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プライドと選択

『好きなお店はたくさんあるけれど、今は閉店してしまった「アポロン」という喫茶店、すごく良かったな。野菜にこだわったメニュー作りも良かったし、食後のコーヒーも美味しかった。でも途中からオーナーが変わったのか、全然違う店になっちゃってそれで閉店でしょ、すごく悲しかったなぁ』


 三保(ミホ)が「辛口日和(カラクチビヨリ)」というブログを欠かさず読むようになったのは、この投稿を見かけてからだった。仕事の関係上、食べ歩きを頻繁にアップしているようなブログはたとえ素人のものでもなるべくチェックするように心がけていた。「辛口日和」はその中の一つではあったけれど、格段にその頻度が上がったのは、珍しくお店批評をしていない日の記事だった。もちろん、別の店という可能性もあり得る。ただ、半分くらいは2年で閉めることになった自分の店のことではないかと信じていた。


 一度直接メッセージを送ろうかと考えたこともあった。ただ、今さらすでに無くなってしまった店の、何を伝えようというのかと思い、そのままになっている。


 ただ、普段は辛口に終始しているブログの、ふとした温かい言葉は胸に迫るものがある。かつての自分の店が「無くなって悲しい」のだとしたら、それほど自信になるものはない。今はもう忘れそうになっている自分の店への未練を思い出させてくれるのは、唯一「辛口日和」というブログだけになった。他の辛辣な意見を目にするたびに、「この厳しい舌を持つブログの管理者はアポロンには温かい気持ちを持ってくれていた」という誇りを感じてしまうのだ。もうそれは本人に確認していないからこそ、自分の店だと勝手に思い込んでいることも含めて。


 かつての三保は、可愛く自分に寄り添うことを承諾してくれた女とともに、理想と思い出の詰まったあの店とともに年を取っていくつもりだった。

 立ち上げの時に練り上げたメニューは、珍しい野菜を仕入れ、彩りも計算し、季節によって味付けを変えていくことも考えていた。その情熱は本物であったはずなのに、様々な雑事に我を失った。

 当時の三保はもっと店に没頭したかった。頑張って努力して美味しいものを出しさえすれば何とかなる。そう信じていたのだ。

 疲れ果て、いよいよマズイとなった時に、ぷっつり彼女と連絡が取れなくなった。店の後始末に忙殺されるうちに、女のことは頭から消えて無くなっていた。


 ただ、今になって思い出す。彼女がしょっちゅう「気になることはちゃんと言ってね」「これでいい?大丈夫?」と三保に言っていたことを。別に彼女は強引にものを進めていたわけではない。常に三保に確認していたというのに、無駄な争いはしたくないと全て飲み込んでいたのだ。

 今さら図々しいけれど、もし誤解が解けるのならば、ちゃんと顔を見て謝りたい。でもそれもきっと、自分の気を楽にしたいだけのエゴなのだろう。


 三保は久しぶりに、駅前の野菜が自慢のスーパーに買い出しに行った。選りすぐりの野菜のエリートたちがつやつやと光を放って、自分を迎えてくれる。内側から弾けるようなその生命力に、勝手にワクワクしてくる。

 三保は肉も魚も大好きだ。ただ、やはり一番自分が得意とする料理は野菜だった。それもささいな塩加減で味が大きく左右されるような、ナーバスな調理が好きなのだ。

 今日はフライパンで丁寧に蒸してみよう。野菜の特性を生かして、それぞれに蒸し時間をずらし、塩と胡椒とオリーブオイルだけで素材の旨みを存分に引き出すのだ。原価や売り上げ、客の出入りなどを一切気にしなくてもいい料理は気楽だ。ただ味だけに没頭していられる。


 でも店を成り立たせるにはそれだけではダメだということを三保は食べ歩きを通して、嫌という程感じていた。ありったけの食材を使い、贅沢な店造りを可能にできる料理人など一握りしかいない。大抵は経営を成り立たせることを前提に、自分の理想を実現しうるギリギリのラインを探ってとにかく店を維持する。もしそれが困難なようであれば、自分に合うレストランを探し、経営のことは人に任せ、料理人としてだけ思う存分腕をふるうに限る。


 ただ一度感じた「自分の城」という感触は忘れられないもので、もし今度店をやるならあんな場所でこんな内装にしたい、と想像ばかりは膨らんでくる。それは失敗から遠のけば遠のくほど、より鮮明になってくるのだ。

 おかしなもので、現場から離れて久しいからこそ店についてよく考えている気がする。それは今三保が選んでいる仕事ゆえかもしれない。


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