#—— 7 ——#
規則正しく連なる階段を上っていくと、昼休み特有の喧騒は徐々に遠くなっていく。それはまるで、世界から切り離されたような感覚のようであり、恐らく緊張しているからなのだろう。あるいは、これから起こりうる時局に対する恐怖心を抱いているから。いや、今の優太の心情を正確に言い表すのであれば、わかっていても、そのどちらでも構わないのかもしれない。
たとえ、そのどちらだとしても、優太が目指す場所に変更はないし、今さら立ち止まるわけにもいかないから。今、一段一段踏み締める足を動かしているのは紛れもなく優太自身であり、そして、その歩みに慄いているのも、緊張に身を震わしているのも、他でもない優太自身なのだから。
思えば、ずいぶんと遠回りをしてしまった。
五年前の自分は弱くて、脆くて、独りよがりで彼女の気持ちもろくに考えもせず、きっと彼女なら気づいてくれるだろうと高を括って受け身になって、彼女をひとりで救った気になっていた。
でも、それが自分勝手な思い違いで、とんだ勘違いだったって、彼女が優太の前から去ったあの日、五年前のあの寒い冬の日に痛感させられた。
全部を失った。あの日から、心に穴がいたような寂寥感がずっとこの胸に居座っている。
その穴はもう埋まることはない。埋めることはできないと、そう思い知らせてきたのが、他でもない雪音自身だったから。
二年前に優太の前に帰ってきた彼女自身だったから……。
チャンスなど期待していなかった。だいたい、自分勝手に彼女を救った気になっていた自分にはその資格はないとさえ思っている。何も出来ない現状に甘えたまま、接点も交点もないまま、すれ違ったまま……終わってしまうのだろうと——。
そう、思っていた。あの話を妹の舞生の口から聞かされるまで——。
「やっぱり、こっちに来ちゃったかぁ……」
屋上に向かう最後の一段に足をかけたとき、どこかで聞き覚えがある甘い声が、屋上前の空間に淡く響いた。
声の聞こえた方向に顔を向ける。すると、屋上に繋がる戸に腰を預けてこちらを見つめる少女がひとり。
亜麻色の髪に、特徴的な垂れ目。制服越しからでもわかる整ったプロポーション。けっして高くない身長なのに、強い存在感を感じさせられる。
「……」
優太は今でも不思議でしょうがない。絶対に忘れるはずがないと思っていたのに、最近まで彼女のことを認識できていなかった自分が不思議でしょうがない。
あの頃と比べて随分と大人びて、長かった亜麻色の髪も肩まで短くなり、果てには苗字まで変わっていたとは優太も露とは思わなかった。
そうやって自分に疑問を抱く優太を前に、彼女、杉原彩花はどこか不服そうな表情を湛え、何か言いたそうにしている。
案の定、すぐに彩花の不満げな声が屋上前の廊下に響き渡った。
「片瀬君さぁ、なんでこっちにきちゃったわけ?」
「理由とか、今さら必要か?」
理由はこの場に優太がいること。答えはこの場に優太がいるいこと。
「必要でしょ? だって片瀬君、昼休みは体育館裏に呼び出されていたはずだよね?」
確かに、彩花の言に嘘偽りはない。優太もちゃんと覚えている。それは、今朝校門近くで出くわした真帆に言われたこと。忘れていない。忘れるはずがない。
「だから、ここにいるんだろ?」
「は?」
思いがけない優太の言葉に、彩花は口をぽかんと開けた。言っていることの意味がわからないと、浮かべた表情からありありと伝わってくる。
だから、彼女の口から問われる前に、優太は疑問の答えを先に呈することにした。
「今朝、市来さんに言われたよ。『昼休み、体育館裏に行って』てな」
「だったら……」
「だから来たんだよ、ここに」
「っ!」
「その伝言を市来さんに頼んだのは、桜見……いや、杉原、お前なんだろ?」
そう言って聞かせる優太には、確証があった。
全部、一昨日の晩、妹の舞生が教えてくれたから。そして、その情報が間違っていなかったことを、口惜しそうに唇を紡ぎため息をこぼした彩花自身が教えてくれた。
「はぁ……やっぱり、バレちゃってたか……」
隠せないと察したのか、思いの外、彩花はあっさり嘘が見破られたことを公言した。
「やっぱり、あのときだよね」
考えられるのは、一昨日の土曜日。
対面式に雪音と会話を交わしたあのパーキングエリア前でのこと。
彩花が思い出していたのは、雪音と話している途中で感じた人の気配。雪音自身が、優太に今日のことを報告するとは考えづらいことを加味すると、やはり情報が漏洩したとすればあのときにおいて他に考えられない。
「まぁ、バレちゃったのなら、しょうがないか……」
今さら過ぎてしまったことを悔やんでも、現状は変わらない。彩花は思考を切り替える。
「意外とあっさり認めるんだな」
「まあね、そりゃあ認めるよ、うん。どうせ、これ以上は隠し切れないとも思ってたしね」
どこかつまらなさそうな表情を浮かべて、彩花は肩を落とす。
そんな彩花の潔さに優太は少し意外感を覚えた。優太的には、もう少しはぐらかされるかと予想していたから、彼女の潔さには少し肩透かしを食らった気分。まぁ、どちらにしろ、この後に控える問題が問題なだけに彩花が早急に認めてくれたことは僥倖だったと言える。
「それで? それがわかってこの場に訪れた片瀬君は、私に説教やら苦言やらを漏らしにここまで来たってことでいいのかな?」
ドアから少し腰を浮かせた彩花は、少し退屈そうな表情を浮かべて言った。けど、その瞳の奥に覗く眼差しはどこまでも真剣なもの。
「ふっ」
だから、思わず優太は笑ったのだろう。
「ん? 私、何かおかしいところでも言った?」
すかさず彩花が訝しげに突っ込んでくる。
「んにゃ、なにも」
それをすぐさま優太が首を振って否定する。
「絶対うそだよね、それ。上手くもごまかせてもないよ、それ」
少し咎めるような声色は実に彩花らしいと思う。
「本当になんでもないって」
「……ふうん、まあ、なんでもいいけどね」
再三優太が否定すると、先に彩花のほうから先に引き下がってくれた。でも、優太をじっと見つめる表情は全然納得していない。問い詰めたいけれど、無理に踏み込むわけでもない様子。優太に言わせれば、そんな彩花の態度がまた笑えてくる。彼女らしくないと、実にそう思えてしょうがない。
「じゃあ、少し場所変えない?」
「場所?」
「そ。ほら、私が呼び出してあれなんだけど、ここじゃあ落ち着いて話もできないし、やっぱり最初に指定した場所がベストかなって」
最初に指定していた場所、つまり体育館裏。確かに、あそこなら建物の死角になり、人通りも少ない。密談を行うには恰好の穴場なのかもしれない。
「ここもあんま変わらないと思うけど?」
優太の見解的には、穴場と言うのなら屋上も体育館裏も大した違いは見出せない。それを素直に指摘すると、彩花はちらっと屋上を後ろ目に少し困ったような笑みを浮かべた。
「私もそう思うんだけど、今日はちょっと先約がいるんだよね」
「先約?」
「うん、なんか甘酸っぱい告白してるみたいなの」
邪魔するのも悪いでしょ? と、彩花は大きな瞳にそう湛えて小さく笑う。
確かに、一世一代の告白の邪魔をするのは優太も気が引ける。告白することの大変さは、十二分に痛感しているつもりだ。
「ほら、だから、場所変えよう?」
彩花が歩み寄ってくると、その白くて華奢な手を差し出してくる。ふわりと柑橘系の匂いが鼻腔を撫でた。まるで早く行こうと催促されているような錯覚を起こす。
「ごめん、それはできない」
「え?」
思っても見なかった言葉が、彩花の鼓膜を震わせた。そして、気づいたときには優太の右手と彩花の右手は空を切る。
「……」
彩花は伸ばした自分の右手を見つめる。状況がうまく把握できない。なぜ、彼の手を掴もうとした自分の手は、今、空虚を掴んでいるのか。それに、さっき彼は、なんて言った?
「か、片瀬君?」
脳裏に過ぎる一抹の不安を振り払うように、彩花は踵を鳴らす。自分の声が震えていたことになど、今の彩花には気づけない。いや、気づいていても、構っていられるほどの余裕は今の彩花にはなくて。
気づいたときには、勝手に口が動いていた。
「また……また裏切られるかもしれないんだよっ!?」
ドアノブを掴む優太の背中に向けて、静かに、されど明確な意思を内包した言葉が突き刺さる。
「……」
問いかけた言葉に対して、優太は沈黙をもって答えとした。
それでも、彩花は問いかけ続けることをやめるわけにはいかない。そうしていないと、今にも張り裂けそうな心臓はどうにかなってしましそうだったから。
「それでも……いいの?」
いいわけがない。そんなの彩花に言われば、偽物以外の何者でもないのだ。
「……」
「あのときみたいに助けても、また逃げられるだけなんだよ?」
助けて、逃げられて、なかったことにされるだけ。
「また、ひとりで傷つくことになるだけなんだよっ!?」
傷つけた本人が言うには、あまりにも虫のいい言葉だとわかっている。わかっているけど、自分の惨めさが、悔しさが、劣等感が、何より過去の自分が、それを許してくれない。
「わかんないよ……わかんないっ!」
桜美彩花にはわからない。
一度裏切られても、離れても、それでも大丈夫だって言えるその心が。
一度失ったものは戻らない。友達も父親も、恋人も……。
彩花はそうだったから。自分の近くにいた人たちは、みんなそうだったから。
それなのに……。
「どうして!? どうしてなの!? 片瀬君はあの女に一度見限られているんだよ!? なのに、それなのにまたあの女を助けにいっちゃうの!? 臆病で保身的で自分のことしか考えていないようなあの女のところにっ! なんで? なんでなんでなんでなんでなんでなんで!?」
彩花の悲痛の叫びが屋上前の廊下中に響き渡る。
その思いの丈は、充分、優太にも伝わってきた。それこそ、痛いくらいに……。
だけど、どんなに疑問や不満を投げかけられようが、最初から彩花に言えることなど、優太にはひとつしかなかった。
「あのときから、俺の答えは変わらない」
「っ!?」
あのとき、五年前のあの寒い冬の日、斜陽が差し込む教室の中で、向かい合う彼女に向かい、かつて優太が放ったセリフ。
「話は、もういいか?」
ドアノブを掴む。力一杯。今度はもう、失わないように。
「片瀬君は、逃げたあの子を……また、許すんだね」
最後に問いかけられた弱々しく震える彩花の言葉は、物静かな廊下の中に溶けて消えていく。
「変わんないよ、何にも。俺はさ、最初からあいつを許してるから」
そんな言葉を残して、開かれたドアから差し込む光の中に、優太の姿は消えていった。
「……」
ひとり、誰もいない空間に取り残さらえた彩花。
静まりかえった世界でぽつりと立ち尽くす。
「……ははっ」
結局、だめだった。
変えることなんて、できなかった。
「そりゃあ、そうだよね……」
自分のことさえろく変えることができない人間が、誰かために何かを変えることなんて、はじめからできるわけがなかった。
最初に変わらないといけないのは、他でもない、自分自身だったはずのに……。
いつもそうだ。大切なことに、自分はどうしても遅れ気がついてしまう。
彩花は無機質な階段に座り込み、そして抱え込んだ膝の中で、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、私は——」




