#── 9 ──#
今日、#── 7 ──#ともに二話連続更新しております。
「もしもまた、あの人が絡んできたら、今度はちゃーんとわたしがぶっ飛ばしてやりますよっ! だから先輩は、安心、安全です!」
昼下がりの保健室にて、小さな拳をぎゅっと握りしめた少女を前に、優太はなんともいえない気持ちになっていた。
彼女の云う『あの人』とは、十中八九、つい先ほど優太をこてんぱした、あのひとつ年上の先輩ーー末吉海で間違いないだろう。
サッカー部の現エースであり、ワイルドな容姿が印象的なあの先輩は、鍛え抜かれた身体は力強く、一見人当たりは良さそうに見える。が、その実喧嘩っ早い性格の持ち主であり、今、正面にいる少女の元彼氏だったのだ。
そんな相手を、あまつさえ目の前少女はぶっとばすと宣言したのだ。自分ですら、手も足も出なかった、そんな相手をーー。
「安心してください。わたしだったら、こう、ワンパンですのでっ!!」
プロボクサー選手よろしく、茶髪の少女は拳を何度も突き出し、弾けるような笑顔を浮かべている。すごいやる気に満ち溢れる様子に、優太のほうが置いてけぼりだ。
「……お、おう。ま、まぁ、ほどほどにな……」
彼女の華奢な体からは、そんな未来などまるで想像できないけれど、まぁ、彼女も本気で言っているわけではないと思う。たぶん、智花なりのエールなのだろう。
もっとも、彼女に何かあれば、優太のほうがやるせない気分になるで、ぶっ飛ばすのも、ワンパンにするのも、ぜひともやめてもらたいと切実に思う。口には出さないだけで……。
「はい、その際はお任せしちゃってくださいっ!」
優太に頼られたとでも思ったのか、智花は俄然意気込む。「これはやってしまったか……」という漠然な不安が優太を襲ったが、後の祭りでしかない。
まぁ、起きてしまった問題同様に、未来のことは誰にもわからないのだ。彼女にも勝てる相手とそうではない相手の分別くらいはつくだろう。
それよりも、大切なのは不確定な未来よりも、今、この瞬間である。そして、先ほどからファイティングポーズをやめた智花がじっと優太を見つめてくる。意味ありげな視線から示唆してくる用件は一つ。
「ということで、先輩、これからは、気軽に、智花、と、呼んでくださいね」
人差し指を立て、パチンと目配せしてくる。一見、どこか気恥ずかしい仕草も彼女がすれば様になっているから不思議だ。
「……い、いや……やっぱり、それとこれとは少し話が違うようなぁ……」
理性ではわかっていても、世の中には受け入れ難いものが存在する。智花の提案が、優太にとってもまさにそれで——。
「もしかして、先輩、恥ずかしんですか?」
「うっ……」
「ほぉー、そうですかそうですか、恥ずかしんですかぁ〜」
わざわざ顔を上げて見なくても、智花がにんまりと笑う表情が容易に想像できた。
得てして、得意不得意が人には存在する。
人によっては簡単なことが、またある人にとっても簡単だとは限らないのだ。
翻って、先ほど少女が口にした『名前呼び』も、彼女にとっては些細な要望だったとしても、優太にとってはどもる理由として妥当なところ。優太は、瞳いっぱいに期待を浮かべる少女を一瞥し、床に視線を落とした。
ここ数年、一定以上の距離感をつめられると、どうしても落ち着かない気分になる。
それは他でもない、過去の自分がそうさせていることを、優太はちゃんと自覚している。そして、自覚しているからこそ、さきほども反射的に否定してしまったのだ。
「でも、先輩はさっきの質問の答え、欲しいですよね?」
さっきの質問とは、智花が優太を探して教室中を探し回っていた理由だ。
「……」
確かに、智花が自分を探し回っていた理由は気になる。気になるけど、今、ここで頷けば負けたような気分になる。一つ年下の後輩に、思うがまま操られているようで気に入らない。どうやら、自分にも先輩としての矜恃はあったことに、優太は初めて気がついた。
そして、それに気づけば、もはや答えなど決まっていた。
「いや、やっぱり別にいいわ」
「えっ?」
あっけらかんと答えを拒否した優太に、今度は智花が素っ頓狂な声をあげた。
「ど、どうしてですかっ? 気にならないんですかっ?」
ぐいぐいと優太に近寄り、その心境の変化を問う。今はや先ほどまで醸し出していた彼女の余裕は霧散し、対して優太は平然としており、完全に立場が逆転している。
「んー、まぁ、なんとなく、わからないことはないしな……」
「ぶー」
頬を膨らませ、瞳いっぱいに不満を表す智花。唯一のアドバンテージが奪われた今、自分の要求が叶わない可能性が出たことに気づいたのだろう。
智花はふはぁーと息を吐き、観念したように首を横に振り、近くの椅子に腰を据え——ようとして、優太の手からガーゼを奪い取る。
「いただきですっ!」
「お、おいっ!」
そして、ガーゼを奪い返そうと手を伸ばした優太の右手を左手で掴み、ぐいっと体を寄せ、その口元にガゼーを近寄せた。
「おいおい、これはいったい、どいうつもりだ?」
口元を引きつらせた、優太が智花の真意を問うた。一方、そんな優太の問いに、智花は口元に淡い微笑を浮かべて言い返した。
「先輩、小さい頃、切り傷を負ったところを保健室の先生やお母さんに治療してもらったことって、ありますよね? そして、その切り傷には消毒液が振りかけられる。……ここまで言えば、もう、お分かりですよね?」
「……俺を、脅そうってのか?」
優太の問いに答えず、智花がにっこり笑う。視界の隅からは、徐々に白いガーゼを口元に近づいてくる。なんとも小癪で狡猾な手だろうか。優太の口元にできた傷に絶対染みるとわかってやっている。
「では、改めて問います。まぁ、先輩なら、今、この場で言うべき言葉をわかっているはずですよね?」
ここぞとばかりに、智香がぐいっと顔を近づけ、手に持ったガーゼは口元寸前で止まった。少し、アルコールの匂いが鼻につく。
「ほら、目を逸らさないで言ってみてください。簡単なことじゃないですか? これから私の名前をただ一言、『智花』と言ってみるだけで、先輩の知りたいことが分かっちゃうんですよ」
その言葉を皮切りに、肌とガーゼの距離がさらに狭まってくる気がした。
智香の性質が悪いところは、絶対に滲みてしまうことがわかって上で実行に移しているというところだろう。治療するはずのガーゼは、マザーテレサもびっくり、いつの間にか脅しの道具に使われていた。
そんなことなど気に留めず、智花の大きな瞳は爛々と輝きを増していくばかり。小悪魔を通り越して、目の前の少女は今は悪女に見えてきた。鞭とか取り出しそうで怖い。
「さあ、先輩、片瀬優太先輩、言ってみてくださいよ、口に出してみてくださいよ、言葉に出してみてください。たった一言です、たった一言だけでいいんですよ?」
はしば色の大きな瞳が妖しく光っている。本気の目。やるときのやる目だ。目的のためなら手段を厭わない覚悟の宿った目。
「……」
もはや頷く以外の選択肢を与えられていない……と優太は半ば諦めた。
そして、諦めてしまえば逆に早かった。
心を無にし、大きく息を吐き出す。人生ときに諦めが肝心だと誰かが言っていた。すると、次第に全てを達観したかのような澄み渡った心になれた。
優太は智花の手を掴むと、自らの口元の切り傷にガーゼを押し当てた。
「え?」
消毒液が切り口に染み渡り、鋭い痛みに顔を顰めるのが自分でもわかる。目も前で困惑の色を隠せない智花がいい証左だ。けれど、それらの感情のすべてを鋼の心で押さえつけ、優太はそっと智花の耳元に口を近づけ——そして一言。
「智花」
「ひゃう!」
威力は十分だった。好機と見るには、智花の反応があまりにも素直すぎたのだ。先ほどまでの小悪魔的振る舞いも今や見る影もなく、耳を真っ赤にする姿には不思議と自虐心を駆り立てられる。次第に優太のテンションも変な方向へと引っ張られてしまった。
「教えてくれよ、智花」
先ほどよりも、より一層の感情を言葉に込めて。なるべく丁寧に……。
「せ、先輩? ちょっ、それ一旦やめ──」
引き下がろうとする華奢な手を寸前のところで引き止める。びくっと彼女の肩が震えた。上目遣いでこちらの様子を窺ってくる姿は反則的で、嗜虐心が煽られる。
「お前の知っているすべてを……この俺に教えてくれないか?」
優太は小っぱずかしさを堪え、真っ赤に染まった耳に唇をさらに寄せ、そっと囁きかけた。
「……ひゃあ!?」
案の定、効果は抜群だった。小悪魔少女は甲高い声をあげこそばゆそうに身体を縮こまらせる。
興が乗ってきたところで、最後のフニッシュといこう。そう思ったとき、神様は年下の少女をおちょくる男に天罰を下した。
「ひゃあ? ……てっ、うぉあぁっ!」
謎の効果音を少女が口にしたと思えば、優太は宙に放り出されていたのだ。いや、智香に肩を押され、情けない声とともに椅子から転げ落ちた。
視界は急上昇。
天井と対面。
ジェットコースターに乗っているような浮遊感に襲われたまま、優太は背中から地面に急下降。その拍子に脊髄反射の如く伸びる右手。その伸ばした右手が柔らかな何か掴んだのはまさにそのとき——。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴を伴い、結局、優太は術なく無機質な床に背中から打ち付けられた。肩から背中にかけて、鈍い痛みが走る。とくに、さきほど殴打された箇所がずきずきと痛み主張してくる。
「いってぇ……って、うん?」
けれど、 痛みに甘んじている暇はなかった。
原因は、先ほどよりも近くなった甘い息遣い。
上半身から下半身にかけて覆い被さる重いけど暖かい何か。
それらの感覚の正体を知るために、優太は倒れた体を起こそうとした。しかし、身体に何かが被さっているようで、思うように起き上がれなかった。
本能的をそれを退けよう手を伸ばしたとき、もにゅんとした感触に掌が包まれた。
それは、優太が体験した中で今まで感じたことのない柔らかさを、ともすればな安らぎを覚える感触だった。いつまでも触っていたとそんな衝動に駆られる。男なら抗えない、そんな気すらしてくる極上の何か。
「せ、先輩っ……」
ふと、暗い世界にどこかで耳にした声が優太の鼓膜をくすぐる。でもそれは、先ほど生意気な声色をしていた彼女の声。気になるのは、今やその声には羞恥が混じっていること。
そこで優太は初めて違和感を覚えた。身じろぐとさらりとくすぐったい何かが頬を撫でる。鼻腔にはシャンプーの甘い香りが漂い、下半身に覆いかぶさった柔らかく暖かみのある感触、そのすべてが自分のものではなかった。
恐る恐る目を開け── 優太は息を呑んだ。
「……」
視界の先、目と鼻の先でこちらを見つめる熱ぽい大きな瞳。まつ毛は目下に影をつけるほど長い。シミひとつない白い頬は、ナチュラルにメイクしているのか、それともわずかに上気しているような桃色に染まっている。リップクリームを塗っているのであろう、ぷっくりとした桜唇は艶やで思わず目を奪われてしまう。
「せ、先輩……」
切なげな猫なで声が優太の鼓膜を妖しく刺激する。痛いくらい心臓が跳ね、息をすることすら忘れてしまった。
「……」
間近に映す艶めかしい異性の姿に、優太の世界は停止した。
感覚だけが研ぎ澄まされた世界で、伸ばした右手に伝わる柔らかさの中に高鳴る鼓動は優太と同様に早かった。
そこで、初めて自らに握っている柔らかさの正体に気がついたのだった。
「ご、ごめん!」
言うが早いか、慌てて柔らかな胸から手を離す。そして、迅速な所作で謝罪しようとしたとき、なぜか、優太の両手首を少女ががっちりホールドしてきた。まるで、優太を拘束するように。
「ちょっ!? え? は!? なにこれどういう状況!?」
理解の範囲を超えた智香の行動に、不思議と全身から力が抜けてしまい、優太は戸惑いの声を上げることしかままならない。
お腹に当たる軟らかな感触や、緩くなった胸元から覗く白いレースの生地、熱に揺れる大きな瞳、鼻腔をくすぐる女の子特有の甘い香り、その全てが優太の抵抗する力を奪い去っていく。
「先輩……実は、わたし……」
甘い息が頬を掠め、とろけるような甘声が鼓膜を震わせる。心臓なんて痛いくらいに高鳴っている。
「わたし……片瀬先輩のことが……」
掴まれた手首に力が籠り、彼女のきゅっと結んだ桜唇がそっと開らかれる——まさにそんなタイミングだった。。
「山田先生、この間、相談させて頂いた改善案の件でお話が……」
智花の言葉に被さるような形で、後方の扉から割って入ってきたとはある女子生徒の声
その瞬間だった。一気に優太は血の気もよだつような感覚を覚えたのは。
恐る恐る視線を向けて……そして、ついに優太は言葉を失った。
ふいに、目を奪われたのは、そこに彼女が立っていたから。
途端、強い風が保健室を吹き抜ける。
「——!」
教室の窓から入り込んできたのは暖かな春風。煽られた彼女の黒髪と純白のカーテンがふわりと宙に舞う。
「……っ」
カーテンの奥から覗く小さな顔。見開かれた二重瞼の目は大きく、その奥に覗く怜悧な瞳は、純度の高い宝石のように透き通るほど綺麗。
ストッキングに包まれたすらっと長い足、それを隠す膝丈ほどのスカートがワルツでも踊るように揺れている。
ブレザー越しからでも分かる確かな胸の膨らみは、優太の知らない間に主張を増していて、相反するきゅっと細い腰はモデルように引き締まっていた。
スローモーションのように流れる時の中。ずっと記憶の中に仕舞い込んでいた幼い彼女との思い出が脳裏に過ぎていく。
笑顔も、怒った顔も、拗ねている顔も、喜んでいる顔も、四年前のあの冬の日に見た、あの悲痛に歪んだ顔だって——すべて、すべて覚えている。何度も忘れようとして、その度に忘れらない彼女と過ごした日々の数々を。
何度、目を奪われたかわからない。もう、数え切れないほど奪われてきたから。だから、あのとき、優太の前から彼女が姿を消したあの日、そして、彼女が帰ってきたあの日、すべてが終わったと思っていたのに、もう、忘れられてたと思っていたのに、それなのに、今、優太は息をすることすら忘れ、一段と綺麗になった幼馴染に目を奪われている。
驚きすぎて、言葉なんてものはまるで出てこなかった。
沈黙が重く流れる教室の中、優太の視線は彼女、皆瀬雪音ひとりに注がれていた。そして、雪音の視線もまた優太に向けられていた。
「……」
けれど、彼女の瞳は優太を見ているようで見ていなかった。わずかに外れた視線の先をほぼ無意識で追っていくと、見ていたの優太のわずかに上。いや、四つ這いの体勢で被さっている後輩に——。
「……先輩? ねぇ、先輩ってば」
一方、小悪魔を演じる健気な後輩は、雪音の存在に気づいていないのか、固まって動かない優太を憂げに見つめてくる。しかし、それもがたがたと肩を揺さるまで。おかげで、優太は、今、自分がどういう体勢で、どういう状況なのか、思い知らされることにもなった。
途端、背筋を凍てついてしまいそうなほど冷徹な視線が刺さる気がした。
実際、背筋を冷たい汗が流れているのが自分でわかる。
「ねえ、先輩、聞いているの?」
「……」
肘だけを床につき、わずかに上半身を起こす優太は、智花の問いかけには答えられない。
いや、厳密に言えば答えなかったのだ。
答えるより先に、教室を飛び出していった存在がいたから——。
少しでも「おっ」と思った方、評価の方をよろしくお願します。




