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Enigmatic Feeling - Part 4

 "私が終わらせる"。

 その言葉の意味を、行政機関の者達は図りかねた。或る者は首を傾げ、或る者は眉根に(しわ)を寄せた。

 (ただでさえ抗戦に消極的だったニファーナ様だ。クルツ様を失ったことで更に消沈し、我々の意志を()みせずに勝手に幸福してしまうのでは?)

 (いや、クルツ様を失った事でようやく憤りが芽生え、民の上に立つ『現女神』としてようやく戦う意志を固めてくれたのではないか?)

 大会議堂の衆目が思い思い頭を巡らせていると。ニファーナは手短に言葉を継いだ。

 「これは、『女神戦争』なんだよね? 『現女神』同士の問題なんだよね?

 それなら、『現女神』であるわたしが決着を付けるべきなんだ。

 他の誰かに押しつけるようなものじゃなかったんだ」

 その言葉に、ニファーナの奮起を望んでいた者達の口から、「おおっ!」と歓声が上がった。

 「それでは、ニファーナ様が戦場に立たれると言うことですか!?」

 誰かの言葉に、ニファーナは迷うことなく首を縦に振り、そして答えた。

 「うん。

 そして、"他の誰も立たせない"」

 その言葉に誰よりも早く反応したのは、エノクであった。この場に置いてはひたすらにニファーナの支えに徹しようと考えていたのだが。反射的に言葉が口の中から滑り出た。

 「ニファーナ様、"他の誰も"とは?

 …まさか、お一人で"陰流"の全勢力を相手にするつもりではありませんよね?」

 『士師』および衛戦部の働きによって、"陰流"の勢力には少なからぬ損害を与えていることだろう。だが、未だ60を越える数の『士師』を擁する"陰流の女神"の勢力を単独で打破出来るとは、到底思えなかった。

 "獄炎"や"月影"と言った、苛烈勇猛で知られる『現女神』ならば、いざ知らず。暢気な(かまど)の女神のように暮らして来た"夢戯"が彼女らと肩を並べるなど、全く想像できなかった。

 だから、ニファーナが首を縦に振った時は、エノクは心臓が(とろ)ける程に安堵した。

 「勿論、そんな事はしないし、出来っこない。分かり切ってるよ。

 だからね…」

 続く言葉は、エノクを含め、その場に居る何者もの眼を見開かせた。

 「わたしが、"陰流の女神"と一対一で勝負を付けるよ」

 「そんな…馬鹿なッ!」

 即座にそんな声を上げたのは、唯一人ではなかった。声は上げずとも、顔を青ざめさせて、顔の下半分を覆ったり、冷や汗が吹き出した額を撫でたり叩いたりする者が続出した。

 当たり前の反応だ。相手は、自らも戦場に立ち、自力で排敵出来るだけの卓越した戦闘能力を持つ『現女神』。対してニファーナは、戦闘の経験など皆無であった。それどころか、『現女神』として降臨して後、神としての姿を現す事も自ら能力を振るった事さえなかったのだ。

 どう考えても、分が悪過ぎた。

 「無茶です! 考え直してください!」

 人々は口々に叫んで引き留めようとしたが。ニファーナは頑として首を横に振り、彼らの切望を(ことごと)く拒んだ。

 「わたしは、今まで暢気に過ごすばかりだったけど、確かに、この都市国家(プロジェス)に座す『現女神』なんだ。そのわたしからすれば、こんなわたしでも信心を抱いてくれる皆がこれ以上、命を散らして行くのは耐えられないの…!

 これは、『女神戦争』なんだよ! それなら、当事者同士が決着を付けるべきなんだよ!

 だって、『女神戦争』なんて詰まるところ、『天国』を欲しがる『現女神』どもの事情に()るんだから!

 『士師』だって誰だって、関係ない! 巻き込まれる必要なんてない!

 『現女神』同士で戦えば、それで済む話なんだ!」

 「ですが、ニファーナ様!

 キングの駒だけを用いてチェスをする者が、この世の何処におりましょうか!

 確かに、戦の勝敗は大将の勝敗を以て決まりましょう! だからと言って、大将だけで殴り合うなど言う話はありますまい!

 如何に自分たちの大将を守るか、如何に敵大将に逃げ場を与えず(たお)すか、それを念頭においているからこその戦争なのです!

 子供の喧嘩とは違います!」

 「同じだよ」

 ニファーナはピシャリと反論した。

 「自分が負けたくないから、他人を巻き込んで盾にしてるだけ。それが戦争だよ」

 「その認識は間違っています!

 勝敗によって命運が左右されるのは、『現女神(あなたがた)』だけではないのですよ!

 貴女様の敗北は、我々全てを巻き込むのです! それ故に、我々は貴女様に命じられなくとも、必死で戦いに挑んでいるのです!」

 この発言の他にも、莫大な数の発言が大会議堂に渦巻いた。言葉の力で、演壇が根こそぎ吹き飛ばされてしまうのではないか、と云う勢いで非難やら野次が飛んだ。

 エノクはなんとか平静を保とうとしていたが、肝はヒヤリと冷え切りっ放しであった。

 (ニファーナ様は、身内を亡くされて感情に走り過ぎている…!

 お止めしなければ、破滅は明白だ…!)

 エノクは(はや)る心を極力抑え、出来うる限り穏便な振る舞いでニファーナを引き留めようと、肩に手を掛けようとしたが。

 その動きがピタリと止まってしまったのは――そればかりか、大会議堂の雑言の渦がシンと凪いだのは、ニファーナが不敵な笑みを浮かべたからだ。

 その笑みは、(はらわた)深くに刃を(えぐ)り込まれてもなお、強がってみせる時のような凄絶なものであった。

 「みんながどう言おうと、もう引き返せないよ…!

 もう、わたしの言葉は"陰流の女神"に届いてるもの!

 ――ねぇ!」

 ニファーナが堂内を(ろう)さんばかりの声を上げると。演壇の手前に、3Dホログラムによる巨大映像が投影されたかのように、巨大な艶女の姿が(にわか)に現れた。

 朱色に塗られた唇を吊り上げ、三日月よりなお細めた(まなこ)で見下した笑みを浮かべたその女は、紛れもなく"陰流の女神"ヌゥルであった。

 「聞いたでしょう、"陰流の女神"!

 決闘よ! 一対一、正々堂々の決闘よ!」

 この映像を作った力は、ニファーナのものか、それともヌゥルのものか。エノクは今なおその判断が付かない。だが、当時にその判断が付いたとしても、何の実益も生まなかった事だろう。

 ニファーナがヌゥルに宣言して尚、堂内に居る者達はニファーナを引き留めようと、口をパクパクさせたり、プルプルと震える指を伸ばしたりしたが。突如、堂内を支配した『現女神』2柱分の神霊圧が、彼らの動きと思考を止めてしまった。

 有無を言わさぬ空間の中で、ヌゥルはペロリと舌舐めずりし、明らかに卑下と[揶揄(やゆ)の混じった言葉を放った。

 「私は構わないわ。

 雑魚(ザコ)のクセして、アリのようにホコホコ湧くバカ達を一々潰して回るのにも、うんざりしてきたところだし。

 一発勝負で決まるなら、私としてもスッキリするわ。

 だけど…」

 ヌゥルは長く細い指で自らの片頬を包み、クスクスと笑った。

 「あなたこそ、本当に良いのかしら?

 後悔するのではなくて?」

 「しないわ」

 ニファーナは一瞬たりとも間を置かず、ピシャリと言い返した。

 「後悔なんて、絶対にしない」

 「それは、自信満々ってことかしら?

 あら、怖いわねぇ」

 言葉に見合わぬ、余りにも相手を見下した言い様。"自信満々なのは、むしろこちらの方だ"と言う声が聞こえてきそうだった。

 「それじゃあ、"夢戯"ちゃん。決闘は何時にするのかしら?」

 「明日よ。時間は午後2時。

 場所は東3番入都ゲート前」

 「東3番って、場所が分からないのだけど?」

 「最初にあなた達が侵入してきた箇所のすぐ傍にある入都ゲートよ」

 ニファーナがそんな辺鄙(へんぴ)な場所を選んだのは、他でもない、これ以上の被害を出さない目論見だからだ。

 つまり、ニファーナは本気で、全能力を以てヌゥルと一戦交えるつもりなのだ。

 …それが2柱の女神は2、3語言葉を交わすと、連絡を途切った。

 同時に、堂内の神霊圧がプツリと消滅。気圧されて動けなくなっていた者達は、呼吸をも殺していたらしく、皆大きく息を吐いて喘いだ。

 「…ニファーナ様! 本気ですか…!」

 「明日とは、余りに性急ではありませんか!?」

 「ニファーナ様に、戦いのお心得はあるのですか!?」

 喘ぎの合間にそんな言葉が続々と投入されるが、ニファーナは答えることなく、はや演台からスタスタと離れて行った。

 「わたしの用事は終わったよ。

 以上、解散っ!」

 ニファーナの一声に対し、堂内の者達は慌てて席を立ってニファーナに詰め寄るべく、ゴミゴミと通路に殺到したが。転瞬、彼らの動きを神霊圧で停止させたのは、エノクであった。

 「ニファーナ様がご自身で決意なされたことだ。

 信徒である貴方(あなた)がたが、何を口出しすると言うのか」

 エノクは鋭い視線で彼らを威嚇しながら、普段より足音を大きくして歩くニファーナの(かたわ)らに沿った。

 そして1柱と1人は、混迷の大会議堂を後にした。

 

 "何を口出しすると言うのか"。

 そんな台詞を吐いたエノクであったものの、彼もまたニファーナの言動に納得しているワケではなかった。

 むしろ…。

 (一体、何をお考えなのだ…?)

 エノクは首を傾げたくなる衝動に駆られて仕方がなかった。

 そんな最中、エノクはニファーナの後を付いて、彼女の部屋へと入った。大会議堂での決闘宣言の前には独りで塞ぎ込んでいた彼女だが、エノクの事を留めたりせず、すんなりと中に受け入れた。

 「…馬鹿な事をしたな、って思ったでしょ?」

 自室に入るなり、大きなソファに身を(うず)めたニファーナは、苦笑いを浮かべながらエノクに問うた。

 エノクはやんわりと世辞を口にするべきかと思ったが、すぐに考え直し、ありのままを伝えるべきだと決意した。

 優しい毒を飲ませるよりも、苦い良薬を飲ませる方が、真に主の(ため)である。

 「正直に言えば、無謀の極み、かと思います」

 厳しい表情のエノクの言葉に、ニファーナはますます苦々しさを大きくして、バツが悪そうに頬をポリポリと掻いた。

 「だよねぇ。無理無茶無謀以外の、なんでも無いよねぇ」

 『現女神』同士が直接対決する、と言うのはままある話だ。『天使』や『士師』では(らち)が開かないだとか、そもそもそれらの保有数が極めて少ないという場合もある――ユーテリアの学長であるアルティミアや、星撒部副部長の渚のように。

 『現女神』による決闘において勝敗を分ける要因は、大きく2つだ。彼女らに集まる信心の量、そして彼女ら自身の技量である。

 『現女神』は絶大なる力『神法(ロウ)を授けることは出来るが、彼女らの身一つで勝手に行使することは出来ない。『天使』と云う媒介を通さねばならない、という奇妙な制約がある。――何故そのような制約が存在するかは、『現女神』達を含め、知る者は居ない。

 『現女神』が所有出来る『天使』の数は、彼女らに捧げられる信心の量に比例する。故に、信心が多ければ『天使』の数は多くなり、『神法(ロウ)』を行使出来る機会は増えることとなる。

 一方、『現女神』の戦闘手段は『神法(ロウ)』に限らない。拳や蹴り、そして武器を使うことで物体を傷つける事も出来るし、魔術だって使う事も出来る。数量的な問題を初めとして、『天使』を当てに出来ない場合は、『現女神』自身が(つちか)った種々の技量で切り抜けるしかない。

 …さて、ニファーナがヌゥルと戦う上で、これらの点を評価するとどうであろうか。

 『天使』の数については、問題ない。プロジェスが大きな打撃を受けて居るこの時でも尚、都民はニファーナへの信仰を捨てることはなかった。これまでの交戦で数は減ってるとは言え、それはヌゥルとて同じ事だ。ならば、信仰の本拠に身を置くニファーナが有利のはずだ。

 …ただし、ニファーナは恐らく、『天使』を使役しての『神法(ロウ)』の行使を行ったことは無いだろう。少なくとも、エノクは見たことがない。増してや、戦闘での使用など(もっ)ての(ほか)だ。

 では、技量の方はどうかと言えば――日々ゲームに向き合ってゴロゴロ暮らしているだけの彼女なのだ。推し量れども、散々たる有様しか頭に浮かばない。

 ニファーナ自身が言う通り、自身で戦場に立って戦績を上げているヌゥルを相手にするなど、無理無茶無謀以外の何でもない。

 その事実を率直に同意することにエノクが躊躇(ためら)っていると。ニファーナが苦笑いを消して、凛とした、そして何処か興奮しているようにも見える表情を浮かべて言葉を続けた。

 「…でもさ、わたしはこの都市国家(プロジェス)の『現女神』だもん。

 このまま指を咥えてるワケには行かない。

 だから、勝てそうになくても、やらなくちゃ」

 「…身を捨ててでも勝ちを拾う…と云うおつもりで?」

 エノクが聞き返と、ニファーナは首を左右に振って否定した。

 「身を捨てても、勝てそうにないよ。正直なところね。

 ただ…あの女神に――その心に、刻みつけてやりたいの」

 「刻む…?」

 何を、と問い返す前にニファーナが答えた。

 「この都市国家(プロジェス)の心。そして、わたしの心を、だよ」

 「つまりは…ニファーナ様が敗北し、このプロジェスが"陰流の女神"に飲み込まれて消えてしまったとしても、その記憶を彼らに刻み付けて置きたい…と?」

 「違う違う!

 そこまで後ろ向きじゃないよ!」

 ニファーナはパタパタと手を振った。

 「と言っても、負けた後の事を考えているのは、本当だけどね。

 でも、最初(ハナ)っから負けるつもりじゃないよ。やるからには、勝つために挑むつもり。

 でも、負けちゃったら、その時点でこの都市国家(くに)が全面的にあの『現女神(ヌゥル)』の支配下に置かれる…ってことだけは、避けたいんだよ。

 出来る限り、都民(みんな)にはこれまで通りの生活を送ってほしい。

 だからね…」

 ニファーナは一度瞼を閉じると。ギュッと拳を握り締めてから、再び(まなこ)を開いてエノクに見つめた。その面もちには、悲壮が見て取れる微笑みが浮かんでいた。

 「『現女神』であるわたしが自ら、見せつけてやるんだ。

 わたし達はこんなに強い絆があるんだぞ、こんなに力強く戦えるんだぞ、って!

 そうして力を見せつけておけば、あの『現女神(ヌゥル)』だって自分の我を通してわたし達に押しつけるのはヤバいって痛感するでしょう? 反感を買ったら厄介な事になるって、危機感を持つでしょう?

 負けても、その後の展開で出来るだけ有利に事を運ぶ――そのための布石として、そしてこれ以上犠牲を出さないための、一騎打ちだよ」

 ニファーナはただ、暢気でいるだけの『現女神』ではない。

 エノクが彼女に感服した時に思わせたように、自身が暢気でいるために――そして、信民が安寧を享受し続けるために何をするべきか。外見は遊んでいるようでも、胸中では常にそれを考えている『現女神』であった。

 だから、エノクはもう彼女の決意に口出ししない事にした。

 (やはり貴女様は、この都市国家(くに)を束ねるに相応しい『現女神』だ)

 エノクは胸中で讃辞を送ると共に、その場で(ひざまづ)く。

 ニファーナがびっくりして慌てているところへ、彼は語った。

 「私に出来ることならば、なんなりとお手伝い致します。

 決闘は明日と期間は極短いですが、戦い方や魔術などは、気休め程度かも知れませんが、お教えすることが出来ます。

 勝てば良し、もし負けるにしても、あの陰険な『現女神』の目に物を見せつけてやりましょう」

 「ありがとう、エノクさん」

 ――こうしてエノクは、ニファーナが休息を取る時以外は、作戦を練ったり基礎的な戦い方を教えたりしながら、決戦までの時を共に過ごした。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 日が昇り、南中から少し西へ傾いた時刻に至った。

 空は2柱の『現女神』の戦いを一瞬たりとも見逃さぬつもりのように晴れ渡っていた。"夢戯"と"陰流"のそれぞれの勢力が半々になった『天国』も、クッキリと姿を見せていた。

 決闘の場である東3番入都ゲート前は、瓦礫と成れ果てて、とてもでないがヒトが息づくような場所ではなかったが。この時は多くの人々の姿でごった返していた。

 人混みの中には双方の『士師』の姿も勿論あったが、それ以上にプロジェスの都民の姿が圧倒的大多数をほこり、決闘の場にヒトの壁を築いていた。

 この見物人たちは、ニファーナやプロジェス行政機関の者が呼んだワケではない。後にエノクが聞き知った事には、"陰流"の勢力が『天使』を用いて、プロジェス中に喧伝したとの事だった。

 信奉する『現女神』が敗北する姿を見せて、我ら都民の心を(くじ)く算段であったワケだ。

 「…大丈夫なのか、ニファーナ様は。この衆目の中で…その…お力を使い、戦えるのか…?」

 エノクの隣に立つ壮年の議員が呟いた。彼は言葉を大分オブラートに包んでいたが、結局は"都民の前で醜態を晒すことにならないか?"と心配しているのだ。

 そんな彼をエノクは殴りつけたくなる衝動に駆られたが、深呼吸を伴った笑いで一瞬間を置いて、答えた。

 「信じなさい。貴方もニファーナ様の信徒でしょう」

 人(だか)りの中心、まるで決闘場の舞台のように広く円形に開けた大地の中心では、ニファーナとヌゥルが睨み合っていた。

 ヌゥルの姿は、プロジェス侵攻の初日と変わらない、豊満な体型にフィットした扇情的な衣装であった。これは戦場下で彼女が目撃された時と同一の格好であった。つまりは、この姿こそが『現女神』として格好なのだ。

 (何といかがわしく、禍々しい姿か…!)

 エノクは唾棄せんばかりの顔をしかめて、ヌゥルを睨んだ。

 そんなエノクの気など露ほども鑑みず、ヌゥルは嫌味な程に艶然として笑みをニヤニヤと浮かべ、ニファーナを見詰めていた。

 さて、ニファーナの姿と言えば。動きやすさが目立つものの、可愛らしい造形した軽装の洋服――つまりは、『現女神』としての姿を見せてはいなかった。

 この時点で既に、都民の間には不安のざわめきが広がっていた。

 「いつものお姿だぞ、ニファーナ様は!?」

 「あの姿のままで、挑むと言うのか!? 『天使』をも(ほふ)る『現女神』を相手に!?」

 「考えてみれば、ニファーナ様の『現女神』姿は一度もお見かけしていない!

 まさか、ニファーナ様は神の御姿(みすがた)に成れぬのでは…!?」

 悲痛な憶測が飛び交う中、ヌゥルは朱色の唇を割って、クスクスと笑った。

 「そんな有様で、よくもこの私とヤり合う気になったものね。

 旧時代の地球で言うところの、"カミカゼ"ってヤツかしら? 女神だけに、ね」

 対するニファーナは、気(おく)れするどころか、不敵にさえ笑い飛ばしてみせた。

 「わたしは暢気が信条なんだ。だから、玉砕なんて堅ッ苦しい真似なんてしないよ。

 第一、私は風の女神じゃないよ」

 冗談さえ飛ばしてみせるニファーナは、一見すると強気な余裕が見て取れた。

 だが…ヌゥルはニファーナの有様を見てなお、クスクスと笑い続けた。

 「暢気の割には、随分と吹かせるわね。

 まるで、震えている脚を隠しているみたいに、ね」

 ここで人集りはニファーナの足に視線を投じたが。ニファーナは臆することなく、そして自身の足を見やるような愚行もせず、笑みに剣呑な気配を交えて口を開いた。

 「あなたこそ、私が何処か震えていないか、粗探しに必死になってるみたいに見えるよ。

 よっぽど、余裕がないのかしら?」

 「言ってくれるわね」

 ヌゥルは相変わらず微笑みを絶やさなかったが、その直後の一挙手一投足は表情とは相容れぬ、険しいものであった。

 ヌゥルが、恋人でも誘うかのようにゆるりとした動作で腕を伸ばすと。手の真下から、出鱈目な顔にズングリとした体格を持つ『天使』が出現。転瞬、幼子に(もてあそ)ばれる粘土のようにグニョリと縦長に延びて、ヌゥルの掌に到達した。ヌゥルがほっそりとした指でそれを掴むと、『天使』は純白の巨大な薙刀と化した。

 その大きさは、およそ戦士の体型には全く見えぬヌゥルに対して、あまりにも武骨で強大であった。長さは5メートル余りもあり、枝の先についた刃は斬馬刀のように幅広く長く、そして禍々しかった。刃とは反対側には、ウニのように棘が幾つも生えた分銅(ぶんどう)の付いた、長大な鎖が生えていた。

 己の『天使』を武器化する――『現女神』の戦術としては常套手段だ。

 ヌゥルはこの長大な武器を一振り。刃は大気を切り裂き烈風を巻き起こし、鎖分銅は純白の凶風と化して瓦礫の大地をゴリゴリと削り、痛ましい円弧状の深い傷跡を残した。ヌゥルの体格では信じられない武器捌きであった。それとも、『天使』が武器化したこともあり、『現女神』には扱いやすい重量や慣性が調整されているのかも知れない。

 「あなたが震えていなかろうと、私に余裕が無かろうと、関係ないわ」

 ヌゥルは朱色の唇をペロリと舐めて、そして釘を刺すように鋭く語った。

 「やる事は変わらない。あなたを叩き伏せるだけだもの」

 「…そうだね、どんな状況であろうと、やる事は変わらないね」

 ニファーナはヌゥルの威嚇に動じず、ただゆっくりと目を伏せて語った。

 「私も、あなたを叩き伏せる。それだけだよ」

 ニファーナは眼を閉じたまま、小振りな胸元の中央に両の掌を重ねて置いた。

 

 ――そして。都民達の知らない、そしてクルツやアルビドが拝むことなく逝ってしまった…但し、エノクだけは昨夜目にした…ニファーナの神なる姿が現れた。

 

 リィン、と澄んだ鈴のような音が小さく、しかしはっきりと場に響き渡った。

 転瞬、ニファーナの姿が太陽よりもなお(まばゆ)い純白の閃光に包まれた。

 閃光はやがて、雪とも羽根とも付かぬ朧気な形状で剥離し、宙空へ吹き散らされるように昇華してゆくと…。

 消え去った閃光の後に現れたのは、正に"女神"の姿であった。

 明るい栗色だったショートツインテールは、桜よりも尚色鮮やかなピンク色へと変わった。可愛らしい洋服は、純白を基調とした、露出を押さえていやらしくない程度に体の輪郭にフィットした衣装へと変じた。背中からは蒼天の陽光を受けてキラキラと輝く、一対の純白の大翼が生えた。翼の合間には、"金虹"の姓が示すような色濃い虹が橋を架けていた。

 大翼の周囲には、後光のように6体の騎士状の天使が規則正しく円状に並び、ニファーナの神々しさを引き立てた。

 

 ――ここに"夢戯の女神"が、真の意味で降誕した。

 ヌゥルと違い、清廉な美しさと神々しさを伴うその姿に、都民はひたすらに溜息混じりで「おおお…!」と歓声を漏らした。

 先刻、彼らの口から上っていた不安の言葉の数々は、感激の念によってすっかりと塗り込められたようであった。

 

 「さぁ、それじゃあ――」

 ヌゥルが語り始めたのと同時に。いきなりニファーナが機先を制し、無言のままに行動を起こした。

 カッと眼を開いたと同時に、ヌゥルを刺し貫く勢いで指指したニファーナは、「行けッ!」と号令を掛けた。

 転瞬、背後に並ぶ天使達が輪郭を失い、光の塊へと転変。その後、幾つもの小さな光の塊へと分化すると、慣性を振り払った戦闘機のような鋭角的な動きでヌゥルへと肉薄。

 「な…っ!」

 突如の襲撃にヌゥルが思わず声を上げる中、光の塊は輝きを失うと、戦闘機を思わせるような小さな飛翔体へと変形。

 直後――()()()()()ッ! 連続する耳障りな爆音。同時に、飛翔体から光の弾丸が豪雨のように発射され、ヌゥルへと迫った。その高密度にして広範囲を飲み込む莫大な数量は、正に"弾幕"の言葉が相応しい。

 「…ッ!」

 ヌゥルは呼気を噛み殺し、薙刀と鎖分銅を振り回して弾丸を(さば)く。戦い慣れした見事な武器捌きであるが、大量の弾丸を己の柔肌に届かぬようにするだけで精一杯のようだ。余裕のある艶然とした表情は一転、唇を噛み締めた険しい表情と化した。

 だが、ヌゥルは単にやられるばかりではない。

 武器を振るう動きをピタリと止めて、迫り来る弾幕を受け入れるように真正面を向いて立った。人集りはそれを降参の証と見受けれて歓声を上げたが、その程度で音を上げるようでは侵略者として失格だ。

 着弾より素早く左手を延ばして掌を開くと、そこに2匹のズングリした『天使』が出現。そいつらは叩き潰されたように薄く広がって癒合し、紫がかかった黒色を呈する巨大な円形を成した。

 そこへ弾幕が雨霰と着弾したが――それらは音もなく、黒色に吸い込まれるようにして(ことごと)く消滅してしまった。

 

 "陰流"の号の通り、ヌゥルが司るのは陰。そして、漆黒だ。

 黒は全てを包括する色であり、虚無の色。あらゆる物質も概念も、彼女の『神法(ロウ)』に飲まれ、虚無へと消えてゆく。

 

 強力な盾を作り出した事で、攻撃への余裕が生まれたヌゥル。

 飢えた雌豹のように唇を一舐めし、凄絶な艶笑を浮かべると、流れるような動きで体を回転させた。その力は薙刀と鎖分銅に伝わり、白色の凶風となって広く斬撃と打撃の渦を巻き起こした。

 だが――手応えは、なかった。

 ヌゥルは訝しげに(まなこ)を見開き、周囲を索敵。ニファーナの姿を探した。

 弾幕に紛れて身を隠したのであろうと云うことは想像が付いたはずである。しかし、見るからに戦闘経験の無いニファーナがそんな器用な真似をして見せるとは、ヌゥルには想定外であったことだろう。

 ましてや――大胆不敵にも、よりにもよって己の懐に飛び込んで来るとは、思わなかったことだろう。

 「ッ!!」

 ヌゥルが振り抜いた腕越しに視線を下げた時には、低い体勢から鋭い視線でヌゥルを睨むニファーナの姿があった。

 そして、ニファーナの手に握られていたのは、(つば)に四枚の翼の造形を持つ、純白の長剣。『天使』が変化した武器だ。

 「ハァッ!」

 ニファーナは身を起こしつつ、手にした剣の切っ先をヌゥルの喉元へと押し突けた。背中の翼の羽ばたきと相まった、"純白の疾風"と云う表現でもなお足りぬほどの、高速の一撃であった。

 

 この一連の動作こそが、ニファーナがエノクと共に一晩で編み出した策であった。

 「戦闘経験が皆無であるニファーナ様が、戦闘経験豊富な"陰流の女神"とまともに正面から挑んでも、相手にはなりますまい。

 ですから、奇襲を仕掛けます」

 「奇襲かぁ…卑怯な響きがするから、気が退けるなぁ…」

 エノクの前で初めて神の姿となったニファーナは、ポリポリと頬を掻きながら答えた。

 エノクは首を横に振りながら、「卑怯でも構いません」と付け加えた。

 「ニファーナ様が挑まれるのは、スポーツの試合ではありません。

 戦闘です。

 努力も過程も姿勢も、何の意味も持たない。勝敗のみが成果として存在する、残酷な程にシンプルで言い訳の利かない、戦闘です。

 要は、勝ちさえ拾えれば良いのです」

 「ヒトの上に立つ『現女神』として、その姿勢はどうなのかな、なんて思うけど…。

 確かに、この一発勝負で都市国家(プロジェス)の行く末が決まっちゃうんだもんね。綺麗事なんて四の五の言ってられないか」

 エノクは(うなづ)くと、裏技を披露する教師のように、(おごそ)かな声を上げた。

 「ニファーナ様の『神法(ロウ)』は、"陰流"よりも用途が広く、融通が利きます。

 貴女の号、"夢戯"とはその名の通り"夢で戯れる"事。その夢とは、ゲームの世界の事です」

 「…あ、そうなんだ?」

 ニファーナは自身の両の掌を見つめてパチパチと目を瞬かせながら、他人事(ひとごと)のように語った。エノクはちょっと溜息を吐きたくなったが、飲み下して首を縦に振った。

 「『士師』にして頂いた際に理解いたしました。

 騎士のような姿をした『天使』。"近衛"や"賢者"、"僧侶"に"闘拳"に"義賊"と云った号を持つ『士師』達。これらは皆、ファンタジーゲームの登場人物を模したものです。

 そして、プロジェス上空に座す、自然と集落が融合した『天国』。あれは正に、ファンタジーゲームの世界です。

 貴女様の力は、ゲームの世界を具現化させることなのです」

 「うっわ…神としては、酷い能力だねぇ…」

 ニファーナは再び頬を掻いた。対してエノクは、首を横に振ってニファーナの自虐を否定した。

 「神の能力に貴賤などありません。輝かしい光の神も、汚らわしい汚物の神も、どちらも崇拝される神に変わり有りません。

 まして、ゲームは決して(いや)しくはありません。ヒトの想像力と技術力が高い水準で混じり合い、創造された世界です。社会は余暇として側面ばかりを言及しがちですが、客観的に見れば、人類の英知の結晶の一つと評して過言ではありません。

 そして貴女様の力は、ヒトの創造せし世界の頂点に君臨する、偉大なるものです」

 「偉大ってのは、ちょっと実感湧かないけど…。

 とにかく、ヒトを脅かす以上の事は出来るって認識で良いんだよね?」

 「具体的にどれほどの事が出来るかは、この後に確かめるとしまして。

 まずは、"陰流の女神"に対抗するための奇襲…その指針を定めましょう」

 ニファーナがコクリ、とゆっくり頷くと。エノクは衣装のポケットから情報端末を取り出しながら、言葉を続けた。

 「"陰流の女神"に付け入る隙。それは、彼女の高慢な自信。そして、彼女が獲物として好んで使う長大な武器におけるデメリット。この2点に絞られるでしょう」

 語りながら、エノクは情報端末を操作。すると、宙空に3Dディスプレイが展開。そこには、戦場における"陰流の女神"の振る舞いが再生されていた。

 ニファーナの騎士状の『天使』の大群を相手取る"陰流の女神"ヌゥルは、丁度今の決闘で用いている鎖分銅付きの長大な薙刀を手に、踊る竜巻のように優雅ながら苛烈に動き回り、『天使』を光の粒子へと(ほふ)ってゆく。その一挙手一投足は全て、艶やかな笑みの元で行われていた。

 「うっわ…勝てなそう…」

 ニファーナが頬に冷たい汗の滴をツツーッと一筋流した。そこへエノクは、一喝するように語気を強めて否定の言葉を挟んだ。

 「いいえ、そんな事はありません。

 確かに、"陰流の女神"はニファーナ様よりも戦闘経験があります。しかし、戦闘の専門家と言うワケではありません。

 一見、強烈に見える派手な立ち振る舞いですが。見る者が見れば、(いたずら)に力を誇って見せびらかし、自分を大きく見せようとしているに過ぎない…と覚ることでしょう。

 そして、歴戦の戦士ならば必ず、この欠点を突くこと第一に考えます」

 「私でも突けるかな?」

 「勿論ですとも。

 そもそも、奇襲とは本来、力無き者が強大な敵を(くじ)くための手段なのですから」

 エノクは咳払いを挟み、奇襲の策を述べ始めた。

 「まず、"陰流の女神"の高慢さに張り合って下さい。無責任な見栄で構いません。

 (ヌゥル)の高慢さに火を付けるのが目的です」

 高慢なる者は、如何なる相手であろうと、自分が優位である事を誇示しようと躍起になる傾向がある。そして、その無為な躍起こそが、ヒトであろうと『現女神』であろうと眼を(くら)ます帳となる。

 「高慢さに散々張り合い、自信満々で正々堂々と戦う気配を見せておいて…有無を言わさず、すかさず攻撃を仕掛けててください」

 ヒトも『現女神』も、物事の解釈は自身の脳でしか行えない。そこには、自身の経験や信念、性質が根付いた思考しか芽吹かない。

 "陰流の女神"と張り合って見せれば、ニファーナを自身と同じ性質を持つ存在であると見誤ることだろう。自信を見せつけるために、派手で格好の付けた行動に出るものと、勝手に想像してくれるだろう。

 それを、まるっきり裏切ってやるのだ。

 「攻撃は、全力で構いません。

 むしろ、この一手で終わらせる、という位の勢いの手厳しいものが良いでしょう」

 余裕を見せると思いきや、(なり)振り構わぬ苛烈な攻撃に出たニファーナを、ヌゥルは驚愕し呆気に取られるに違いない。

 「そして、一気にトドメを刺してやるのです」

 エノクは、まるで手中に"陰流の女神"の心臓でも掴んでいるかのように、ギュッと力一杯に右手を握り込んでみせた。

 

 エノクと共に立てた作戦通りだ。

 弾幕は、ニファーナのゲームの現実化する力で生み出した、シューティングゲームの戦闘機による攻撃。ファンタジーロールプレイングゲームだけしか再現出来ないかと思いきや、あらゆるジャンルを現実化出来たのは多いなる収穫であった。

 そして手にした剣は、ファンタジーロールプレイングゲームで言うところの、"最強の聖剣"。

 加えて、戦闘経験がないはずのニファーナが凄まじい運動能力を発揮できたのは、アクションゲームのキャラクターの性能を『天使』に再現させ、魔化(エンチャント)のように自身の体に溶け込ませた結果である。

 聖剣の切っ先が、ヌゥルの滑らかな首筋に届く。ツプリ、と柔肌を押し、そのまま皮膚を破いて筋肉を裂く――はずであった。

 ――しかし。

 (あれ…!?)

 驚愕に目を見開いたのは、ニファーナである。対してヌゥルは、"してやったり"と言った嫌味満々の嘲笑。

 聖剣の動きが、ピタリと止まったのだ。剣先は皮膚を破くに至らず、小さな血の玉さえも作れずに、その場に張り付いてしまったのだ。

 ――いや、止まったのではない。性格には、"止められた"のだ。

 ヌゥルの首は、当然ながら、顎に由来する陰で覆われている。その陰の中から、不気味な造形の巨大な口が現れ、聖剣に噛みついて捕まえているのだ。

 この巨大な口の正体は勿論、ヌゥルの『天使』である。

 "陰流"の号を持つヌゥルは、陰の中に『天使』を潜ませることも容易い。

 (でも、剣が使えなくとも…!

 この至近距離なら、あのデカい武器は振り回せないっ!)

 ニファーナは戦闘の素人にあるまじく、柔軟にも武器への(こだわ)りを捨て去った。(つか)を手放すと同時に体を沈み込ませ、更にヌゥルの懐深くへと潜り込んだ。

 視線の先にあるのは、無防備なヌゥルの腹部。

 ここぞ好機とばかりに、ニファーナは無手の右手に小さな『天使』を召喚すると。形状を過電粒子の刃を付けた光の剣へと転変。陰を蹴散らす閃光と共に、プラズマの刃をヌゥルの腹部へ突き込んだ。

 ((うま)い…!)

 (はた)で見ていたエノクは、粟立つ興奮と共に讃辞を送った。丸っきりの素人とは思えぬ発想と機転だ。暢気が信条の"夢戯の女神"も、数多の信民の為ならば、持てる以上の力を出し切って彼らに応えるということか。

 大気を電離させ、青白い火花と散らすプラズマの刃は、今度こそヌゥルの腹部を焦がして貫――。

 「けねぇ、だと!?」

 転瞬。エノクの背後に控えていた"拳闘の士師"が、粗野な口調で驚愕の声を上げた。

 エノクは声こそ出せなかったものの、彼と同じ気持ちで眼を見開き、ポカンと口を開いた。

 戦場を囲む民達は、もとより戦闘の速度に付いて行けず、息を呑んでばかりだったが。この瞬間、動きが止まった2人の姿を見ると、「ヒィッ!」と失意と動揺の声を漏らした。

 

 ヌゥルの腹の薄皮に、あと数ミリで到達する――その地点で、プラズマの刃が止まっていた。

 止まっていたのは刃だけでなく、ニファーナの体自身もであった。

 腹部を覆う陰は電光で消したため、そこから『天使』を呼び出して防御をすることは無理なはずだ。事実、ヌゥルの腹には何の変化もなかった。

 変化があったのは、ニファーナの全身であった。

 彼女の体の直下、自身の陰の中から、無数の純白の鎖が出現していた。これらはヌゥルの『天使』が変じたものであろうことは、想像に難くない。そしてこれらの鎖はニファーナの全身にグルグルと絡みつき、先端に装着されたゴツい鉤でニファーナの体を抉り刺さっていた。

 鎖による束縛と、鉤による激痛。加えてこの時、ニファーナは影縫いの原理によっても体を硬直させられていたそうだ。

 「あぅ…くぅっ」

 脂汗まみれになったニファーナが呻き声を上げた。その声を爽やかな小鳥の(さえず)りであるかのように、ヌゥルは恍惚とした笑みで受け止めた。

 「貴女、凄く良くヤッてくれたわ。

 今まで奥に引っ込んでばかりいた割には、巧みな心理戦に機転があって。私、驚いたわぁ。

 …でもね、ざ・ん・ね・ん」

 ヌゥルは肉感的な唇を強調するような動きでゆっくりと声を上げると。身動き出来ぬニファーナの腹部に、無慈悲な蹴りを見舞った。

 「がふっ!」

 ニファーナが大きく口を開き、唾液と血が混じった吐瀉物を吐き出した。同時にヌゥルは束縛を解くと、ニファーナはフラフラと後退してしまった。

 そこへ、ヌゥルは手にした巨大な薙刀を思い切り振るい、ニファーナの胸部にザックリと叩き込んだ。

 幸いにも、ニファーナの『神法(ロウ)』は致命的な裂傷を抑えるほどの防御力を発してくれたが。ニファーナの体を軽々と飛び、何度も大地をもんどり打って転がった。

 純白の衣装も翼も、土埃に(っまみ)れて惨めに乱れてしまった。ごほっごほっと唾液と共に咳き込むニファーナを、ヌゥルは嗜虐的な眼差しで見つめながら、言葉を紡いだ。

 「幾ら信心が集まろうと、それを充分に扱える器がなければ、宝の持ち腐れよね。

 驚きはしたけど、正直、怖くはなかったわ。その程度の神格なのよ、暢気さん」

 

 都民が口元に手を当てて、失意の嘆息やら、奇跡を願って拳を握るやらしている最中。

 エノクは、目を伏せて首を左右にゆっくり振ると、そのまま俯いてしまった。

 ――授けた万策は、尽きてしまったのだ。

 戦いの不慣れどころでないニファーナの正気は、万に一つも無くなってしまった。

 戦いは、もう終わりだ。

 

 終わりの、はずだった――のだが。

 

 ゆらり――咳き込み、体を"く"の字に折ったニファーナが、立ち上がったのだ。

 もはや勝機など絞り出せるはずもないニファーナが、立ち上がったのだ。

 ニファーナは数度、荒く大きな呼吸を繰り返した後に。キッと険しい眼光をヌゥルに向けると、己の歯を噛み砕かんばかりの強い語気で言い放った。

 「まだ、終わりじゃない…!」

 その言葉に、都民を失意は爆発的な熱気によって振り払われ、大地と大気は張り裂けんばかりの歓声で埋め尽くされた。

 都民は立ち上がったニファーナの中に、希望やら奇跡やらを見い出したに違いない。

 しかし、エノクを始めとする『士師』は分かっていた。恐らくは、ニファーナを相手にするヌゥルも分かり切っていたことだろう。

 ――もう、終わってしまったのだ。終わり切っていなかろうと、終焉への一本道しか残されていないのだ。

 「そのままお寝んねして、降参した方が賢かったでしょうに」

 ヌゥルが勝ち誇った余裕で言い放つと、ニファーナはピクリとも笑みを浮かべず、鬼気迫る余裕のない表情で言葉を返した。

 「終わってない…!

 ここでなんて、終わらせない…!」

 そしてニファーナは、悲壮な決意と共に、重い足に鞭打ってヌゥルへと駆け出した。

 

 エノクは、そんな彼女の肩を強く引いて止めたくなる衝動に駆られたが。(かぶり)を振って衝動を払いのけると、ニファーナの姿を見届けることを決意した。

 何も覚らぬ都民達だけが、無責任な歓声を上げていた。

 

- To Be Continued -

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