#── 2 ──#
「では、失礼します」
「はい、お疲れさん。気をつけて帰れよー」
徐々に西の空も黄昏はじめる放課後。
生徒会顧問の労いの言葉を背中に、皆瀬雪音は職員室を後にした。
現生徒会副会長を務める雪音は、生徒会で発行したアンケート書類を纏め、精査し、それを顧問に無事提出し、今に至る。思い残すところもなく、あとはもう帰宅することだけ。
職員室を出た廊下にはすでに赤々とした斜陽が差し込んでいた。気づかないうちに随分と話し込んでいたのだろう。
今回、全校生徒が対象となったアンケートーー『校内設備の修理希望案』は、かなり大掛かりな企画だったので無理もない。
無論、今回の調査は生徒会が主体に動いている。活動自体も生徒会役員総出で取り組んでおり、雪音だけが苦労しているわけではない。最後の顧問への提出と誤字脱字などの細やかな部分の確認は、部活動に属していない雪音に一任されたことは、まあ少々貧乏くじを引いた気分になるが、それも考えようによっては社会に出たときに活きてくるーーそう思えばいくらか気楽でいられた。
職員室から生徒会へ。1時間前はあれぼ喧騒で溢れ返っていた廊下も今ではすっかりなりを潜めて静かで、この場に自分しかいないことを自覚させられ、なんだか落ち着かない気分になる。どこか、本来の自分を浮き彫りにさせられるような気がして……。
思えば、雪音が副生徒会長に就任してから早一年が過ぎた。誰もいない校舎を歩く回数も随分と増えた。
雪音自身、この放課後特有の深閑さ自体はいうほど嫌いではない。嫌いではないけれど、ふと脳裏に過ぎる記憶があって。
「……はぁ……」
今、漏れ出たため息も仕事をやり遂げたあとの達成感や疲弊感からでもなく、もっと心の奥のほうから零れたもの。今となってはもう癖みたいになっていて、一刻も早く改善しなければならないーーそう常々思っているのに……。
「……はぁ……あっ……」
最近では回復に向かうどころか酷くなっているような気さえするから怖い。
自分でも拗れてしまっているとさえ思う。
思い返せば、あのときから。五年前のあのときから。
雪音は不意に繰り出す脚を止め、今ではもう傷つき汚れてしまった窓、いや、もっと奥の奥、さらにその先の景色へと視線を配った。
「……」
一秒、二秒、時が進むごとに脳裏を駆け巡るは苦く、切ない、悔恨の記憶。何ものにも例えることができない後悔の記録。
雪音は立ち竦んだ。あんな思いはもう二度としたくない。もう、二度と……。
何もない廊下で立ち止まってからたっぷり十秒ほど過ぎたあたりで雪音は軽く頭を横に振った。さらさらと揺れる黒髪が廊下の窓から差し込む斜陽を反射してよりつ艶やかに映える。
かつんかつん——。
再び繰り出した脚から鳴り響く小気味よい自分の調べ。過去の遺恨を振り払うように、雪音は再度、目的の生徒会室に向けて歩みを進める。
雪音の属する生徒会室があるのは、東棟にある職員室から空中廊下を挟んだ先にそびえる中央棟の三階。
ルート的にいえば、空中廊下を利用しなくても中央棟には行ける。行けるのだが、生徒会室が中央棟の三階に位置している以上、わざわざ一階に降りてから向かう必要もない。というか、こっちのほうが明らかに時短だ。それに加え、最近通学路でもある駅前の方で、トラブルが続いているらしく、早めに帰宅することに越したことはなかった。
そうやって、どこか言い訳がましいことを考えながら、あるいは自分に言い聞かせながらも、雪音は今日もいつもとおり、東棟と中央棟を繋ぐ空中廊下を渡り、自らも在籍する二学年の教室が横並びになる中央棟に足を踏み入れる。
まさにその時だった。
二年一組の、一番職員室に近い教室の中から、二つの声が雪音の鼓膜を震わせたのは。
「まだ、誰か残っているのかな……」
過去には今日と同様、生徒会の雑務で残ったとき、文化祭のような特別な準備期間を要する場合を除き、校内に残っている生徒を雪音はあまり見たことがない。
持っていたスマホをポケットから取り出し、現在時刻を調べる。デジタル表記の時計は午後五時三十分を示していた。
部活動生なら部活に勤しんでいるか、帰宅部ならとっくに帰宅しているはずの時間帯。完全下校時刻までもうしばらく猶予がある今、生徒会役員として注意することもない。しばらくすれば、自ずと帰宅するだろう。
そう思い、何気なく教室の脇を通り抜けようしたとき、雪音の繰り出す足は停止した。その大きな瞳は教室の中へと注ぎ込まれている。
「なんで……」
雪音の大きな瞳は教室の中へと注がれ、こぼれ落ちた言葉はうわ言に近かった。
ほぼ無意識に出た言葉だったのか、雪音は反射的に口を手で覆い、身を柱の影に隠す。上昇した心拍音が姦しく、心がざわつきはじめる。
脈打つ心音。逸る呼吸。嫌に乾く口の中——不愉快なそれらの感覚から逃れるように、雪音は浅い呼吸を繰り返した。
しばらくすると、体は落ち着きを取り戻してくれた。心は依然として騒がしいけれど、そんな心境とは裏腹に、雪音の視線は話し声が聞こえた教室の中に注がれている。
「……」
「……」
中にいたのは、女子生徒と男子生徒のふたりだけ。
向かい合ったその面持ちはどこか神妙で、ぎこちない会話のキャッチボールが交わされている。
そんなふたりの間に流れる雰囲気は、険悪とまではいかないものの、告白とかそういう甘い雰囲気でもなかった。
けど、今の雪音にとって重要なのは雰囲気とか会話の内容ではなく、もっと根本的なこと。
そしてそれは、二人のうちの一人である、男子生徒に原因があった。
顔は特別に整っているわけではない。身長も平均的で、どこからどう見てもどこにでもいる普通の男子高校生。
それでも、雪音は確かに覚えていた。いや、それどころか、忘れられるわけがなかった。
記憶の中で笑う、あの少年の面影を残したその横顔を——。
それに気づいたとき、胸を強く締め付けられるような錯覚を覚えたのは気のせいではない。
全身に絡みつくような焦燥感も、うねりだすこの鼓動もすべて、気のせいでは済まされない。
解放されるには、何も考えずこの場から立ち去ってしまえばいい。誰にでもできる。とても簡単なこと。
もちろん、それは雪音も頭では理解している。理解しているけど、全身を地面から伸びた蔦に捕らえられているような感覚がして、思うように足が動いてくれないのだ。
奇しくも、五年前のあの寒い日、あの放課後と重ねてしまっている自分がいて、つい、考えてしまう。
また、お前は逃げ出してしまうのか——と。
そう思ってしまったが最後、見下ろした足は、完全に動かなくなってしまっていた。
「そ。じゃあ、また明日」
ぐちゃぐちゃに乱れる思考を引き戻してくれたのは、教室の中から聞こえてきた女子生徒の声。
遅れて開かれた扉の音に心臓が跳び跳ねる。
「——っ!」
女子生徒が教室から出てくる、直感的にそう感じても、雪音の体はあいかわらず石のように固まって動かなかった。
このままではいずれ自分の存在が白日の元に晒されるだろう。
こんな盗み聞き紛いの現場を目撃されてしまえば最後、十中八九、彼女は声を上げてしまうに違いない。
そんな未来を想像してしまっただけで、雪音の全身を立っていられなくなるほどの恐怖心が苛んでいく。
——お願い、気づかないで!!
無意識に胸の前で組んだ両手に力が入る。奥歯をぎゅっと噛み締め、雪音はここにいない誰かに祈る。そして、濃紺色のスカートが廊下の外にちらっと覗くと同時に、雪音は瞳を強く瞑った。
——こつこつこつ。
ローファーで歩く音が暗闇の外から聞こえてくる。今の雪音にとってその足音は死神の足音のように思えた。
——こつこつこつ。
暗く閉ざした世界では、近づいて来ているのか、遠のいていっているのかさえ判断がつかない。今はただ、ただただ祈ることしか雪音にはできなくて。
けれど、そんな気の遠くなるような時間も長くは続かなかった。
一秒、二秒、三秒と時間が経つにつれ、雪音の身体を苛んでいた足音は波のように遠くざかっていく。
「……」
息を呑み、覚悟を決めて、雪音は震える瞼を静かに開けた。すると、廊下の先にだんだんと遠のいてく女子生徒の後ろ姿が見えた。
「はあ……」
ほっと胸を撫で下ろし、無機質な壁に背中からずるずると寄りかかる。緊張感から解放されたせいか、金縛りにも似た感覚が、徐々に去っていくのを雪音は自覚した。
それでも、いつまでも安堵に身を委ねているわけにもいかない。依然、教室の中にはあの男子生徒が残っているのだから。
重要なのはここから。ここで気を抜いて一番避けなければならない彼に目撃されては本末転倒もいいところ。幸いにも、先ほどまで全身を支配していた緊張感からは解放されている。
立ち去るなら今が最大で最後のチャンス。迷っている暇も猶予もない。
動けばいい、動けば。
足を一歩引いて、そのまま立ち去ってしまえばいい。
たったそれだけ、たったそれだけでいい、そのはずなのに…でも、どうしてだろう……。
冷ややかな柱に預けている背中を、雪音は離すことが出来ないでいた。
もう少しだけ、あと少しだけ——と、自分の中にある不確かで曖昧な感情が、ずっと蓋をしていたはずの想いが止めどなく溢れ出してくるのだ。
わかっている、ダメだ、やめろ、引き返せ、見るな、覗くな、諦めろ……そう、もうひとりの自分が警戒音を響かせているのにもかかわらず、でも、少しだけ、ほんの少しだけ──と、彼の姿を視界に収めたいと主張するもうひとりの自分がいるのも確かなのだ。
そうして雪音は、その警告に従うべきだったと、教室内を覗き込んだ後に後悔した。
「——あっ」
重なり合うふたつの視線。
浅く短く漏れ出る吐息。
深く鋭く高鳴る心臓の律動。
一瞬、時が止まった。
指先からすっと冷たくなる感覚が始まり、それはいずれ腕、肘、肩に広がっていき、次第に全身を覆っていく。
一秒、二秒、あるいは一分、それとも一瞬だっただろうか。時間と自我が曖昧になり、空気と混じり合ってしまうような感覚の中、立成長を遂げた幼馴染の姿を、立ち竦んだ雪音の瞳が捉えた。
幼い頃からずっと共に一緒に過ごしたあの少年は、五年という月日の中で、それほど大きな変化は見られなかった。
でもそれは、いつも遠巻きに見ていたからわかること。バレないように、さりげなく、気にも留めない程度に何気なく。
雪音はそれで良いと思っていたし、福岡から地元に帰って来たとき、わざわざ報告しなかったのもその為。
雪音はこれで良いと思っていた。
偽り、誤魔化し、逃げ出した自分には、彼と関わるだけの資格がないのだと、気づいてしまうから。
「……」
簡単なことだ。もう、一年間も続けてきた。
今日もまた、自分の心に蓋をして、そっと目を逸らすだけでいい。
簡単なことだ。
今日も、明日も、いつまでも、のらりくらりと自分を偽りながら。
だから、今日もまた、皆瀬雪音は静かに踵を返す──。
少しでも「おっ」と、思った方!
下方にある☆評価のほどをよろしくお願いいたします!