#—— 17 ——#
片瀬優太は、皆瀬雪音のことを誰よりも理解している。……そう、わかっているつもりだった。今、この瞬間、彩花に否定されるまでは。
「でもね、片瀬君。彼女はそれをしたんだよ」
「……嘘、だろ」
「ほんとだよ」
優太は戸惑った。吐き出しかけていた言葉を思わず呑み込んでしまうほどには動揺してしまった。
わからなかった。ただ単純に理解できなかったのだ。
どうして、今にも彼女が泣き出してしまいそうな顔をしているのか。それが優太には不思議でしょうがなかった。
厳密には泣いているわけではないし、優太にはそう見えただけで、単にそう映ってしまっただけなのかもしれない。
それでも、見えてしまったが最後。
気づけば、吐き出してしまうはずだった雪音への弁護はすっかり行き場をなくしてしまい、取り乱さないように振る舞うだけで精一杯だった。
「ねぇ、教えてよ、片瀬君。もし、私が知っている皆瀬さんがみんな嘘っぱちで、幻影で、虚像だったら……そうだったのなら、今この場にいる私は何なのかな?」
彼女の問いに優太は答えなかった。その答えは優太にもわからないから。だから、今はただ黙って地面を見つめることしかできない。
「片瀬君は、片瀬君が知る皆瀬さんを信じるんでしょう? だったら、その幻影に囚われていた私は誰だったの?」
彩花の言葉が蔓のように体に巻きついてくる。次第に喧騒も雑踏も遠ざかり、じりじりと優太は追い詰められていくような感覚に囚われる。逃げようとも逃げきれない。考えても、考えるほど正解と思える答えに辿り着けなくなる。何より、彼女の瞳がそれを許してくれなかった。
「それは……わからない」
それでもなんとか絞り出した声は、自分のものかも怪しく思えるほど弱々しいものになっていた。
「そっか、それは残念」
諦念に満ちた声色に、優太の胸はさらにぎゅっと締め付けられた。もし彼女の言うことが本当ならば、そう考えただけで息が苦しくなる。
「……けど、一つだけ言えることがある」
「言えること?」
怪訝に満ちた彩花の視線が優太を射止めた。
そんな彩花の視線を優太は振り払うように、優太も彼女の瞳を真っ直ぐ見返した。
今度は目に逸らさない。
正面から受け止めると決めたから。
地に足をつけ、迷う暗闇の中に自分が信じる一縷の光を見つけだすために。
「俺は知っているんだ。あいつが誰かのことを貶めるような人間じゃないってことぐらい」
今度は自分が思うより力強い声がでた。
「ふうん。でもさ、それの言葉には確かな証拠はないんでしょ?」
「……確証は、ない……。俺が勝手にそう思っているだけだから」
でも、それが何よりも大事なことだって今ならわかる。それで良いと、今はそう思えられる。
「確証バイアスってこと? 私、そういうのあまり良くないと思うけど?」
すっと、彩花は大きな瞳を細めた。喉元に鋭利なナイフを突きつけられているような緊張感が優太の背筋を撫でる。でもそれは、優太の意思を変えられるほどじゃなかった。
「否定はしない。ただ、俺の考えも変わらない」
これはもう優太の中では決定事項になっている。
偏見と言われようが後ろ指を刺されようが、依怙贔屓だと揶揄されようが、たとえ偏愛だと思われようが変わらない……そう、今なら自信を持ってそう思える。
「そっかぁ。それは残念……本当に残念」
どんな言葉を投げかけられようが、受け止めるだけの覚悟はできている。
片瀬優太には、皆瀬雪音を信じきるという覚悟がとうの昔に固まっているのだから。
けれど、次に口を開いた彩花の言葉は、そんな優太の覚悟を嘲笑うようなものだった。
「なるほどね、片瀬君の意思は理解したよ。……でも、その根拠には確証もないようだしさ、暫定的には片瀬君の目の前にいる私が答えってことでよくないかな?」
彼女が口にした内容は、優太が固まるには充分な温度差だった。
遅れてやってきた戸惑いや驚愕に体が反応できない。正直、もうわけがわからなかった。何がわからないか、それがわからないぐらいにはわけがわからなくなってしまっている。
結局、優太の脳が思考復帰に有した時間はその間のたっぷり十秒ほどした後で……開いて閉じない口からようやく言葉が音となって放たれたのは、それから五秒ほどのことだった。
「は……? 何だよそれ! 神妙なスタートから始まったのに、随分と投げやりな着地だな! お、俺は納得しねーぞ!」
「いいじゃんいいじゃん、もう過ぎた話なんだしさぁ」
そう言って、彩花はくるっと半回転。そのまま時計回りに池沿いをゆったりとした足取りで歩き始める。当然、その後を文句が言い足りない優太が追いかける構図となる。
空気感は以前と殺伐としている。しているけど、傍から見ればなんだかんだ悪くない雰囲気に見えてしまうから不思議だ。
「ざけんな!こっちはな、お前が散々引っ掻き回してくれたおかげでいでいろいろ大変なんだぞ!?」
「そっかそっか、それはご愁傷様だねぇー」
まるで他人事のような言い草。表情は前を向いていてわからない。わからないけど、今はそれが救いだったかもしれない。
「て、テメェ! 主要因のお前がそれを言うか!」
「うわあ、本気でキレないでよぉ。周りの人のことも考えて節度ぐらいは守ろうよー」
「だから!」
「わかった、わかったから。お姉さんがあっちの屋台のジュース奢ってあげるからさぁ、今は機嫌直してよぉ」
「いらねーよ、んなもん! てか、勝手に人を年下の親戚扱いしてんじゃねーよ!」
「もぉー、そんなに頭に血を昇らせちゃうと血圧上がっちゃうんだから大人しくしてよぉ」
「だぁー! 全然話通じねぇなおい!」
先ほどまで漂っていた神妙な空気はどこへいってしまったのだろうか。こんなはずじゃなかったのに。気がつけば完全に彩花のペースになっている。まるで釈然としない。うまくはぐらかされているような感じで全然腑に落ちない。
「……」
ひとりもやもやする優太の内情をよそに、後ろ手を組んだ彩花のニットヒールはかつんかつんと軽快な足音を鳴らしながら前を行く。
歩くたびに特徴的な甘いブラウン色の髪が愉快げに踊る。丈の長いハイウエストのパンツが彼女のスタイルの良さを誇張し、まるでどこかのモデルと一緒に歩いているような錯覚を覚える。そんな彼女と優太は距離感を掴み損ねている。
正直、どう接していいのか、次にどんな風に声をかければいいのか未だに迷っている。依然、五年間分の距離感が会話のサビとなっているのだと思う。
「でもさ、片瀬君」
「な、なんだよ?」
だから、突然話しかけられ、優太は思わず返事に詰まった。
そんな優太を気にせずに、彩花は振り替えもせず、相変わらずフラットな口調で口を開く。
「現に私のすべてを皆瀬さんに奪われたことは本当だったんだから」
それはフラットな口調で話されては困る内容だった。他人事なのに、優太の心臓が痛いのは気のせいではないので、唐突にそういうことを言うのはやめてほしいところ。思っていても、口には出せないところが痛いところでもある。
「……そ、それは、本当なんだろうな?」
先ほど雪音を信じると言った手前、一応優太は疑ってかかった。
「単に、片瀬君が知らないだけだよ」
「……知らないだけ?」
「そ、知らないだけ。残念ながら、片瀬君は片瀬君だから」
「はあ? 俺が俺だから、あいつのことを知らないって、意味わかんねぇーて。だいたい、俺とあいつとな、小さい頃からずっと──」
「ずっと一緒にいたからわかる……と?」
優太の言葉を遮るかたちで、彩花がすっと視線を向けてくる。試されているような瞳を向けられ思わず一歩出遅れてしまう。
「そ、そうだ」
遅れて答えると同時に、優太は再び開いた距離をつめた。
それでも、彼女との間は縮まらないと思うのはどうしてだろう?
彩花への疑念は深まる一方で、同時に優太を見据える彼女の瞳も疑念に満ちていた。
「ふうん。でも、それはホントなの? それは本当の彼女だったなの? 表も裏もなく、嘘偽りもなく、今でも片瀬君は心からそう言えるの?」
「……」
「ほら、黙っちゃったじゃん。結局、その程度なんだよ」
見透かしたように彼女は笑うだけ。薄く嗤うだけだった。
「確かに片瀬くんは誰よりも皆瀬さんのことを知っているのかもしれない。なんてったって幼馴染同士だからね。でも、どうだろう? 片瀬君が知っていたのはさ、実は表の彼女の方だった。日向の彼女の横顔だったとも言えるんじゃない?」
「……そんなの、あるわけが……」
「あるんだよ、それが。片瀬君が知らないだけでね。 その証拠に、さっき私が言った裏の彼女の方、つまり日陰の彼女の横顔に、片瀬君は異論反論を述べてきたんだから。それって、彼女のことを真に理解していないってことでしょ?」
「……」
彩花の言葉に、優太は反論らしい反論を答えられなかった。いや、答えることができなかったのだ。
五年間、信じて疑ってこなかった幼馴染のことだったから。
五年間、一方的に憎んできた元クラスメイトの言葉だったから。
それぞれ思ってきた期間が長すぎて、今、答えを出すには圧倒的に時間が足りなくて、どう考えてもつり合っていない。
でも、その沈黙が何よりの答え。優太が迷いはじめた証拠だ。
彩花はそれを見逃さない。見過ごさない。
ふわっと桜が舞う。
弧を描く、彼女の唇を隠すように……。
「私は奪われたの。何もかも。片瀬君の知らない皆瀬雪音ね。どう? これでようやくわかってくれた? これが過去の真実。私の、過去の桜見彩花が見てきた景色──」
彩花はそこで言葉を区切り、人差し指と中指を立て、二の指をつくる。
「そして、片瀬君にわかってほしいことは二つ」
「二つ?」
「そ。二つ」
そう言って、彩花は手始めに中指をゆっくりと折り曲げる。
「まずは一つ……。先に、私から何もかも取り上げたのは、あの女の方ってことを片瀬君に知って欲しかったこと」
「……だから、だからあいつにも解らせあげたかったのか? 奪われる側の苦しみ、悲しみ、悔しさ、虚しさ、怒り、絶望の味ってやつを」
「そ。そいうこと。だからあれは、私なりの意趣返し。そして、これらの真実を踏まえて、片瀬君の意見も聞かせて欲しいの。本当に悪いのは、私か、それとも君の幼馴染のどちらなのか」
彩花はそこで言葉を区切ると、終始飄々とした様子で優太の返事も待たずに二つ目の目的を告げようとする。
でも、語られる前に優太はなんとなく理解していた。今から語られる言葉が、彼女の本当の狙いだと、今日、彼女が過去の遺恨を押し切ってでも、優太のもとに現れた彩花の覚悟現れだということぐらい。
「そして、二つ目は私の義理妹……智花のこと」
「杉原の……?」
ただ、彼女の思考がわからなかった。
一体何を求め、何を捨て、何を得ようとしているのか。それは自分の心労を押し切ってでも、得ようとするだけの価値があるものなのか。
でも、彼女ならば、元クラスメイトで杉原智花の義理姉ならば話は違ってくる。
「そう……でもこれはお願いになっちゃうのかもしれないけどね」
自嘲するように眉根を下げた彩花が儚い微笑を浮かべた。
それは、今日一番真剣な面持ちだった。思わず息を呑んでしまうほどにはその表情から緊張感を感じた。
雲の隙間から降り注ぐ斜陽。彼女の綺麗な横顔を暖かな陽光が際立たせる。
きっとこれが、彼女の本懐であるかどうかなど、もう優太は疑いもしない。
でもそれは、過去を忘れたわけにはならない。忘れられるわけでもないということはわかっている。虫のいい話だとわかっていて……それでも、それでもなお、彩花は口を開くのだ。
「お願い、片瀬君。私たちの問題に、私の悔恨にあの子は巻き込まないで欲しいの。あの子の、智花の想いだけは本物だから……」




