Disorder - Part 2
"怪異"は、間接が外れそうなほどに大きく開かれた顎の中から現れる。
もっと詳しく言及すれば――"怪異"は食道や気道、または唾液腺と言った体腔部から現れたのではない。
それは、舌の中央に痛々しく開かれた、クッキリした十字の傷穴の中から現れてくる。
掌程の大きさもなく、内部構造も存在しない筈の傷穴の中から、土砂降りの日にマンホールから溢れ出す下水のように、黒く濁った粘水がゴヴォゴヴォと不快な音を立てながら大量に沸き出す。
「な、なんなんだよ、こりゃあ…!?」
ウォルフが目を白黒させながら指差している間にも、舌の傷穴から吹き出した汚水はベトリベトリと部屋の主の口から零れ落ち、ブルブルと震える粘水の塊を形成してゆく。
この間、部屋の主と言えば。沸き出す粘水に呼吸を阻害されたのか、はたまた嘔吐感を催したのか、ダラダラと涙を滝のように流しながら白目を剥いている。
しかしながら、口の中は汚水で一杯だというのに、部屋の主は嗄れたような潰れたような人外の濁声で、大声で喚き立てる。
「嗚呼、嗚呼、嗚呼! 呼び声よ、呼び声よ、嗚呼!
苛むな、苛むな! 我が才無きとて、苛むな!
我はただひたすらに脆弱なりけり! 蟻に運ばれ食まれし餌食なり!
苛むな、苛むな! 我を苛むなかれ!
暗き天使よ、救い給え!」
それは、まるで何某かの宗教の聖句のようにも聞こえる。しかしその内容は、人に道を説く有り難い説教というよりは、聞く者を呪う怨嗟と呼ぶに相応しい。
この声を聞くなり、4人の少女は瞬時に地を蹴り、部屋の主から数歩の距離を取って身構える。溢れ出した濁水が有害物質であるかのような反応だ。
そして実際に、濁水は人に害を為す存在である。
ゴポゴポ…泡立つ音を立てながら集合する、濁水。遂に1つの大きな塊となり、ニュウ~と大福でも伸ばすように縦長に立ち上がった、転瞬。
ビリビリビリッ! 荒廃した室内に突如、震動するような圧力が生じる。
この圧力は実際には、物理的な事象ではない。それは室内の物体や己の皮膚の表面を見れば明らかだ。埃が飛び跳ねたり、皮膚が震えたり、輪郭がブレたりするような光景は見られない。
この圧力は、生物の魂魄に直接働きかけるものだ。
「あああああッ!?」
突如、ウォルフが声を上げて額を抑える。圧力の発生と共に、彼の思考に凶悪な情報が暴力的に雪崩込んで来たのだ。
それは、不安や失意や卑下、そして失意や絶望といった負の感情の奔流である。
加えて、奔流の中に溶け込むようにして、恨めしい"歌声"が聴覚を支配する。
――お前は何だお前に価値はあるかお前は認められているかお前は誰だお前は必要とされているかお前はお前はお前は――。
「ひいいぃぃぃっ!」
ウォルフは自身が情けない絶叫を上げていることも自覚できぬまま、その場にくずおれ、意味なく両耳を塞いで縮こまる。
その隣で蓮矢は右手で側頭部を抑え、思考に入り込んでくる奔流を意志の力で抑え込みながら、胸中で呟く。
(こいつは…神霊圧!?)
『現女神』を筆頭に、その配下である天使や士師が発する形而上的圧力。思考を塗り潰すように、感情や言葉の奔流を叩き込んでくるところがそっくりだ。
蓮矢は所属している組織の性質上、神霊圧に対抗する訓練を受けているために、ウォルフのように簡単には屈しない。だが、平然と動き回れるほどに回復するためには、暫く時間を要する。
一方で――4人の少女達は、この魂魄性圧力の中を、顔色を青くすることなく、臨戦態勢の鋭さを保ったまま、盛り上がりながら形態を変化させる濁水を油断なく見つめている。
(流石はユーテリアの"英雄の卵"、いや、星撒部ってところか…!)
蓮矢は苦しげにニヤリと笑い、胸中で少女達に賛辞を送る。
さて――変形する濁水が最終的に成り果てたのは、次のような奇妙な姿である。
メンダコと云う海洋生物がいる。皿の上に載せたプリンのような姿に、膜に包まれた短い触手と、耳と翼の中間物のような小さな一対のヒレを頭に持っている。ちょうどこの生物を、黒い濁水を一杯に詰めたクラゲで形成したような姿だ。加えて、ヒレの代わりに小さなコウモリの翼が生えているのも特徴である。
体高は、椅子に座す部屋の主と同じほど。ブヨブヨに肥大化した体つきを見る限り、体積は部屋の主よりも大きいかも知れない。そんなものが、掌サイズにも満たない傷穴の中から現れたのだ。
メンダコには体表に1対の眼を持つが、"こいつ"にはそんなものはない。ブルブルと震える体表は、綺麗なゼリーのようにツルリとしている。
但し――眼の代わりとでも言うのか、濁水の詰まった体内には、いくつもの"筒"が漂っている。
筒をよくよく観察すると、それは暗い色調の装飾が施された、かなり古い時代の長銃であることが分かる。装飾は錆びた金属で施されており、オオカミに追われて逃げまどう人々や、磔刑の様子など云った、陰惨な光景が描かれている。
この筒がフワフワと――しかしながら、かなり素早く――"こいつ"の頭部にたどり着くと。円状に並び、さながら長銃で作った冠のような有様となる。
ブヂュン、ブヂュン、ブヂュン…"こいつ"の頭から粘水の爆ぜる音が続々と響いた――その瞬間。
「ヴァネッサッ!」
渚が雷鳴のような声を上げると同時に、身を低くして"こいつ"へと突撃する。
「言われなくともッ!」
応えるヴァネッサは掌を素早く前に突き出し、魔力を集中。掌が青白い励起光に包まれたかと思うと、その中心から緩やかな螺旋を描いて、正六角形の結晶が幾つも出現する。結晶は凍てつくような深い青色を呈しており、その表面は荒削りの氷壁のようにザラザラだ。
これらの結晶はパキパキと音を立てながら急成長し、やがて成人の上半身をスッポリ覆うほどのサイズに至る。そしてスィーッと素早く宙を走り、メンダコ状の"こいつ"の周囲を檻のように囲む。
宙に浮く結晶の壁が隙間なくミッチリと"こいつ"を囲み終えた、その転瞬――!
噸ッ噸ッ噸ッ噸ッ――! 連続する、鼓膜をつんざく発砲音。"こいつ"の体内を漂っていた長銃が、先の爆ぜた粘水音と共に体外へと銃口を露出させ、一斉射撃したのだ。
射出された弾丸は、術式のみで構築された漆黒の真球である。死を運ぶ魔風と化した弾丸は、高速で一直線に飛翔。ヴァネッサの作り出した結晶の表面に激突すると、ビシッ! とガラスにヒビが入るような耳障りな音を立て、実際に結晶に放射状の亀裂を生じさせてながら内部にめり込み、停止。直後、術式は即座に構造が分解され、黒紫色の煙と化して宙空へと昇華される。
ヴァネッサの素早い対処のお陰で銃撃による負傷者は、幸いにもゼロだ。
しかし、メンダコ状の"こいつ"は諦めない。
弾丸が消滅するのとほぼ同時に――カチャン、と乾いた音がメンダコ状の"こいつ"から発される。体内から飛び出た長銃の撃鉄を起こし、次弾を装填した音だ。
だが、2度目の発射を許すような渚ではない。
飛来する弾丸を頭上にやり過ごした渚は、"こいつ"の眼前へと肉薄。発砲よりも早く体を起こしながら、右脚による蹴りを見舞う。
斬ッ! 剣撃のような鋭い一撃が逆袈裟に"こいつ"の体を引き裂く。ブチュンッ、と濁った音が立ち、盛大な切断痕を刻まれた"こいつ"。
しかし、"こいつ"の水ような体は、その外観のごとく、物理的攻撃が無効である。渚の脚が吹き抜けた直後、早くもズプズプと傷痕が塞がってゆく――丁度、水を切ったものの、その傷が閉じるのをスロー再生するかのような光景だ。
とは言え、星撒部の副部長たる渚は、詮無き行動を取るような人物ではない。先の一撃は、本命の攻撃への布石だ。
この一撃で――自身の脚を通しての"こいつ"の感触の認識によって、瞬時にその定義を解析したのだ。
"こいつ"の頭上に吹き抜けた渚の脚が、転瞬、淡い太陽光の色に染まる。肉体活動に依存した術式構築技術、練気による魔力励起光の輝きだ。
そして渚は、落雷の勢いで"こいつ"の脳天に、輝く脚を――その凶悪な踵を叩きつける。
弾ッ! "こいつ"の柔らかな体を両断して、床を踏みしめる激突音。部屋を揺るがすような強烈な響きは、正に轟雷を想起させるものである。
ニヒッ、と渚が勝ち誇った笑みを浮かべた、その瞬間。"こいつ"の濁り切った漆黒の体が一変、真夏の太陽のような輝きを発したかと思うと、音は立てぬものの一気に沸騰して蒸発してゆく水滴のように、その身が術式へと分解されて昇華する。
瞬く間に滴の一つも残さずに"こいつ"が消滅すると。室内に充満していた圧力がフッと消滅し、思考への干渉も停止。
うずくまっていたウォルフは、急に消えてしまった不快感に戸惑い、立ち上がらぬままの格好で周囲をキョロキョロと見回すのであった。
「流石は、星撒部。
ってよりは――流石は立花渚、と言うべきか?」
蓮矢がパチパチパチパチ、と拍手しながら語る。その行動に呼応したワケではないだろうが、ヴァネッサの作り出した結晶がボロボロと崩壊し、粉雪のような有様になって宙空に溶けて消える。
「まっ、この程度のこと、わしでなくとも星撒部の部員ならば誰でもやり遂げてみせるわい」
腰を捻って振り向いた渚が、ニカッとヒマワリのように笑って応じる。
対する蓮矢は「いやはや」と首を左右に振りながら、両手を肩の高さに上げる。
「相変わらず、学生の域を越えてンなぁ。
足蹴二発で消されちまったら、天使も形無しだろうによ」
その言い振りに、渚は眉を顰めて「むうぅ?」と唸る。とは言え、蓮矢の誉め言葉に悪い気を感じたワケではない。彼の言葉の中身に、誤解というか違和感を感じたという体だ。
職業柄、小さな疑惑にも鋭く反応する蓮矢はちょっと首を捻り、渚が何を可怪しく感じたのかと問い質そうと口を動かそうとした――その矢先。
「な、なんだったンです、あれ…!?」
ようやく現状に適用したウォルフが立ち上がって、疑問の声を上げたのと。
「ふぎゃあああぁぁぁっ! ふ、ふちぃぃぃっ!」
椅子に座していた部屋の主が床に転がり込んで、呂律の覚束ない悲鳴を上げるのとは、ほぼ同時であった。
散らばった床に背を丸めてうずくまった部屋の主は、両手で口元を抑えて「ふごふごっ!」と気の抜けたブタのような嗚咽を繰り返している。手の隙間からはドクドクボタボタと鮮血が溢れ出している。きっと、舌の傷穴から噴き出したものだ。
メンダコ状の"存在"が破壊されたのと同時に、異様な止血状態にあった傷穴が真っ当に戻ったらしい。
「ヴァネッサ! 紫!
治療を頼むぞい!」
渚がキビキビとした口調で号令すると、呼ばれた2人は即座に部屋の主の元へと駆け寄る。霊薬の生成に定評のあるヴァネッサと、治療魔術に長じている紫にかかれば、今やただの裂傷となった(はず)の舌の傷穴の処置は造作もないことだろう。
…さて渚は、アリエッタと共に警官2人に向き直ると、「あれが病原体じゃよ」と語ってみせる。先のウォルフの疑問への答えだ。
「つまり…"あれ"に取り憑かれていた所為で、舌に傷が出来たり、抑鬱症状が出ていた…ってことなのか?」
ウォルフの確認に、渚は首を縦に振る。
「うむ。
あやつは魂魄と云うより、脳に寄生してその活動を制御しておるようじゃ。
抑鬱症状や舌の独特の傷は、その一例じゃ。特に舌の傷は、なんらかのホルモンの働きを使って細胞自殺を起こして作ったものじゃと思う。
それにしても、十字の傷とは洒落ておると言うか、手が込んでおると言うべきか…のう」
渚は苦笑しつつ、豊かな金髪に指を突っ込んでポリポリと掻く。
「やっぱりこの現象は、人為的なものってワケだな?」
蓮矢が尋ねると、渚は「うーむ」と唸って首を捻る。
「可能性は高いが、そうとも限らぬじゃろう。
"ああ云う存在"というのは、社会的環境から泡のように発生することもあるかのう。
ただし、傷穴内部の緻密過ぎる術式構造を鑑みると、自然発生だと特に認めづらいがのう」
「へぇ、なるほど。
天使ってのは、『現女神』だけじゃなく、環境からも発生することがあるのか」
蓮矢が興味深げに首を縦に振ると。渚とアリエッタは顔を見合わせてから蓮矢に向き直り、「はぁ…?」「何を言っておられるんですか?」と聞き返す。
蓮矢は「え」と戸惑いの声を上げる。
「なんかオレ、変な事言ったか?」
「もしかして、蓮矢刑事。さっきの"あれ"が天使だと勘違いなさってるんじゃありませんか?」
アリエッタが蓮矢に尋ねるというより、渚に言い聞かせるように言葉を口にする。すると蓮矢や渚が口を開くより早く、ウォルフが言葉を挟む。
「どう考えても、"あれ"って天使だろ!? 神霊圧だって発生してた!
オレは"あの女神戦争"の時に嫌ってほど経験したからな、絶対間違いようがない! 確かに神霊圧だ!
それが天使でなくて、何なんだよ!?」
「ありゃ、『呪詛』じゃよ」
渚があっさりと訂正する。その隣ではアリエッタも首を縦に振っている。
「は…? じゅ、『呪詛』…?」
「嘘…? マジで…?」
ウォルフ、蓮矢の順で訊き返してくるのを、渚はしっかりした頷きで以て受け止める。
「うむ。
確かに、神霊圧によく似せておったようじゃがな。あれは[[死後生命>アンデッド]]の怨場と同類の力場じゃよ。
…そもそものう」
渚は嘆息してからジト眼を作り、キョトンとした顔を作る警官2人を頼り無さげに睨みつける。
「天使ならば『神法』で構築されておるじゃろうが。対して、"あれ"の体を構築しておったのは単なる術式じゃ。
大した偽装をしておったワケでなし、ちょっと注意して確認すれば明白じゃろ。
怨場にやられて確認できなかったとしても、"あれ"が消滅する際の現象を見れば分かるじゃろうが。
それに勿論、天使は環境によって自然発生することなど、有り得ぬ」
すると蓮矢が苦笑しながら自らの後頭部を撫でつつ、言い訳する。
「いやあ…だってよ、先入観に捕らわれざるを得ないだろ?
この都市国家は元々、女神庇護下型の都市国家だったんだからよ。天使の生き残りが居ても可笑しくないだろうなって、思っちまうじゃねぇか。常人は、よ」
「天下の『チェルベロ』の一員が"常人"などとヌかすでないわ」
渚は再び嘆息する。
「そもそも、『現女神』がその座を退けば、その天使は須く消滅するのが理じゃ。
わしが言うのじゃから、間違いない」
「当の本人がそう言うからには、そうなんだろうな。
今後、肝に命じておくとするよ」
蓮矢は右手を挙げて、渚の言葉を受け取る。
暮禰蓮矢は立花渚を筆頭とした星撒部とは面識があるし、彼女が『現女神』であることも承知している。
さて、天使もどきの呪詛の話が一区切りついたところで。丁度ヴァネッサと紫の治療が終了した。
部屋の主は再び椅子に座らされ、2人の少女に囲まれて最終的なチェックを受けている。
「どうです? 痛みとかありますか?」
紫の問いに対して、部屋の主は何度か舌を出し入れしたり、表面を指でなぞったりしている。
今や舌の表面に在った傷穴は見事に塞がっている。但し、傷穴が在った部分だけ周囲より淡い色を呈していたり、少し凹んでいたりする。これは、魔術的治療によって急激な組織再生を行った代償のようなものだ。時間の経過と共に馴染んでゆくことだろう。
「痛みは…うん、大丈夫みたいだ。ちょっと突っ張る感じはするけど…喋るのに支障はないね」
「それは良かったです」
紫が部内ではなかなか見せない、純然たる笑みをニッコリと浮かべる。同僚のロイが見たら、間違いなくからかったことだろう。
「痛みがなくなったのは良いんだけどよ…。
なんかスゲェ、腹減ったよ…体もダルいしな…」
部屋の主は、ハァー、と重い溜め息を吐いて背を丸め、両手で顔を拭う。そんな様子にヴァネッサが相槌を打つように首を縦に振る。
「寝食共に充分でない状態で、治療魔術による代謝促進を行ったんですもの。疲れた体に、更に鞭を打ったようなものですわ」
そしてヴァネッサは上着の内ポケットを漁ると、濁ったハチミツのようなドロリとした液体の入った瓶を取り出し、部屋の主の痩けた顔の手前に突きつける。
「これは、わたくしが調整した栄養補給用の霊薬ですわ。
こちらを飲んで、少し落ち着いてみなさいな」
「…苦くない?」
部屋の主は怪しみつつ瓶を受け取り、中身をマジマジと見つめる。
するとヴァネッサは、薬を渋る幼子の面影を見て取ったのか、苦笑する。
「大丈夫ですわ。胃が弱ってるかも知れない方に、刺激物なんて与えませんわよ。
あっさりしたチーズケーキ風味なので、飲みやすいはずですわ」
部屋の主は説明を受けても納得していない様子で、首を傾げながら恐る恐る瓶の蓋を開ける。
途端に漂うのは、弱った胃袋さえ刺激しそうな、柔らかく優しい甘い香りだ。薬品を想起させるような要素は一片もない。
これに安堵した部屋の主は警戒心を解き、何の抵抗もなく瓶の中身を口の中に含める。すると…。
「うおっ、マジ美味ッ!」
窪んだ眼をパチッと見開き、歓声を上げる。そして一気に天を向き、一滴すらも惜しいと言った感じで瓶の中身を咽喉に流し込む。
そのキビキビした挙動を見ていると、痩けたり皺だらけになった体が、すぐにでも瑞々しさを取り戻すような印象さえ受ける。
部屋の主が瓶の中身をスッカリ平らげ、腕を口元を拭い去った、その時。外野からウォルフが彼の名前を呼ぶ。
「グエン・ロシュエフ」
「あん?」
美味い霊薬を口にして元気を取り戻した部屋の主――グエンは、奇抜な髪色を写し取ったような、ちょっと柄の悪い態度で返事する。が、直ぐにギョッと瞳孔を縮めると、椅子に座したままの体をビィンッと硬直させる。
「げっ…! ち、治安部の警官!?
なんでそんなヤツが、オレの部屋に…!?
ってか、なんだ、こりゃ!? オレの部屋、どうなっちまってンだ!?」
グエンはついぞ今まで部屋の内装やウォルフらの事を認識していなかったらしい。取り憑いていた呪詛の影響で、認知傷害が起きていたのだろうか。
「訊きたいことがある。
察しの事だとは思うが…お前のバンドのメンバーで、ドラマーのヤハブ・シャーサインについてのことだ」
「ヤハブ…?」
眉根を曇らせて訊き返す、グエン。しかし、ウォルフの直ぐ隣の壁を染める凄惨な血痕を見つけると。
「そうだ…! ヤハブ!
あいつ、どうなんだ!? 無事なのか!?」
グエンはヴァネッサや紫を押し退けながら勢いよく立ち上がり、ウォルフへ詰め寄ろうとする。が、霊薬を口にしたとは言え、万全な状態でない彼は直ぐにバランスを崩し、フラフラと倒れ込む。すかさず紫が捕まえてくれなければ、受け身もとれずに床に激突したことだろう。
「無事も何もあるか。
目の前で見てるだろう」
ウォルフは威圧的に、ゆっくりと大きな動作で腕組みすると、警帽の下の顔を仁王像のように烈しくしかめる。
「即死だよ、即死!
頭に1発、左胸の心臓付近に2発! 派手にぶっ放しやがって! ホトケさん、酷い有様だったぞ!」
苛烈に非難されたグエンは、途端に顔をクシャクシャに歪める。それは向けられた憎悪に対する恐怖ではなく、自らに対する深い懺悔に駆られてのものだ。
補給した霊薬の水分をそのまま絞り出したかのように、グエンの両眼からダバダバと涙の滝が流れる。
「そんな…! ありゃ、夢じゃなかったのか…! クソッ! クソッ!
なんでだ、なんでこんな事に…! なんでオレは、止められなかったんだッ!」
「止められないも何も、お前が――」
ウォルフが苛烈な追求に出始めた途端。渚がスッと腕を伸ばしてウォルフを制する。
渚はウォルフに対して指揮権限など持ち合わせていない。だが、渚の凛然たる態度は、ウォルフの口を塞いでしまう。
まるで、我が子を背にして艱難辛苦を引き留めんとする、母親のような貫禄である。
気圧されたウォルフが固唾と共に続く言葉をゴクンと飲み下すと。渚はフッと表情を和らげ、我が子を慈しむ母親の笑顔をグエンに向ける。
「そう自分を責めるでない。
確かに、おぬしの仲間はこの部屋で命を落としておる。じゃが、その責はおぬしにはない。
全ては、おぬしに取り憑いておった、性悪な呪詛の所為なのじゃからな」
「…だ、だけどよ…」
グエンは嗚咽を漏らしながら、痩けた顔を拳で殴りつけるようにして覆いながら、自ら反論する。
「お、オレの記憶には、し、しっかりとよ、の、残ってるンだよ…ッ!
オレ、何だか知らねぇけど…ライブの後、急に何もかも嫌になって、ひ、引きこもっちまって…! それから何日かして、ヤハブのヤツ、オレを励ましに来てくれて…!
なのに、お、オレと来たら、あ、あいつの言葉が余計に苦しくて…! もうそれ以上言わないで欲しい、放っておいて欲しい…って、胸が張り裂けそうになって…!
そしたら、そしたら…あいつの顔がブッ飛んだんだよ…ッ!
他の事は茫っとしか覚えてないってのに…! 飯を食ってたのか、トイレに行ってたのかさえ、覚えてないってのに…! この記憶だけは、写真でも目の前に突きつけられてるように、ハッキリ覚えてやがるんだ…!
お、オレの他に、誰が、誰がそんな事出来るってンだよ…ッ!」
自責の念に駆られ、自らの体を引き裂かんばかりの様子で自虐的に叫ぶ、グエン。そんな彼に対して言葉を差し伸べるのは、渚の隣に百合の花のように微笑み立つアリエッタである。
「先ほど言った通り、呪詛の所為ですよ。
あなたには何の責任もありません。
ですから、気に病まず、何よりもご自分の体の回復に努めてくださいな」
「で、でもよ…!
じゅ、じゅそ…ってモンのことは、詳しく知らねぇがよ…! それが悪いったって、それに憑かれた原因はオレ自身にあるんじゃねぇのか!?
き、聞いたことあるぜ…! 怨霊の類は、憑かれる側の人間の悪い心の状態が呼び寄せるって…! その、じゅそ、ってのも、そういうモンじゃないのか…!?」
この言葉に、渚に押し黙らされたウォルフは、小さく頷く。グエンの言う通り、呪詛は強力な負の感情によって自発する場合がある。
典型的な例は、誰かを強く妬む場合だ。『混沌の曙』以前、旧時代の地球においては怪談話として囁かれていた現象。しかし、心という形而上的存在が物理的作用を及ぼしうる魔法科学が席巻する現在においては、ただの話ではなく現実の脅威として確立している。実際、この手の現象による刑事事件は度々世間を騒がせている。
この観点に立てば、グエンとて例に当てはまり得るかも知れない。…が。
「それは、考えにくいことですよ」
アリエッタが人差し指を立てて、幼子を諭すように語る。
「私たちがこの部屋に入った時のグエンさんは、明らかに抑鬱症状を呈していました。
抑鬱症状というのは、非常に自責的、そして自傷的です。だからこそ、グエンさんは自分自身の体を酷く痛めつけています。
そんな状況で生まれる呪詛でしたら、グエンさん自身を傷つけるはずです」
「この部屋の有様は、どうなんだ!?」
横から口を挟んだのは、渚の威圧をようやく振り切ったウォルフである。
「この荒れっぷりは、自傷的というより他傷じゃないのか!? 傷つけたい誰が居ないから、手近な物に当たり散らしたんじゃないのか!?」
「いえいえ。それも抑鬱症状から説明可能ですよ、警官殿」
小さく手を挙げて反論するのは、紫である。口調に毒が含まれているのは、ウォルフを物知らずと判じて見下しているからだ。実際、彼女のつり上がった口角には意地悪い卑下の笑みが浮かんでいる。
「自室だとか、自身の創作物――そこら中に散らばってる楽譜や歌詞の書き殴りとかですね――これらは、自身の性質が具現化したものと判じることが出来ます。
つまり、自身の延長、と言えるワケですね。
それを壊す行為は、自傷行為の延長と見ることが出来ますよ」
"基本中の基本の知識ですよ"と言わんばかりの紫の態度に、ウォルフは流石にムッと顔をしかめる。
「だが、恐慌症状って可能性だって考えられるだろうが!」
「だとしたら、私たちや警官の皆さんが入室した時点で、この人は暴れ回るんじゃないですか?
恐慌症状の方は、ほんのちょっとの変化にも敏感に反応しますからね。見知らぬ人間が部屋に踏み込んで来たら、絶対に暴れますよ。
でも、この人は誰が入室しようとも反応は薄いし、極めて受動的で鬱々と泣き通しているばかり。恐慌と断じるには、あまりにも不整合ですよねー?」
紫は隣のヴァネッサに同意を求めて首を傾げながら、煽るように語る。この嫌みったらしい動作にはヴァネッサも気の毒さを感じたのか、ひきつった苦笑を浮かべるばかりである。
とは言え、ウォルフをフォローするような真似をしなかったのは、紫の言葉が全くの正論であったからだ。
「で、でもよ…!
躁鬱みたいに、感情に起伏があるような…!」
頑張るウォルフの言葉が終わらぬうちに、渚は小さく溜め息を吐きながら言葉を挟む。
「ここで机上の可能性の議論を続けたところで、進展せぬじゃろうて。
ウォルフとやら、鑑識を呼んで今回の事象と、落命時の事象との記録照合を駆ければ良いじゃろうが。
特に今回は、事象が発生してまだ間もないじゃろう? 部屋から記憶を読み出すのに絶好の機会じゃろうが。時を無駄にしては、どんどん情報が失われてしまうぞい?」
記憶照合は、現在の刑事課における非常にポピュラーな鑑識方法である。様々な物体や非人類生物から記憶を読みとる魔術を行使出来る鑑識官を呼んで、事象を構成する形而上的要素を解明し照合する捜査方法である。鑑識官の技術レベルが問われるが、充分卓越した技術の持ち主ならば非常に良い精度の結果を得ることが出来、事件解明までの時間を劇的に短縮することが出来る。
ちなみに、紫が用いる植物読も記憶照合の一種に数えられる。が、この部屋には目立った生きた植物がないため、彼女の技術を役立てることは出来ない。
――ともかく。学生相手に次々とやりこめられるウォルフは顔を真っ赤にして体をプルプルと戦慄かせていたが。やがて、蓮矢が"降参"と言わんばかりに大笑いを上げる。
「確かに、単なる時間の無駄だわな!
ウォルフ君、彼女らの言う通り、さっさと鑑識を呼んで捜査してもらえ。
それでもしも、このグエン氏の呪詛が彼自身に由来するものであり、他の件とも一致するなら、グエン氏を一連の事件の犯人と断じることが出来るだろうし。そうでないとしても、貴重な捜査資料が作れるだろうよ?」
ウォルフはまだ何か反論したげであったが、蓮矢の言葉には弱いようだ。ガックリと肩を落として降参を認めると、腰ベルトのホルダーに差した通信機を使い、本部と連絡を取り始める。
その様子を見た蓮矢は満足そうに頷き、パン、と小さく両手を叩くと。
「そんじゃ、この場はウォルフ君に任せてっと。
オレは…」
「ちょ、ちょっと待ってくださいッ!」
蓮矢の台詞に対して、または通信相手に対してか――恐らくはその両方に対してだろう――ウォルフが慌てて声を上げると、蓮矢に青くなった顔を向ける。
「蓮矢さん、何処行くんですか!
容疑者を確保したら、必ず2名以上で現場を維持する事って言うのが鉄則じゃないですか!
コイツ(グエンを指した)が逃げたら、どうするんですか! あなたもオレも始末書じゃ済まないですよ!?」
「大丈夫、逃げたりしないって。
なぁ、グエンさん?」
蓮矢が同意を求めると、グエンはえらく真剣な顔を作って首を縦に振る。
「ああ、ああ! 絶対に、オレは逃げたりしないぜ!
本当にオレの所為でヤハブが死んだってンなら、オレはこの罪をキチンと償いたい…!
あいつはオレの大切な仲間なんだ! ケジメは付ける!」
病的ではあるものの、奇抜な髪型がチャラチャラして見えるグエンであるものの、その根っこは義理堅く真面目である。
そんなグエンの台詞に満足して頷いた蓮矢は。
「そう言うワケだから、後よろしくな!」
と語ると、まだ反論して騒ぐウォルフを[[rb:後目>しりめ」]に渚に向き直る。
「ところでよ、渚ちゃん。 そろそろ小腹が空いてくる時間だよな?」
正午を過ぎた時間帯を指す腕時計を見せてニッカリと笑った蓮矢に、渚もニヤリと笑って応じる。
「もう2、3件回ってみるつもりじゃったんだがのう。確かに、腹の虫が騒いでおるわい」
「それじゃ、ランチタイムと洒落込もうぜ。勿論、オレの驕りだ」
そう言うと渚は一つ、荒い鼻息を居丈高に吹き出す。
「当然じゃわい。
本来はお主等がすべき仕事、わしらがやり遂げてみせたのじゃからのう!
それに、成人が学生に驕らんでどうする?」
「相変わらず、遠慮もクソもないこって。
…じゃ、話がまとまったところで、行くとするか!」
ウォルフが「ま、待ってくださいよ! ちょっと! 本気ですか!?」と喚くのも構わず、背を向けた蓮矢は右手を挙げると。
「いつもの所に居るから。
終わったら来てくれや」
と言葉を残し、蓮矢は美少女4人を侍らせて荒涼たる部屋から出て行った。
「…"チェルベロ"の捜査官だからって、こんなの横暴過ぎるだろ…!」
残されたウォルフは小さく叫んで舌打ちすると、ちょっと泣きそうな顔を作って、通信機を相手にするのだった。
- To Be Continued -