#—— 2 ——#
自室に戻ったあと身支度を済ませ制服に着替えた優太は、母親の「行ってらっしゃい」も聞かず、逃げるように自宅のマンションを出た。
青空には綿を伸ばしたような雲が広がり、朗らかな陽気を纏った風が優しく頬を撫でる。体の真ん中で燻っていた蟠りと一緒に息を吐き出すと、一気に新しい空気を体に取り込んだ。
気分を一転させ、視線を見慣れた景色へと巡らす。
マンションの五階の端に位置する自宅から、目下に広がる街並みは今日もいつも通り。ときより聞こえてくる電車の走行音も平常運転。今日も、昨日と変わらない惰性的な一日がここから始まる。
優太はそう思い込みながら、エレベーターに足を向けた。
ちょうど五階で停止していたエレベーターに乗り込み、下降ボタンを押す。一瞬の揺らめきを感じたあとに、エレベーターはするするとエントランスホールへと続く一階に下降してする。
マンションの外に出ると、駅に向かって歩く人たちの流れに乗り、優太もその中の一部となる。
両脇をテナントビルに囲まれた道は歩道と車道が一体になっており、制服に身を包んだ学生やスーツ姿の社会人たちがまばらに歩いていた。
しばらく針路を百メートル北西に進むと、約十五万人が生活を営む吉祥寺市の中心地である吉祥寺駅が見えてくる。
優太は駅を正面に捉えたまま、大型家電量販店の脇を通り抜け、信号機をひとつ渡った。進路を右手の方に変え、頭上を覆う高架橋の下を潜る。一瞬、世界が薄暗くなったと思ったら五秒もしないうちに視界は明かりを取り戻す。そして、その先に見えてくるのが駅前北口広場。
優太が日々利用する中央口前は広いロータリー状になっており、武蔵関、大泉、石神井、柳沢、西荻窪、中野方面などを連日連夜行き交う路線バスが着発を繰り返している。地元に根付いた交通網。市民にとって今ではなくてならない存在。
人の流れに乗り、優太は中央口がある左手側に曲がった。
約二十メートル先に設けられた停留所には、すでに五メートルほどの列が出来ている。
しばらく最後列に並んでいると、間もなくしてロータリーの入り口から腹に響く走行音が聞こえてきた。そのままぐるっと時計回りを描きやって来たのは、赤と白を基調とした車体。高校に進学して早一年。今ではすっかりお馴染みの車体が滑り込むように停留所で停車を果たす。
プシューと空気が抜ける音が鳴ると、前の扉から次々と乗客が降りてくる。
それをしばらく眺めていると、今度はバスの中央ドアが開き、入れ替わるようにして最前列の乗客から順に乗車していく。
優太もすぐに乗り込んだ。空いていた後方の席に腰を据えると、一分もしないうちにバスは再び動き出しはじめた。
吉祥寺駅北口から出発したバスは、駅前特有の背の高い建物の間を駆け抜けていく。五分もしないうちに、落ち着いた住宅街に出る。
優太を乗せたバスが、北野蔵高校前に到着したのはそれから約十五分後のことだった。
速度を緩めた車体がするすると停車し、くぐもった車内アナウンスが響く。それを合図に同じ制服に身を包んだ学生たちが一斉に立ち上がった。
それぞれが順番に並び、ICカードをカードリーダーに翳してバスから降車していく。
優太同じ要領でバスから降りると、すでに同じ制服を着た学生たちの行列に混じ離、校門へと足を向ける。
この辺りでは、がやがやと世間話に興じる学生たちの姿はすっかり日常風景と化している。とりわけその中でも一言も口を開かず、優太は黙々と校門を目指す。
校門に足を踏み入れたとき、優太は十メートルほどさきに見知った背中を見つけた。
ほぼ条件反射的に声をかけようかと、二、三歩前に足を踏み出す。けれど、隣に肩を並べて歩くひとりの女子生徒の姿を捉え、持ち上げた手は手持ち無沙汰になる。
彼、阿久津慧の隣に歩く女子生徒のことを、優太は知っている。
身長は百五十センチメートルほどで、女子の中でもやや低い方に位置する彼女は、今、正面を向いていて、表情までは見えない。でも、笑った表情がが印象的だったことを優太はぼんやり覚えている。
といっても実際面と向かって会話したことはない。せいぜい、慧の話のなかでたまに出てくるぐらいの存在。同じ学校に通い、なおかつ慧と一緒にいるところをちょくちょく目にすることもあり遠目からではあるが顔をも知っている。
しかし、優太はそれとは別に、いや別の意味で彼女の存在を意識することが多かった。
「……」
ふいに体の真ん中あたりに蟠っていく違和感。それは、今朝、消し去ったはずの蟠り。それが今になって再び心に居座り始める。心がぎゅっと締め付けられる。
だから、優太はほぼ反射的に肩を並べて歩く二人の背中から目を背けた。
記憶の中に仕舞い込んだあの頃の自分たちと重ならないように。手の届かないものに、今さら手を伸ばし始めるような、虚しくて味気ない、空虚でちっぽけな心から逃げるように……。




