三保の革命
『辛口日和のグルメリーゼ様。先日は不躾なお誘い失礼しました。それで、一つ聞きたいことがあります。辛口日和で以前書かれていた、「アポロン」のことですが、』
三保はここまで書いて手が止まる。ただ、迷いを振り切るようにして、自分が営んでいたアポロンの詳しい住所と店の特徴を書き込んだ。
「三保くん、これ何ですか。記事がさし変わっちゃってますけど」
編集長が、努めて冷静に言葉を投げてくる。激昂したり、口調を荒げたりしない上司だ。
「ええ、でもこの店はあそこまで絶賛するほど上手くもないんで。そのうちシェフも変わりますよ」
「そんなこと聞いてないんですよ。支持した通りに記事を配置し仕上げてください。そんなこといちいち言わせないでくださいよ」
フチなしのメガネも、パリッと仕上がったワイシャツも、何もかもスマートで文句のつけようもない。その完璧な装いに、三保の気持ちはすっかり折れていた。
「元料理人だって聞いてますけど、諦めてライターになったんだったら気持ち切り替えるべきですよ。店側の下手な言い訳なんて知ったこっちゃないし、あなたはもう料理人じゃないんだから、彼らに成り代わる必要なんてないんですよ」
そう、自分は料理人ではない。諦めて別の道に進んだ人間だ。三保はとうとうと語られる現実に、まるで他人の履歴書を読んでいる気にさせられた。10年かけてうじうじと塞いできた傷を、またこじ開けられる。
「それでも無理です。ライターになりきることもできない」
呟いた言葉は、上司には聞こえなかったらしく「は?」と身を乗り出された。
そのまま一礼して三保は部屋を出る。「おい」という真瀬の声が追いかけてくるけれど、振り返る余裕はなかった。ポケットに入っていたスマートフォンを取り出し、震える指で画面をタップする。藤堂奈津という文字で指が静止する。
「おい、三保。あれはまずいぞ」
追ってきた真瀬が肩を掴んで揺さぶるけれど、三保は顔を上げることができない。だらりと下ろした手からは「もしもし、もしもし、三保さん?」という奈津の声が漏れてきた。
「三保、戻ってちゃんと記事を仕上げろ。辞めるんなら、それからだ」
三保はその場にしゃがみこんで、腕の中に顔を埋めた。もう料理人ではない、そのワードに自分がこんなにも激しく反応するなんて。
「そのまま振り切って、ここに?」
コーヒースタンドで、奈津と待ち合わせた三保は、どんな顔をしたら良いか分からず、うつむいたままで事の次第をぼそぼそと説明した。聞きとりにくい声を何度もリフレインして、ようやく奈津はため息をつく。
「確かに、三保さんの記事はらしくないし、ここ最近のウマイモンは変わっちゃいましたけど。でも上司のこと無視して出てきちゃうって」
奈津のくっきりとした瞳と、勝ち気そうな赤い唇を見ていたら、三保もじわじわと実感してきた。確かにまずい状況だ、これは。
「初めてですよ、社会人にもなってこんなバカみたいな」
「三保さんらしくないですよ」
料理人ではない、そんな言葉で脳みそが沸騰しただなんて格好悪すぎて言えない。
「もしかしてこれは、三保さんに料理に戻れって言ってるのかもしれませんよ」
奈津の言葉に三保の思考が止まる。
「誰が?そんなこと言うの?」
無意識にそう聞いていた。
「神様が、料理の」
奈津は迷うことなくそう続けた。
「君はなぜそんなことを、気楽に言うの」
奈津はコーヒーを一口含むと顔をしかめる。
「気楽になんかじゃない。私は誰も追い詰めたいわけじゃない。でも、誰かが言わなきゃだめだってこともあるでしょう」
三保は確かにすっかり諦めたわけではない自分を嫌という程自覚していた。
「正直に言う。怖いんだよ。二度と壊したくない、自分の夢っていうか希望っていうか」
三保は言ってしまってから、ああそうだったのかと冷静に聞く自分がいた。
「諦めてないとかごちゃごちゃ言わないで、さっさと言っちゃえばいいのに。俺はまだ料理人なんだって」
挑むような奈津の視線が刺さる。
「どうして君は」
三保は息を飲んだ。しまったと思うけれど、止められない。
「自分の恋人に言えないようなことを、俺に言うんだよ」
逡巡する時間があり、奈津は大きく息を吐く。
「何でかな、わからない」




