#—— 3 ——#
——ねぇ、片瀬君は知ってる?
平凡な毎日を過ごしていた優太の前に、あの冬の日、長い亜麻色の髪を翻し、まるで踊るような足取りで、彼女は突然現れた。
そして、あの日から。あの放課後から。あの寒い冬の日から──。
当たり前のように続くと思っていた毎日が、ずっと一緒にいると思っていた幼馴染との日々が——。
彼女が言った、たった一言によりいとも容易く崩れ去ってしまうとは、あの日の優太は想像もしていなかった。
——実は雪音ちゃん、うんうん、君の幼馴染は、私たちに──。
× × ×
かつん、かつん、かつん……。
下階から近づいてくる足音は、確実に一歩ずつこちらに向かって近づいてくる。
一瞬、教師かと思い、優太の心臓は縮こまった。
でも、どこか安心している自分もいて、真実から目を背けられると安堵してしまった自分もいた。
しかし、下階から踊るような足取りで現れたのは、教師ではなく──亜麻色の髪を翻したひとりの女子生徒だった。
刹那、開いた扉から一陣の風が吹く。二人の間には、一片の桃色の花弁がふわりと舞った。
桜。
それは、日本の春を象徴する鮮やかな桃色の花弁の名前。
その花弁の名前を見聞きすると、優太の脳裏には、あの冬の日の出来事が想起される。今でも、あの光景は脳裏に焼き付いて離れない。思い出すたびに心臓を鷲掴みにされるような気分になる。
原因は、何となくわかっている。
きっと、彼女の名前が入っているから。桜の文字が踊るあの少女の名前を、優太は今でもはっきり覚えている。
すべての切っ掛けは、あの言葉から——。
「ねぇ、片瀬君は知っている?」
「え?」
ふと、そんな言葉が上の空になっていた優太を過去から現実に引き戻す。奇しくもその言葉は、あのとき彼女に言われた言葉。不意打ちだった。だから、今、優太の心臓は一際波打ちたっている。焦燥感にも似た感情が胸の真ん中にあたりに再び居座りだす。
すると、視界の端から少し困ったような顔が見えた。優太は、そこではじめて顔の前で何度も右手が上下に往来していることに気が付いた。追って、鼓膜に響いたのは女子生徒の応答を求める声。
「おーい、片瀬君、私の話聞いてる?」
「……え? あ、いや、悪い、考え事してた」
反射的に非を認めると、顔の前で行き来していた手がふわりと離れる。
「そっか」
顔を上げると、彼女は納得したような苦笑を浮かべていた。
そのあとで、優太の意識が自分に向いたことに満足気に頷くと、彼女は改めて話の続きを口にしはじめた。
「ほら、さっきまでここにいた皆瀬さんのことだよ」
「ん? さっきまでここにいたって……」
少女の言葉に違和感を覚え、優太は先ほどまで雪音が立っていた場所を見る。たしかに、先ほどまでいたはずの雪音の姿はどこにもなく、あるのは開き切った屋上の扉とその奥に広がる青空と雲と水平線だけ。気づけば、彼女、皆瀬雪音の姿はいつも間に消えていた。
「いつも間に……」
思考の海に身を投じていたせいか、雪音がいなくなったことにまったく気づかなかったらしい。彼女が下りていったはずの階段の先を何気なく見据える。
もしかしたら、ひょっこり帰ってくるかもしれないと考えている自分がいる。同時に、そんなことがあるはずもないとわかっている自分もいる。そんな自分自身を、優太は内心嗤う。自己嫌悪と言ってもいい。幼馴染と関係を修復できる千載一遇のチャンスを、優太は自らみすみす棒に振ったのと同等だから。
「皆瀬さん、ついさっきまでいたんだけどね~」
そう間延びした声で教えてくれたのは、雪音といれ違う形で訪れた名前も知らない女子生徒。
「ほら、さっき鳴った授業のチャイムがどうのこうの言ってすっ飛んでいっちゃった」
少し困ったような微笑を浮かべて、優太と同じ階段を見ている。実際困っているように見えてしまうのは、彼女の目が少し垂れているからだろう。
事実、愛嬌のある顔だと思う。
小さくて高い鼻筋に、薄く桃色を帯びた血気の良い唇。それだけで、彼女がクラス内でも目立つ存在なのだということがわかる。いや、こちらに向ける表情のひとつひとつがそれを教えてくれた。クラスでも影の薄い優太とはエネルギッシュからして違う気がした。
もちろん、優太は彼女のことを知らない。学年もクラスもだって。そもそも関わり合った覚えがない。少なくとも、同じクラスではないから、消去法で考えると、他クラスか一つ下の一年生か、一つ上の三年生だろうか。
でも、不思議と彼女は同級生のような気がした。根拠はないし、当然それを裏付けするほどの確証もない。根も葉もない正真正銘の直感だった。それでも、彼女の何かが優太をそう感じさせていたのは確かなことだった。
「ところでさ、片瀬君と皆瀬さんはこんなところで何してたの?」
横目に観察していると、ふと女子生徒が優太のほうに体を向けた。真っ直ぐ優太の目を見つめ、垂れ目の瞳が純粋な疑問をぶつけてくる。
彼女が不思議がるのも仕方がないと優太は思った。
五時限も間近な時間帯に、人目のない場所で男女がふたりきりでいれば誰だって気になってしまうものだ。多感な女子高生の興味を引き立てるには十分すぎる。
「……いや、なにも」
だからといって、優太は彼女の純粋な疑問を正面から受け止めることもできず、ましてや、無関係な相手に話す内容ではなくて、思わず目を逸らしてぶっきらぼうに答えてしまう。
それが得てして妙なやましさにつながってしまったのだろう。
「ふうーん」
垂れ目の女子生徒からは、いかにも信じてくれていないような軽い相槌が聞こえてきた。分が悪い、あきらかに。
優太自身であっても、今の自分は何を言っても説得力が足りないように聞こえてしまう。自分もそう思うのだから、彼女も納得できていないのは自明の理。
深く追求されるのも嫌なので、優太は早急に話を逸らす作戦に出た。
その足がかりとして、とりあえず、最初から気になっていたことを尋ねる。
「てか、君は?」
「ん?」
動揺しているせいか、優太の問いには大事な言葉が抜けている。だから、当然のように垂れ目の彼女は小首を傾げて問いかけ直してくる。その拍子に、カールがかったセミロングの亜麻色の髪がさらりと頬を撫でた。
「だから……その……」
優太は自分で質問しておいて答えに窮した。視線を無機質な廊下に這わせるが、答えはどこにも書いていない。
たが、逆に言えばそれが答えになっているとも言えることに優太は気がついた。困惑しているのだ。訳もわからず、今日、この場ではじめて顔合わせた彼女の存在に。
理性ではなく、本能で。
心ではなく、体が。
一言で言えば落ち着かない。そわそわしてしまう。口元に浮かべた微笑が、見透かしてくるような垂れ目の奥の瞳がそうさせてくるのか、詳しい原因はわからない。わからないけど、漠然とそう感じるのだからしょうがない。
彼女という根本的な存在に、疑問を抱いているのだと思う。その疑問がはっきりしないから気持ち悪い。
だから、とりあえず優太は、肌で感じた疑問を口にすることにした。
「なあ……、君、どこかで会ったことない?」
口にした疑問は、ナンパの常套句みたいな質問。自分でも頭の悪いことを言っている自覚はある。あるけど、そう思ってしまったのだから、やはり仕方がない。
どこかで会ったような気がして、問いかけずにはいられなかった。
「私と、片瀬君が?」
そう言って、自分を指差した彼女の声色が一瞬だけ強張ったのを優太は見逃さなかった。それは本当に些細な変化だった。注意深く観察していなければ、優太も気づかなかったかもしれない。
それでも、気になってしまった。
だから、観察した。より一層注意深く、彼女自身を。
彼女の何が引っかかっているのか、その要因を突き詰めるために。
その困ったような垂れ目の瞳も、亜麻色の髪も、声も仕草も笑い方も、そのすべてに注目して。
「……」
そして、優太の脳裏には浮かび上がってきたのは、五年前に出会った少女の顔だった。だけど、優太はそこまで考えて頭を振った。確証がない。決めつけるには、優太はまだ彼女のことを知らなすぎる。
さてどうしたものか……と、改めて考える優太だが、次の瞬間、これまでの思考は意味をなくした。
追求する前に、他ならぬ彼女自身の言葉によって明確に拒否されたから。
「気のせいじゃない? 少なくとも私にはないよ、君とこういう話をした記憶はね」
そう言いながら、これ以上話す気はないと言わんばかりに彼女はくるっと踵を返した。そのあとで、
「それに、ない記憶を探すよりも、私はそろそろ授業に戻った方が堅実的だと思うけど? もしかして、君、このままサボるつもりだったりして」
肩越しに振り返った彼女が核心をついてくる。
「…………」
「へー、君、意外とワルなんだぁ……」
沈黙を肯定だと判断したのか、だんまりを決め込む優太を見て亜麻色の髪の少女はころころと楽しそうに笑う。
「……ほっとけ」
どちらにしろ、今の優太には大人しく椅子に座っているほどの根気も気力も残っていない。五時限目の授業の間は、屋上の風に吹かれて乱れた心を落ち着かせるつもりでいる。
「私、そう言うの嫌いじゃないよ?」」
堂々とさぼり宣言をした優太の言葉に、彼女が愉しげな笑い声をあげる。
そうして、ひとしきり笑ったあとで彼女は、「じゃあ、またね」と言って、再び階段を下っていく。
「なあ、最後にひとつだけ聞いていいか?」
立ち去ろうとする彼女を優太が呼び止めた。
「ん?」
踊り場で立ち止まり、振り返った彼女。その瞳から質問に答えるという意思が伝わってきた。その意思が気変わりしないうちに、優太はさっさと最後の質問を口にすることにした。
「さっきから気になってんだけどさ……俺は、君のこと知らなかったのに、何で君は俺の名前を知ってんだ? 確か俺たちって、初対面のはずだろ?」




