#—— 13 ——#
彼女が視界に映ったとき、とくん ── と鼓動が脈動した。
奇しくもそれは、五年前あの冬の日の放課後と同様だった。
四方八方行き交う人混みの中、亜麻色の髪を揺らめかす彼女が見据える延長線上には、気だるげな後ろ姿を見せる彼がいて。そんな彼に向かって、彼女は変わらない微笑を浮かべいて近付いていく。
あの冬の日以来——。
雪音には、桜を見ると無意識に思い出してしまう人物がいる。
彼女は長年募り上げてきた確かな想いと、ずっと大切に守ってきた居場所を、たったの一日にして雪音の前から奪い去っていった。
——これでおあいこでしょう?
斜陽が差し込む教室の扉の前で、立ち竦む雪音に向けて愛嬌のある丸い垂れ目の瞳を昏く輝かせた彼女は本当に嬉しそうに笑っていた。
あのときの表情は今でも忘れない。
あのときの絶望は忘れられるはずがない。
あのときの虚無感は忘れることができない。
あのときの怒りは忘れられない。
あのときの失望は忘れさせない。
忘れ去ろうとも、思わない。
桜は、あの桃色の花弁は、彼女を現す花の名前だから。
「桜美彩花……」
視界に映った彼女は、ごった返す人海の世界で真っ直ぐに彼の元へ向かっていく。
何もかも違った。だから、気がつかなかった。
長かった亜麻色の髪はセミロングに切り揃え、身長もスタイルも五年前の彼女とは違っている。けれど、彼に歩み寄っていくその表情だけは何も変わらなかった。実に可愛く、笑顔で、朗らかに。でも、だからこそ、今、気づくことができた。
そして、彼女が彼女たる決定的な瞬間は突如として現れる。
「──っ!」
何かの見間違いか、一瞬、細められた彼女の視線が雪音を捉えた。その笑みは、心の底から楽しそうで、それでいて嘲笑うような、そんな微笑を彼女は湛えた。
──いやっ、やめて!
鋭い痛みが雪音の胸を串刺しにした。それとほぼ同時に、雪音の足は大地を踏みしめ駆け出していた。
けれど、過密な人混みの中、雪音の華奢な体では思うように進まなくて。進んだと思ったら、またすぐ人壁に阻まれてしまう。
だけど、止まらない。今は、今だけは止めるわけにはいかなかった。
どうしても、どうにかなってしまっても、もう二度とあんな想いを味わうのは嫌だから。
彼の元から離れた四年間。
彼の元へ戻ってきても、縮まらなかった一年間。
時より廊下ですれ違っても、教室の傍を通るときに覗き見る横顔も、遠巻きに見ることしかできない友人と笑い合う笑顔を見るのも、もう、懲り懲りだ。
「すみません! 通してください!」
すれ違う花見客に肩や足をぶつけながらも、何度転びかけながらも、それでも雪音は、人混みの中を必死にかき分けていく。
幼馴染の彼との距離は約二十メートル。何もしなければ、ただが二十メートル。
でも、今、雪音にはその距離がやけに遠く感じてしまう。
そして、恐らくこれは罰だと思った。ずっと胸の奥底に秘めてきた気持ちから逃げ続けてきた自分自身への罰だと——。
四年間の想いの重みが重く全身にのしかかる。前へ前へと進んでいるはずなのに、一向に辿り着けられないような不吉予感させ抱いている。
そんな漠然とした不安感から逃げるように一歩でも前進もうとする雪音の肩に、ふとつい衝撃が走った。
「きゃっ!」
短い悲鳴を上げて体がよろめく。その刹那の間に、通りすがった体格の良いスキンヘッドの男性と肩同士がぶつかったのだと、当たり負けして地面に倒れた込んだときにはじめて雪音は気がついた。
「おいっ、気を付けろ!」
男も急いでいたのか、それだけ一方的に吠えるとすぐに人の波の中へと消えていった。その光景を見ていた花見客も男の姿を追いかけていた。が、人混みの中に見失うや否や、次にその視線は地面に倒れた一人の少女に向けられた。
「あの子、大丈夫かな〜」といった案じる声もあれば、「さあ、平気なんじゃない」と無関心を含んだ声もあり、なかには「おっ、あの子めっちゃ可愛いじゃん、助けに乗じて声かけてみようかな〜」とか「あっ、抜け駆けはずりーぞっ」などといった邪な思考を働かせる者たちまで、様々な感情を宿した声が上がっている。
それらの視線、特に無粋な考えを抱く男たちに対し、雪音は鋭利な視線で牽制しつつ、ゆっくりと立ち上がった。
スカートについた砂埃を両手で払い除けると、体に怪我を負っていないことに安堵した。
けれど、それはあくまでも一瞬であり、目に見える外傷だけということだけ話だ。
「……もう嫌」
そんな声が、無意識に雪音の口からこぼれ落ちた。
——もう、諦めてしまった方が早いのでは?
あのときのように、五年前のあの冬のように逃げてしまえば、きっと楽になれる。痛い想いも、辛い想いも、悲しい想いも、寂しい想いも、切ない想いだって、全部、諦めてしまえば抱かないで済むのだから。
すべて、あの子のせいにしてしまえばいい。不幸な運命のせいにして呪い続けてしまえばいい。そうしてしまえばこれ以上、傷つかないで済む。
何かが擦り減ってしまう前に、擦り切れてしまうその前に、すべて、諦めてしまえばいい——
「違う、そうじゃない」
雪音はゆっくり立ち上がった。
もう、逃げるのは終わりだと、あの冬の日の悪夢とは決別するのだと——そう決めたのは、あの弱く脆いもう一人の自分自身と決別すると決めたのは、他でもない雪音自身だから。
決めたから。もう、決断してしまったから。
あの四年前から取りこぼしたすべてを、今から少しずつでいい。でも、一つ残らずこの掌に取り戻しにいく。
もう、恐れるのはやめた。
怖がるのはやめた。
自分自身に嘘をつくのはやめた。
俯いた顔を上げる。もう一度。ここからがスタート地点。
今まで積み上げてきた感情、募り上げた想いは置いて、この場所からリスタート。
今度は逃げたりなんかしない。逃げ出さず受け止めてやる。
彼の、片瀬優太という幼馴染が抱き抱いていた本当の想いを聞くまでは、もう二度と振り返らってやらない。
たとえ、当たって砕けたって、もう、自分自身(皆瀬雪音)が止まることはない。
「待ってなさい! バカ優太ぁーー!」
強く、強く、もう二度と立ち止まらないように。今度こそ、でも、あのときよりも力強く、皆瀬雪音は地面を踏み締めたのだった。
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