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葉山の決断

 奈津(ナツ)が帰ると、葉山(ハヤマ)がおにぎりを握っていいた。「おかえり」という声が心なしか弾んでいる。


「珍しいね、おにぎり作るなんて」

 作ると口にしてから、葉山はもう何年もおにぎりを握ることすらしていなかったと奈津は実感した。

「シャケを焼いて中に入れてみたんだ。あんまり脂乗ってないシャケで味が薄いけど」

 奈津は呆然とする。こんなに饒舌な葉山は久しぶりだった。一緒に暮らし始めてからも、料理は二人にとって作業に過ぎなかった。食欲を満たすというだけの作業。

 ガス台の上を見ると、フライパンに乗った卵焼きが見える。

「卵焼きの元ってあるんだよ、今。便利だね」

 視線の先を取り繕うように、葉山が付け足す。

「何だか、朝ごはんみたい」

「そうだよね、ごめん。これにスープつけようと思って」

 フリーズドライのスープの素をテーブルの上に置いて、葉山は最後のおにぎりを皿に乗せた。葉山の表情を見ながら奈津は戸惑う。彼に何か起こったのだろうか。これまで常に内心と戦ってきたような素振りを見せていたのに、今日は一切の壁が取り払われている。


「さ、食べよう」

 向かい合って手を合わせた。いつもの食事なのに奈津は目の前に並ぶ食材たちが、生き生きと波打っているように見えた。

「あのさ、奈津。今日出してきたよ」

「え?何を」

 スープを口に含みながら、その熱さに喉をすぼめていると、葉山と目があう。


「婚姻届。二人で書いて、出そうって言ってただろ。預かってたから、俺」


 え、声にならない叫びが喉元に引っかかって出てこない。

「結構美味しいなぁ。おにぎりって多少の難は隠すよな。こんなシャケでも美味しい」

 饒舌な葉山が急に遠く感じる。今、この人は何を言ったのだろう。

「婚姻届って?」

 葉山は卵焼きを頬張り、スープを口に含む。その表情は穏やかだった。

「料理すること、俺は仕事として充実感感じてたよ。けれど趣味じゃないし、生きがいでもない。だから平気だったよ、舌の感覚がどうなったって、そんなの困らない。奈津と生活していく上では」

 葉山はもう一つおにぎりを手に取る。

「俺には畑がある。いろいろ悩んだし、迷いもしたけど、でもやっぱり俺には畑しかないってようやく思えたんだ」

「ねぇ!答えて。婚姻届って、何」

 奈津の声は悲鳴に近かった。心臓から飛び出る衝動を抑えるのに必死だ。


「なぁ、奈津、お前らはずるい。あの三保ってやつもそうだ。人の作ったもん、好き勝手に評価して、外側からいい気になって見下ろしてる。俺は認めない。料理人をけなしたければそうすればいい。でもお前は違うだろう?俺のために料理に関わってくれたんだろう。辞めろよ、あんな仕事。君には似合わない」

「三保さんは、違う。私とは全然違う」

 三保のうつむいた姿を思い出す。奈津は葉山の言葉がじっとりと胸に降りてくるのを感じたけれど、何一つ響かない。

「俺は三保のせいで、あんな自惚れてバカみたいなことになった。料理人として真面目にやってただけだったのに」


「違う、あなたは料理人なんかじゃない。ただ調理してただけだったんだよ。だからそんな風に」


 奈津はとうとう一線を越えてしまった。ああ、しまった、と思うと耐えられず立ち上がって椅子を蹴飛ばした。掴んだバッグの中身がばらまくのももどかしく、部屋を飛び出す。



 三保(ミホ)は冷蔵庫から取り出した瓶から、きゅうりとパプリカ、ベビーコーンのピクルスを箸で取り出した。浅く浸かった野菜たちを口に含むとぽりぽりと実にいい音がした。

 そこでスマートフォンが震える。ビールを持つ手を止めて表示を確認すると「藤堂奈津」と見えた。

「ごめんなさい、今、駅にいる。最寄りの」

 スピーカーにした画面から奈津の声が弱々しく立ち上った。三保は「最寄り駅?」とどこか他人事のように繰り返すと、「この前聞いてたから、知らないうちに、勝手に来てた」とまた奈津の声が漏れる。ただ事ではない雰囲気に三保は立ち上がった。

「迎えに行くから、そのままで」

 部屋を飛び出し、小走りで駅に向かうとポツンとロータリーにしゃがむ奈津を認めた。

「藤堂さん?」

 ふっとくしゃくしゃに涙に汚れた顔を上げると、奈津は三保の胸に飛び込んできた。彼女らしくなく、すべてを三保にぶつけてくる。三保は考える間もなく、奈津を抱きとめた。


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