#── 4 ──#
「あっ、片瀬君」
教室を出ると、背後から声をかけられた。知っている声。ちょうど、今朝聞いたばかりだからよく覚えている。
振り返ると、案の定、そこには見知った女子生徒が立っていた。亜麻色を肩まで伸ばした女子。特徴的な大きくぱっちりとした丸目。身長は優太の肩くらいと平均的。
市来真帆だ。
でも、その視線はきょろきょろと忙しない。誰かを探しているのだろうか。
「おい、真帆。男の門出は邪魔するもんじゃねえだろ」
ふいに、そんな彼女に対して咎めるような声が教室のほうから聞こえてきた。見ると、後頭部に手を当て、やれやれと言った様子の慧がこちらに歩み寄ってきているところだった。
「あ、慧だ」
それに気づいた真帆の表情が一瞬明るくなったのを、優太は見逃さなかった。
恐らく、当の本人は無意識なのだろう。迷子になった子供が母親を見つけたときのような、自然で摂理的な感覚と一緒。真帆自身も、ほとんど無意識化での気持ちの現れだったのだろう。たぶん、慧と真帆の関係を知っている優太でなければ気付けなかった。それくらい、刹那的な感情の現れ。上手に隠していると思う。
そんな真帆の変化には、慧も気づけていない。だから、相変わらずこの場に居合わせた真帆にかける声の質は呆れ一色。
「あ、慧だ、じゃねえだろ。なんでクラスの離れたお前がここいるわけ」
優太の記憶では、真帆の在籍しているクラスは二年六組だったはずだ。つまり、端と端という構図になる。職員室、あるいは一組の人間に用事でもない限り、通常六組の生徒は通らないことがほとんだ。
ならば、真帆は職員室に用事があったのか、誰かを探しにきたのだろう。そしてその際、偶然通りかかった優太を見かけて声をかけてきたのかもしれない。
優太がそんな予想を立てていると、真帆の口から放たれた人物の名前を聞いて、自分の私見が間違っていることに気づかされた。
「あー、うん、雪音ちゃんを探してたとこなんだけど、君ら知らない?」
「雪音ちゃん? ああ、お前がよく一緒にいる、副生徒会長の…あの雪音ちゃんのことか——って、痛っ!? んだよ、優太。いきなり人の足蹴んなよっ」
蹴られと拗ねをさすりながら慧が非難の目を向けてくる。しかし、まるで同意があれば問題ないといった言い草だ。Mの毛があるかもしれない。今後は、慧との距離感を見直さなければならない可能性があると、優太は真面目に猶予した。
「悪い、足が滑った」
「嘘つけ!」
本当は、雪音のことをちゃん付けされたのが気に入らなかったから、なんて言えるわけがない。
だから優太は、話題の矛先をむりやり変えることにした。
「ゆき──ごほん。んで、その、片瀬——さんが、どうかしたのか?」
視線を慧から真帆に移す。
「おい、優太。ナチュラルに人の話を無視するのはどういう了見だ? なあ、真帆。お前からも一言言ってやれ」
「実はね、一緒にお昼ご飯食べようと思ったんだけど、どこにも見当たらないから、ここまで探しにきていたんだけど……見る限り、どうやら取り越し苦労だったみたいだね」
「……はぁ、俺ってそんなに影薄いですかぁそうですか……」
視界の端で、慧があからさまに肩を落としていた。呟かれた声もひどく弱々しい。
これ以上無視を続けるのさすがに忍びなくなってきたところで、優太はしょぼくれた慧の肩に手を置いき、微笑みの眼差しを浮かべ、「そんなことないよ」とふるふる首を横に振った。
「いや、そもそもの原因はお前にあるんだからな」
引きつった笑みでごもっとな意見を言われてしまった。
「悪かったて、他意はなかったんだ」
「嘘つけ、他意しかなかったろ」
「なに? 鯛がどうしたの? もしかして、今日の夕飯の話?」
「お前は黙っておこうな?」
慧の肩口からひょっこり顔を出した真帆がズレたことを口にする。それを慧が慣れた態度でしたためる。
何気ないふたりのやり取りだが、浮かべた素の表情やふたりの間に流れる空気感、そのすべてが今の優太には眩しく見えた。
阿久津慧と市来真帆。
ふたりの間に遠慮も配慮もない、自然な様子を見ていると、どうしても重ねてしまう。
あの、何気ない会話も、くだらない理由で繰り広げた喧嘩だって、意味もなく笑いあった瞬間の全部が懐かしくて、愛おしく、幸福な思い出だった。
けれど、今、散らばった思い出のガラスの破片を踏み締めるたびに、それが痛くて、苦しくて、どうしようもなく虚しくなるばかり。
もし、あの頃に戻れるならばと、幾夜もの眠れない夜を過ごし、悶々とした日々を越え、その度に何も変える勇気のない自分と対面しては、幾度となく膝を折ってきた。
もう、あの頃には戻れない——そうわかっていても、わかろうとしても、心のどこかで諦められないまま、気づけば、ずるずると五年という歳月が流れていた。学年で言えば、もう高校二年生だ。
日本男性の平均寿命において換算すれば、八十一年間あるうちの十七年間。五年間でさえ、耐えがたい日々の連続だったのに、残りの人生、六十三年間をこんなにも苦しい思いに苛まれながら生きていくのは絶対に御免だ。断固拒否。これでは満腹中枢もバカになる。寿命よりも先にストレスに押しつぶされるに決まっている。優太だって、人並みには長生きしていきたいと、人並みには思っている。
だから、今日、この日をもって、全てに決着をつけるつもりでここに来た。例え、待ち受ける結末に涙することがあっても……。
「なあ、市来さん」
だから、今、優太に言えることはひとつだけ。
「ん?」
「俺さ、実はその片瀬がどこにいるか知ってんだ」
「え? それホントっ!」
優太の色良い返答に、真帆はすぐさま食いついてきた。相当お腹が減っているのか、あるいはただ一心に心配しているだけなのかいまいち判断に困るけれど。願わくば、前者であることを信じたい。
「ねえ、片瀬君、どこ、雪音ちゃんは今どこにいるわけ?」
だけど、真帆にとってはそんな優太の心情などこれっぽっちも関係ない話。大切なのは、雪音の居場所を知っているのか否か。腹の虫が騒ぎ出す彼女にとって、もはや他人の事情など二の次。
そして、飼い主を見つけた子犬のように真帆が詰め寄ってきた、そんなときだった。
「ちょっと待った、真帆」
そう言って、問い詰めようとした真帆の腕を掴んだのは、他でもない、慧だった。
そんな慧の行動に不信感を抱いた真帆が、すぐさま目を三角にして咎めるはじめる。
「ちょっと慧、やっと雪音ちゃんの居場所がわかったんだから邪魔しないでよ」
「いや、邪魔してんのはお前のほうだ、バカ真帆」
掴まれた腕を振り解こうとする真帆を、慧の右手は掴んで離さない。
「はぁっ!? 誰がバカ真帆ですって!」
力で勝てないと悟り、すかさず真帆が別の切り口から食ってかかる。
「お前以外いねーだろ、アホ」
負けじと、慧も対抗する姿勢だ。お互い引くきは見られない。
「あっ、またアホって言ったぁっー!!」
「残念でしたぁ、さっき言ったのはバカですぅー。アホじゃありませーん」
ただ、徐々に口調が喧嘩越しに変換されていっているような気がする。まるで子供の喧嘩を見せられているような気分。いや、側からしたら痴話喧嘩か……。
「そんなの言ってることほぼ一緒だしぃ! それにバカって言ったほうがバカなんだからね」
「はっ、じゃあ聞くが、猫に猫つったら、そいつは猫になるのか?」
「ぷぷっ、そんなのなるわけないじゃん、慧、IQ低〜い、ばっかだぁ〜」
「——っ…、 こ、これはあくまでも喩えの話だろうがっ! そんなこともわからねぇのかよ? はっ、これだからお前は、万年学年二位なんだよ」
怒りに任せた吐き捨てるような慧のその言葉が着火剤となった。
真帆の中で燻っていた火種が燃え盛るのに、そう時間は掛からなかった。
「あっー! ついに、ついに慧が言ってはならないことを言ったぁ! それも、万年五十位前後をうろうろしているサッカーバカなんかにぃ!」
小馬鹿にして嘲笑うかのような口調と意地悪い笑みは、真帆が戦闘モードに移行した証拠だ。
もはや、この時点で、優太に止める術は存在していない。
「はっ、残念だったな。煽り返したつもりだろうが、そうはいかねえ。自慢じゃないが、俺は自分の成績を悲観したことがないし、サッカーバカに至ってはもはや褒め言葉! あーあ、嬉しいこった。万年学年二位様からお褒めに預かり、今日は本当にいい日だなー」
最後のセリフは完全な棒読み。真帆を完全にバカにしくっている証拠。当然、それに真帆が言い返さない道理はなくて。
「きぃーっ! 何よ、慧のアホ、バカ、間抜け、意気地なし、へたれ!」
これまで溜まっていた鬱憤を慧に向かって頭ごなしに投げつけはじめる。そして、その中の一つが慧の自尊心にクリティカルヒットした。
「へ、へたれ、だと……? お、おい、バカ真帆、今、お前は絶対に口に出してはいけないことを言ってしまったな」
胸を抑え後ずさる幼馴染に、ここぞばかりに真帆が追い討ちをかける。
「ぷぷっ、へたれにへたれって言って何が悪いのか、万年学年二位の私じゃちょっとわからないかも」
「て、てめぇ〜っ!」
「なに? 何か文句あるわけ?」
鼻と鼻がくっつきそうなほど、ともすれば、遠くからみればキスをしていると思われても不思議じゃない距離で睨み合う両者。
そして、そんなふたりの幼なじみ同士が大声できゃんきゃん言い合うものだから、すっかり周囲の視線はふたりの独壇場。
収集はつくのだろうか……と、少し離れたところに移動した優太が辟易としているとき、ふと慧の視線がちらりと優太に向けられた。
「……」
見ると、腕を組んだ右手がひょいひょいと動いている。まるで、「早く行け」と諭しているよう。
「あっー、もう、あったまきたっ! 今日という今日はぜってぇに許さなねえからな、表て出ろ!」
「ふふんだっ! アホでバカでへたれな慧なんて、私の小指ひとつだかんねっ!」
優太が慧の真意をさぐっていると、言うが早いか、ふたりはそう言い争いながらこちらに向かってずかずかと近寄ってくる。行先はおそらく校庭だろうか。きっと宣言通り、小指でひとつなのかもしれない。
そして、慧が優太の横を通り過ぎようとしたとき、
「はんっ、言っとけ。……だけど、ぜってぇ、負けんなよ」
それは、すれ違いざまに聞こえてきた一言。主語がなく、一見誰に向けられたものかいまいち判然としない。
だから、真帆がすかさず食ってかかる。
「負けんなよ? 何言ってんの、そこは「負けねえーから」でしょ? 頭に血が上って言語能力まで低下しちゃったの? 大丈夫?」
「うるさいぞ、万年二位」
「かっちーんっ! 万年へたれには言われてくないからっ!」
そう言い争いながら立ち去る友人たちの背中に、優太は苦笑する。だけど、渡された最高で最大のエールはしっかり受け取ったつもりだ。
「ありがとう」
優太は完全に見えなくなった親友に向けとそっと礼を告げ、踵を返す。
本当に、良い友人に恵まれたとしみじみ思う。
空気が読めない十七年間。捨ててきたものはたくさんあった。でも、まだまだ捨てたもんじゃなかったかもしれない。
それを教えてくれた友人のためにも、今日、すべてを取り返えしに行こう。
階段を登っていく。
この先の結末がどうなるかは、誰にもわからない。ただ、どんな結果に終わろうが、最後には「バカだな」って笑い飛ばして欲しい。ついでに、真帆からも「アホだね」って、二人揃って呆れられてもらえたら百点満点だ。
「バカで結構、アホ上等」
目指すは屋上。
例えそこでどんな真実が待ち受けようが——再び、二人揃って笑り合えるような日が待ているのなら、なんだって構わない。
そう、優太は素直に思えた。




