願いでもあった。


「ごめん。なおさら引くわけにはいかなくなった」


 けれど、そんな雪音の願いは、他ならぬ優太によって完全拒否された。


「え……?」


 一瞬、雪音は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかったのだ。理解すれば、優太が傷付いてしまうことは確定してしまう。確定してしまえば、もう二度と雪音は、この幼馴染と真正面から向き合えなくなってしまう。せっかく、またこうやって向き合い、触れ合い、語り合うことができたのに……。


 ここまで来てしまえば、もう手段は選んでいられない。他ならぬ、大好きな幼馴染みを守るために——。

 雪音がそう決意したとき、ふと頭に何が乗せられた。


「あっ……」


 それは、とても懐かしい感覚。小さい頃の思い出と一緒に、それが優太の暖かな手のひらの感触だということに雪音は気づいた。そして、それとほぼ同時に雪音の鼓膜を優しげな声が震わせた。


「俺はさ、雪音。お前のせいで傷ついたとか、不幸な目にあったとか、過去にこれっぽちも思ったことはないし、それはあのときだって、そして今だって変わらない。常に俺は、俺のために行動してるし、今お前の前に立っているのも俺の意思で、ただのわがままなんだよ。それにさ、人を勝手に悲劇のヒロイン扱いしてんじゃねえぞ、雪音。俺もお前も、悲劇のヒロイン名乗るには、荷が重すぎと思うぜ?」


 そこで優太は言葉を区切ると、制服の袖を掴んだ雪音の指先を優しく離させた。

 一方雪音は、それ以上の言葉を発しなかった。いや、恐らく言ったところで、懇願したところで、すでに手遅れなのだと本能的にわかったのかもしれない。

 そして、今さらながらに思い出した。

 自分の幼馴染みがどれだけ厄介で、面倒で、そして誰よりも強い意志を持った人間だったのかということを。


「……うん、そうだね」


 そう言って、俯き黙ってしまった雪音を目下に、優太は先ほどまで見せていた優しげな表情を引っ込ませる。

  覚悟は決まった。もう、半端なことは出来ない。

 優太は不敵な笑みを浮かべて海を見た。その瞳には、これまで抱いてた迷いの色など微塵も感じさせない気迫に満ち溢れていた。


「待ってろ、雪音。こんな三流メロドラマに出てきそうなエキストラ野郎なんて、今から俺がぶっ倒して、今までの不幸をまるっと喜劇に変えてやるから!」

「はっ! 言いてぇことはそれだけか、チキン野郎! いいぜ、その減らず口、俺が今から閉じさせてやる!」


 その言葉が合図となった。互いに息を合わせたようなタイミングで、優太と海は同時に走り出す。

 けれど、普段から部活動で鍛え上げている海の脚力と、帰宅部で持て余している優太の脚力とでは瞬発力からして段違い。

 恐ろしい速度で迫る海は、優太の振り上げた拳を簡単にいなし、右手を振るった。


「ぐうっ——!」

「優太っ!」


 優太の右の頬に痛烈な痛みが走り抜けると同時に、背後から雪音の悲痛の声があがった。遅れて口内には鉄の味が広がっていく。


「はっ、大口叩いといて所詮その程度かよ!」


 意識の外から喜色に染った笑い声が優太に向かって降り掛かる。そんな口うるさい言葉に、優太は言い返すことができなくて。反論するその前に、次々と繰り出される海の蹴りや拳が、それを許容してくれなかったのだ。


「優太っ!」


 優太にも最初からわかっていた。海と事をなし、勝利できる確率が低いことなんてことくらい。

 でもそれは、海と優太の体格や日常生活における体の使用頻度を比べれば誰だってわかることでもあって。

 今の優太の姿を見れば、十人が十人バカなことをしていると(わらだろう。彼我(ひが)の実力の差もわからない愚か者だと(けな)されるかもしれない。

 今、目も前で(わら)っている海のように——。


「くそっ!  それがどうした!」


 けれど、それら全部を全方向から向けられようが、優太には立ち向かっていくだけの理由が今ここにはある。

 どれだけ負ける可能性が高くても、バカだって嗤われても、愚か者だと(けな)さたとしても、それ以上の意味がここにはあるから。

 優太は何度だって立ち上がれるし、前を向いていられる。幼馴染みの笑顔を取り戻すためなら、優太は笑っていられる。


「これで、終わりだっ!」


 そして、もう何発も蹴りや拳を叩きつけられたのかわからなくなったころ、何度倒しても起き上がってくる優太を見兼ねた海はトドメの一撃を放った。

 今日一番のスピードと体重が乗った拳は、風を切り裂き、優太目掛けて襲いかかる。


「——っ!」


 避けられない、一瞬でそう察した優太。

 もうダメか……と、遠くなり始めた意識の中で諦めかけた——まさにその時。

 意識の端で自分の名前を呼ぶ声と、目尻に大粒の涙を溜めた幼馴染みの姿を、優太は視界の隅に捉えた。


 ——やっぱり、あいつに涙は似合わないや。


 片瀬優太が知っている皆瀬雪音には涙が似合わない。

 常に彼女には笑っていてほしいと思う……心から。


 だから、これ以上、やられるわけにはいかない。

 そんな単純なことに今さらながらに気がついた。そしてそれに気づいたとき、優太は向かってくる海の拳に向かい思いっきり頭突きをくらわしてやった。

 当然、ただの頭突きじゃない。どっしりと腰を据え、顎を引き、頭部を固定した本気の頭突きだ。思っきり歯を食いしばり、振り被らずに振り抜く魂の一撃。


 次の瞬間——がつん! と鈍い衝撃音が屋上中に響き渡った。

 遅れて、海の声にはならない苦悶の声と、脳全体を揺らす衝撃が頭部全部を駆け抜けていく。額からは、何が肌を滴っていく感覚。


 痛い。

 当然、痛い。激痛だ。


 刹那、優太を頭部を襲ったのは、これまで感じたことないほどの苦痛。思わず顔をしかめ、地面に這いつくばり喚き散らしたくなるほどの鈍痛。

 けれど、優太はなんとかその痛みを堪え、その場で踏みとどまる。見れば、その顔には清々しいほど勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。


 一方、歪む優太の視線の先で(うずくま)っていたのは、優太の頭以上に嫌な音を響かせた右手を抱え込むようにして冷や汗を浮かべる海の姿だった。


「はは、だっせ」


 以前クラクラする頭で、せめても強がりを言うと、打てば響くが如く海はすぐさま反応してきた。


「あ、ああん!? て、テメェ! くそっ、雑魚が調子に乗るなよ!」


 その言葉には先ほどまでの気勢はなく、虚勢を張っていることは誰に目にも明白だ。今にも襲いかかってきてもおかしくないほどの怒りが瞳には宿っている。


「先輩、俺に喧嘩売るより先にその紫色に腫れ上がった右手のほうを心配した方がいいと思うんですけど?」


 だから、すごく痛そうな右手の状況をリアルタイムで教えてやると、海の顔がみるみる青くなっていった。

 その後は優太の予想通りだった。

 自分の右手の異変に、海は悔しさのあまりすぐに気づけなかったのだろう。誤って手にしてしまった爆弾を覗き込むように恐る恐る自分の拳を見た、次の瞬間──海の悲鳴が青空を突き抜けるように轟いた。


「——!? ああ””ぁああ”っ!!」

「あーあ、それ、絶対折れちゃてますね、確実に。早く病院行かないとまずいことになるかもしれないっすよ。最悪の場合、切除とか、あるかもしれないっすよ」

「——っ!?」

「ほら、そうこうしている間にも、手の血行、どんどん悪くなってんじゃないですか? そんな手じゃ、大好きなサッカーも今のようにはいかないでしょうね?」


 その優太の言葉が最後の決め手となり、海は顔面を屈辱と苦悶の色で塗り潰し、罵詈雑言を並べながら、脱兎の如く屋上から去って行く。

 そして、勢いよく屋上のドアが閉まると同時に、「優太っ!」と湿った声が後方から聞こえてきた。

 けれど、振り返るよりも先に優太の意識のほうが暗闇の中に沈下(ちんか)するほうが早かった。



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