Disorder - Part 1
◆ ◆ ◆
――これは、冒涜だ。
"慰めの都市国家"と呼ばれる都市国家。その雑踏の中に身を投じる度に、"彼"は胸中に暗澹とした感情を抱く。
それは憤怒であり、呻吟であり、殺意ですらある。
往来の足音や囁き声ならば、蛙鳴蝉噪であろうとも、"彼"の聴覚を刺激することはない。
だが――"あれ"だけは、例え小石を踏みしめた程度の小声であろうが、苛立ちを覚えずにはいられない。
全くのスカスカで中身がなく、虫歯になりそうな甘ったるい音色で、上辺だけで真心など一片も籠もっていない言葉だけを並べた駄作。"ヤツら"はこれを芸術であり慰めであると言い張るのだから、笑わせる。
(我らの英霊だけではない。
偉大にして真なる真心を我らの心に授けた"第一の者"をも辱めている。
これを冒涜と言わず、なんと称せようか?)
"彼"は足を止めると、行き交う人混みの向こうに視線を投じる。そこには、数人の取り巻きを囲った、1人の男がいる。折り畳みの椅子に座し、ゆっくりしたペースでギターを弾く男がいる。
男は恍惚とした有様で少し天を仰ぎ、パクパクと口を動かして声を上げている。その声こそ、"彼"が厭って止まぬ"冒涜"である。
(この咎人めが…!
貴様らの下劣な行為が、我らの傷を抉ると理解できぬ、罪深き白痴めがッ!)
"彼"は拳をギュウッと握る。その力強さと来たら、爪で掌の皮膚を引き裂かんばかりである。
だが、"彼"は深呼吸をし、ひとまず激情を抑え込むと。フゥッと力を抜いて拳を顔の高さにまで上げ、歌う男へと向ける。
そして、歌う男の顔を五指で弄ぶかのように動かす。
その動作を為したからと云って、歌う男に何らかの変化が起こったワケではない。それでも、"彼"は満足した体で、小さく残虐な嗤いを浮かべる。
そして身につけていた裾の長い、汚れた黒いローブを軽く翻すと、自らの雑踏に同化して歌う男に背を向ける。
2、3歩と足を進めたところで…。
突如、背後から酷く嗄れたがなり声が上がったかと思うと。混乱の騒動がワァワァキャァキャァと鼓膜を震わす。
その不吉な騒ぎを耳にした"彼"は、まるで爽やかな小鳥の声でも耳にしたかのように、涼やかに胸一杯に空気を吸い込む。
膨らんだ胸腔の奥底で、"彼"はほくそ笑みながらポツリと漏らす。
――これは、断罪だ。
◆ ◆ ◆
異様な室内である。
元々は、駆け出しミュージシャンに相応しい、騒がしくも希望と熱意に満ちあふれた風景だったに違いない。壁中には敬愛する大物の歌手や奏者、バンドのポスターが埋め尽くされている。窓際に設置された机の上には、自らが書き殴った楽譜やら作詞を載せた紙が山と重なっている。楽器をはじめとした音楽器機が雑然としながらも、ピカピカに手入れされた状態で保管されていたことだろう。
だが、今のこの部屋と来たら…なんと称するべきだろうか。
「むうぅ、まるで幽霊屋敷じゃのう」
電灯が点いておらず、陰に覆われた室内においても、なお輝きを放つハチミツ色の金髪と地球のような碧眼を持つ美少女、立花渚は桜色の唇を"へ"の字に曲げながら、そんな評価を下した。
「まっ、実際人が一人死んでますしね」
渚に同意しながら言葉を返すのは、ボブカットに霧添えた艶やかな黒髪に、神秘的な輝きを湛えたレッドブラウンの瞳を持つ少女。相川紫である。
少女2人が評したように、この散々たる有様の室内は、旧時代的に言うところの"怨霊に取り憑かれた場所"の様相を呈している。
壁中のポスターは生々しい引っ掻き傷によって引き裂かれているし、床中に散乱している楽譜や作詞の書き殴りは陰惨にも破り捨てられて紙片の山と化している。高価と思われる音楽器機は、何でブン殴ったのか、ボコボコにひしゃげて中身の機械が飛び出しているような有様だ。
先に"電灯が点いていない"と言及したが、別に渚達が好んで照明のスイッチを入れていないワケではない。旧時代ながらの安価な蛍光灯は、ガラス管が無惨に破砕され、機能を放棄している状態である。
この荒涼たる空間の主は、しかしながら、怨霊などではない。
部屋の中央よりやや窓際に置かれた木製の椅子。そこに座した――いや、"座れされた"部屋の主は、超異層世界人権委員会の手を借りるまでもなく、人類だ。しかも、死後生命ではない。有機的生体活動が機能している、旧時代の生物学的にも申し分のない生物である。
とは言え、その姿は幽鬼かと見紛うほどに見窄らしい有様だ。
スラリとしたスレンダーなシルエットのシャツやズボンがダボダボになる程に痩せ細り、皮膚からは血の気が失せて青白く、カサカサに乾燥している。頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、唇は真っ青で、何度もひび割れを起こして出血した痕が見て取れる。国旗のように鮮やかに染め上げられた頭髪は、所々に痛々しい禿が見て取れる。強引に毛髪を引っこ抜いたらしく、ブツブツに腫れ上がったり、皮膚まで破けて痛々しいかさぶたが出来ていたりする。
彼には、額に1対の小さな角がある。目尻周りや頬の一部に石灰質の鱗片が見て取れることから、彼がゴブリン属と呼ばれる人種であることが見て取れる。壮健であれば、椅子に座してなお渚の背丈を越えるような長身と相まって、さぞや威圧的な印象を与えたことであろうが…今や角は小指で叩いただけでもポッキリと折れそうなほどに、皺だらけで脆弱になっている。
彼の黒一色の瞳には怯えきった暗い輝きが灯り、眼球は怯懦に急かされてか、蠅のように素早くキョロキョロと周囲を見回している。
この姿だけでも十分に異様だが、これらに輪をかけて異質な点が2つある。
1つは、彼の声だ。
「グルゥ…ゴヴォ…グヴォヴォ…」
奈落から響く地鳴りのような、あまりにも低い声。不鮮明過ぎて言葉の体を為していないが、くぼんだ眼窩からポタリポタリと流れる涙を鑑みるに、救いを求めているのではないかと想像出来る。
そしてもう1つは、彼が付き出している舌だ。
青黒く変色した粘膜塊の中央には、定規で丁寧に線引きして切り取ったかのような、クッキリした十字の穴がスッポリと開いている。
…そんな異様な部屋の主を前に、渚と紫を含めた少女4人がズラリと並んで、「う~ん…?」と疑問符を添えた唸りを上げていた。
「やっぱり一番怪しいのは、この傷口ですわね」
ちょっと高飛車な印象を与えるお嬢様口調で言葉を漏らしながら、4人の中から一等ズイッと顔を舌の傷口に寄せ、マジマジと見つめるのは、水晶のように青から緑へとグラデーションの掛かったロングポニーテールヘアの持ち主。ヴァネッサ・アネッサ・ガネッサ・ラリッサ・テッサ・アーネシュヴァインである。
ちなみに、彼女の長ったらしく、同じような発音が並んだ名前は、彼女の出身地の貴族階級における文化である。実際、ヴァネッサの実家は名門軍家の家系であり、父や兄は軍上層部に入り込むような肩書きの持ち主である。
「この傷口、よく見ていただきたいわ。
筋組織も血管もスッパリと切断されているのに、出血した様子が全くない。それどころか、血が通っていないかのように、血管の内部が空洞になっていますわ。
明らかに、魔術的ですわね」
「でも、魔法性質を持つ細菌やウイルスも居ますからね。魔術的――つまり、人為的だとは、断言できないですよね?」
紫がツッコミを入れると、ヴァネッサは腕組みをしながら、舌から顔を離して、胸を張るように直立する。
「まぁ、確かに、そうですわね。
でも、環境や生態系に通じてる紫さんならお分かりかと思いますが…こんな奇怪な傷口を顕現させて、細菌やウイルスに何のメリットがありますの?
もしもこれが腫瘍なら、細菌やウイルスのコロニーが何らかの事情で独特の集合形態を持っていると判断しても良いと思いますが。これは、組織がスッポリと抜け落ちている傷口ですわよ?」
「方術陣のように、幾何学的な文様から意味学的にエネルギーを取り出しているのかも知れませんよ?」
と、紫は反論したが、すぐにため息と共に言葉の説得力を打ち消す。
「とは言え…傷穴の中に何ら術式的構造が認められないので、可能性は低そうですけど…」
「精神に作用するタイプの病原体なんじゃないかしら?」
少女のうち、最後の1人が、荒涼とした室内に全くそぐわぬ花壇のようなのほほんとした声を上げる。
「精神…ですか、アリエッタ先輩?」
紫が聞き返す相手――アリエッタ・エル・マーベリーは、満開の桜を思わせるような端正で美しい顔をニコニコとさせたまま、頷く。その優雅な動作に伴い、ボリュームのある桜色のロングヘアからは花束のようなかぐわしさがフンワリと漂い、豊かな乳房がポヨヨンと揺れる。
アリエッタは少女達が所属する星撒部の中でも、トップクラスのプロポーションの持ち主である。その悩殺的な破壊力に魅せられた紫は、胸中で舌打ちする。プロポーションにさほど自身のない紫は、時折アリエッタに嫉妬心を向けてしまうことがある。
ちなみに、星撒部におけるもう1人の悩殺ボディの持ち主、ナミト・ヴァーグナについては、紫はあまり気にしていない。アリエッタのような"華"が無いことが、ボーダーラインなのかも知れない。
紫がジト目で胸元を見つめていることも気にせず、アリエッタは人差し指を唇の近くに寄せて答える。
「精神というより、脳…かしら。
病原体の干渉によって、何らかのホルモンか信号が発信されて、それが舌の組織に作用したとか。
この人からは重度の抑鬱状態が見てとれるし、矛盾はないと思うの」
「うむ。
わしも、アリエッタと同意見じゃ」
渚が首を数度縦に振り、力強く賛成する。
「それにのう、紫よ。
傷穴の中に何も見えぬと言っておったが、そうではないぞ。
よく目を凝らしてみよ。空間格子に擬態した構造が、ユウレイグモの巣のように疎らに走っておる」
「え…!? ホントですか!?」
今度は紫がズイッと部屋の主の舌に顔を寄せ、近視の者が遠くを見やるように眼を細めて凝視する。
形而上相に依存する術式構造の把握に関しては、形而下の視覚――つまり、眼球を媒介とした光学的視覚の優劣は余り意を為さない。とは言え、"形から入る"という言葉が意を為すのが、魔法科学というもの。行為が魂魄に影響を及ぼしたのか、紫の脳裏に描かれる形而上相の風景の精度がぼんやりと少しずつ、高まって行く。
そして、遂に…。
「あっ、ホントだ…!
何これ…こんなの初見で見つけろって言われても、絶対無理ですよ…!
よく見つけましたね…さすがは副部長です…!」
心底の感心を込めて語る紫の隣に、ヴァネッサも顔をズイッと割り込んでくる。彼女もまた、傷穴の中の術式構造を読み取れなかった身の上だ。
ヴァネッサは眉間に皺を寄せて、「う~ん?」と唸りながら傷穴を睨みつけると。程なく、「ホントですわ!」と声を上げる。紫よりも発見までの時間が短かったのは、流石に先輩だけのことはあるということだろう。
クッキリした十字の傷穴に関する新たな事実が周知されたことで、少女達の議論は更に活発に――そして、姦しいものになる。
「この構造なら…」「いいえ、それよりも…」「むうぅ、この可能性は…」等と交わされる会話の内容は、10代の学生が口にするには余りにも難解で深淵なものである。
そんな少女達から少し離れた所。引き裂かれたポスターが痛々しい木製の出入り扉の手前に、2人の男が並んで立ち、少女達を黙然と見やっている。
この2人、佇まいこそ類似点はあるものの、実際の印象は太陽と月ほどの相違がある。
まずは、扉のほぼ正面に立っている男。強化繊維で出来た紺色の制服と制帽を身に着けており、それらの随所に縫いつけられたトレードマークから警察関係者である事が読み取れる。顔は旧時代ながらも地球人のもので、年の頃は20代中半と言ったところだ。直立してはいるものの、ソワソワと落ち着きのない雰囲気が醸し出されている。それが顕著に見て取れるのは、彼の表情と、腰のあたりで組んだ指である。
面持ちは不安げで、少女達を移す瞳はフルフルと揺れ動きっ放しだ。組んだ指は絶えずモジモジと動き、掌にはうっすらと汗を滲ませてさえいる。
ともすれば、全力で駆け出して少女達の肩をグイッと掴み引き留めそうな気配がピリピリと漂っている。
一方で、彼の隣に立つ男は、全くの対照的に泰然自若とした態度を見せつけている。年の頃は30代半ばといったところだが、その落ち着いた巌のような風格からは、豊富な経験を積んだベテランの印象が漂う。
身につけた丈の長い黒のコートには、やはり警察機関を連想させるトレードマークが縫いつけられている。しかし、それは先の男とデザインが全く違う。制帽を被った3つ首の犬と云う、ちょっとトゲトゲしい印象を受けるものだ。
男は身の丈が優に180センチを越える長身だが、コートの上から分かる程には筋肉質ではない(とは言え、痩躯というワケではない)。制帽を被っていない頭には、後頭部で結んだ漆黒の黒髪が項の辺りまで伸びている。
彼に関してもう一つ特徴を言及すれば、腰に差した"獲物"である。警官の腰にあるものと言えば警棒か拳銃のイメージであるが、彼が下げているのは刀である。刀身は短めだが、コートの裾先から赤黒い鞘の先端がチラリと覗いている。
帯刀した警官男性がじっくりと、興味深げに――それこそ、鑑識官の調査行動を眺めているかのように――見つめていると。オドオドした警官男性がコートの裾をチョイチョイと引っ張り、顔を寄せてくる。背丈が同じ程度ならば耳元に口を寄せるところであろうが、頭一つ分も高低差があるので、肩に語りかけるような体になってしまう。
「あの…ホントに大丈夫なんですか、蓮矢さん?」
「何が?」
帯刀した警官男性――暮禰蓮矢は、ちょっと眉をしかめて返す。
するとオドオドした警官男性――ウォルフ・ガルデンは、甲高くなったコショコショ声で語る。
「彼女ら、学生ですよ!?
いくらユーテリア所属の"英雄の卵"だからって、公認された専門家じゃないんですよ!?
現場を荒らされたりしませんか!?」
「大丈夫、大丈夫」
蓮矢は、ハァ、と小さく溜息を吐きながら、視線は少女達の方へ向けたままに、手だけをウォルフに向けて制する動作をする。
「戦災復興でてんてこ舞いになってる都市国家の市軍警察に比べりゃ、数倍役に立つ。
黙ってみてろ」
「で、ですが…」
ウォルフは反論を口にしかけたまま、視線を蓮矢と反対の方へとチラリと走らせる。
彼の視線の先にあるのはやはり、引き裂かれたポスターがプラプラと下がった壁だ。しかし、他の箇所と明らかに違う点がある――それは、血痕だ。時間経過によって黒っぽく変色したそれは、巨大なトマトを握り潰したような、盛大な飛沫の形跡が見て取れる。
先刻、紫が"人が一人死んでる"と言及した。その痕跡が、この血痕だ。
2日前、その位置で顔面が落としたスイカのように破裂した状態の男性の遺体が発見されている。
状況から考えれば、加害者は部屋の主だ。しかし、彼が留置場ではなく自身の部屋に放置されているのには、理由がある。――それは後ほど述べるとしよう。
…とにかく、ウォルフは惨死の印である血痕を気味悪がりながら、また語る。
「こんな場所でボーッと突っ立ってるよりも、我々が手短に現場検証した後に、一時的に留置すれば、」
「黙ってろ」
言葉の途中のウォルフに割り込んで、蓮矢が少々怒気をはらんだ物言いで黙り込ませる。
それからしばらく、男共は鳴りを潜め、幽霊屋敷同然の内装には余りに似つかわない少女達の明るい議論の声ばかりが響く。…その挙げ句。
「むうぅ、ここで雁首揃えて言い合っていても、埒が明かんわい。
のう、アリエッタ」
腕を組んで思慮を続けていた渚は、アリエッタの方に顔を向けると。視線の先のアリエッタは、腰に下げた刀を鞘ごと取り外したところである。
「分かっているわ。私も丁度、提案しようと思っていた所なの」
「うむ、話が早くて助かるのう。
では、ちょいと"斬って"みてくれ」
「ええ」
アリエッタはニッコリと微笑むと、壮麗な装飾が施された鞘と柄を片手ずつで掴み持つと、部屋の主の顔の高さで水平にしてピタリと止める。
少女達の広報で、ウォルフの顔がギョッと色めく。
「ちょっと、蓮矢さん!?
あの娘達、"斬る"とか言ってますよ!?」
少女達のことをよく知らぬ者であるならば、"斬る"と聞けば、文字通りに人体の切断を想像することだろう。しかも、4人は脳や精神活動についての議論を交わしていた。ということは…その刀で頭を切り開いて、直接脳の状態を確かめようとしているのではないか? そう考えるのは極自然なことかも知れない。
「彼女ら、いくらユーテリアの学生とは言え、医師免許は持ってないですよね!? しかも、刀だなんて、医療器具ですらないですよ!?
止めましょうよ! これじゃあ単なる傷害事件、いや、殺人事件になります!」
息巻いたウォルフが大股で駆け出そうとするところを、蓮矢がすかさず腕を延ばして彼の胸を抑え、動きを制する。
「大丈夫、大丈夫。
悪いようにはならんさ。
特に、あのお姉ちゃんが"斬る"ってんなら、安心だ」
「医師免許持ってるんですか、あの娘!? でも、執刀するとは言え、本当に刀でやるなんて、バカげて…」
声を荒げて騒ぐウォルフを、蓮矢は高い身長から握り拳を振り下ろし、多少強めに小突く。
「静かにしてろ。
あのお姉ちゃんの邪魔になる」
「…不祥事になったら、責任取ってくださいよ」
ウォルフはまだまだ納得はしておらず、ハラハラオドオドしながら、視線を少女達の方に向き直して固唾を飲む。
アリエッタは静かに、深く深呼吸しつつ、眼を細めて部屋の主を見やる。
その視線は睨みつけるではなく、鋭くも穏やかなもの――例えるならば、患者を救う為に必死になって患部を見やる医師と同じ視線である。
部屋の主はアリエッタの視線の変化などどこ吹く風と言った様子で、ゴヒュゥゴヒュゥと荒々しく乱れた呼吸を繰り返し、ボタボタと涙の滴を零しながら、キョロキョロと周囲を見回している。
そんな最中。アリエッタがヒュッ、と鋭く息を吸い込みながら、ゆっくりと鞘から刀身を露わにする。
鞘を滑らせた距離は、わずか3センチほど。鍔と鞘の間には、厳冬の早朝に照り輝く雪原を思わせる銀光を思わせる、刃引きされた刃がチラリと覗く。
刃は窓から差し込む僅かな光を反射し、眩い輝きをキラリと放って、部屋の主の眼に灼き付ける。
闇夜から姿を表した暁光のような輝きを網膜に入れた主の眼が、眩しそうに細まる。そして、絶え間なく動き回っていた眼球が、ピタリと輝きに釘付けになる。
その瞬間。アリエッタが鞘と柄を素早くを動かし、刃を鞘の下に完全に納める。
キイィィィンッ! 部屋に響き渡る、澄んだ鍔鳴り。それは刀という殺傷兵器を想起させるような、冷たい音ではない。むしろ、凍り付いた世界を破砕して春を呼び覚ますような、鋭くも穏やかな玉の楽器を想起させる、美しい音であった。
静から動へと一気に転じる、アリエッタの動作。そして、雑然とした世界に心地よく響き渡る、鍔鳴りの音。
その一挙一動は、ほんの1分にも満たないものである。しかしウォルフは、その極短い時間の振る舞いに魅せられ、それまでのギャアギャアとした騒々しさを忘却し、キョトンとアリエッタを見つめるばかりだ。
「斬っ…た?」
ウォルフが、小さく呟く。先のアリエッタの動作には斬撃を匂わせる要素は何もなかったはずなのに、彼は確実に何かが"両断"されたことを覚る。
しかしながら彼は、五感の何が――それとも、第六感と言われる形而上的知覚がか――その印象を訴えたのか、理解できていないが。
だがウォルフの隣では、蓮矢がニヤリと笑いながら小さく頷く。
「ああ、"斬った"な」
アリエッタが扱うアルテリア流剣舞術は、刃引きされた儀式用刀を用いた演舞術であり、殺傷のための技術ではない。故に彼女は、いかなる戦闘状況下においても、自身の獲物を用いて敵を直接斬りつける(刃引きなので、"叩きつける"という方が正確かも知れない)ような行動は取らない。
だが、彼女の刃は――アルテリア流剣舞術は、肉体を斬る代わりに、その魅力で以て心を斬る。
そして今、アリエッタは正にこの技術を存分に発揮し、部屋の主の心を魅入らすと同時に、暗澹に閉ざされた心を澄んだ輝きと鍔鳴りで斬り開いたのだ。
転瞬――鍔鳴りの残響が消えぬ内に。
ゴヴォゴヴォゴヴォゴヴォ…まるで粘性の強い下水が泡立ち渦巻くような濁水音と共に、異変――いや、"怪異"が姿を現す。
- To Be Continued -