表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【22万PV突破!】Anemone ~ 君とまたいつの日か。  作者: NexT
#── Capture1. Gray Days ──#
3/53

#── 3 ──#

 

 恵理が教室を退室したあと。

 ひとり帰宅準備をしていると、背後から誰かに見られているような視線を優太は感じていた。

 教室の中には誰もいないはずなのに……と、優太は気になりその視線を追う。

 ちょうど廊下の柱の向こう側から、こちらを覗き見るひとりの女子生徒の姿を捉えたのはまさにそのときだった。


 ほんの一瞬、互いの視線が交差する。

 それは、刹那と呼べる時間の最中、わずかに交わっただけ。

 けれど、


「……なんで……」


 優太は戸惑った。原因は、覗き見ていた人物に心当たりがあったから。


「なんで…あいつが……」


 譫言うわごとように漏れ出た声は張り詰めた教室の中に淡く溶けていく。

 まるで自分の声ではないように聞こえてしまうのは、正しく状況を理解できていないから。

 しばらくすると、徐々にその動揺も収まり、今度は別の疑問が浮かび上がってくる。


 ── いや、それより、見られたっ!?


 そのことに気がついた優太は息を呑む暇もなく、半ば無理やり固まる足を動かし、一目散に廊下へと駆け出していた。


「……いない、か……」


 廊下に飛び出ると、そこには誰もいない。物静かな廊下が広がっているだけ。まるで最初から誰もいなかったような、落ち着いた静けさだけが漂っている。


 それでも優太は、確かに一瞬捉えていた。この瞳が如実に映していたのだ。

 記憶の真ん中に居座る、確かな面影を残した、あの少女の姿を。


「……」


 でも、だからといって優太は追いかけることはしなかった。斜陽が優しく差し込む廊下の先、空中廊下の向こう側を少し眺めるだけ。そのあとは何事もなかったかのように、もう一度教室の中へと引き返した。


 鞄を置いていた自席に戻る。中断していた帰宅準備にもう一度取り掛かるのだ。

 現代文や数学、物理や世界史といった、今日履修した科目の教科書類から文房具類を次々に鞄の中に放り込んでいく。そして、最後に残った英語の教科書に手を伸ばしたとき、優太は自分の右手がわずかに震えていることにはじめて気がついた。


 仕舞いにはその影響か、右手の照準が狂い、教科書を取り損なう。当然のように教科書は自由落下し、遅れてばさっと乾いた音が教室中に広がった。

 表面を上にしてだらしなく地面に広がる教科書。英語の文字が躍った表紙。少し間抜けな姿。それを、なんだか自分と重ねて見えてしまっているのは、たぶん、気のせいではない。


 何もできずに地面に広がっているだけのそれは、自分で起き上がることもできず、ただ拾ってもらうことでしかその先に進めない。その惨めな姿はまるで、今の自分を映す鏡のよう。


 優太はぐっと奥歯を噛み締めた。


 一瞬、見捨ててやろうかとさ思った。でもこれは、自分のお金で勝った教材ではないから。落ちたまま教科書を放っておくわけにもいかなくて。結局優太は教科書に手を伸ばす。ともすれば自然、それを拾おうと前屈みになる。すると、今度は詰め込んでいたはずの教科書類が纏めてそのあとを追い、ばさばさっと連続的な落下音が教室中に響き渡った。


「……ったく、何やってんだよっ」


 床一面に広がった教科書を見下ろし、優太はやり場のない苛立ちに震える拳を強く握りしめた。そうでもしなければ、この動揺は、この心の揺らめきは、消え失せそうになかったから。


 二、三度深く呼吸を繰り返すると、ようやく冷静な自分が戻ってきた。

 今度は冷静に、散らばった教科書を一つずつ拾い直す。

 そうして、最後に忘れ物をしていないことを再確認し、優太は逃げるように教室をあとにした。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った廊下には、無機質で淡々とした足音が響き渡る。

 遠くのほうから聞こえくるのは甲高い金管楽器の音、トランペットだろうか。

 その調べと足音が織りなすセッションは、まるで噛み合っていない不調和音。でも、不思議とそのちぐはぐ感が今の優太には心地よく感じる。


 昇降口まで続く階段を下ると、視界が少しだけ明るくなった。

 新鮮な空気を肺に取り込むと、先ほどまで(わだかま)っていた感情が薄れていくような気がした。

 その効果も手伝ってか、階段を下り終える頃には、いくばくか心持ちが楽になり、比例して足取りが速くなる。


 昇降口で革靴に履き替え、赤く染まった空の下に出る。暖かな春風に頬を撫でられ、ざわついた心に安らぎがもたらされていく。

 この頃にもなると、体の真ん中に重く居座り、混濁したそれは完全に姿を消していた。


 無事リフレッシュを果たしたところで、優太は昇降口から出た。

 数段ある階段に足を繰り出したとき、背後から軽快な声に呼び止められたのは、それとほぼ同時だった。


「優太」


 名前を呼ばれて振り返る。二メートルもしない距離に、短髪長身の男子生徒が立っていた。


「うっす」


 目が合うと、片手を上げ、からっとした笑み浮かべながら男子生徒は優太に近寄ってくる。そのストレスを感じさせない笑みが、反射的に持ち上げていた優太の腕を留めた。別に、挨拶をしたくなかったわけじゃない。その代わりに、盛大なため息を吐き出す。これを歓迎の挨拶としたのだ。


「はあ……」


「おいおい、どういう了見だ? 人の顔見るやいきなり深いため息なんか吐き出してよ」


 言いながら、男子生徒、阿久津慧(あくつけい)は言葉とは裏腹に楽しそうな笑み浮かべた。ついでとばかりに肩を小突いてくるが、その威力は調整されていてまったく痛みを感じない。


「おい、いつまでも黙ってくれるなよ。本気で傷ついちまうだろ?」


 そう言いながら、やはり慧のそれは、傷つく人間の声色とは思えないほど明るい。その短いやり取りだけでふたりの距離感が窺えた。


「悪いな、あんまりにも阿久津の爽やかさが目に毒だったもんで」


 開いた口から出てきたのは、謝罪とも皮肉とも言えない曖昧なセリフ。


「何だよ、それ」


「何だろうな、これ」


 まるで中身のない会話だ。でも、だいたいの男子高生はこれくらい適当なほうがいい。少なくとも、今の優太にはこれぐらい稚拙ちせつなコミュニケーションくらいが心持ちが良かった。日常が戻ってきたような感じ。

 けれど、その僅かな安心感も、取り繕った表情も、次に口を開いた慧の一言で、すぐ綻びが生じてしまうとは誰が予想できただろうか。


「んで? 実際は何があったんだよ?」


「何かってなに?」


 慧のこの問いに優太は一瞬どきりと心臓を高鳴らせる。が、すぐに平静を装いしらを切る。我ながらうまくごまかせたと思う。


「……」


 しかし困ったことに、一年以上の付き合いになる慧には、そんな優太の態度が逆に白々しく思えるのか、訝しがる視線を解除してくれない。

 これには優太も内心焦る。が、沈黙を貫くだけで何か言い繕うことはしなかった。今さら体裁を乱し、さらなる疑いを深めてしまうのは避けたかったからだ。


 いくら日常的に言葉を交わす仲だと言えど、人間、秘密の一つや二つ必ず存在する。それは聖人君子だって変わらない。親しき仲にも礼儀ありという言葉も世の中にはある。


 もちろん、慧の疑問も優太には察しがつく。

 けれど、日常的な会話だからこそ、いや、何でも言い合える慧だからこそ、この鮮烈で痛烈な想いの丈を口にするには、今はちょっとだけ勇気が足りない。はぐらかすという手段を講じるほかない。


「……」


 露骨にはぐらかされた慧はじろりと優太を見るも、優太は我知らぬ存ぜぬで通すつもりで沈黙を貫くだけ。だから、自然、居心地も悪くなる。まともに慧の目も見れなくて、優太は少し前の地面を見据えた。

 ふと、視界が赤く染まる。遠くのほうでは、真っ赤な夕陽が優しくふたりを照らしていた。


「…まぁ、何でもいいけどよ」


 そんな優太の心情を知ってか知らずか、視界の端からわずかに不服を含んだ声が乾燥した空気の中に溶けて消えていく。

 そのあとは宣言通り、さっきまで横顔をちくちく刺してきていた視線は感じなくなった。

 人知れず、優太はほっと胸を撫で下ろす。同時に、彼の観察眼の鋭さには改めて舌を巻いた。


 さすがは二年生ながらにサッカー部のエースと呼ばれるだけのことある。あとは、その察し良さがもっと別のベクトルに活かせれば、きっと優太も言うことはなかったと思う。思うだけで、これは口にはしないが……。


 けれど、その弱点を余り補うほどの魅力が、阿久津慧という男にあるのだから、わざわざ指摘しなくても、さしたる問題はないだろうと優太は思い直した。

 もとより、彼に忠告できるほど片瀬優太という青年は、優等生でもなんでもない。

 そのことに改めて気づいた。いや、ずいぶん前から知っている。が、今は都合の悪い思考からは目を逸らし、優太は気になっていた疑問を慧にぶつけてみることにした。


「ところで、阿久津よ」


「ん?」


 その言葉を皮切りに、ふたりは同時に歩き出す。


「今日の部活はどうしたんだ?」


 この時間帯の慧は基本、サッカーボールを追っているはずだ。少なくとも、優太はそう記憶している。


「もしかして、旦那、おサボりですかい?」


 あるはずがないとわかっていながら、優太はあえてにやにやとした笑みを浮べて質問してみせた。そんな優太に向けて、わずかに眉根を寄せた慧が苦笑して答える。


「ばっか、お前。今日は普通にミーティングだよ」


 そう言って、今度は得意げな笑みを湛えた。その瞳は「いいだろう?」と物語っているのは一目瞭然で。鼻歌でも口ずさみそうなほど上機嫌さだ。さぞ、早めに帰宅できること嬉しかったのだろう。


 しかし、慧には悪いが帰宅部である優太にはその気持ちは理解できるものの、ちっとも羨ましいとは思えない。帰宅部は今の慧の気持ちを毎日体験していることになるのだから。


「ま、部活をやっていない優太からすれば、この湧き上がる気持ちの昂りはわからんだろうがな」

「はんっ、言っとけよ。俺はとっくの昔にその域など卒業している」

「な、何だとっ!? さ、さすが帰宅部のエースは違ぇぜ……」

「ふっ、あまり帰宅部のエースを甘く見ないほうがいいぜ?」

「あ、ああ、どうやらそのようだな……てか、帰宅部のエースって何?」

「……そりゃあお前、帰宅部のエースは……帰宅部のエースしかねぇだろ……」

「……」

「……」

「……なぁ、やっぱ帰宅部のエースってなんだ?」

「……」



 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ