#── 15 ──#
「桜、綺麗だね」
優太の少し前を歩く彼女は、あのときよりも随分と大人びた表情で笑った。
「これ全部、ソメイヨシノなのかな」
今日も空を覆い隠すように咲き乱れる満開の桜は鮮やかだった。
公園全体に植えられた桜の総数は約四百本。そのうち、池の周囲に植えられた桜の木々が全部で約二百本だと、昨日TVのアナウンサーが言っていたのを優太は思い出した。
「ヤマザクラとオオシマザクラ、カワヅザクラとカンヒザクラだっけか」
「え?」
「桜の名前。たしか、ソメイヨシノの以外の……」
「へぇ〜、詳しんだ」
「別に。昔よく来てた場所だから」
池の中心に架かる七井橋には、多くの花見客がひしめく合うように溢れかえっていた。
子供を真ん中に仲睦まじく歩く家族連れから、腕を絡め合うカップルたち、なかにはカメラを片手に大きな荷物を背負った外国人も散見される。
そんな彼らの多くが岸から我先にと水面に向かって伸びる枝々や、その端々に芽吹く桜の美しさに感嘆の息をもらしている。淡い桃色と水面に反射した青空のコントラストには、人の足を止める魔力が宿っていた。
けれど、桃色の花弁が人々を魅了する期間は約一ヶ月と短い。遅咲きの今年も六月となれば、次の季節を報せる緑が顔を覗かし始める。どれだけ見事に咲き乱れていようとも、桃色の花弁は儚く散っていく定め。けれど、そんなところに、人は風情を感じ、感情を揺れ動かされしまうのだ。
「ふーん。まあ、いいけど」
どこか納得してない様子の彼女はそう呟くと、再び優太の半歩前を歩き出した。
「……」
ゆらゆらと恵風に揺らめく肩まで伸びた亜麻色の髪。150センチ半ばほどの身長に、すらりと細くて長い手足。
後ろ姿だけでも、やはりあの頃とは雰囲気からして違っている。改めて優太はそう感じつつ、その一方で彼女のすべてが変わったわけでもないことに気付いた。
思い返してみれば、屋上前の廊下で対面したときもそうだった。
彼女という存在に、その一挙手一投足に、優太を映す垂れ目の瞳に、気づけば自然と身構えていた自分がいた。
五年前のあの冬の日のことを優太は忘れてなどいない。一度たりとも、忘れたことはなかった。
遠ざかっていく幼馴染、すれ違うたび抱く苦しさ、その間にあったのは後悔と切なさ。
後悔するとわかっていても、それを選べなかった自分へ怒り。
理不尽な現実を突きつけられてもなお抗うこともできなかった自分の心の弱さ。
大切な幼馴染との日常を奪い去っていったあの少女に対しての憎しみ。
瞳を閉じれば、今も目蓋の裏に思い浮かんでくる。
透き通るような青空に咲く桜を見上げれば、自然と脳裏を掠めていく、あの少女の名前と、淡い笑みを湛えた口元から放たれた、あの言葉。
── 実はね、君の幼馴染のあの子、私たちに虐められているんだよ
優太はぐっと奥歯を噛み締めた。握った拳に力が籠る。体の奥底からは沸騰しそうなほど煮えぎった激情が、今か今かと爆発するタイミングを見計らっている。
けれど、優太はそのすべて理性で抑え込んだ。
それでも懲りずにふつふつとこみ上げてくる感情は、一度立ち止まり、大きく息を吸って吐いて無理やり落ち着かせる。
「急に立ち止まっちゃってどうしたの?」
優太が付いてきてないことに気が付いた少女が人の流れに逆らって戻ってきた。怪訝な表情。少し下から優太を覗き込んでくる表情は、どこか困ったように見える。きっと特徴的な垂れ目がそう感じさせるのだろう。
そして、今さらながらに不思議に思う。違和感を覚えていたのに、覚えていたことを自覚していたのに、それでもなお気づけなかった自分が不可思議に思えてしょうがない。
優太は知っている。ちゃんと覚えている。まだ忘れていない。いや、あの日から忘れるはずがない。あの冬の日から、忘れることができないでいる。
五年前と同じ、あの微笑だけは忘れられるはずがなかった。
……そのはずなのに。
「なんも成長してねえじゃん、俺……」
彼女と顔を合わせたとき、優太は彼女のことをすぐに思い出すことができなかった。そんな自分が一番許せなくて。そのことに今さら気がついて、頭の先から足の爪先にかけて力が抜けていく感覚に苛まれる。不意に強い衝撃が肩から腰にかけて走ったのは、まさにそんなとき。
「片瀬君!?」
頭上から自分の名前を呼ぶ声が鼓膜に響き、そのときになって優太は初めて自分が突き飛ばされたという事実に気がついた。
わずかな浮遊感を覚えたあと、お尻に痛みが走った。
倒れる体を庇う拍子に出た右手の掌には、小石が刺さったような鋭い痛みが襲った。
遅れて、誰かが駆け寄ってくる足音と、苛立ちげに遠のいていく足音が同時に聞こえてきた。
鋭い舌打ちと一緒に聞こえてきたのは、「道の真ん中でぼさっと突っ立ってんな!」という苦情の言葉。その声は、もちろん遠ざかっていく足音の方から聞こえてきた。視線を向ければ、斜陽に照らされ光肌色の頭が眩しかった。
優太の意識がスキンヘッドの男に向いていたのはそこまでだった。
「大丈夫?」
そう言って、視界の上の方で心配そうな声が掛けられたから。腰を曲げてこちらを覗き込んでくるその拍子に、はらりと垂れた彼女の亜麻色の髪が優太の頬を掠めた。柑橘系だろうか、爽やかな匂いに鼻腔をくすぐられた。
「ああ……大丈夫」
言いながら、優太は目の前に差し伸べられた白くて華奢な手の助けは借りずに自力で立ち上がった。
両手でお尻ついた砂埃を軽く払っていると、ふと視線を感じた。顔を上げてみると、むすっとした表情を浮かべた少女がじぃっとした瞳で優太を捉えている。
何か言いたそうな顔。けれど、一秒、二秒、三秒と待っていても、彼女から言葉が放たれることはなかった。
「え? なに?」
いい加減湿り気を帯びた視線から逃げたくて、先に優太のほうからそう問いかけた。すると、彼女は「ん」と喉から声を出し、その視線は優太に差し出されている自分の手に向けられていた。
不服そうな顔とその仕草だけで、彼女が言わんとする意図は十分伝わってきた。けれど、優太はそれ以上に困惑した。なぜなら、今さら立ち上がってしまった現状では、彼女が差し出してくれた手をつかむ理由はないからだ。
「あっ、その……ごめん」
気まずげに謝罪する自分は、自分でもそっけないと態度だと優太は思った。でもそれ以外に何が言えたのかと問われれば、結局、同じような言葉で、同じように目を逸らしている自分しか想像することができなかった。
優太自身、そんな言動を取ってしまった要因はちゃんと自覚しているつもりだ。
怒りと疑念と不安。
五年ぶりに再開した彼女に抱いくそれらの感情たちが心の指針を定めてしまっている。
揺れ動く心情に、優太自身、右も左もわからずにあちこち引っ張られては戸惑うばかり。
そんな優太を見透かしたように、彼女の口から決定的な言葉が飛び出してきたのはまさにそんなときだった。
「もう、そんなに邪険にしないでよね? 形はどうあれ、私たち、元恋人同士だったじゃない」
「——っ!」
「まあ、私が引っ越すまでの一ヶ月間というほんの短い期間だったけどさ」
一ヶ月間。
言葉にしてみれば、彼女の言う通りほんの短い期間。
三百六十五日ある日々の三十一日間。
日本人の平均寿命八十四歳のうち、たった一ヶ月間。
でも、その一ヶ月間で失ったものはものはあまりに大きかった。当時、小学生だった優太にはあまりにも衝撃的すぎた。
彼女は一切の嘘をついていない。どんなに拭い去っても、彼女の言葉は真実だということを自分自身が一番理解している。だから、こんなにも驚いている。今し方彼女が口にした言葉は、変えようもない絶対的で決定的な過去の話であり、これまでの歩んできた自分の軌跡なのだから。
「こう見えてもね、あのときは相当ショックだったんだよ。やっとの思いで君と付き合えたのに、その一ヶ月後にはすぐお別れだなんて」
あのときの出来事は、優太も鮮明に覚えている。いや、きっとそれは優太だけの記憶ではなくて。当時、同級生だった生徒たち、ましてやクラスメイトなら全員覚えていると思う。
その月は世にも珍しく、同じクラスの中から立て続けに二人の転校者が出ていたのだから。それも校内でも特に際立って目立っていた生徒たちだったのだから。




