#── 5 ──#
五分後に到着する予定のバスを待つ間、バス停には静かな空気が流れていた。脈略もなくポケットの中に手を入れた慧が水を向けてきたのはまさにそんなときだった。
「なぁ優太。お前にはそういう相手はいないのかよ」
横目に向けられた視線が頬を指してくる。いきなりなんだよ……と、ちらり横を見ると、慧が少しにやけていた顔で優太を見ていた。
「あ? いきなり何の話だよ、それ……」
少々話の雲行きが怪しくなってきた。何となく、今の優太が踏み込んでもらいたくない話題のような気がして、咄嗟に口から出た言葉で誤魔化した。気づいていない振りをした。
自分では上手く誤魔化せたと思うし、自然だった思う。だけど、その自然さが慧の目には不自然に見えたらしい。
「誤魔化しても無駄だぜ? それに、優太にもわかってんだろ?」
あくまでも具体的な言葉は口にせずに、されどそれとなく悟らせながら、慧が巧妙な切り返しで逃げ道を塞いでくる。にたにたと目尻の下がった目と合うから、そこはかとなく先ほどまで行われていた一方的な聴取に対する報復的な意味合いを感じるのは気のせいではない。
「……」
優太はこの話題から一刻も早く抜け出そうと思考を巡らせるが、そう簡単にはぐらかせる妙案が思い浮かんでこない。たぶん、単純に誤魔化しても、先回りされて終わり。言い逃れようとも簡単にはさせてくれないだろう。なるほど、これが数多の女心を手玉に取ってきた男の手練手管なのだろうか……。どこか、ひとりの男としての違いを見せつけられた気がする。
「なぁ、今お前、めっちゃ失礼なこと考えてない?」
優太がそんなことを考えていると、横から不満に満ちた声があがる。でも、一度そう思ってしまうと、その指摘すらそれらしい思考に持っていかれるから不思議なものだ。
「……いいや、まったくこれっぽっちも」
一応、言葉だけでも否定しておいたほうが何かと都合が良い気がして、優太は平然を装い首を横に振った。
「まあ、いいけどよ。でも、そこんとこ、ぶっちゃけどうなんだよ?」
「いや、どうなんだって聞かれても……」
上手く話の軸をずらせたと思ったのに、慧がすぐさま軸を元に戻してしまう。普段と比べて、やけに今日の慧はずけずけと踏み込んでくる。普段から逸らしてきた会話だからか、いざ問われてみると、思わず言葉が詰まってしまう。はぐらかそうとしても、すればするほど泥沼に嵌っていく感じ。完全に外堀から埋められている気がする。
それでも、なんとか言葉を捻り出そうとして優太は懸命に頭を働かせる。でも、一度迷ってしまうと、どう答えても言い訳みたいになる気がしてきて、上手く次の言葉が出てこない。
そんな優太に焦れったさを感じたのか、慧がさらに一歩踏み込んでくる。
「いるんだろう、お前にも。俺、知ってんだかんな〜」
「……」
ある種確信めいて聞こえる口調には優太を黙らせるだけの威力があった。けれど、具体的な言葉は口にしていないので確証とまでは言えない。鎌をかけられている可能性だって大いにある。
——いや、もういいんじゃないだろうか。
優太は不意にそう思った。
考えてみると、慧に隠す意味はない。どころか、いっそ笑い話に変えてしまったほうが気楽になれるかもしれない。それに、仲の良い幼馴染を持つ慧のこの先の人生に役に立つのならば、なおのこと文句もなければ、ましてや最高の反面教師ではないだろうか。
慧には、自分と同じ思いを抱いて欲しいとは露ほど思っていないのは、紛れない優太の本心なのだ。
「……」
覚悟は決まった。
これから披露するこれは、一世一代の自虐ネタになる。
慧は笑ってくれるだろうか。励ましてくれるのだろうか。それとも、自業自得と言い切ってくるだろうか。もしかしたら、馬鹿だなって笑ってくれるかもしれない。
……分らないけど、なんとなく、叱られるような気もする。それならそれで悪くないのかもしれない。いや、聞いてもらえるのなら、結局、なんだっていいんだと思う。
そう思うと、なんだか心が軽くなった気さえした。今なら素直に吐き出せるかもしれない。
「……あのさ、阿久津」
「ん?」
軽い相槌。聞いているのか曖昧な返事。人によってはその適当さに腹を立てるかもしれない。
でも、そうじゃないことを優太は知っている。こちらが話しやすいように、あえてフランクに接してくれているだ。その配慮が痛いぐらい、今、心に染みてくる。
「俺さ……」
けど、いざ口に出そうとすれば、声に出そうとすれば、言葉に変えようとしまえば、上手く言葉を続いてくれなくて。
「……俺は……さ……」
心の奥底で押さえていた蓋を少しずつ開けていく。その隙間からは溢れ出しくるのは後悔の味。あの日、あの冬の日に刻まれた悔恨の記憶。思い出すだけで拳に力が入る。
「……」
言え。言ってしまえ。吐き出してとっとと楽になってしまえ——そんな心の声が幾重にも優太の中で反響してくる。そして、ぽたりと優太の頬から一筋の汗が流れる、それとほぼ同時だった。
「なあ、優太」
優太の思考を遮ったのは、他でもない慧だった。横目に見ると、慧は苦笑していた。ともすれば呆れているようにも見える。
そして、目の前を次々に通り過ぎていく自動車の影に視線を向けると、一度そこで短く息を吐き、わずかに細めた目を伏せて再度口を開いた。
「俺にはさ、今、お前が何を考えてたのかわかんねーし、過去に何があったのかもわかんねぇ。でもよ、なんかお前見てると何かを求めているようで、でも、諦めているような……わかんねぇけど、そんな感じてさ。だから気になって、俺にもできることがあるんじゃないかって思って……。でも、違うんだろ。まだ他人に話せるほど、お前のそれは割り切れてねぇんだろ。だから、俺ももう深くは聞かない。無理に教えろとも言わない——」
慧は一度そこで言葉を切り、一呼吸挟んだあとに優太を見据えて言った。
「だけどよ、お前が抱えきれなくなったときはちゃんと俺に言えよ?」
そう言って、今度は照れくさそうに笑うのだった。それなりに、くさいセリフを吐いてしまったという自覚はあったらしい。
「……ぷっ」
でも、その心遣いが妙にくすぐったくて、なんだか笑えてきてしまった。すると、すかさず文句が飛んでくきた。
「おいおい、人がせっかく小っ恥ずかしいセリフを口にしてまで励ましてやったのに何笑ってんだよっ!」
「……くっくっく、わ、悪い、つい、な……」
「ついって何だよ、ついって。お前いつか痛い目に遭いやがれバカが」
「い、いや、笑う気はなかったのはほんとなんだって。や、それどころか逆にカッコ良かったまである。な、だから機嫌直せって。マジでかっこよかったから。かっこっ……よかった……って、いやマジっ、ぷっ——」
「あっ、優太貴様、一度のみならず二度までも笑いやがったなぁ!」
「うげぇ、ちょっ、ヘッドロックは禁止だろっ!」
「うるせぇ、人の好意を笑うお前など死刑なのだ、ぐははははははっ!」
「閣下きたっ!?」
戯れあう男子高校生ふたりの愉しげな声が静かな空間を賑わせた。
そして、一通り戯れあったふたりが息を整えていると、どこからともなく聞き覚えるのある電子音が辺りを響かせた。スマホの通知音である。優太ではない。音源は隣から。正確に言えば、慧のズボンの中から。
「……ん? 俺のほうか?」
優太の視線で遅れて気づいた慧が訝しげな表情を浮かべながら、青のスマホカバーで守られた携帯を取り出した。
スマホに視線を落とす。しばらくして、慧の顔色がみるみる青くなっていく。
「どうした?」
何事かと思い、一応声を掛けてみる。けれど、「やべぇっ、忘れてた……」とか「殺されるかも……」とか何とか口ごもりながら、慧はわなわなと口をぱくつかせるだけで、優太の質問に答えてくれる様子はない。
そんな慧の姿を見てながら優太はなんとなく予想を立てる。慧のこの反応は今回が初めて見ると言うわけではなく、過去に何度も見たことのある姿だから雄太でも何となく察せられた。
「わりぃ、俺、ちょっと戻るわ」
急いで液晶画面上に指を走らせながら、慧は案の定、学校に引き返すと言い出した。
「ああ、早く行ってこい。俺は『あいつはいい奴だったんですけどね。まさかあんなことになるとは……』なんてニュースで言いたくはないからな」
「……いや、お前は明日、マジでその言葉を口にするかもしれない」
「マジか」
「大マジだ」
顔に大量の汗を掻きながら、慧はポケットにスマホを入れ、ネクタイをきゅっと引き締め直す。その姿はさながら、仕事でミスを犯し、取引先へと謝罪に向かうサラリーマンのようだ。
「悪いな、優太。今日は一緒に帰れそうにないわ」
「だろうな。これでもし一緒に帰ろうものならお前は勇者か英雄だ。お前のことは、それはそれは長く語り継がれることになるだろう。……安心しろ、骨は拾ってやるさ」
「ああ、そのときは頼む。……だが、俺はまだ死ぬつもりはない。なんせ、俺はまだ、この想いをあいつに伝え切れていないのだからな。……必ず帰ってくる」
人は俗にそれを死亡フラグと呼ぶが、ここで野暮なことは言うまい。大事なのは、今、優太にできる最大のエールを送ってやること。
「ふっ、だったらせいぜん足掻くことだな。まぁ、このくらいの試練など、お前ら簡単に乗り越えられるはずだ。……健闘を祈る」
「ありがとな、友よ」
「気にするな、兄弟」
その優太の言葉を最後に、慧は駆け出して行った。
一方優太は、そのあとすぐにやってきたバスに満足げな顔で乗車を果たしたのだった。