#—— 4 ——#
── 実はさ、優太。三年の先輩が、お前のことを呼んでる。
つい先ほど、自分のもとに訪れた友人から言われた言葉を優太は思い出す。
現在、慧と別れた優太はひとり、屋上に足を運んでいた。
その間に優太は、過去の自分の行いについて顧た。
「……おかしい、意味がわからん」
けれど、思い返してみればみるほど、高校一年から今にあたるまで、やはりというべきか、上級生の、しかもサッカー部の先輩と関わり合った覚えはなかった。
単純に忘れている可能性もある。けれど、覚えていないものは覚えていない。結局のところ優太にはどうすることもできない。
これを含めて三回目、全部同じ結論に至っている。そして、うんうん唸りながら物思いに耽っていると、いつの間にか屋上の扉の前に到着していた。
「どちらにしろ、答えはこの扉の奥にある、か……」
わずかに凝り固まった筋肉を解し、優太は少し古びたドアノブに手を掛ける。扉を開けると、春のよく澄んだ青空が視界に広がり、恵風に乗った若葉の香りが鼻腔をくすぐった。
壮観な景色。ぼーと物思いに耽るにはもってこいの空間。温暖な気温に満たされたこの場所で、昼寝に興じるのも良かったかもしれない。でも、だからこそ、視界の中央に悠然と佇む大きな背中はやけに目立っていた。
「お前が二年の片瀬か?」
約十メートル先に立っていた男子生徒は、閉まる扉の音に反応してゆっくり振り返った。
身長は百八十センチほど。整髪料でがちがちに整えられた短髪、野性味に満ちた表情は、慧と違ったタイプのイケメンだ。
そして彼こそ、慧が言っていた人物なのだろう。確か名前は、末吉海先輩とか言っていた。
優太は改めて海先輩に視線を向ける。
制服越しからでもなんとなく伝わってくる鍛えられた足腰と、健康的に焼けた肌。それが普段からボールを追いかけている証拠であり、彼が末吉先輩であることを示唆している。
「はい、俺が片瀬ですけど……」
質問に短く答えつつ、優太は早くも面倒くさそうな空気を感じ取り、回れ右をしたがる己の足を叱咤した。面倒事はなるべく早めに済ませておいたほうが賢明だ。今は自分にそう言い聞かせるほかない。優太は浅く息を吐き、一人静かに覚悟を決めた。
「何か、俺に用があるって言われて来たんですけど……」
鋭く睨めつけてくる視線に臆さず怯まず、優太は多少ぶっきらぼうに答えた。それは、せめてなめられまいとする優太の精一杯の虚勢で牽制でもあった。
しかし、そんな優太を目掛け、口元に獰猛な笑みを浮かべた海先輩が静かに歩み寄ってきたのはそれとほぼ同時で、直感的に危険を察したときにはすでに鋭い痛みが頬を駆け抜けていた。
「──っ!」
鈍い音が鼓膜を轟かせ、視界が激しく揺れた。優太はよろめきながら二、三歩後退し、何とか倒れないように精一杯の力を両足に込めた。
殴られた──とその事実に気が付いたときには、口内に鉄の嫌な味が瞬く間に広がっていく。
「いってぇ……」
問答無用で殴られた頬が次第に痛みを主張する。その痛みが戸惑いを追い越し、徐々に苛つきに変わるまでそう時間は掛からなかった。
優太は拳を握り締め、目を細めてこちらを窺う海先輩を睨みつけた。
じりぃ……と無意識に後ずさる後ろ足を何とか抑え込む。および腰なってはいけないと、警戒するように腰を落とし注意は怠らない。備えあれば憂いなし、二発目があると思っていて損はないはずだ。
そうやって優太が身構えていると、海先輩は指の骨をポキポキと鳴らしながら口角を吊り上げた。
「今の一発は、人の彼女に手を出した分だからな」
「は?」
突拍子もない言葉に呆けた声が出たのは、何を言われたか理解できなかったから。
そんな優太の反応に海先輩はより一層声を低くした。怒っているのか、笑っているのか、表情は一貫して冷徹。優太的にはたぶん、怒っているのだと思う。でも、なぜか楽しんでいるようにも見えて仕方がない。そうだとしたら本当に意味がわからない。このまま大人しくサンドバックにされる気など毛頭ない。
「お前、昨日の夕方、俺の彼女にちょっかいかけてたよな?」
「彼女……?」
そう問われた優太は、脳を働かし昨日の放課後の記憶を思い出す。思い当たる伏しがないか自問自答を繰り返した。その間にも、海先輩の怒りは冷めやらぬのか、じっとりとなじるような言葉が優太に浴びせられる。
「ああ? どうなんだ? さっきから黙ってねぇで何とか言ってみたらどうだ? たとえば、人の彼女を横からかっさらった感想、とかよぉ?」
「……っ!」
頭に上った血のせいで昨日の記憶をうまく思い出せず、反射的に反論してやろうと思い、優太は一瞬口を開きかけた。だけど、もう一人の冷静な自分もいて、そいつが『昨日の夕方』『彼女』というこの二つのキーワードに引っかかりを覚えていた。
本当は今すぐにでも文句を言ってやりたい。やりけど、優太はそれをぐっと堪え、昨日の記憶を思い出すことを優先させた。
そうして、時間にしてたっぷり十秒ほど巡らせた記憶の中に、昨日、酔っ払いに絡まれていたとある女子高生の存在が脳裏を過ぎった。
「……………………………………うっそだろぉ……」
脳裏に浮かんできたのは、まさに冗談のような可能性。でも、海先輩の言葉と照らし合わせてみると、妙に辻褄が合う、合ってしまう。何より、この悲惨な現状が舞い込んできた説明がつく。それはまさしく最悪のシナリオで、優太は思わず、頭を抱えそうになる。
そして、まさにそんなときだった。恫喝する声が優太の鼓膜を震わせたのは。
「おい、さっきから黙ってねえでなんとか言えよ!!」
顔を上げると、すでに踏み込まれた左足が見えた。反射的に顔を反らし、顔にくるであろう衝撃に備え腕で顔の前を覆う。けど、いつまでたっても顔に衝撃はこなかった。
「——ぐぅっ!!」
その代わりに優太の脇腹を鋭い痛みが襲う。殴られると予想していた攻撃はその実蹴りのほうだったらしく、ガードしていた優太を嘲笑うかのような一撃が優太の脇腹を抉ったのだ。
そしてそれは、サッカー部で鍛え上げられた鞭のような強靭な一撃で、重く響くような衝撃が体中を駆け巡った。
高威力の蹴りに、優太の体は呆気なくふらつき、コンクリートの上に倒れ込みそうになる。でも、優太は倒れなかった。今すぐにでも転げ回りたいところを半ば気合で踏みとどまったのだ。こんな奴にいい顔をされるのは死んでもごめんだった。
そんな優太のプライドを踏み躙るかのように、海先輩の容赦ない蹴りと殴りの応酬が、そしてひっきりなしに浴びせられる罵倒が優太にふりかかる。優太は防戦一方で、まるで為す術がない。
海先輩の攻撃は、傷が目立つ顔を意図的に避けていた。この事から、彼がいかに喧嘩慣れしている男だというその事実を、優太は殴られながらも、どこか他人事のように察した。
きっと、これまで生じた問題の数々を、彼は暴力任せて解決してきたのだろう。今もなお殴られても、蹴られても、倒れない優太を痛めつける嬉々とした顔がその何よりの証拠。
そう思うと、朦朧する意識の中でも、だんだんと滑稽に見えてきた。こうはなりたくないと、優太は心の奥底からそう思った。そして、そう思えたら急に笑えてくるものがあった。
「はっ、マジだっせぇ……」
「あ?」
その言葉が引き金だった。それまで倒れない優太をいたぶっていた海先輩の雰囲気は一転し、鋭い眼光にはさらに冷徹さを、口角はよりいっそう嗜虐的に曲がる。
これはちょっとまずいかも──そう思ったときには乱暴に胸ぐらを掴まれていて、固く握りしめられた拳が勢いよく振り上げられていた。
「殺す」
——あっ、これ……やばいやつだわ。
迫り来る拳がスローモーションのように近づいてくる。その刹那の間、どこか他人事のような感想が頭の中に浮かんだ。そして、優太が人知れず覚悟を決め、ぎゅっと目蓋を閉じたときだった。
「——————やめてっ!」
視界の端で耳をつん裂くような声が響き渡った。それと同時に、目と鼻の先で拳がぴたりと止まる。ふわっと鼻先を風が撫でた。
「ちっ、もう来やがったか」
そんな呟きをよそに、優太は何が起こったのかまるでわからなかった。唯一わかるのは、目の前にいる海先輩の表情があからさまに残念がっていることくらい。不完全燃焼。夕暮れ時に親に呼ばれて仕方がなさそうに帰宅する子供みたいな表情をしていた。
「ちっ、萎えた」
その言葉と同時にふわっとした浮遊感が優太は襲った。胸ぐらから手を離されたのだと気づいたのは、地面の感触を足の裏で感じ取ったとき。
海先輩の行動をいまいち理解できない優太が訝しげに見ると、すでに海先輩は優太のことは見ていなかった。
何を——そう思い、優太もつられるようにその視線が向けられる方向へと首を回す。すると、一人の女子生徒がこちらに駆け寄ってきていた。
そして、
「海先輩っ、これはどいうことですかっ!」
優太と海先輩の間にひとりの女子生徒が割って入ってくる。優太の目の前で、どこかで見覚えのある明るいミディアムヘアがふわりと揺れた。
「……君は……」
優太は彼女のことを知っていた。当たり前だ。昨日の放課後、ナンパをされていた彼女を助けたのは優太なのだから。
そんな彼女が、偶然か必然か、鬼気迫る表情で優太の前に立っている。
真剣な表情。とても冗談を言っているようには見えない。
目まぐるしく切り替わる状況に優太が戸惑っている間にも、女子生徒と海先輩の会話は続いていた。
「ざけんな、俺はこいつにお前を横取りされたんだぞ。その怒りがまだ収まんねぇ。最後に一発だけ殴らせろ。そんでこの件はチャラにしてやんよ」
そう言って、海先輩が力強く拳を握りしめる。女子生徒越しに優太を覗くその瞳には鋭利な刃物のような眼光が宿っている。
「じゃあ、私を殴ればいいじゃないですか。先輩をフったのはあたしなんですから」
ふたつ年上の男を相手にした彼女は一切怯なかった。怯えもしない。ただ、大きな瞳に揺るがない意志を宿し、平然と言葉を述べるだけ。
逆に、この揺るがない意志の前にて先に怯んだのは海先輩の方だった。
「あ? んなもん、できるわけねぇだろ。だから今、その変わりとしてこいつに責任とってもらってんだぞ」
今、さらりととんでもないことを言われた気がする。が、ここは空気を読み、優太は口を閉ざしたままふたりの会話に黙って耳を傾ける。もう少しだけ、あと少しだけ確かな情報が欲しかった。
「だから、先輩をフったのはあたしなんです。その腹いせを理由に片瀬先輩に暴力を振るうのはお門違い、正直、今この場であたしが海先輩を殴ってやりたいくらいです。ですが……」
そこで女子生徒は言葉を区切り、ちらっと優太に視線を向けてきた。その視線の意図がわからず、優太はぽかんと口を開けたまま間抜けな顔を晒すだけ。
彼女は一体、何が言いたいのだろう。
彼女の示唆することが優太にはわからない。わからなかったけど、優太を見る彼女の瞳からはなぜか同意を求めているような気がした。
「……」
その意味を自分なりに考えてみる。少し頭を捻ってみると、ピキーンと閃きのようなものが頭を過ぎる。なるほど、そういうことか。
恐らく、彼女は今のうちに逃げろと言っているのだろう。そして、それを察した優太の行動は早かった。
正直、この場に優太がいる自体がいただけない。見たところ、海は女子にまで暴力を振るうような下衆ではなさそうだし、ともすればこの場から優太が撤退することさえできればこの場に海もいる理由がなくなるはずだ。
これはいける。そう思い、優太は了承の合図として大きく頷いて見せた。そして、そんな優太の了承の合図を横目で見ていた女子生徒の口元が、一瞬ほころんだのを優太は見逃さなかった。
「片瀬先輩」
まもなく五月になる春の青空の下、彼女の明るい声が優太の名前を呼んだ。
「先輩には、これから、ご迷惑をおかけしますけど……許してくださいね☆」
ぱちんと片目を閉じ、彼女は微笑んでいた。気のせいか、どことなくその声色も楽しげで、一抹の不安が優太の背筋を震わせる。
そして、そんな優太の得体の知れないは懸念は、青空に抜ける一つの快音によって証明されたのだった。
「……へっ?」
ぽっかりと開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。
フルスイングだった。文字通り、そこに一切の躊躇も躊躇いもない、見事なフルスイング。
気づいたときには、鞭のようにしなる彼女の平手打ちが、海先輩の頬を撃ち抜いていたのだ。
「……へっ?」
叩かれた本人も、どうやら頬に形成された綺麗な紅葉マークの意味を掴み損ねている。先ほどまでの威圧感は嘘のようになくなり、ぽかんと開いた口が塞がらないのか、その表情はとても間抜けだ。
まぁ、海の立場からすれば、それも当然だと思う。彼の立場からすれば、まさかこの状況で頬を叩かれるとは思わないし、思えなかったのだろう。
まして、その相手が二つ年下の後輩にして、元恋人ならばなおのこと。混乱しないほうがどうかしている。
誰もが困惑する中、彼女は一人、堂々としていた。
「あたし、海先輩とはやっぱり付き合えません。復縁なんて論外です。だって……私には先輩以上に気になる先輩が、今、できましたからっ!!!」
彼女、杉原智花は一方的にそれだけ言い放つと、優太の腕を取り、そのまま扉の方へと歩き出す。
一方優太は、目まぐるしく変わる状況の最中、別段親しくもない後輩に腕を取られ、「ちょっ……は? え?」と、ただひたすらに困惑しながら、とりあえず流されるまま屋上をあとにしたのだった。
そんなふたりの背中を、海は憮然とした表情で見送った。




