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忘れもしない。
忘れようとも、結局、忘れられた日は一度たりとない。
授業中でも、寝る前にも、起きた時にも、ふとした時には思い出している……あの光景を。当たり前のように、さも普遍的に過ぎていたあの日々が、瞬く間に崩壊したあの冬の日の光景を、皆瀬雪音は、これまで忘れたことがない——。
「あっれぇー、おかしいなぁ……。お兄ちゃんたち、確かにこっちのほうに向かったはずだったんだけど……。ねぇ、雪音さんも見たでしょ?」
現在、皆瀬雪音と片瀬舞生のふたりは、吉祥寺駅から徒歩で約七分の場所に位置する都立公園、井の頭恩賜公園内を歩き回っていた。
視界一面を覆う桃色の絶景は、各地から集まってきた物見客の心をたやすく奪っていく。
四月も残りわずかなこの時期。それにも関わらず、これほどまでに人口密度が高いのは、一重に今年の桜が遅咲きだったからだろう。大概、この時期の公園内の桜は、桃色のカーペットを作り、時期相応の芽吹きが顔を出したりしている。
中には、咲き乱れる桜の木の中にも例年通りの個体もあるにはある。けれど、そうした芽吹きも日光の当たり具合や土の性質的な問題もあるのだから不思議じゃない。
木々にもそれぞれ個体差というものがある。多くの人を魅了する花を咲かせる桜の木もあれば、見向きもされない桜の木があるように。
それが普通で、ごく当たり前なことだと雪音は思う。でも、人間に喩えてみれば、それはそう上手くはいかない。
人間には感情があるからだ。目立つものを、そうではないものが妬み、僻み、嫉妬する。自分にないものを羨み、求め、手を伸ばす。隣の芝は青く見てしまうのと同じように、弱い心は他人にはごまかせても、自分だけにはどうしてもごまかせない。
心のどこかでそういった感情があることに気づいている自分がいて。そして、それに気づいてしまえば、目を逸らしていても、ふとした瞬間に頭をよぎっては、自己嫌悪でまた沈む。
考えてしまうのだ。どうしても……。
「ねえ、雪音さん」
もし、あのとき、そんな彼女の思いに気づけていたのなら。
「ねぇ雪音さん?」
もし、あのとき、何事にも揺らぐことのない強靭な心を持っていたのなら。
「おーい、雪音さんっ」
もし、あのとき、もっともっと彼のことを信じてさえいれたのならば。
「もしもーし、雪音さーん」
もし……もし……もしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもし——
「皆瀬雪音さん!」
と、そこまで黙想していた雪音の鼓膜に、自分の名前が鳴り響いた。我にかえった雪音が顔を向けると、そこには慮るような眼差しを向けてくる二つ年下の後輩が半歩前からこちらを覗き込んでいた。
片瀬舞生。
彼女は、地元の中学校に通う中学生。活発で明るい性格と、まだ幼いながらも整った顔立ちをした少女。雪音とは、父親の転勤がきっかけで、福岡に引っ越すその日まで、よく遊んだこともあった間柄。
でも、お互いに携帯電話は持っていなかったことと、舞生の性格上、手紙を出し合い、引っ越してからは近況を報告し合うようなことはしなかった。だから、必然的に疎遠になった関係とも言える。
しかし、四年の時を経て、再び福岡から武蔵野に帰ってきてからは、昔のようにとはいかないまでも、こうして二人きりで出掛けることもままあり、そして、それが雪音にとっても嬉しかったことは隠しようもない事実だった。
それでも、彼女を見ると、会話してみると、目を合わせてみると、どうしても思い出してしまう人がいる。
彼は、雪音と舞生が出会うきっかけとなった人物。
今は、二人。出掛けるのも、遊びに行くのも、笑い合うのも、語り合うのも、バカし合うのも。
だけど、本当はもう一人。もう一人だけ、雪音と舞生より半歩引いた位置にもう一人だけ存在していた。
いうも気怠そうな顔をしながら付いてきた同い年の男の子。小学五年生最後の冬の日。あの日以降、雪音の前から姿を消したあの幼馴染み。
繰り返される思考。
雪音は軽く頭を振り、彼の幻影を頭の中から振り払った。今はそれどころじゃないからだ。
雪音は慌てて呼ばれていたことを思い出し、以前、憂げな瞳で見つめてくる舞生に心配させまいと平然を装いつつ尋ね返す。
「ごめんね、少し考え事をしていたみたい。それで、その、もう一度話を反復させるようで申し訳ないんだけど……」
「いえ、あたしの方は全然問題ないんですけど、雪音さんは大丈夫ですか? 」
「う、うん。私の方は大丈夫。ただちょっと、この人混みに酔ってしまっただけだから」
心配させまいと、雪音は今できる限りの微笑を持って返答した。我が事ながら、上手に誤魔化せたと思う。彼女だけには、この思いの丈を悟らせるわけにはいかない。
ただそれが、舞生の心配を取り除くためだったのなら、雪音にしては浅はかな考えだったのかもしれない。その証拠に、雪音を見る舞生の瞳には、異なるベクトルの憂いさが浮かんでいる。雪音がそれに気づくには、わずかに遅かった。
「それはいけませんよ、雪音さん! どうして早くそうだと申告してくれなかったんですかっ!」
「し、申告って……」
舞生の壮大な言い回しに、雪音は苦笑い。それを「冗談じゃありません」と、舞生は雪音の横で右手の三本指をおっ立て言った。
「雪音さんは、わかっていると思いますが、困ったときには、報告・連絡・相談ですっ!」
「う、うん。そうだね……以後気をつけます」
自分の非を認め、雪音は再度軽く頭を下げて謝罪を乞うた。
けれど……
「いいや、ダメです。私は許しません」
返ってきた答えは思いもよらぬもので。これにはさすがの雪音も目を丸くした。顔を上げると、そこには少し怒ったような表情を浮かべた舞生がいた。
「どうしてだかわかりますか、雪音さん」
面と向かって問われ、雪音はしばし思考する。
その後で、
「社会人にとっての基礎中の基礎ができていなかった……から?」
思い当たる可能性を吟味し、最も彼女の意に沿う答えとして提出した。視線だけ這わし、正否を問う。でも、腕を組みふるふると頭を振った舞生によって雪音の答えは真っ向から否定された。
「違いますよ、大間違いです。それに雪音さんはまだ社会人じゃないですから。基礎中の基礎が多少疎かになったとしても問題はないんです」
ふんすか鼻息を鳴らし、舞生はどことなくお怒りモード。普段、雪音の前では笑顔の絶えない彼女にしては珍しい態度。訳を聞こうとも、その猫目の大きな瞳は早くも次の回答を求めてくる。
ならばと、雪音は思考を切り替え、もう一度、思考の海に身を沈めた。
彼女が求める答えはなんだ。
無数に伸びるは思考の道筋。
彼女の意に沿った答えを見極め、辿り、たぐり寄せる。そのためには、何が必要で何が不必要か、左脳をフル稼働させ——そうした塾考の末、雪音はとある一つの答えに辿り着いた。
「つまり、社会人として世に出るその前に、身に付けておくべだった必須——」
「違う違う違いますからそうじゃありませんって!」
「え?」
「え?——じゃないですから!やめてください、そんな『私、どこか間違ったこと言った?』みたいに小首を傾げるのは! 破壊力やばいしつい答えを教えたくなる衝動に駆られるからやめてくださいよ!」
ぐいっと身を寄せながら、舞生は雪音に捲し立てるように忠告する。
雪音は舞生の言動理由に見当つけず、戸惑いつつも、了承の意を示すために無意識に先ほどよりもきょとんした顔で、「よくわからないけど……なんだか、ごめんなさい?」と、曖昧な返答をした。そしてそれが更なる厄災を産むことになる。
普段、怜悧な顔立ちの雪音がきょとん顔をすることによって、年相応のあどけなさが醸し、何者に替えがたい魅力が形成されるのだ。それが、舞生のライフポイントのメーターをいとも容易く振り切ってしまうほどの仕草だと知らずに……。
「は、は、はああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああ‼︎」
その仕草だけで、舞生が身悶えた。それは木からリンゴが地面に向かって落ちるが如く至極当然の結果だった。溢れんばかりの人混みの中、地面に座り込む一人の少女の悶絶声が周囲にこだました。
「ちょ、舞生ちゃんっ、なんでいきなり悶え死にそうな声を出しているの⁉︎」
周囲の視線をひしひしと感じ、雪音はエキサイトする舞生を性急に嗜みにかかる。
「ほ、ほら、そんなところに座り込んだら歩行の邪魔になるから立って! いきなり悶え出した用件なら後で聞くから」
言うが早いか、座り込む舞生の手を掴み、優しく立ち上がらせた。
「ゔぅ〜、ずみません……。でも、でもでも可愛すぎる雪音さんも悪いんですから。恨みますよぉ……」
そう言って、雪音の手を取った舞生の頬は随分と緩みまくっていた。この際、言葉と表情がアンマッチすぎるのは触れないほうが懸命だった。
「はぁ……一瞬でも心配してしまった私の気苦労を返してほしい気分だよ」
舞生の手を引きながら、雪音は左手で頭を覆う。
そうして、「ふふっ、後輩思いの雪音さんもやっぱり最高ぉ〜」と、先ほどのお怒りっぷりはなんだったのかと思うほど終始にやけた後輩を連れ、雪音は公園の出口を目指したのだった。




