#—— 6 ——#
突如、屋上に乱入してきた女子生徒に腕を掴まれた優太は、わけもわからぬまま屋上から連れ出され、そのまま半ば無理やり連行されたのは、特別棟一階にある保健室。
開けられた窓から心地よい風が吹き抜け、純白のカーテンを優雅に揺らしている。壁に掛けられた時計の進む秒針の音がわかるくらい、保健室内は物静かだった。
訪れた保健室に養護教諭の姿はない。まさに激動の展開から一転、落ち着いた空間が優太たちを出迎えた。
「……」
そして、今、優太の前には薬品棚をごそごそと漁るひとりの女子生徒の姿があった。少しつま先を上げて、何かを探している後ろ姿はあどけないように思える。
「あっ、先輩。先輩は、そこの椅子の上に座っていてください」
見すぎていただろう。視線に気づいた少女に肩越しにそう促され、優太は状況も掴めないまま、とりあえず一番近くの椅子に腰を下ろす。
すると、先ほどまで全身を覆っていた緊張感が抜け、体から力が抜けていく。今まで気づけなかったのは、アドレナリンが放出されていたから。けれど、気づいてしまった今、殴打された節々は思い出すようにじくじくと痛みを主張し始める。
「あっ、あったあった」
優太が体を苛む痛みに顔を顰めていると、正面から鼻歌でも口ずさみそうな声が聞こえてきた。
視線をやると、先ほどまで棚を漁っていた女子生徒が白い薬品箱を手にしていた。満足そうな顔。そして、いったい彼女は今から何をはじめようとしているのだろうか。
その様子を怪訝に窺っている間にも、彼女は手に持った薬品箱を近くの机に置き、金具の蓋を開け、中を覗き込みながら何やら呟いている。
「んーと、あっ、あったこれこれ」
お目当ての物が見つかったのか、彼女のほころぶ表情がそれを教えてくれた。
彼女が薬品箱から取り出したのは、白い筒状の容器と一枚の白い布切れだった。それは誰がどう見ても、いたって普通の消毒液とガーゼだ。
その二つを手にした女子生徒は、手始めに消毒液の蓋をくるくる回し、蓋を取り、少し傾け、無色透明な液体をガーゼに軽く吹き掛けはじめる。
その様子をしばらく眺めていると、ふいに顔を上げた彼女と視線が重なった。
「……」
何か訴えげな表情が優太の嫌な予感を煽る。そして、その虫の知らせは、次の瞬間彼女の笑顔を伴い現実のものとなった。
「先輩、ちょっと滲みるかもしれませんが、少し我慢してくださいね」
彼女は垢抜けた声でそう宣言するやいなや、ガーゼを口元目掛けて伸ばしてきたのだ。
その距離は徐々に縮まっていき、三十センチ、二十センチ、十センチ……ーーそして、ガーゼと優太の肌の距離が残り五センチほど接近したとき、それまで機能を停止していた脳が徐々に事態の異変さを認識し始める。
「……ちょっ、ちょっとタンマ!!」
咄嗟に制止を呼びかけると、ガーゼの進行もぴたりと止まってくれた。けど、すぐ異議ありの声。
「なんですか、先輩? あっ、もしかして滲みちゃうの怖かった…とか?」
「……違う、それは別に怖くはない」
「そうですか、では遠慮なく」
「お、おう……そっとだぞ? 優しくなーーじゃなくてっ!」
「もぉー、往生際が悪いですよ、先輩。それに、早くすることしないと昼休みも終わっちゃいますから」
女子生徒の言葉に顔をあげると、視界に映った壁掛け時計は、確かにまもなく昼休み終了を告げようとしていた。
視線を元に戻し、再び彼女を見る。すると、「でしょ?」と小首を傾げる大きな目がこちらを見ていた。首を傾げた拍子に肩に掛かったブ茶色の髪がさらりと彼女の頬を撫でる。
「……いや、まぁ、確かにそうなんだけど……」
「けど?」
「……そもそも、この状況は何?」
何か、とても大事なことがごっそり抜け落ちてる。ここまでくるのにあまりにも展開が早すぎて、途中から映画を見せられているような感覚に近い。
「まぁ、細かいことは、今は気にしないでおきましょうよ。先輩は、大人しくこのわたしに身を委ねてください」
そんな憂いを、この少女はあっけらかんと吹き飛ばそうとするから困る。優太には優太のペースがあるのに。
「……いや、細かいことって」
「それに、細かすぎるのもあまり良くはありませんよ? 女子、ひいてはわたしは割かと大雑把な男性が好みです」
「いや、どさくさに紛れて君の好み言ってんじゃん……いや、そうじゃなくて、だいたい、なんで君が俺を治療してくれることになってるわけ?」
優太が素直に疑問を述べると、女子生徒は何を当たり前のことを──と言わんばかりの目で見てくる。そして、あっけらかんとその言葉を口にした。
「それはほら、先輩が、屋上で、ボコボコにされていた、から、です」
にっこりと微笑みながら、可愛らしい顔で容赦のない一撃が優太を貫いた。一々言葉を区切、はっきり言ってくるあたりにそこはかとなく悪意を感じるのは気のせいではないはずだ。
一方、優太も優太で、彼女の言にはもちろん言い返してやりたい気分だった。でも、彼女の言葉は紛れもない事実だから言い返すに言い返しなくて歯噛みしてしまう。それに、今は事実は事実と大人しく認め、話を進めた方がいくらか建設的だ。
「…………いや、まぁそうじゃなくて、いや、事実そうなんだけども、そういうことを言いたいんじゃなくてだな?」
「そうなんですか?」
「……うん、まぁ、何というか、その……」
出来ればもっとオブラートに包んでくれても、なんて口が裂けても言えなかった。彼女の言葉が真実でも、男のプライド的に認めたくないものがあるのだ。咄嗟に否定的な言葉が口をついて出てしまったのもそのため。優太なりの小さなプライドである。
でも、彼女にそれを言ったところで仕方がないことは優太が一番わかっている。わかっているからこそ言葉も詰まる。
だが、優太そんな思いを胸の内に秘めていたとしても、女子生徒は優太のジレンマなど歯牙にも着せず、平然と言ってのけるのだった。
「まぁ、今は細かいことなんて置いておきましょ? それよりも今は先輩の治療の方が先です。だから、怪我をしたその口元をこの私によーく見せてくださいよ」
優太を映した大きな瞳が爛々と輝いている。「ほらほら早く」と催促してくると思いきや、その瞳はすぐに「いきますよ」「ちょっとだけ染みますよ」とまるで容赦なく問いかけてくる。その表情はどことなく楽しげで、ともすればからかわれているような気分になる。
「ちょ、ちょっと待って、俺は大丈夫だからっ」
「あっ」
このまま好き勝手されればそれはそれで負けたような気分になる。優太は伸びてきた彼女の手首を反射的に掴んだ。
「怪我の治療くらい、自分でするから」
そう言って、華奢な指からガーゼを回収する。
「……もぉうっ」
役目を取られたかたちとなった女子生徒が悔しそうに頬を膨らませる。彼女も彼女なりの理由や意味があり、それに従って行動しているのだろう。けど、治療くらいなら自分でもできるし、感性的にも女子に手当てしてもらうには気恥ずかしさがどうしても勝ってしまう。
ちょっぴり罪悪感を覚える優太だったが、ふと脳裏にとある疑問が過ぎった。それは、逆に今まで疑問に思わなかったことが不思議なくらい当然の疑問だった。
「てか、君、なんで俺のこと知ってんだ?」
今は多少なりとも見知っているとはいえ、昨日まで彼女とは赤の他人だったのだ。当然、前だって教えた記憶もなければ、教えてもらった記憶もない。
それなのに、彼女は優太のことを一方的に知っている。妙に噛み合っていないというか、ちぐはぐな行き違いをしているみたいで気持ち悪い。
けど、その気持ち悪さの正体は、手のひらの上で拳をポンッと叩いた彼女自身がすぐに教えてくれた。
「あっ、それはですね、ついさっきまで、昨日のお礼をしたくて先輩をクラス中を回って探してたんですが、その途中でばったりでくわしたとある先輩が、親切にも先輩のことやその居場所を教えてくれたんですよ」
「とある先輩?」
優太は首を捻り、しばし思い当たる節をあたっていく。すると、心当たりのある人物がひとり浮かび上がってきた。というか、だいたい優太のことを知っていて、かつ昼休みの行動や居場所を特定できる人物など思い当たるのはひとりだけ。
「あいつ、まだ教室にいたのかよ……」
大方、優太が去ったあとも教室に残り、クラスにいるサッカー部員たちと井戸端会議にでも洒落込んでいたのだろう。
しかし、それならそれで、今度は新たな疑問が思い浮かんでくる。
けれど——
「じゃあ、なんで君は俺を探していたのか…ですよね?」
優太の思考を先読みし、ふふんと慎ましげな胸を張る女子生徒。そのドヤ顔がなんだか鼻につく。優太は反射的に反射的に否定しようとした。が、寸前のところでぐっとそれを堪えた。それは、彼女の答えのほうが重要度が高いからに他ならない。
だから今はとりあえず口を固く閉じ、その代わりに視線で続きを促してみる。すると、そんな優太を前に、ちろっと人差し指が立てられ、彼女はにっと口元を緩めた。
「いいでしょう。その質問には答えます。ですが、質問に答える前にひとつだけ、わたしから片瀬先輩にお願いがあります」
「……お願い?」
「はい、それに答えてくれたならば、先輩の疑問にわたしもお答えします」
彼女の浮かれていた瞳に一瞬だけ本気の色がちらついたのを優太は見逃さなかった。
「ぜ、善処する」
不穏な予感は否めないが、気になると言われればやはり気になる。そもそも、断れる立場じゃないことは優太が一番わかっているし、満足そうな笑みを浮かべている彼女もそれは理解していて、だからこそあえて言葉にしたのだと思う。なかなかどうして侮れない相手だった。
「ではまず、その『君』って言う他人行儀な呼び方をやめて、『智花』——と、そう呼んで下さい」
「……とも、か?」
「そうです、智花です。以後、その呼び方でよろしくお願いしますね、先輩」
彼女、もとい智花はそう言うと、むふふと頬を緩ませて上機嫌になる。
「……」
一方、突然名前呼びを強要された優太は戸惑うばかり。しかし、それもそのはずだ。濃密な時間を体感したとはいえ、二人は知り合ったばかり。ましてや、過去に優太が名前呼びしていた女子など数えるほどしか存在しないのだから。
優太は一度浅く吐息を漏らし、頭を整理し、それからゆっくり口を開いた。
「……うん、ちょっと待とうか。さすがに最初から名前呼びっていうのはなしにしない?」
「えっ?」
まさか否定されるとは思っていなかったのだろう。優太の返答に、智花はぽかんと口を開いたまま固まってしまう。そして、そんな彼女の反応に対して優太も固まってしまい、二人の間にはなんとも言い難い空気が流れ始める。
それから五秒ほど経過し、微妙な沈黙をさきに破ったのは智花のほうだった。
「……何でですか? 理由、教えてもらってもいいですか?」
幼い子供のようにむくれた表情を浮かべ、ぐいっと智花が優太に近寄る。すると、ふわりと甘い香りが鼻腔を撫で、どこか落ち着かない気分になる。
「……」
たぶん、彼女は怒っているのだろう。でも、怒っているはずなのに、そういう風に見えないのは頬を膨らませる仕草やもともとが童顔なせいかだろうかーーと、そんなことを考えながらも、優太は断るにふさわしい言葉を絞りだそうと頭をひねった。せめて、目の前の少女を納得できるだけの理由が望ましい。
「先輩?」
いつまでも黙りを決め込む優太を智香が怪訝そうな瞳で見つめる。が、時間が経つにつれ、それはいつしか猜疑に変わり、優太もこれ以上の沈黙には心身ともに厳しいものがあると察し、結局、ふと頭に思い浮かんだ言葉をそのまま口にすることにした。
「ほ、ほら、俺たち、知り合って間もないし、いきなり名前呼びは気安すぎやしないかな……と」
しどろもどろになりながら、ようやく口から出た言葉は真っ当で当たり障りのない理由。反応が気になり、顔を上げる。すると、彼女はにっこり笑っていた。
「そうですか? わたしは別に、これっぽっちも構わないですよ」
まさかの全肯定は、優太を戸惑わせるには十分だ。
「いやいや、ほら、君が構わなくても、周りの……例えばほら、君のクラスメイトたちが要らぬ誤解みたいなものを生じさせてしまう可能性があるだろ?」
「いいえ、わたしは全く構わないですよ」
「そ、そうか? ……い、いやいやでもあの怖い先輩だって俺のこと目の敵みたいに見てたいし、第一、俺と仲良くしているところを見られて要らぬちょっかいを出される可能性だってあるだろ?」
曖昧な記憶の最後に中に残る海の表情を思い出し、優太は警告した。彼女も先ほどの光景を目の当たりにしているし、これで諦めてくれるはずだろうというある種の打算を込めて。
「うーん、まぁ、それは厄介ですねぇ……」
「だろ?」
少なくとも、優太はこれ以上関わりたくはない。誰だって余計な損は被りたくないはずだ。
けれど、そんな優太の予想は、智花の明るい表情の前にあっけなく霧散することになるのだった。
「でも、あの野蛮な先輩ならさっきしっかりとフってきたんで、やっぱりその辺は大丈夫だと思いますよ。片瀬先輩も、気にしなくていいはずです」
「…………」
まるで今日の天気でも口にするように智花は言うが、優太からすれば、それはまさに絵に描いたような爆弾発言。だが、その一方で、そのあまりの冷淡さを思わせる口調と、無味乾燥さを宿した表情を見ていると、意識しているほうが臆病に思えてきて、優太は言葉に窮してしまう。
そんな優太に、彼女、杉原智香は、なおも溌剌な笑みを浮かべて宣言する。
「もし、またあの人が先輩に絡んで来たら、今度はちゃーんとわたしがぶっ飛ばしてやりますよっ! だから先輩は、安心、安全です!」




