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校門を出たあと、優太と慧、二人の足取りは、揃って最寄りのバス停まで向けられていた。
校門から出て約五十メートルの道のり。車道の両脇には並木道が連なり、早朝になると制服を身にまとった学生たちでごった返す。放課後となった今は、やけに閑散としており、帰路につく生徒もまちまちだ。
前後に走り抜ける自動車の走行音。遠くの方から聞こえて来る烏の鳴き声。沈む夕日。そのすべてが今日という一日の終わりを告げている。
ふたりが日々利用するバス区間は、吉祥寺駅から柳沢駅まで。時間にしておおよそ二十分間という短い順路。
優太たちが利用する北野蔵高校前までは、約十五分間の道のりとなっている。
すぐ隣で口ずさまれる知らない鼻歌を小耳に、優太はひとつ大きな欠伸をした。そのあとに、ちらりと横を見る。頭の後ろで腕を組み、なんだかご機嫌な様子で歩く友人の横顔からは、苦労とかストレスをまったく感じられない。幸せそうな表情というよりは、お気楽そうな面持ち。
なんだかその幸福に満ちた顔を見ていると、そのしわ寄せをひとりで担っている気分になってくる。
優太は聞き慣れない鼻歌が途切れるタイミングを見計らい声をかけた。
「なあ、阿久津」
「ん?」
聞いているのかいないのか、判断に困る気の抜けた返事。目だけ優太に向けているから聞いてはいるとは思う。優太は、すぐ脇の車道を走行していく車のテールランプを視線で追いかけながら口を開いた。
「そろそろ、心の準備はできたか?」
優太の言葉には、大事な『何が』が抜けていた。だから慧も一瞬わかってないような表情を浮かべる。
けれど、そのあとすぐに、
「ん? あー、うん、まあ……一応は」
と、表情を強ばらせた。問われた質問に検討がついたようだ。淡い苦笑がそれを物語っていた。
一方、優太が具体的な言葉を必要としなかったのは、二人の間で何回も繰り返されたやり取りだったからに他ならない。
「まあー、でも、あとはタイミングの問題ってやつだな」
「タイミング、ね」
「そ、タイミング。大事じゃん? 一歩間違えれば大火傷じゃ済まないからな……。用心するに越したことはないだろ?」
少し先の地面を見据えながら、慧がどこか緊張した面持ちで言った。いつも飄々としている分、事この問題に対する彼の真剣さが窺えた瞬間だった。
「当てはあるのか?」
「うにゃ、それがないから、実は今、困っていたりする」
「なんだそりゃ」
しかし、逆に言えばタイミングさえあれば問題はないと言うこと。でも、肝心なそのタイミングが一向に見つからないから困っている。困っているから笑って誤魔化している。厄介なのは、そのタイミングを見分けることなのに。
「なんか、いいアイディアとかあるか?」
「……あったらすでに言ってるだろ」
「だよな」
慧の求めるそれは当然、誰かが教えられるようなものではない。学校の教科書にも載っていない。もちろん、優太も知らない。
だから、なおさら慎重に見極める必要がある。それが本気であればあるほど真剣に。真剣であればるほど真摯に。真摯になればなるほど慎重に。
そんな慧を、人によっては意気地なしだと見なす奴もいるかもしれない。勇気のないやつだと、笑い者にする奴だっていないとも限らない。
でも、それでも、優太にとってその姿はとても眩しく、そして尊いもののように映っていた。
ならば今、優太が掛けてやれる言葉は、少しでも背中を押してあげられるような言葉であるべきだと思う。それが慧のためになるのなら、例えどんなにほろ苦い味がしようとも伝えるべきだ。
そして優太もまた、少し先の地面を見据えて滔々と口開く。
「まあ、焦る必要もないけど、早いに越したことはないと思うぞ。時間が有限であるように、人間関係も変わらないってことはないからな。人間だから、環境が変われば考えも変わる。考え変われば人間は変わる。最初は些細な問題だったはずの石ころも、気づけば取り返しようもない爆弾に変わっていたりすることもある。どんなに仲が良かった人間でも、きっかけさあれば簡単にすれ違う。最悪、そいつとは一生、すれ違ったままってこともあるかもしれない」
「……同感だな、それ。耳がいてーわ」
点々と煌めき始めた夜空を見上げながら、慧は少し困ったような声に同調した。
その不安げな眼差しが映しているのは、きっと夜空の向こう側、記憶の中にいる彼女の姿なのだろう。
「まあ、その点に関しては、お前なら問題ないだろ」
しんみりとしてしまった空気を紛らわすように、優太は楽観的な意見を述べた。すると、慧もつられてからっと笑う。
「てきとーな意見、どうもありがと」
横目に窺った表情にはすでに、先ほどまで見せていた気弱な慧の姿はなかった。
人の言葉を素直に聞き入れ、考え、昇華させることができるところが慧の長所だと優太は思う。本当に強い心を持っている。
だから、この先、慧に関して言えば何も心配は要らないのかもしれない。どんな状況に立たされたとしても、慧ならばシャープに対応し、スマートに解決してしまうだろう。
それに、彼ならば間違いなくそれができると、去年を通して嫌というほど優太はわからされてきたのだから。他からなぬ、彼自身によって。
「問題あるかないかは別にして、まあ、優太の期待に沿えるぐらいには、頑張ってみよっかな」
からっと笑った慧は、なかなか気恥しいことを口にしていた。
これは負けてはいられないと、卑屈な笑みを浮べて優太も宣言する。
「言っておくが、俺がお前に抱く期待は、お前が思ってるよりはでかいからな、覚悟しろよ?」
「なんだよその覚悟ってのは。それにお前は俺のばあちゃんかよ」
「ある意味そうかもな」
「え? それどういう意味? ちょっと怖いんだけど……」
そんな会話を交えていると、気づいたときは最寄りのバス停の目の前に到着していた。
慧を先頭に、誰もいないバス停に新たな列を形成する。
「んで? 話を戻すけど、お前、いつ告白すんの?」
「……その話、さっきの流れ的に終わったはずだろ」
「これからが本番だろうよ」
「おいおいまじか……」
にんまりとした笑みを浮かべて見せる優太を横目に、慧はあからさまに肩を落とした。けれど、これ以上抵抗するのもバカらしく思えたのか、「はあ……」と重いため息を吐き出すと、おもむろにとある思いの丈を呟き出し始める。
「優太、お前には二度振られた相手にもう一度告白する勇気、あるか?」
目の前を横切るヘッドライトを尻目にそう切り出した慧の口調は苦々しかった。浮かべる表情にも、どこか陰が指しているようにも見えた。
「……ない、な」
想像しただけでも想像以上にしんどかった。密かにパンドラの箱を覗いた気分。さっきまで気にならなかった虫音が妙に気になりだす。
「しかも、二回目とか無視だぞ、無視」
もちろん慧の言うそれは、「虫」でも「蒸し」のほうでもない。どう考えても、現にあるものをないもののように扱うあの「無視」だ。スルーとも言う。
「聞こえてなかったとか、そういうオチって線はないのか?」
アスファルトに視線を固定したまま、慧に一種の可能性を投げてみる。誰だって聞き逃しの一つや二つ珍しくはないはずだ。それが偶然、告白のタイミングと重なってしまったのなら、それは純粋に運がなかったとしかいいようがないけれど。まあ、それならそれで、普通に同情してしまうが……。
けれど、その可能性さえも肩を竦めた本人がすぐに否定してみせた。
「その線も考えたし、俺だって普通の会話だったら、普通に言い直していたよ」
けど、そうじゃない、そうじゃなかった。慧のそれは、普通とは遠い位置にあるコミュニケーション形態の一つ。もはや、対極と言っても過言ではないような気がする。
「確かに……それが告白となれば、聞き返すにも勇気、がいるよなぁ」
最低でも、勇気100%は必要なはずだ。
「だろ? そうだろ!? 俺はチキンじゃないよな!?」
共感を得られたことが嬉しかったのか、慧が縋るような目で泣きついてきた。痛々しいにも程がある。今度、ジュースぐらいは奢ってやっても良いかもしれないと思うぐらいには、優太も同情を禁じ得なかった。
「……俺、どうすれば良いかな」
慧はため息を吐くようにそう呟いた。暖かくなりはじめた春風に乗って、その力ない声はすぐに飛んで消えていく。
「……もう、ダメなのかな、俺……」
うっすらと顔を見せはじめた朧月を見上げたその横顔は、優太の目にもいつになく弱気に見える。
その顔は、サッカー部のエースが見せる頼り甲斐のある笑みでも、校内屈指の人気者が見せる屈託のない笑みでもない。ただ、不安定な時期を生きる十七歳の青年が見せる年相応のほろ苦さがあった。
一見、隙のないように見える慧にも、悩みとか、迷いはあって、取り返しの付かない過去だって経験しているのだ。
だけどそれは、慧に限った話でもない。向かいの歩道を歩くスーツ姿の男性にも、買い物袋片手に背後を通り過ぎて行く私服姿の女性にも、それぞれにそれぞれの悩みがある。
十人十色。
人の数だけ悩みが存在しているのだから、生きている限り、そこに例外なんてものはない。自分だけが理不尽な思いを背負って生きているわけじゃないのだ。
そのことに、今さらながらのように優太は気がつけた。
なら、今の優太は友人として、また、ひとりの経験者としてアドバイスできることは一つ。
「とりあえず、ぶつけてみろよ」
「ぶつける?」
「そ。その胸の中にある感情、余すことなく、全部」
「……けどよ、もしそれでダメだったら、俺、今度こそ泣いちゃうぜ、きっと」
頼りないことを正々堂々と宣言されてしまった。これには優太と思わず苦笑してしまう。でも、これは呆れ笑いでもなければ、失笑でもない。ただ真っ直ぐで純情な素直さに彼らしさを感じたから、思わず笑みが溢れてしまったのだ。
「いいじゃん、泣けば。想いを伝え切れずに泣くよりか、そっちの方が百倍良いに決まってる」
「つまり、当たって砕けろってことか?」
慧が少し咎めるような視線を送ってくる。他人事だからそう言えるんだと言わんばかりに。
「他人事だからそう言えるんだぜ、きっと」
と、思ったら本当に口に出して言われてしまった。心外である。優太はただ純粋に、良かれと思ってアドバイスしたつもりだったのに。
「でも、お前の場合、もう二回も砕けてんだ。三度目だって同じはずだろ?」
奇しくも、世の中には二度あることは三度あると言う言葉もある。もしかしたら、四度目もあるかもしれないし、それは誰にもわからない。そして、わからないからこそ、根拠なんてものは最初から必要ないのかもしれない。
「ひでぇーアドバイスだなっ」
呆れたように慧が額を右手で覆った。でも、言葉とは裏腹にその口調は明るめに感じる。よく見ると、手に隠れた口元は緩んでいた。
きっと、慧もわかっているのだろう。最初から答えは決まっていて、あとは自分次第だということに。それがわかっているからこそ笑っている、笑っていられるのだ。
「でも、おかげで目ぇー覚めたわ」
確かに、先ほどまで悲壮を漂わせていた瞳には、いつもの精気に満ちた眼差しが宿っている。そして、その眼差しのまま、慧は力強く宣言した。
「俺さ、また…、絶対また、あいつに告白することにした」
しゃんと胸を張り、自信に満ち溢れた慧の姿は、今の優太には一段と眩しく見えた。思わず、目を逸らしたくなるほど猛烈に。過去の優太がそうであって欲しかったと思えば思うほど、より一層強く。
だから、わざわざ「頑張れよ」の一言も掛けたりしなかった。言われなくても、慧は頑張るに決まっているし、阿久津慧という友人が、そういう男だと優太は知っていたから。