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扉の先で待っている穏やかな空間を求め、ドアノブに手を伸ばしたはずだった優太の右手は宙を切った。
「え……」
ゆっくりと開かれる扉の隙間から淡い光が溢れ、優太の耳を吐息のような声が掠めた。
息する暇もなく、ほぼ無意識に視線を上げ、瞬間、優太の心臓は飛び跳ねる。
「…………」
一瞬、時が止まった。優太も、そして、優太を捉えた彼女も。まさかこんな場所に、こんなタイミングで、彼女、皆瀬雪音がいるはずがないーーと、勝手にそう思いこんでいたから。
艶のある長い黒髪は恵風に揺られ、少し長めの前髪の隙間からこちらを覗く猫目の大きな瞳。整った鼻梁と桃色の唇は綺麗。シミのひとつない白磁のような肌。そして、それらの完璧なパーツひとつひとつが小さな顔に収まっている。
知ってる顔。幼い頃から何度も見てきた。けれど、目の前に立つ彼女は、十三年の月日を経て、さらに綺麗になっていた。
まったく変わったわけではない。幼い頃の面影も残しつつ、皆瀬雪音は美人になっているのだ。
昔は凹凸の少なかった体つきも、今ではすっかり女性らしく、遠巻きに眺めていた彼女と今の彼女とてでは一線を画していた。
「……」
「……」
二つの視線と視線が交差する。優太も、そして雪音も、互いに息をするのも忘れて固まっていた。
一瞬、何か言わなければーーという概念に優太は囚われそうになる。でも、半開きになった口からは一切の言葉は出てこない。
原因はわかっている。戸惑っているのだ、彼女を前にした自分自身に。心の準備なんて、まるでしていなかったから。
だいたい、心の準備など最初からできなかった。それも、一週間とかに一ヶ月とかの話じゃない。五年間という長い期間を要しても彼女に話しかけることができなかったのだ。だから、今、唐突に対面しても、何かを口にできる道理もない。
優太に言わせれば、できるのならとっくにやっているし、できなかったからこうして戸惑っている。言葉に窮している。未だに二の句が告げずにこの場に立ち尽くしている。
話したいことはいくらでもある。聞きたいことだって山ほどある。言いたい文句だって全然伝え切れてないし、後悔や謝罪も数え切れないほどある。
たぶん、その全部を話そうものなら一日じゃ足りないと優太は思う。それぐらい、すれ違ってきたこの五年間という長い期間は、ため込んできた思いは、一朝一夕では語れない。
そして、おそらく、それは目の前に立つ雪音も……。
二人の間には、なおも重たい沈黙が流れ続けた。けれど、二人とは示し合わせたように、互いに口を噤んだまま。
いつしか交わっていた視線もすれ違い、今は、ただただ気まずい雰囲気と、息が詰まるような居心地の悪さだけがこの場に支配していた。
「……」
そんな空気の中で、一人、優太はぐっと拳を握り締めた。奥歯を強く噛み締め、浅くなる呼吸から深い呼吸へと切り替える。真っ白に染まる脳に酸素を送り込み、なんとか冷静な自分を引き戻す。
そうして、弱気になる自分を奮い立たせたのだ。
考えてみれば、彼女との再開は絶好の機会とも言える。神様がくれた贈り物と言ってもいい。この五年間、うじうじと考え込み、はっきりさせるのを怖がっていた優太自身への過去最大のチャンスだ。
「……久しぶり」
最初に口ぶりを切ったのは優太のほうから。しんと張り詰めた空間に、ぶっきらぼうな声が短く反響した。
返事を待つ間、心臓は痛いくらいに脈動する。いわれもない不安が全身を包み込む。
返事は返ってくるだろうか、声は裏返っていなかっただろうか、仕草や表情はどんな風にするだったのか。短い時の中で様々な思考が過っては消えていく。
一方、たっぷり五秒ほどして、雪音は蚊のなくような声でゆっくり頷いた。
「……うん」
互いに視線を合わせないまま、優太も雪音も少し先の地面を見ている。
顔を合わせるのも、会話をするのも五年ぶり。すべてが五年ぶりなのだ。だから、お互いに距離感が掴めない。ふわふわとした気分が全身を包み込み、なんだか落ち着かない。
雪音にも、言いたいこと、聞きたいこと、謝りたいこと、伝えきれていない後悔は星の数あった。あったはずなのに、いざ本人を目の前にすると、想いが言葉に変わらず、言葉が声に出てくれなくて、声が喉の奥につっかえてしまう。
視線を上げて、目を合わせたい、顔を合わせたいのに、そんな簡単なことすらためらっている自分がいる。
やはり、考えてしまうのだ。
そんな資格が自分にあるのかと。
逃げ出してしまったのに、今さら彼と向き合う資格があるのかと——考えずには、いられなかった。
でも、同時にこれはきっとチャンスなのだとも、雪音はわかっている。
あのときの後悔を晴らし、弱い自分を超えるために、これは神様が授けてくれた願ってもない機会。
嫌われてもいい、避けられてもいい、拒絶されたって構わない……悲しいけれど、それで、構わない。
きっかけは優太のほうから与えてくれた。
だったら今度は雪音から、この話の口ぶりは切らなければならないと思う。
雪音自身、もう、あのときのような後悔はしたくはなかったから──。
そして、雪音がこの歪んでしまった関係から一歩抜け出すための覚悟を決め、重い口を開こうとした、まさにそのときだった。
静まりかえった廊下の中、ひとつの声が雪音の言葉を遮った。
「そこのお二人さん」
かつん、かつん、かつん──と、下階から近づいてくる足音。それは確実に一歩ずつ近づいてくる。
一瞬、教師かと思い、心臓が縮こまる。けれど、下階から現れたのはセミロングの女子生徒。毛先に緩くカールがかかっている。
「もう、授業、はじまっちゃうよ」
途端、開いた扉からふわりと一片の桜の花弁が二人の間に舞った。




