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西の空に暮れずむ赤々とした斜陽が建物の影を伸ばす、午後六時三十分。
公園内の出入り口付近には次々と帰路に着く花見客の姿で溢れかえっていた。
「……雪音さん、遅いなぁ」
そんな中、ぽつりと吐き出されるか細い声は容赦なく雑踏にかき消されてしまう。
間もなく月明けとはいえ、日が落ちるにともない夜は少し肌寒い。丁度、陽光が建物に遮られているせいか、舞生はそれを顕著に感じながら身を小さく縮めた。
現在、舞生は井の頭公園出入り口のすぐ脇に店を構える、イタリア料理専門店前にちょこんと立っていた。
その挙動は少々不振である。それはというもの、お目当ての人物が人混みの中に紛れていないか、逐一目を光らせているから。しかし、その甲斐虚しく現在に至るまで、舞生はお目当ての人物は一向に見つけきることができないでいるのが現状だった。
「……うーん、もしかして、行き違いになっちゃったのかなぁ……」
ぽそりと呟きつつ、舞生は今もなお止めどなく排出される群衆から一度視線を外すと、上着のポケットからスマホを取りだした。
画面に目を落とすと、新規メッセージは届いていなかった。
気を取り直し、今度はLINEを立ち上げる。
画面はすぐに切り替わり、六・一インチの液晶画面には見慣れたLトーク履歴が表示される。
そこから舞生は、一番上に表示されたアカウント名「雪音さん」の文字を指先の腹でワンタップ。すると、瞬きする間に過去に行った彼女とのやり取りの数々が表示された。
最新のメッセージは、つい十五分前に舞生から送信した「雪音さん、到着しました」で止まっており、やはり肝心な既読はついていないようだ。
舞生がこの場に訪れてから、すでに約三十分が経過している。本来ならば、とっくに探し人が姿を現れてもいい時間帯である。にも関わらず、肝心の一つ年上の先輩は今なお一向に姿を見せない。
舞生は、今はもう温くなってしまった青をイメージとするスポーツドリンクを忌々しげに見つめた。
「……はぁ、せっかく褒めてもらえると思ったのになぁ……」
長蛇の列に並び、雪音のためにとせっかく苦労して購入してきたのに……。
褒めてほしさに自分で申し出たまでは良かった。良かったけど、肝心の褒め手がいなければ何の意味も持たない。それどころか、今ではただの荷物に成り下がってしまっている始末。舞生が唇を尖らせ愚痴るには十分な理由だった。
舞生は右手に持っていたスポーツドリンクを左手に持ち変えると、キャップに指を掛けた。次に、手首のスナップを活かし反時計回りに回すと、カッチと開封音が小さく響く。そして、少し躊躇ったあと、少しやけになり、ままよと口をつけて喉を潤した。そこで舞生ははじめて自分の喉が渇きを覚えていたことに気がついた。何の抵抗もなく、喉から体の真ん中に水分が通り染み渡っていく感覚が心地いい。
「……まぁ、雪音さんも帰ってきていないし、いいよね」
少し容量が減った半透明な容器を眺めると、舞生は誰に言うまでもなくそう呟く。わざわざ口にしたのは、妙な後ろめたさを拭うため。
「それにしても、雪音さん。ほんと、どこ行っちゃたんだろう……」
でも、慣れないことをして、気を紛らわしてみても、やはり気になるのはそのこと。現在、彼女はいったいどこで何をしているのだろうか。
「もしかして、先に帰ってる……はありえないとして……」
大前提として、舞生の既知たる皆瀬雪音という人物は、他人をほっぽりだしてまで帰宅するような人間ではない。それは確かだと自信を持って言える。彼女が他人との約束は守る性格だと、舞生は昔から知っている。これは、仮にやむを得ない事情ができた場合でも、それはそうと連絡してくるはずだということを含めての見解であり、舞生が皆瀬雪音に抱く一種の信頼の形でもある。
律儀で真面目。それが基本的に舞生の抱く、皆瀬雪音という人物像であり、では、その彼女がいったいなぜ、今も音信不通なのか。
「……まさか」
少し頭を捻ると、舞生の脳裏には、とあるふたりの男女の姿が浮かび上がってきた。
ひとりは舞生がよく知る人物……というか、実の兄であり、過去に雪音の幼馴染だった片瀬優太。
もうひとりは、舞生の知るところにない女子だった。
見た目からして、優太と同級生か、ひとつ年下ぐらいだったと思う。つまり、舞生の一つ上ということなる。
よく覚えているのは、優太があまり好まなそうな目立つ格好をしていたから。
だけど、あくまでもここで重要なのは、かくいうこのふたりが休日の土曜日の昼頃に、仲慎ましげにショッピングをしていたという事実のほう。
正直、妹である舞生は、あの兄が女子と一緒に並んで歩いている光景を見て、一瞬自分の目を疑ってしまった。目を擦り、幾度となく幻覚か、あるいは幻想かと疑いに疑ったものだ。しかし、結局のところ何度も目を擦ったところで、目も前の現実は変わらなかったけれど……。
「でも、だとしたら……」
舞生は、優太と雪音の関係を昔から知っている。
ふたりは幼い頃から共に過ごし、成長してきた、世間一般的なところで言う幼馴染という関係性。
舞生の目から見ても、当時のふたりは嫉妬するのもバカらしくなるほど仲が良かった。
でもそれは、舞生の主観での話。
実際ふたりは、人目があってもなくても極端にイチャつくわけではなかった。
思い返すと、スキンシップも少なかったほうだと思う。けれど、今思い返せばそれは、そういう目に見える部分だけではなく、言うなればもっと深く、心の中で触れ合っているような、特別言葉にしなくても通じ合っているような、以心伝心、例えるならば熟練夫婦といった内面的なところで繋がっていたのだ思う。
ごく当たり前に、何食わぬ顔で、何気ない会話から、目に見えないスキンシップを行うふたりは、何だかとても羨ましくて、見ていて微笑ましかった。
ああ……このふたりはずっと一緒にいるんだなぁ……と、幼いながらに舞生は無邪気に、けれど本気でそう思っていたほどには。
だが、結論的にはいえば、そうはならなかった。
思い出せば、やはりあの日、あの冬の日からだったと思う。
あれは、舞生が当時小学三年生だった頃の出来事。
その日も、いつものように優太と雪音、そして舞生の三人で同じ近所の小学校に通った日の放課後。
昨日借りた本を図書室に返そうと向かった三階の教室で……、
「えっ……」
舞生の瞳が捉えたのは、ひとりの少女の頬を伝う、小さな雫——。
すれ違った舞生にも気づかず、斜陽が差し込む廊下の中を駆けて行く後ろ姿。それが、雪音のものだと気がついたときには、その後ろ姿は見えなくなっていた。
状況の整理もつかない頭のまま、彼女のが出てきた教室を覗くと、視界に入ったのは、不適に笑う亜麻色の髪の少女。そして、その脇で不自然に頬を赤くしたまま茫然自失と立ち尽くした兄の姿。
嫌な予感がした。虫の知らせというやつ。いや、修羅場というやつなのかもしれない。
ひとつだけ確かなことは、謂れもない危機感を感じたこと——。
途端、舞生はすぐに踵を返した。脳裏に過ぎるあの不安定な後ろ姿を思い出しながら、必死に学校中を探し回った。
ありがたいことに、当時から校内では有名人だった彼女の居場所は、偶然通りかかった友達から教えてもらい、所在はすぐに判明した。
「雪音さんっ!」
校門に向かって歩みを進めていた背中に、切れた息を整えぬままそう呼ぼかけた。白い息が視界に端に映っては消えていく。頬に伝う汗の種類まで気にしていられなかった。それくらいに、衝動的な焦燥に駆り立てられるまま走って来ていたから。
「……舞生ちゃん」
風になびく後ろ髪を右手で押さえながら、ゆっくりと振り返った彼女の姿は、舞生のよく知る憧れた人のもの。
斜陽が赤く染めるその小さな顔は、綺麗で可愛くてお人形さんのよう。すらっと長くて細い手足は、彼女の将来を担保していて、あまり美意識に興味がなかった少女に強い憧れを抱かせてくれた。凛したソプラノ声は、鼓膜に優しく、澄んだ空気の中ではよりはっきり耳に届いた。
確かに、目の前にいるのは、舞生が憧れた皆瀬雪音、その人で間違いない。間違いなかった、そのはずなのに……。
「……っ」
振り返ったその表情ひとつにしても、全身から滲む雰囲気にしても、動作一つひとつが妙に儚く見えた。それはまるで、ある意味泣いているようで、困っているような曖昧な表情。
でも、実際には微笑んでいる。舞生の目には矛盾しているように見えた。そして、これまで見てきた彼女のものとは、関わりあってきた雪音の持つ空気感とは、少し毛色が違うと感じるには、その違和感は十分過ぎて。今の彼女からは、触れてしまえば硝子細工のように壊れてしまいそうな、そんな不安定さにも似た危なげなさを感じられた。
そんな彼女の姿見ると、不思議と舞生の心にチクリと痛みが走る。切なくて、締め付けられるような息苦しさを覚える。
「どうかしたの?」
話しかけてきたのは舞生のほうなのに、一向に口を噤むその様子に、雪音のほうが心配そうだ。
「……あの、あのね、雪音さん……」
聞きたいことはたくさんある。あるはずなのに、いざ口に出そうすればうまく言葉にできない。
「あ、あのっ……」
さっきの教室でのあれはなんだったのか?
雪音が去った教室に佇む兄とは何があったのか?
その横にいた女の子は誰だったのか?
何より、どうしてあのとき、雪音は泣いていたのか……。聞きたいことは、本当にたくさんあった。いや、少し強引にでも問い質さなければいけないことだった。
そのはずなのに、先ほどから喉まで出かかっていた言葉は、見えない何かに遮られているように詰まってしまっている。
「あの……あのっ……」
吐き出される自分の声にだんだん湿り気が混じる。言いたいことがうまく言葉にできないもどかしさが、口にしたところで本当の意味では何もできないとわかっている自分自身の不甲斐なさが、そして、徐々に雪音が離れていってしまうような恐怖感が、舞生の口を重くさせる。
正直、言葉にするのを避けてしまっている。躊躇っている。怖がっている。言いたいこと、聞きたいことはあっても、それを口に出してしまえば、たぶん、決定的に何かが変わってしまうような気がしたのだ。それも、二度と取り返しのつかない何かが。
それが何なのか、あの頃の舞生にはわからなかった。わからなかったけど、何となくそう思った。
女の勘。第六感。言い方はたくさんあるけれど、結局は、舞生が抱いた雪音の危うさは本物のような気がした。
それでも、舞生が躊躇ってしまうのは、問いたところでおそらく彼女は答えてくれないだろうと察していたからだと思う。余計に困らせる可能性だってある。下手をすればより一層拗らしてしまうきっかけを作ってしまうかもしれない。そうならば、二度と取り返しのつかない事態に陥るかも知れない。
結局のところ、その引き金を自分で引いてしまうことになるかもしれないという恐ろしさが、舞生の言葉を遮ったのだ。そして、そう考えれば考えるほど舞生の決意も、言葉も、次第に薄れていってしまう。
だから舞生は、その代わりに別の言葉を雪音に投げかけることにした。
「……雪音さん、また明日、会えるよね?」
頼りない声はいつの間にか掠れ、鼻声に変わり、物静かな校庭に溶けていく。
小さな影が、より小さな影に近寄り、ふたりを繋ぐ小さな橋が架けられる。
「……うん、きっと」
頭に触れられた優しく温かな手のひらの感触は、心地良くて安心する。幼い頃から何度もなだめられた懐かしい感覚。もし、自分にもこんな姉がいたら、こんな思いになるのだろうと何度も憧れを抱いた。それは、紛れもない大好きなひとつ年上の少女のもの。
「またね」
それは、いつも優しく語りかけてくれた一つ年上の少女の声色。
そしてそれが、大好きだった一つ年上の少女が見せた最後の笑顔になった。
「……もう、嫌だなぁ、ああいうの」
あの日の二日後、雪音は福岡に引っ越したという話を母親から教えられた。
急遽、父親の仕事の都合による転勤だと告げられ、あのとき抱いたショックは今でも鮮明に覚えている。
何より、あのとき、彼女に感じた違和感を。別れの言葉もろくに言えないまま、見送ることもできなかった後悔を。
同時に舞生は疑っている。
あのとき彼女は、本当に父親の転勤を理由に引越してしまったのか。それはもしかしすると、単に口実だったのではなかったのか……。
今考えている想像が、無粋だと舞生もわかっている。でも、あのときの彼女の表情を、あの涙を見てしまった舞生には、それがどうも納得することができなかった。
幼い頃からともに過ごしてきた舞生たちに、顔を見せず、あまつさえ別れの挨拶の一言も告げず、一方的に去ってしまうことなんてあるのだろうか。
そんな疑問が、今おなお胸の中に刺さって取れない針となっている。
「……ん、あれって……」
そんな追想に思いを馳せていると、舞生は人ごみの中に見知った横顔を見つけた。
腰まで長い艶のある黒髪。ベージュ色のロングコートの下に黒のハイネックのトップスにロングスカートで合わせ、ハイカットの靴で整えた大人っぽい出で立ちの少女。
凛とした彼女に良く似合うコーディネートだったから、舞生はその人物が誰なのかすぐにわかった。
「雪音──」
舞生は声をかけようとして、その口を咄嗟に紡いだ。前に出しかけていた二歩目の足も、上げた右手だって、中途半端な位置のまま下ろし方忘れしまったように固まっている。
「……なんで……」
うわ言のようにこぼれ落ちた言葉は、自分でわかるほど愕然としていた。
舞生の視線が捉えていたのは、真剣な表情を浮かべて歩く雪音の前を悠々と行くひとりの少女。
ハイネックの赤いニットのトップスに、丈の長いハイウエストのズボンを合わせたおしゃれなコーデ。身長はヒールの高さを引いて155センチメートルぐらい。すらりと長い手足とニットを押し上げる二つの曲線が女性としての魅力をより引き立ている。
彼女は、雪音と並んで歩いても負けず劣らずの美少女だった。
けれど、一番舞生の目を引いたのは、歩くたびにさらさらと揺れる亜麻色の髪と、その隙間から見せる、不敵に歪んだ微笑み。
偶然にもそれは、あの冬の日、舞生が放課後の教室で、佇む優太の横で見た少女と重ねてしまい、そして、その瞬間、ひとつの疑問が解けた。
それは、雪音が待ち合わせ場所に現れなかった原因。
現れなかったのではなく、現すことができなかったのだと、舞生は察した。
連絡にも出なかったのではなく、出れなかった。もしくは、気づけなかったのかもしれない。
理由は簡単だ。
状況がそれを許してくれなかったのだろう。彼女には、許せるほどの余裕はなかったのだ。
おそらく、彼女にとって、いや、彼女たちとって、これはデリケートな部分に触れる問題だから。
それが理解できたのは、舞生の中にもひとつだけ思い当たる節があったからに他ならない。
それは、思い返しただけで、悲しくて苦しく、切なく痛い記憶。
四年前のあの冬の日。
舞生には、唯一後悔した出来事がある。大切なものを失うが怖くて、目を逸らすことしかできなかった弱く脆かったあの頃の自分だ。
でも、失ってからでは遅かったことに、成長した今は気づけた。目を逸らしただけでは、何の解決にもならないことを身を以て知った。
ずっと、悔やんでいた。
あのとき、目を逸らさず、ふたりの間に何があったのか突き詰めていれば、舞生の大好きな二人の笑顔を守れていたかもしれない。それが駄目で、もし、優太と雪音の間に埋まらない溝ができていたとしても、正面切って言葉を交わし、一緒に解決できない問題なのかと思考していたら……手を取り合い、必要ならば不甲斐ない兄の背中を張り倒してででも、またともに笑える日々が戻ってくる可能性があったのではないかと……。
ずっと、悔やんでいた。
だから、今、自分の取るべき行動は、舞生自身が一番わかっていた。
もう一度、肩を寄せ合う大好きなふたりの姿を、この目で見るために。
「よしっ!」
そして片瀬舞生は、あのとき落とした後悔の数々を拾い上げるように、再び歩き出した。




