#—— 21 ——#
「この辺でいいかな」
公園を出て、ひとつめの角を曲がった先にあるパーキングエリアの前で、雪音の前を歩いていた彩花は立ち止まった。
多くの人々で賑わう七井橋通りからひとつ外れただけのそこは、一風変わって人通りが少なく、静観な住宅街が広がっている。三十メートルほど先に見える親子の背中以外、周囲には誰もいない。人目を気にして会話を交わす場所としては悪くない空間だと、雪音は辺りを見渡しながらそう思った。
けれど、それも一瞬のこと。雪音の意識は、再び二メートル先に立つ少女に向けられる。
人当たりのよさそうな顔立ちの彼女の垂れ目の奥の瞳から差し向けられる視線は、射抜くように鋭い。それに負けじと、雪音も毛を逆立てる猫のように真っ向から睨み返す。
「……」
「……」
建物の奥のほうから聞こえてくる絶え間ない足音。風に乗って響く姦しい誰かの笑い声。がやがやと騒がしい話し声。そんな喧騒とは対照的に、雪音と彩花の間には、重たい沈黙が流れ続けている。
しばらく、無言が続いた。
ふたりは互いに視線をぶつけたまま逸らそうとしなかった。
だけど、それも長くは続かない。先に重たい沈黙を破ったのは、柔らかな微笑を湛えた彩花のほうからだった。
「久しぶりだね、皆瀬さん」
どこか耳に残る甘い声は五年前とさほど変わっていないように思える。
「……そうかもね」
ぶっきらぼうに雪音が頷く。不躾な態度になってしまうのは、ほぼ無意識下でのことだ。
「うわぁ、相変わらずの嫌われっぷりだなぁ、私。まあ、わかってはいたけどね」
彩花にとって雪音の態度は予想通り。愛想よく振る舞われるほうが気持ち悪いくらい。だから、言葉通り、本当に傷ついているわけじゃない。むしろ、五年ぶりに再開した二人の距離感を再確認できて丁度よかったと思う。
「それにしても、相変わらず可愛いくて綺麗だよね、皆瀬さんは」
五年前から嫉妬するくらい整った容姿だったのに、時を経て、雪音はその面影を残しつつ、さらに磨きをかけて綺麗に美しく成長している。彩花とは違うタイプだけれど、同性としては、やはりうらやましと感じてしまう。
「そんな世間話をするために、私はここに来たんじゃないんだけど」
言葉通り、雪音にそんな意思はなかった。この場において相応しい会話だとは思わない。彩花とは気さくに昔話に花を咲かせられるような関係ではないから。
「嫌味を言いに来たのなら、話は別だけど?」
だいたい、可愛いとか、綺麗とか、同等のルックスを持つ彩花に言われても、憎まれ口を叩かれているような気分になる。人によれば、嫌味に捉えらてもおかしくないはずだ。
「相変わらずつれねないなぁ、皆瀬さんは」
「……」
「仲良くしようよ」と笑う彩花に対して、雪音が返事をしなかったのは、彼女の意思を掴み損ねているから。彼女を前にすると、どうしても雪音は容易に口を開けない。
警戒している。恐れている。たった一言を返すだけなのに、一々考えてしまうのだ。雪音をそうさせているのは、過去の自分であり、根幹にあるのは彩花だけには隙を見せたくないという堅い意思。
そんな雪音の難く閉じられてた口を開かせたのは、彩花の何気ない一言からだった。
「もしかして、彼氏さんとデート中だった?」
「……そっ、そんなわけないでしょ」
予想もしていなかった質問に、言い返した雪音の声が少し上擦ってしまう。彩花のこういう遠慮ない性格は昔から苦手だった。
「ほんとかなぁ〜」
少し動揺している姿を見せると、すかさず彩花が疑いの目を向けてきた。油断も隙もない。こういうところも、昔から苦手とする部分のひとつ。
「話がないなら、私、帰るから。人を待たせてるし」
だから、あえて雪音は彩花の疑いの眼差しに気づいていないふりを通した。これ以上、変な勘ぐりを持たれて話が拗れてしまうのは避けたい。
「あらら、ごめんね。もしかして私、癇に障っちゃうようなこと言っちゃったかな? 見えない地雷とか踏みつけちゃった感じ?」
「別に、そんなんじゃないから」
素っ気なく返しつつも、言葉の端端にはだんだんと苛立ちが混じり出す。彩花のペースに引きずられている証拠だ。
「けどさ、癇に障ったことは否定しないんだね」
「だから、別にそんなじゃないって」
先ほどから思い通りにならないのは、彩花が痛いところをついてくるから。彼女の前では冷静な自分でいたいのに、なかなか冷静な自分が戻ってきてくれない。いや、彩花が意図的にそうさせてくるのだ。
「ふうん」
強めに否定した雪音の耳に届くのは、意味ありげな相槌ひとつ。
「なに? 何か文句でも?」
無視をすればいいだけなのに、雪音には彼女の態度が気になった。
「ううん、文句じゃなくて、単に疑問に思っただけ」
「疑問?」
「そ。ただ単に、本当にそれだけなのかなぁって」
「……どういう意味?」
「うーん、それは皆瀬さん自身が一番わかってると思うんだけど?」
彩花は明確なことは何ひとつ口しない。ただ薄い笑みを頬に浮かべているだけ。でも、だからこそ雪音にはわかる。そのある種確信を得ている笑みが教えてくれた。
思わず雪音は口を紡いでしまったのは、まさに彩花の言う通りだったから。そして、この沈黙が雪音の心情を雄弁と語っていることを、彩花が確信するには十分なものだった。
「その様子だと、まだ仲直りできないみたいだね」
決定的な言葉は、やはり彩花は口にしない。する必要がないから。口に出さなくても、言葉に変えなくても、態度に示さなくてもいい。他でもない、皆瀬雪音が誰よりもわかっているはずだから。
「私が言うのもなんだけど、もう五年前のことだよ? 過ぎ去ったことなんだよ? 皆瀬さんも九州から帰って来ているし、仲直りするチャンスはいくらでもあったはずでしょ?」
「……」
「私、知ってるんだから。皆瀬さん、彼と一緒の高校なんでしょ」
都立北野蔵高等学校。クラス名だって言える。でも、それは言えるだけで、この場で口にできるわけじゃない。そして、世の中には言葉にしなければ解決できない問題がほとんど。
「……だったら、何よ」
でも、今の雪音にはその言葉を口にすることができないから、せめてもの強がりを瞳に彩花をきっと睨み付けた。
「だいたい、あなたから文句を言われる筋合いなんてない」
今だって、腹わた煮え繰り返りそうな感情をぎりぎりで押さえ込んでいる。言いたい文句や、怒りを表面にださないように耐えている。それでも、彩花は飄々とした態度を崩さずに、真っ向から向かい合ってくる。
「ううん、これは文句じゃない。いうなれば、率直な疑問かな」
「疑問?」
「そ。だから、ひとつだけ聞いてもいい?」
「ムリ」
「えっ?」
まさか断れるとは思っていなかったのか、彩花が素っ頓狂な声を上げた。
「なんで?」
すかさず理由を尋ねてくる彼女に、雪音は自分の現状を至って冷静な態度と言葉で答えるだけ。
「言ったでしょう、私、あなたの好奇心に付き合ってあげれるほど、今は暇じゃないって」
舞生との約束の時間は、とっくの昔に過ぎてしまっている。
今頃、待ち合わせの場所である公園出入口付近で待ちぼうけをくらっているはずだ。スマホも見れていない。つまり、舞生にとって今の雪音の現状は、急に姿をくらませたうえに、連絡が付かなくなった迷子同然。迷惑だけはかけたくないのに……。
「じゃあさ、誰と一緒に来てるわけ?」
今思い出したかのような口ぶりで、彩花は呟きながら建物の影にちらりと視線を向ける。すると、一瞬遅れて何が物陰に隠れる気配がした。
彩花の視線の動きに気がつき、雪音もその方向に訝しげな目を向ける。けれど、そこには誰もいない。一瞬、黒い影が建物の影に引っ込んだような気がしたが、それよりも今はこの場を立ち去りたいという気持ちほうが強かった。
「そんなこと、一々あなたに言う必要あるの?」
雪音の言葉に、彩花は小さく首を横に振った。
「じゃあ、私、人を待てせてるから」
「あっ、ちょっと待って」
踵を返そうとする雪音の背中を、彩花が呼び止める。一瞬、聞こえなかったふりをしようと思ったが、それは人間としてどうかと思い直し、雪音は肩越しに振り返った。
「最後に一つだけ、質問いい?」
沈黙の肯定。このままでは離してくれなそうだと判断した雪音が視線だけで先を促す。そして、先ほどの行いを、彩花の口から放たれた言葉を聞いて、雪音は後悔することになった。
「皆瀬さんってさ、まだ彼のこと好きなんでしょ?」
彩花は具体的な名前を口にしない。そんな名前など、雪音との間には必要ないとわかっているから。
当然、彩花が誰を意識しているかなど、雪音も理解できている。できていたから、すんなりと言葉が出てきてくれた。
「好きじゃないよ」
「ふうん、そうなんだ」
口笛を吹くような軽い口ぶりで、彩花が呟く。自分でも、上手に言えたと思う。素直な感情が乗っていた。
でも、油断はできない。雪音の真意を探ろうと、今もなお彩花の瞳が雪音を捉えて離してくれないのがその証拠。こちらを窺う表情から、こちらの言葉を鵜呑みにはしていないというのは手に取るようにわかる。
「じゃあ、私、もういくから」
うっかりぼろを出すその前に、今度こそ雪音は踵を返した。
新鮮な空気を求めるようにこの場を去っていく。確実に。一歩ずつ、あと少し。この角を左に曲がれば、窮屈な想いから解放される……そう思った直前だった。
一瞬、囁かれるような声が、雪音の歩みを止めた。
「まあ、どちらにしても、タイムオーバーなんだけどね」
そして、「あー、これは独り言なんですが」という言葉を皮切りに、彩花が栓を切ったように語り出す。
「実はね、あれは私がまだ小学生の頃、本気で誰かさんのことを好きだった時期があったんだよ。でもさ、当時の彼には、どっかの誰かさんがべったりマークしていてね」
まるで他人のことを話すように、彩花は滔々と語り続ける。
「しかもさ、その子はタチの悪い事に、校内で私よりも可愛いと噂されていた女の子ときた。当時の私は、清らかで純粋だったからさ、彼がその子を見る目を知った私には、もう諦めることしかできなかった。……思えば、あのときがはじめての失恋だったかもね」
彼女の独白は続く。思い出すように淡々と。でも、確かな意思を持って。
「当時の私には、それはそれはもうショックなことで。心にぽっかり穴が空いてしまったの。だから、その穴を埋める代わりを探したんだ。逃げるように別な恋を追ったんだ。頑張って彼の影から目を背けてね。……まぁ、そのおかげで他に好きな人はできたよ。そして、その男の子とは小学生ながらに恋人となって、無事めでたしめたし……だったら、どんなに良かったことか」
彼女の独白は終わらない。
ハッピーエンドは始まらない。
自嘲するような口調で、話は続いていく。
「付き合いはじめて……あれは二週間後ぐらい経ったあとだったかな。突然その男子に呼び出されたかと思ったらさ、こう言われたの。『俺、好きな人ができたから、別れてくれ』ってね。そのときは、あーあ、これで二度目の失恋かぁって、当時の私は不思議ときっぱり諦めきれたの。でも、それだけじゃ、やっぱり後味悪かったから、別れる前に一応聞いたの。『誰のことを好きなったのか』ってね。そしたらさぁ、彼は少し照れたような顔でさ、とある女の子の名前を出したんだよ。それを聞いた私はね、あぁ、また負けたんだって思った」
それからだった。
はじまったのは、彩花にとって忘れ難い敗北の味。
「知ってる? 私が好きなる人、何かの呪いがかかったみたいに、最終的にはとある女の子のことが好きなるの。次の人も、その次の人も、その次の人も、どいつもいこつもね。みんなさ、その子……ううん、皆瀬雪音が好きだったの。当時仲の良かった友達も、先生も、もう家族じゃなくなった父親も、口を開けば彼女のことばかり」
最初は考えすぎだと思っていた。気のせいだと目を逸らしていた。でも人間、嫌なことから背け続けるのにも限界がある。意識しないようにすればするほど、考えないようにしないようにするだけ、嫌な現実はよりくっきり見えてくる。嫌いな自分が浮き彫りになっていく。
「全部、全部奪い去っていく。私の大切なものをすべて根こそぎ奪い去っていくあなたが、当時の私には堪らなく目障りで憎たらしかった。それでさ、あるとき、私はこう思ったの。皆瀬さんも私と同じ思いをすれば、惨めなこの気持ちもわかってくれるじゃないかって」
「……だから、だからあなたは……、あのとき、私から大切なもの奪ったんだ……」
五年前のあの日。雪音の手の中から、大切な幼馴染が去っていったあの冬の日。
「そっか……」
最初は裏切られたと思った。
——私たち、付き合うことになったから
それは、一緒に帰ろうと彼の教室に立ち寄ったとき、静まりかえった教室で突然言われた言葉。
「そうだったんだ……」
ずっと疑問に思っていた。
決して言葉にはしなかったけど、雪音の中には確かにあったから。目に見えなくても、言葉になんかに頼らなくても存在した強い繋がりが。
でも、それが一方通行だったという事実を、目も前の彼女によってわからされた。理解させられた。辛い現実を突きつけられた……そのはずだったのに。
「もしかしたら私……」
そう思ったら、雪音はいてもたってもいられなかった。見つけてしまった可能性に、見出してしまったプロビバリティーに体はじっとしていられない。
勘違いをしていていたかもしれない、そう思ってしまったら。
まだ、自分は裏切られていなかったのもしれない。その可能性が一パーセントでもあるのなら、そう察してしまったら——。
「待って!」
走り出した雪音の足を止めたのは、今まで聞いたこともない彩花の鋭い声。いつもの甘い声とのギャップに思わず振り返ると、そこで待っていたのは、これまで以上に真剣な彼女の瞳。つられるように、雪音の体にも不思議な緊張感が走る。
「ねえ、皆瀬さん。勝負しない?」
「勝負?」
意表を突く言葉に、体は勝手に警戒している。脳は、彩花の考えを少しでも読もうと瞬時に切り替わった。
「明後日の月曜日の昼休み、屋上へ来て」
「は? なんで……」
その先の言葉を口にすることはなかった。それよりも先に、雪音の意識は、彩花が手に持ったスマホの画面に向けられたから。
「……なに、これ?」
小さな液晶画面に映し出されていたのは、どこかの屋上。
「なんなの、これ……?」
けれど、映像に映った場所など、雪音にはどうでもよかった。見慣れた制服だとか、見知った風景だとか気になるところがたくさんあったのに。
「これって……」
雪音の瞳が捉えて離さないのは、映像の中に映るふたりの男子生徒。ひとりは背が高く、がっちりとした体格をしている。その姿に、雪音は見覚えがあった。でも、問題はそこでもなくて……。
最初は見間違いかと思った。まさか、そんなことあるはずないって思いたかった。でも、見れば見るほど、疑えば疑うほど、雪音の知っている幼馴染に特徴が合致してしまう。
小さな画面の中で、一方的に暴行される幼馴染の姿に。
「ねぇ、なんで、なんでっ!」
「おっと、ここまでだよ、皆瀬さん」
スマホに伸びる雪音の手を、彩花が二、三歩後ろに下がるようにして躱した。雪音の手は、無常にも空虚を掴む。その間に、彩花はすかさず手に持ったスマホを上着のポケット中にしまいこんで言った。
「これはお願いじゃなく、忠告なんだよ、皆瀬さん」
「……っ!」
「それじゃ、来週の月曜日。屋上で待ってるから」
最後に雪音の瞳に映ったのは、あの頃と変わらない歪んだ彼女の笑みだった。




