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「ただいま」
優太が気怠げに自宅のマンションの扉を開けたときには日はすっかり暮れ、十九時半を回っていた。
いつも通りならば、十七時半を過ぎたあたりには帰宅しているのだが、金曜日の今日は一時間遅れの帰宅となった。
というのも、その理由は明白で、放課後、英語教諭に呼び出しを受けていたからだった。
優太は、昼休みを終えた時点で五時限目の英語をふけた。その結果が、遅い帰宅に繋がり、他の教師の目がある中、うんざりするほどのご高説を承けたまわってしまった。
たぶん、サボタージュを決め込んでいた理由を正直に伝えてしまったのが良くなかったのだろう。おかげで、「高校の授業をなんだと思っているんだ」とか、「伝統ある我が校の生徒としての自覚はないのか?」とか、「お前の授業料はお前が払っているわけじゃないんだぞ」などといったお小言というお小言を正論という正論をひたすらに並べられてしまったのだ。
最後には「次はないと思え」という不穏とも寛容ともいえる言葉を皮切りにやっとの思いで解放されたときには、西の空は世界の終わりみたいに赤く染まっていた。
「はぁ……」
授業をふけた優太に全面的な非がある。あるのだが、ストレスというのものは理不尽なもの。無意識にため息もこぼれる。
でも、だからと言って、「ちっ、あんなにカリカリしなくたっていいのによ……更年期かよ」とボヤいてしまったのはさすがにがよくなかった。背後から「あん? 片瀬、今なんか言ったか?」と、英語教師がその太い眉根を潜めていたときには肝を冷やしたものだ。
聞こえていなかったのが不幸中の幸いで、優太はそのまま愛想笑いをたたえ、適当にごまかしてからその場から逃げて帰路についた。
そのあとは、すぐにバス停に向かった。偶然、吉祥寺駅行きのバスが居合わせてくれたのも運が良かった。でなかればもっと遅い時間帯に帰宅していただろう。ただでさえ心労が溜まっているのにこれ以上の疲労はさすがの優太もキャパオーバーである。
「お帰りなさい、今日は随分と遅かったわね」
玄関先で靴を脱いでると、背後から足音が近づいてきた。母親だ。先ほどから家の中に立ち込める料理の香りが空腹を掻き立ててきていた。香辛料の香りだろうか。食欲を沸き立てられる、スパイシーないい匂い。
「風呂、入るでしょ? もう少ししたら舞生も帰ってくるはずだから、すぐに入りなさいね。ご飯は舞生が風呂から上がったあとよ」
それだけ伝えてくると、母親のせっせとリビングのほうへとはけていく。優太は適当に返事を返してから靴を脱ぎ終え、いつも通り自室を目指す。キッチンの脇を通る際に、「あっ、先に手洗いうがいからしていきなさい」と忠告されたので、優太は言われた通りにした。
自室に入ると、嗅ぎ慣れ自室の匂いが優太を出迎えた。家に戻ってきた実感がじわじわ湧きあがってくる。すると、無意識に暗い部屋の中に重苦しため息がこぼれ落ちた。
思い返せば、今日という一日は、常に緊張感に絶えない中を過ごしてきた。波乱万丈といった言葉が適切かもしれない。
朝は比較的平和だったと思う。問題は昼休み以降から。
きっかけは、突然屋上に呼び出されてから。そこから先は本当に笑えなかった。
物静かな屋上に着くなり、挨拶もそこそこに飛んできたのは固く握りしめられた拳である。それだけでも十分狂気の沙汰であるのだが、これには二発目があるのだからいよいよ正気ではないと思う。その二発目の蹴りも高威力で、防ぎきれずに三発目の拳は優太の頬を撃ち抜いた。
そこからは一方的な暴力の嵐。そして、驚くべきことにその元凶を止めたのもまた嵐のような少女だ。そしてそのまま、強制的に保健室まで連行され、治療まがいなことをされ、抵抗する暇もなくあれよあれよと押し倒されてしまう始末。
でも、何よりも、今日もっとも不幸だったのは、その現場を幼馴染みの皆瀬雪音に目撃されてしまったこと。
そのあとは、当然のように逃げ出され、いてもたってもいられなくなった優太はすぐに彼女の背中を追いかけ、偶然屋上から出てきた彼女と再開を果たした。
五年ぶりに幼馴染と顔を合わせた優太は言葉を失ってしまった。氷の中に囚われてしまったように全身が硬直して動けなくなってしまった。
でも、それは彼女も同じだったのだ。あの時あの瞬間、お互いに顔を見合わせたまま、確かにふたりの世界は止まっていた。
ーーけれど、それも、亜麻色の髪を靡かせた彼女が現れるまでだった。
優太は彼女のことを知らない。少なくとも、去年の一年間は関わり合った記憶はなかったはずだ。そのはずなのに、あのとき、あの場所で、彼女に抱いた違和感は、今でも胸の真ん中に我が物顔で居座り続けている。
そこまで考えて、優太は思考を切り替えた。帰宅してまで気を張っている意味はないのだから。
扉横に備え付けられたスイッチに手を伸ばす。ぱちっとした音と凹んだ感覚のあと、天井に設置されたドーム型のペンダントライトに冷たい光が灯る。
鞄は部屋の隅の勉強机に置いて、洋服棚から適当に部屋着一色を引っ張り出す。
退室際に電気を消そうとしたそのとき、部屋の隅からLINEの着信音が響いたのはまさにそんなタイミングだった。見ると、鞄の開閉部の隙間から小さな光が漏れ出ていた。
鞄のファスナーを上げ、スマホを取り出す。慧だろうか……と送られてきたメッセージを何気なく確認して、優太の眉根は八の字に寄った。
——先輩の私です。登録よろしくです!
送信者は優太の予想と異なり、『ともか』というどこかで聞いたことのあるようなアカウント名だったから。
優太のことを先輩と名称をつけて呼ぶ相手などひとりしかない。それも、今日、知り合ったばかりだから忘れるわけがない。
「……なんで、あいつが俺のLINE持ってんだ……」
素の疑問が思わず口から漏れ出た。
優太の頭の中に浮かんでいるのは、あの天真爛漫を絵に描いたような少女。少し不思議な縁で繋がったひとつ年下の女子生徒の顔だった。
名前は、杉原智花。
問題は、その彼女がなぜ優太のLINEを持っているのか。少なくとも、優太は智花と連絡先を交換した覚えはない。そう考えると、人伝から入手した確率がもっとも高い。幸か不幸か、優太のLINEのIDを持っている人物は限られている。自然、思い当たる人物もある程度限られてくる。
「まさか……」
そう呟きながらも、ある種の確信をもってLINEを開く。トーク欄の新しい友達から『ともか』を選択。
にべもなく友達登録すると、素早いフリック操作で次々に文字を打ち込んでいく。最後に紙飛行機ボタンを押して、先ほど打ち込んだメッセージが白吹き出しとなって画面上に現れた。
——俺のLINEのIDは誰からもらったんだ?
メッセージを送ると、既読の文字はすぐについた。十秒ほど待っていると、白い吹き出しの下に緑の吹き出しがすっと表示される。
——素早い登録ありがとうございます! 先輩の愛を感じました! あっ、ちなみに先輩のIDをくれたのは阿久津先輩です
「ちっ、やっぱりあいつか……」
脳裏に浮かんだのは、きらりと白い歯を見せながら笑うあの友人の顔。あとで詳しい事情見聞を行う必要がありそうだ。
そんなことを考えながらも、起きてしまったことは今さらどうにかすることはできないのが現実で。一度友達登録してしまったら、今さら登録解除を実行することはためらわれる。
優太が憂いていると、手に持っていたスマホが新たな通知を知らせてきた。画面に視線を落とす。送信相手は『ともか』。
——先輩、明日、暇ですか?
画面上に映し出されたのは、どこか不穏な空気を内包したメッセージ。思わず警戒してしまう。言葉の裏に隠された彼女の意図を読み取ろうとした。
そうこうしている間にも、目下の6.1インチの画面上には続々と彼女からのメッセージが受信され続ける。
——暇ですよね?
——暇だと言ってください
——暇ですね
有無を言わせぬ怒涛の連続送信。最後のほうにもなると、ほぼ決め付けられてしまっている。頬が引きつる感覚を覚えながら、さすがにこれはまずい流れだと直感した優太が慌てて指先を走らせ──
「へ?」
そして、新たに送られてきた意外なメッセージを見て、思わず素っ頓狂な声が出た。
——先輩、明日、デートしーましょっ!




