すれ違い
葉山輝也はフライパンを振っていた。
ちょうど帰ってきた藤堂奈津が案の定、その姿に一瞬、戸惑いと期待を混ぜた複雑な視線を寄越して来た。いい加減慣れてほしいのだけれど、奈津はすぐにそれを引っ込めて「いい匂いだねー」とニッコリ微笑む。
「冷凍チャーハンだからね。いい匂いしなきゃ意味がない」
つい憎らしい口をきいてしまうのは、葉山が奈津に甘えているせいだと自覚はしていた。
葉山は舌の異常を感じ、作ることに自信が持てなくなってからは、料理から一切手を引いた。それは家庭料理も例外ではなく、葉山が食事を作る時には味付けをしなくてもいい冷凍食品やレトルトを使うものに限っていた。
以前は、繊細な味付けや素材の持ち味を生かす塩の使い方など、微妙な落とし所を探るのが得意だった。人の店で働くとなれば、安定した味を提供する必要があるけれど、もちろん材料の具合や季節によって、都度加減する必要は出てくる。葉山は目標とした味にたどり着くまで粘り強くコツコツと調整していくのが好きだった。
ただその情熱は一切、舌の異常によって奪われた。その熱量は未だに戻らない。もう今では市販のソースや冷凍食品の完成度の高さに驚くばかりだ。そこにはまさにぶれない味があった。
もしかして自分が最も自信を持っていたのは、取るに足らないことだったのかもしれない。それを勘違いして、何もかも手に入れようとして、自分は勝手に押しつぶされたのだ。
奈津とは今では一緒に暮らしている。畑で野菜を収穫するようになってから、奈津に一緒に住もうと切り出した。それは何の約束もないずるい誘いだったけれど、意外にも奈津は素直に自分の部屋を解約し、今のアパートに引っ越してきたのだ。ただ、葉山が開店するはずだった店のオープン日に出そうと誓った婚姻届は二人のサインが入ったまま、今もタンスの中にある。奈津の本当の気持ちは今はわからない。彼女は葉山を有頂天にさせた張本人とも言えるグルメライターになり、その片棒を担ぐ側になってしまったのだから。
だからだろうか、奈津の記事はいつも批判的だ。もしかして自分のような被害者を出さないよう、警鐘を鳴らしているのか。
奈津はもう自分には期待していないのかもしれない。批判的な記事を出し続けることによって、自分を解放してと暗に訴えているのかもしれない。
でも葉山はそれらを一切無視していた。今となっては単なる同居人としか呼べないような間柄になっても、奈津を手放せない自分を自覚している。確かに自分は自信に満ちて、奈津の隣にいるのにふさわしい男だと自負していた過去がある。美しく快活な女性と将来を約束し、自分の腕で幸せにすると誓った瞬間がある。もし今奈津を失い、他の女と付き合ったところで、あの時のような自信に満ちた顔を見せられないだろう。その不安に果たして耐えられるだろうか。
「紹介してくれたお店、今日行ってきたよ。本当仲のいい父娘で、味も抜群だったよ」
葉山が野菜を卸している店で、知り合いが娘さんと繋がっていた縁で取引することになった。父親は葉山の手間暇かけた愛しい野菜たちをべた褒めしてくれる。
「そうそう、そこでさぁ月刊ウマイモンの記者に会ったよ。あの三保って人」
奈津の口調は平坦だけれど、探るような空気を全身から放っている。
「三保って、あの?」
「そう、まだライターやってるの」
葉山はムカつく内臓を鎮めて、皿に炒めた冷凍チャーハンを盛り付ける。
「そう言えば今日の店、奈津が昔すごい気に入ってた、アポロだっけ?近くなかった?」
葉山はさりげなく話題を戻した。
「アポロンだよ。確かに似てるかも・・・私が好きだった頃のね」
奈津は一時期、そのアポロンという喫茶店について葉山に熱く語っていた。男性店主で、ホールに奥さんらしき女性がいたことが、自分たちの行く末と重なっていたのだろう。こんな店がいい、こういうのがやりたい、と期待に胸を膨らませていた奈津の弾けるような笑顔は今でも胸にしまってある。
「いつもありがとうね。いただきます」
二人で向かい合って、冷凍のチャーハンとお湯を注ぐだけのわかめスープを食べる。葉山はチャーハンを咀嚼し、わかめスープを流し込む。味はする。確かにする。一時期は辛いのも甘いのもぼんやりと曖昧にしか感じられず、乾いた香りしか後味に残らなかったけれど、今は慎重に作り上げられたチャーハンという味も、市販の濃い目のスープの味も確かに感じる。交互に口に運び咀嚼するたびに、五感が反応して食事をしている実感は湧いていた。ただ、葉山の心は一切動かない。