25ハクション ハービングミーニング(後編)
後日。私立全部のせ学園にて。
いつもの様に定位置の一番後ろの席に座り講義が始まるのを待っていた。
今日はサイレント静香先生によるノースピークイングリッシだ。静香先生の授業は画期的で、一切の音を流さない代わりにパントマイムを用いたヒアリングテストは目から鱗、まさに受験攻略法だ。あれだけ激しく体の位置は変わっているのに手は全く動かず、本当にそこに鞄があるかの様に思わせるパントマイムの技術はさすがプロ講師と言った所だろう。
「ごきげんよう稲村君」
一人予習をしていると、レアな挨拶と共に東堂院がやって来た。最近では東堂院も一番後ろの俺の隣が定位置だ。俺の椅子を引く動作も板についてきた。
「おっす。ネットニュース見たよ、本当にお祖父さん引退したんだな」
東堂院グループの総帥勇退のニュースはテレビでも取り上げられて結構な騒ぎになっている。グループの経営を確固足るものにした立役者の退場は経済界に多大な影響を与え、株価も急降下するほど。
「ええ。本人はやっと肩の荷が下りたって清々してるわ。家ではずっとお祖母さまにベッタリで、まるで新婚みたいなのよ」
「そっか。株価とか下がってるみたいだし、とんでもない事をしたってビビってたんだけど、ま、二人が幸せならそれでいいか」
元々お祖父さんは隠居したがってたみたいだけど、決心させたのは先日の結婚式が切っ掛けだろう。経営の事とか何も知らないのに偉そうに「夫婦ならそばにいてあげるべきです」なんて余計な事を言ってしまったからな。
「とても幸せそうよ。東堂院ならお父様が張り切ってるから大丈夫よ。ありがとう、これはお祖父さまと私からのお礼」
ゴトン、と大層な音を立てて俺の前に置かれるA4サイズの重厚な桐の箱。なんだ? 高級素麺か?
「別に俺はお礼なんて……」
「一度差し出した物は持って帰れないわ。大した物じゃないわよ、お祖父さまと私のほんの気持ち」
「開けても?」
貰ったそばから開けるのは下品かもしれないが、何せ箱が箱だ。物によっては受け取れない。
「どうぞ」
了承を得て蓋を外す。そこには一冊の本が入っていた。手に取ってみると少しざらざらとした触感が懐かしい。藍色の表紙には斎宮女御集とタイトルが書かれていた。
「……和本? 斎宮女御集。三十六歌仙の徽子女王の歌集、だったっけ?」
柿本人麻呂や小野小町、紀貫之といった平安時代を代表する歌人36人を三十六歌仙と呼ぶ。斎宮女御こと徽子女王は村上天皇の妃の一人で、36人の中でも一番身分が高く、そして一番人気がある歌人だ。
和紙で作られているその本は古くに作られた物と想像出来るが、シミや汚れなどがほとんどなく新品同然と言えるほどの保存状態だった。
「さすが稲村君ね、よくご存知だわ。江戸時代に写本された斎宮女御集の第一版よ。お祖父さまは斎宮女御の三十六歌仙絵巻をあげてもいいと言ってたから流石にそれは止めたわ」
確か江戸時代に出版された徒然草の初版には150万円を超える値段が付いていたはすだ。これだってそれに近い価値があるに違いない。ちなみに三十六歌仙絵巻の原本は20億円を超える。ってか東堂院家が持ってたのか。
「おいおい、こんな高価な物受け取れない……ん? 何だこれ?」
歌集の丁度半分ほどの所に可愛らしい猫の形のブックマーカーが挟んであった。古い和本に一見似つかわしくない、真新しいブックマーカー。
「本はお祖父さまから。私からはそのブックマーカーよ。特注品で作らせたの。可愛いでしょう?」
胴体が本の中に、頭がちょこんと上に出るタイプの猫型ブックマーカー。体は白と黒のツートンで、その顔は太い眉の様な毛が生えていてニャンとも言えない眠そうな表情。
「これはナイトシュバルツか」
「私ナイトシュバルツの顔が大好きなの、誰かさんによく似てるから。ブックマーカーは私の一番好きな歌に挟んでおいたのよ、丁度いいから貴方にその歌を贈るわ。私のほんの気持ち」
ブックマーカーが挟まれたページには、村上天皇が徽子女王と初めての夜を過ごした翌朝に贈ったとされる恋の歌が書かれていた。
――思へども なほあやしきは 逢ふことの なかりし昔 なに思ひけむ――
意訳はこうだ。
――不思議に思うのは、貴女に出会う前の私は一体何を考えて生きていたのだろうかということ。貴女以外の事なんて考えられなくなってしまったのに――
初めての恋に気付いた後の、心の占有を詠んだ歌。平安時代の人というのは実に洒落てやがる。これが東堂院の気持ちだとしたら、つまり、そういう事だ。
「どういう意味だよ」
「別に。意味なんてないわ」
匂わせるだけで、踏み込んでは来ない。好きな女の子がいるという俺への気遣いか、今の気軽に話せる関係を壊したくないのか。それとも、本当に意味なんてないのか。
「……物はありがたく受け取っておくよ。お祖父さんにもお礼を言っておいてくれ。ありがとう」
気持ちは受け取れないから、せめて物だけはと蓋を閉じて北高バッグに桐の箱をしまう。
「あら、つれないわね。そうそう、お祖母さまは結婚式の事を覚えてなかったわ」
ひょっとしたら認知症も改善するんじゃないか、あの日の反応を見た俺達はそんな風に期待したのだが、やはり忘れてしまったようだ。
「そっか。そりゃ残念だな」
俺はそう返すが、東堂院はちっとも残念そうじゃない。むしろ、希望に満ち溢れている様な、そんな表情。
「いいえ、だからね、毎朝お祖母さまのお部屋に行って教えてあげるの。写真を見せて、素敵な結婚式だったわ、って。お祖父さまと一緒に、今日も、明日も、ずっと」
「そっか。そりゃ良かった」
「ええ、良かった。稲村君のおかげ。あの日、貴方との結婚式だったら私もお祖母さまに思い出してなんて言えなかった。自己満足じゃなくて、本当にお祖父さまとお祖母さまの為になる事が出来たわ」
そう言う東堂院は本当に誇らしそうで、ちょっと前までの辛そうな雰囲気なんてどこ吹く風。
「お礼を言うのはこっちの方さ」
「は? 私が助けて貰ってばかりなのだけれど」
好きな人の為に何かをするって、ものすごく嬉しい事だ。大切な人の悲しそうな顔を喜ぶ顔に変えられたら自分だって嬉しくて、もっともっと相手に何かをしてあげたくなる。
それはきっと、花菜だって同じだ。
花菜が俺の事を好きでいてくれてるなら、彼女だって俺の為に何でもしたいとそう思って当然なんだ。自分の手で好きな人の泣き顔を笑顔に変えてあげたい、そう思って当然。
弱さを見せられないとか、今更何を言っていたんだろう。
考えてもみろ。
フットサルでカッコ悪い所を見せた時も、沖田さんが大笑いした野良えもんの絵を見た時も、花菜は一度だって俺を馬鹿にした事なんてなかった。一度だって笑ったりしなかった。
花菜なら、俺の弱さも受け入れてくれる。
「自分がどれだけ馬鹿だったか気付いたんだ。教えてくれてありがとう」
「はあ? 私は貴方の事を馬鹿だなんて思った事ないわよ! 『カッコいいと思ってるわよ!』」
「……ああ。わかってる」
しゃっくりの音に思わず反応しそうになって、グッと我慢する。
「あとね、もう一つ報告があるのだけど、私、目標が出来たの」
「目標?」
「ええ。真剣に東堂院の後継ぎを目指そうと思って。お父さまの次は私が総帥になるわ。その為にも東大の経済学部は絶対に行っておかなくちゃ」
「グループの後継者に?」
てっきり東堂院にその気はないと思っていた。経営に興味がある訳じゃなく、東堂院の一人娘だから闇雲に勉強を頑張っている、そんな風に感じていた。
「誰にも文句を言われない様な経営が出来たら、誰と結婚しても自由でしょう? 家柄も職業もどんな相手でも、いいえ、むしろ財界に関係ない人の方が歓迎されるかも。それこそ、一般家庭の人とかね」
今の経済界のパワーバランスから言うと、東堂院が他の財閥と婚姻関係になってしまえば一大勢力が生まれる事になって反発を生むかもしれない。確かに経営に口を出さない様な人間と結婚する方がグループ内からは受け入れられるだろう。
「一般家庭の奴と結婚する気なのかよ」
「さあ? どうでしょうね。わからないわ。ただ確かなのは、私の心にもヒヤシンスが咲いたって事よ。薄紫の、ヒヤシンス」
「北原白秋かよ」
――ヒヤシンス 薄紫に 咲きにけり はじめて心 顫ひそめし日――
北原白秋の詠んだ短歌。芽生えた恋心をじんわりと内側から色づくヒヤシンスに例えた歌だ。
しかしそれは道ならぬ恋。彼が恋をしたのは人妻で、夫から告訴され牢獄へと入れられる事になる。
「本当によく知ってるのね! 私達って趣味が合うのよ。やっぱり付き合いましょうよ」
「演技じゃなかったのかよ」
「あら、東堂院の人間に二言は無いとも言ったわ」
すっかり東堂院のペースだ。このままじゃマズいと俺は話題を変える。
「そういえばさ、髪、戻すつもりとかないの? 黒も可愛かったけど」
東堂院のスマホの待受画面は小さい頃の家族写真だった。そこに笑顔で写っていたのはお祖母さんとお揃いの、真っ黒な髪の東堂院。
「ななな、何で知ってるのよ!」
「家に行った時に子供の頃の写真を見たんだよ。東堂院は髪も綺麗だから、きっと似合うと思うんだけどな。お祖母さん譲りの大和撫子って感じでさ」
俺の誉め殺しに東堂院は唇を震わせて、そっぽを向きながら一言だけ絞り出した。
「馬鹿じゃないの」




