後編
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
アンはこの力の使い方をしている時には、他のことに構う余裕がなくなる。
この力を知っているのは、実家で飼っている犬のゴンタだけだ。
生まれたばかりの弟を助けたことがある。仮死状態で生まれて、諦められた弟に、ありったけの力を注いだ。
弟の傍で寝ていたアンを見て、家族は泣き疲れて眠っただけだと思ったらしい。近くで、ゴンタが寄り添うようにして眠っていてくれた。
それから、そっと気が付かれないように家族の治療をしてきた。
いきなり眠るほどの力を放出したことは、弟を助けた時だけだ。
完治できるか分からないけど……自分ができるところまで力を出そうと思えた。
遠かった光が、ゆっくりと近づいてくる。慎重に手繰り寄せて手を伸ばした。
光をこの手に掴んだところで、アンはふっと力を抜いた。
「あとは……おかえり、ください……」
声に出して言ったつもりだ。
だけど、音になってシュレイに届いたかどうかは分からない。
そのまま、アンは気を失った。
お腹がすいて、アンは目を覚ました。
視線だけで窓を確認して、もう太陽が随分高くまで昇っていることを確認する。
体が重い。
腕を上げるのさえ億劫になるだるさに、もう一度寝ようかと考えるが、胃袋が何か欲しいと主張する。
何もせずに口に入れられるものはあったっけと考えながら身を起こした。
アンの部屋はいつも通り、何も変わっていなかった。
シュレイはいないし、テーブルの上に置いた鍵はなくなっている。
ポストの中から取ってきておかないとなと考えながら、それは後回しにする。
体がだるい上に、頭痛がひどい。
二日酔いだ。
ずっと、家族にさえ内緒にしていた力の使い方を、こんなところで、初対面の相手に使ってしまった。
昨夜の自分は、気が大きくなっていた。
壮大な身分差の恋物語の裏話も面白かった。
物語のようにアンを助けてくれた人は、本当に物語の主人公で、だけど、その主人公にされたことに苦しんでいる人。
その登場人物になったように気分が高揚して、力をふるった。
戸惑うシュレイの顔を思い出して、アンは一人笑った。
こんな小娘が、高名な治療師が治癒できなかったケガを癒してみせたのだ。
昨夜会ったばかりだけど、きっと彼は、アンのことを誰にも言わないでいてくれると思っている。
何の根拠もない、なんとなくそう思うだけ。希望的観測だ。
自分がそんな心情になることもおかしくて、次から次へと笑いがこぼれる。
しかし、いつまでも笑っている場合ではない。
くるるるとお腹の方から主張が激しくなってくる。
ため息を吐いて、立ち上がる。
体が重い。一歩一歩が遅い。
キッチンまで辿り着いて、パンが切れていることに落ち込む。この状態で買い物に行ける気がしない。
チーズでもかじるかなとうなだれているところに、ガチャガチャとドアを開けようとする音が響く。
アンは咄嗟に近くにあった鍋を構える。
先にカギを回収しなければいけなかった。
商店の上にあるので、比較的治安はいいのだが、全く不審者がいないというわけではない。
隠れるか、逃げるか。
重い体を動かして、どちらも無理だと唇をかみしめる。
せめて、もっと強い武器をと、震える手で包丁を握った時にドアが開いた。
「あれ、起きていたのか」
シュレイが目を丸くして立っていた。
そして、包丁を握るアンを見て、申し訳なさそうに頭を下げる。
「まだ寝ているだろうと思ってノックもしなかった。ごめん。また怖がらせた」
その手には、アンが貸した鍵と、紙袋が抱えられていた。
「ごはん?」
何故まだここに居るのかとか、色々後回しにして、彼が持っている包み紙に意識を持って行かれる。
「ああ。サンドイッチ買ってきた。いつ目が覚めるのか分からなかったから、他にもいろいろ」
照れくさそうに部屋に入ってきて、アンの手から包丁と鍋を取り上げて片付ける。
そして、アンの様子を見て、ひょいと彼女を抱き上げた。
「っ!?」
「あ、また声かけ忘れた。動けないみたいだから、ソファーに連れて行くよ」
イケメンのお姫様抱っこ!
呆然と見上げたら、嬉しそうに微笑んで見下ろされてしまった。
至近距離イケメンの笑顔は威力がすごすぎる。
優しくソファーに下ろされて、背中にはクッション、膝には毛布を掛けられ、油紙に包まれたサンドイッチを渡される。
さらに、シュレイは隣に座って飲み物を持って待機。
何とも甲斐甲斐しい。
「ありがとう」
アンがお礼を言うと、満面の笑みでシュレイが応える。
「それはこっちのセリフだ!まさか、こんなに腕が動くようになるなんて思ってなかった」
そういえば、あんまり自然で突っ込めなかったが、シュレイの腕はスムーズに動いているようだ。
軽くないアンを簡単に抱き上げてしまうほど、右腕は動いている。
長く使わなかった後遺症もないようで、自己鍛錬のたまものだろう。
「シュレイさん、昨日、泊まったの?」
食べるのさえゆっくりでないと疲れるので、話しながら食べ始める。
シュレイは少し顔を赤くして首を横に振る。
「さすがにそんなことはしない」
言ってから、少し考えて
「あ~……勝手に鍵持って帰って、勝手に入っては来た」
「へえ」
どっちもどっちではないだろうか。
だが、シュレイ的には、女性の部屋の鍵を誰でも盗れるポストの中に入れるのはできなかったらしい。
そして、今朝カギを返しに来たが、アンはまだ昏睡状態だったという。
いや、昏睡はしてない。よく眠っていただけだと思う。
それで、朝ご飯を調達に行って、戻ってきたら起きていて驚いたということだ。
こちらこそいろいろ驚いたが、美味しい朝ごはんは嬉しかったので相殺ということでいいだろう。
甘いような気もするが、イケメンだから許されるということもある。
「それで、俺、今朝辞表出してきた。出発はいつにする?」
「うん?」
「海沿いの街がいいんだろ?あんまり南に行きすぎると暑くて大変だから、比較的温暖な街がいい。で、俺の仕事もあるくらいの少し大きな街がいいし。だから、東に向かってこの街はどうだろう」
地図まで出し始めた。
馬車の予約までやり始めそうだ。
「辞表って何!?」
「王都を離れるって話をしたじゃないか」
忘れているのか?と、まるでアンがおかしいかのごとく首を傾げられた。
「海沿いの町まで護衛として雇われただろう?」
それは、酔った勢いというやつだ。
なんなら、酔っ払いのたわごととして聞き流してくれていい程度の。
そして、一番のツッコミどころだが。
「なんで一緒のところに住む気でいるの」
今並べられた条件は大賛成だが、何故かシュレイの働き口の心配までしている。
彼はそっと視線を逸らして頬を染める。
「二人で海沿いの街まで旅をすれば、自然とそういう感じになるかと思って」
そういう感じって、どういう感じだ。
脳内ではツッコミを入れているのに、顔がほてったように熱くなっている。今、絶対に真っ赤だ。
大体、護衛しているからといって、そういう感じなんてならないだろう。護衛と雇い主が毎回そういう感じになったら大変だ。
節度を持った距離を考えていただきたい。
「ならないと思うよ」
赤くなったであろう顔を無視して、アンはわざとぶっきらぼうに言った。
しかしシュレイは気を悪くするどころか、「いや!」と大きく叫んだ。
「なるように努力する!俺は口説き落とす気満々だ!」
「なっ……!?」
逸らしていた視線をアンに戻し、シュレイが真っ直ぐ見つめてくる。
あんまりに彼が真っ赤で、しかも真剣で。
思ってもみない展開に、アンはサンドイッチを食べる手を止めて口までポカンと開けてしまう。
「え……っと、吊り橋的な?」
「俺は別に不安や恐怖を抱いてない」
「治療してもらった感謝を勘違い?」
「感謝はしてる。恋愛感情は別だろう」
「劇的な雰囲気に流され……」
「そうかもしれないから、確認する。これからの旅でそういう感じに持って行く!」
持って行く気満々じゃないか。
そして、さっさと流されていきそうなちょろい自分がすでにヤバい。
「アン、どれくらいで動けるようになる?」
もう呼び捨てか。
食事を再開しながら、シュレイをちらりと見上げる。
心配そうな彼と目があい、イケメンは得だなと思った。これが、勘違い野郎だったり、好みじゃなかったりすれば、冷たい視線を向けて気安く呼ぶなというだけで済むのに。
「一日休めば大丈夫かな」
アンを気遣うシュレイはひたすら格好良くて、優しい。
酔いから醒めてしまえば、彼が隣にいることにドキドキして仕方がない。
「じゃあ、俺は旅支度をしてくる。明日には出発しよう」
「はい?」
急すぎやしないか。
この借家を解約したり、荷造りをしたり、ゆっくり準備をしたいのだが。というか、王都を出る決断さえ、もう少し時間をかけてしていきたいところだ。
「そんなに急がなくても――」
「辞表出した時、腕が治っていることに気が付かれた。少し浮かれすぎてしまったようだ」
なんて面倒な。
照れ笑いをするシュレイを呆れて見る。
やはり、しっかりと口止めが必要だったようだ。
「そして、友人と別れの挨拶をしたとき、昨日会ったばかりの女性を口説くためだと宣言してしまった」
ああ……。
イケメンは何でも許されると思っていたけれど、違ったようだ。
「よくよく考えたら、王女から追手が来るかもしれないので、早く発とう!」
変態とバカは、例えイケメンでも許容できないな!
思い返せば、シュレイは何かと迂闊な行動が多かった。
「ここに来るのに尾行はついていなかったから大丈夫。ゆっくり食べて?」
グラスを片手に微笑む姿は麗しいのに。
それなりに強くて優しいのに、ドジっ子属性。
「王女の我がままだ。本気の追手はかからない。王都を出れば、なんともないはずだ。だから……アン?俺を捨てようと考えないでくれ」
「捨てる前に、拾った覚えはないんだけど」
返した言葉は、にっこりと笑顔の中に黙殺された。
「護衛として雇われただろう?しっかりと目的地まで……その先もかな。ぴったりとくっついて守るよ」
追われるであろう張本人がそんなことを言う。
だけど、『守る』なんて言われたことがないアンは、しっかりと免疫のなさを露呈した。
「お、お手柔らかに……?」
他に返事の仕方はなかったのかと、一晩じっくり反省がしたい。
シュレイは、アンの真っ赤な顔を見て、嬉しそうに笑った。
恋人同士を割こうとした王女がいた。
彼女は架空のお話をでっちあげ、騎士と結婚をしようと企んだ。しかし、騎士は全てを捨て、恋人と共にあるために遠い地へと旅立って行った。
そして二人は、いつまでも幸せに暮らしたのだった。
そんな結末を迎えるのも、もうすぐ……かもしれない。