#── 7 ──#
「ごちそうさま」
太陽が昇切り、東の空へ針路を取り始めた昼下がりのこと。現在、生徒会室にて、皆瀬雪音は、空っぽになった弁当箱を前に礼儀正しく両手を合わせ、今日のお弁当を完食していた。
今日の弁当箱を彩ったメニューは、竜田揚げやひじきの煮物、卵焼き、ミニトマト、オクラ、白米とちょっとしたデザートに大学いもを合わせたヘルシーなもの。
何かと仕事が忙しい母親が出勤前に手渡してくれる弁当はいつだって美味しい。今日も、経木わっぱの弁当箱にはご飯粒一つ残っていない。少し小さめだけど、ヒノキの香りを仄かに漂わせるこの弁当箱も気に入っている。
料理自体は雪音も一通り作れる。過去に一度だけ、何かと忙しい母親を気遣い、「自分の弁当は自分で作る」と宣言したことだってあるのだ。
けれど、「弁当は母親が作るものなのよ」とやんわり断れ、そのあとに「でも、ありがとね。その気持ちだけ受け取っておくから」と、優しく諭され、それ以降、雪音はその好意に甘えることにした。
母親は、雪音の自慢だ。理想の母親像は?と問われれば、雪音の中で答えは決まっている。もしも、自分にも子供ができたなら、同じ大きさの愛情で包み込んであげたいと思う。
そんなことを考えながら、空になった弁当箱を保冷バックに片付けていると、生徒会室の扉が慌ただしく開かれた。
「皆瀬はいるか」
低い声に名前を呼ばれ、視線は反射的に扉のほうへと向かう。すると、ちょうど扉の隙間から眼鏡を掛けた男教諭が顔を覗かせていた。
「おっ、発見」
視線が合うと、男教諭、栗山先生の表情は見るからに明るくなる。それだけで、自分を探しにここまで来たのだと雪音は察した。
栗山先生は教室の中に足を踏み入れた。その手には見慣れない書類が数枚握られている。おそらく要件は、この書類に関係があるのだろう。
「昼休み中、悪いな皆瀬。んで、早速ですまんのだが、これを山田先生のところに持っていってくれないだろうか」
栗山先生は申し訳なさそうな表情を浮かべるやいなや、単刀直入にそう言ってきた。
「あっ、栗山先生だ。そんなに慌ててどうしたんですか?」
雪音が答える前に、横から口を挟んできたのは、一緒に昼食をともにしていた真帆だ。彼女はいつも通り、机を挟んだ反対側の席に座っている。
「何だ、市来もいたのか」
栗山先生が呼ばれて初めて気づいたような反応を見せると、真帆はすぐに気のない講義の声をあげる。
「何だって、何ですかその不躾か言い方は。ちょっと失礼じゃないですかぁ?」
「はは、悪い悪い」
ぷっくり頬を膨らませながら遺憾の色を示す教え子に、栗山先生は屈託のない笑みで受け流してみせた。すげなくも苛立ちを覚えさせない子慣れた対応にはそれ相応の貫禄がある。
栗山先生は生徒会顧問である。そして、生徒会顧問という役どころは、その名の通り、何かと真面目で厳しい教師に任されるイメージが付き纏うだろう。
実際、栗山先生は、生徒たちに対して厳しく指導することもある。だが、厳しいだけではない。ときに優しく、されどフランクに、生徒に対して理想的な距離感を以て接することもできるタイプだと雪音は思う。現に、彼を慕ってやって来る卒業生たちの姿を雪音は過去に何回か見たこともあった。
「それで、皆瀬、この書類なんだが……」
そんな生徒会顧問は、真帆の追随をひらりと交したところで、書類を手渡してくる。雪音は手渡された資料を受け取り、さっと目を通す。見たところ、昨日の放課後に提出した改善案をまとめた資料のようだった。
「……あの、栗山先生。もしかして、これ、昨日私が提出した書類ですよね」
「ああ」
「もしかして、何か不備とかありましたか?」
昨日の放課後、この書類を手渡しのは雪音自身であり、そして、それを受け取り、認めたのは栗山先生なのである。
しかし、その当人のが書類とともに現にこうやって目の前に現れたとなると不備があったと考えるのが妥当だろう。
そんな雪音の疑念に、栗山先生はもっともだと頷き、申し訳なさげに頭を掻き、小さく声を漏らした。
「悪いな、皆瀬。実は、昨日の書類に目を通していたんだが、俺の見落としで保健室のベットの修繕、及び取り替えの件について山田先生に確認を取るべき事項のいくつかに抜けがあってだな……」
案の定、栗山先生が口にしたのは書類の不備だった。がーー
「すまん、俺のミスだ。見落としてた」
眉根を下げ、栗山先生は頭を下げて謝罪の言葉を口にした。曲がった腰の角度から、本当に申し訳なさそうなのが伝わってくる。他の教師と比較して随分と物腰が低い。この物腰の低さが、他の生徒たちにとっての接しやすさに繋がっているのだろうか。
何はともあれ、どこにいても、こういう姿勢の教師は貴重だと思う。
多感な時期である高校生。将来を大きく左右する時期を過ごす彼らのもとに、彼のような気の置けない先生の存在は多大だ。
「それで、一つ、頼みたいことがあるんだが……」
栗山先生は苦笑しながら言い淀み、一呼吸空けてその言葉を口にした。
「これを、俺の代わりに、山田先生のところに持っていってくれないだろうか?」
そう言って、栗山先生が再度頭を下げ、書類を手渡してきた。銀のフレームの奥から覗く瞳には力を感じない。本当に、申し訳ないのだろう。
きっと、ここで辞退しても栗山先生は文句の一つも言わず引き下がる。本来、この手の根回しは教師間における仕事の一つでもあるからだ。
もっと言えば、栗山先生のそれは、生徒が行うような案件ではないのだ。だが、雪音に委任するという行為自体は、これまで積み上げてきた信頼の証ということにも取れる。『皆瀬雪音なら任せても問題はない』という、言葉の裏に隠された形のある信頼の証拠として。
「……わかりました」
雪音自身もその信頼に応えたかったし、別に断る理由もなかったので、栗山先生のお願いは快く引き受けることにした。それに、この程度の確認事項なら問題を起こす方が難しい。
「もしかして、先生がスーツ姿なのと関係あったりするですか?」
雪音と栗山先生の会話が途切れたタイミングを見計らうように、再度、真帆が横から口を挟んでくる。
そんな教え子の純粋な疑問に、栗山先生は自分の堅苦しい装いを一瞥し、そのあとにどこか言いにくそうに苦笑した。
「ああ、実はな、これからとある生徒のお宅にちょっと、
な……」
「とある生徒、ですか?」
そう疑問を口にしたのは雪音のほうだ。
「ああ、実は困ったことに、最近不登校気味の生徒が何人かいてな……。今からその様子見と、再び登校できるように、不登校になった原因の洗い出しや、それらの改善を兼ねてお伺いしないといけないんだ」
「へぇ〜、教師って何かと大変なんですねえ」
「はは、これも仕事だからな」
真帆の感心するような視線に、栗山先生は乾いた笑みを零す。その笑みからは、どこか哀愁のようなものを感じた。雪音も、そんな栗山先生を見て苦笑せざるえない。
事実、名前も知らない生徒が不登校になったからと言って、関わりのない真帆や雪音にはできることはない。ただ、午後からの彼の苦労は用意に想像できた。
しばらく栗山先生は、なおも何か言いたそうなお面持ちをしていたが、先を急いでいることでも思い出したのか、すぐに雪音に向き直ると、早口に要件をまとめ始める。
「まあ、そういうわけだから、すまんが皆瀬、頼んだぞ。山田先生には、これを俺から渡されたって一言伝達してもらえればきっとわかってもらえるはずだからな」
「はい、では、そのように伝えておきます」
「ああ、頼んだぞ」
最後に何度目かわからない謝罪の言葉を残すと、栗山先生はそさくさと生徒会室をあとにした。
「なんか、くりくり、随分と忙しそうだったねぇ」
緊張感のない真帆の声が生徒会室に溶けていく。
「くりくり?」
聞き慣れない名称に、雪音は小首を傾げた。
「うん、くりくり」
「くり、くり?」
何かの隠語か、誰かの蔑称だろうか。少なくとも、現段階でそれが何を示している雪音にはわからなかった。
教えてくれたのは、然もありなんと頷いた真帆だ。
「そ、くりくり。栗山先生、みんなに影ではそう呼ばれてるの。もしかして雪音ちゃん、知らなかった?」
つまり、『くりくり』というのはさっきまでいた栗山先生のあだ名。先生本人の前以外では、彼女は彼のことをそう名称している……と、箸で掴んだ白米にパクついた真帆が屈託もない笑みを浮かべて教えてくれた。
「へー、そうだったんだ。初耳だったかも……」
雪音の記憶の中では、真帆のように呼んでいる人物はいなかったと思うのだが、別に教えてやる必要もない。
「そっか、じゃあ、これからは雪音ちゃんもそう呼んであげてね」
「え? あっ、うん、機会があれば……」
視線を逸らして、苦笑い。お願いされても今後呼ぶことはないだろうと思う。仮にも相手は教師であり、それに、言っているこっちの背中のほうがむず痒くなってしまうあだ名でもある。やはり、色んな意味で真帆は大物になるのかもしれない。
「それ、絶対呼ばないときのやつじゃんかぁ」
ころころと楽しそうな笑みを口元に浮かべた真帆から鋭い指摘をされる。
「あ、はは……、あっ、そうだ私、保健室にいかないと」
図星をつかれて、妙に居心地が悪くなった雪音は、今、思い出したように、先ほど受け取った資料を胸に抱えて席を立つ。
「あっ、さてはお主、上手く逃げようとしているなぁ〜」
すかさず真帆が嫌なところを突っついてくる。本当に、こういうところは抜け目ない。
「あははっ、違うって。これは頼まれた仕事だから仕方ないんですぅー」
雪音もまた、その明るさにつられるように、くすりと笑みをこぼしながら生徒会室をあとにした。ぱたりと扉が閉まる。
「……よかった、意外と元気そうじゃん」
閉まった扉の向こう側から、ぽつりとそんな憂いげな声が聞こえてきた。
雪音は閉じた扉に背中を預け、そっと瞼を閉じてから扉越しにいるであろう親友に、口元を緩ませた。
「ほんと、抜けめないよ……」




