情熱か、平熱か
レトルトのカレー、材料を投入するだけの市販のソース、お湯を注ぐだけのスープ、チンするだけの冷凍食品。美味しいものはもう片手間で手に入る時代だ。安売りの時に買えば、いろんな調味料を揃えるよりもお得だし、味付けに悩む事もない。
葉山の料理への情熱はもう平熱を通り越して、すっかり冷え込んでいた。もともとの熱量も大した事はなかったのかもしれない。ただ、料理は自分には必要不可欠だった。自分が生きていく上で核となって葉山を支えてくれたからだ。客の満足そうな顔や、新メニュー開発の緊張感、どれもが生きている実感を葉山に与えてくれた。
だからそこが他人の持ち物であったとしても、他人の方針が介入していても、葉山は構わなかった。日々工夫を凝らしたメニューでもてなし、努力した分の報酬を得る。
なぜそれだけではダメだったのだろう。それは奈津への劣等感もあったかもしれない。快活で勘のいい彼女は、ホール担当として面接に来た時からオーナーのお気に入りだった。先輩からも可愛がられ、後輩からは憧れられた。容姿が整っているという点も、決して悪く思われない。笑顔を絶やさず生き生きとホールを泳ぎ回る彼女を最初はいいバイトが入ったなぐらいに思っていたのだ。
その彼女が恋人になってくれた時、葉山は胸が震えた。これまで何人かの女と付き合ったことはあったけれど、こんな風に自分から好きになって、大事にしたいと思える女は初めてだった。だから欲しかったのだ。彼女の隣にふさわしい自分というものが。
当時の自分には料理しかなかったにせよ、開発したメニューの爆発的ヒットがなければ、独立して店を開くというところまでは自惚れられなかっただろう。
ただ、婚約、独立という人生で大きな決断した時には、これからの未来がくっきり見えたと思っていたのだ。ただ、そこに続く橋は外された。何が理由にせよ、葉山は店をオープンするという決断も、奈津を妻に迎えるという勇気も削がれ、今でも中途半端なままだ。
材料を切り、市販のソースで絡めた後、そっと味見をしてみる。いつもと同じ味、こってりと舌に絡みつく甘辛い味付け。そこにはいいとも悪いとも言えない単調な味があった。
葉山は奈津の記事にはなるべく目を通している。なぜか彼女にそうとわからないように、書店に行って立ち読みまでして。そして彼女の辛辣な意見を目にするたびに、葉山は胸が震えるのだ。そこに痛みがあるとわかると、葉山はまた自分を戒める。今は無駄とも思える、思い上がらないように必死で自分を押し戻す感覚。
「おい三保、この店の評価おかしいぞ。指示した通りにやってくれよ」
三保はため息をつく。最近は仕上げた記事をやり直しさせられることが多い。
三保を雇ってくれた時に在籍していた編集長は会社を去り、代わりに就任した男は数々の低迷した雑誌を復活させたという華々しい経歴の持ち主だった。若干35歳。何もかもが三保とは違うレベルに達している。
「徹底した経費削減と、ぶれないコンセプトで数々の雑誌に息を吹き込む異端児だと」
真瀬の集めた情報では、コンサルタントという肩書きで、主に出版社に入り、時には雑誌の責任者を一時期的に引き受けることにより、成果を上げているということだった。
そいつが来てからというもの、とにかく売上最優先。取材で足を棒にするよりも、いかにコストをかけずに効率良く仕上げるかに重きを置いていて、先月も方針に合わないと記者が1人辞めていった。
確かに経営が立ち行かなくなればいくらいい記事を揃えても意味がない。両方がバランス良く、できれば潤沢な資金を確保しながら内容を充実させていくのが一番いい方法だ。会社の方針に従えなければ、辞めるしかない。
三保は先月、ほぼ内容の決められた特集の決まりきった内容の文章だけを担当させられた。さすがに気持ちが悪く自腹で確認しに行ったけれど、行かなければよかったと思うほどに三保の意見と食い違う内容を書かなければならなくなった。
「お前の意見はどうでもいい。とにかく言われた通りに仕上げてくれればいいんだ」
そう新編集長からあっさり斬られ、敢えなく退散。しまいには「人気ブロガーに声かけてよ。雑誌で書かせてやるって言ったら、ああいう奴らは安い報酬でホイホイ書いてくれるぞ」とまで言い放った。三保はやけになりながら、「辛口日和」を立ち上げる。血が上った脳みそが冷静になる前に、メッセージを送るボタンをクリックし、素早く書き込んだ。「弊社の雑誌で食べ歩きの日記を書きませんか」。送信。
飛んで行ってしまった飛行機はもう戻れない。