素顔と告白
「でも読者は店側の事情なんて知ったこっちゃないんですから、それでいいんじゃないかって」
藤堂奈津の言葉は吹っ切れたように堂々としていた。
「私はそう言いきれないところがあります、料理人の経験もあるので、どうしても店側のことも考えてしまう」
「え、そうなんですか」
奈津の瞳が驚きで見開かれる。三保はつい余計なことを口走った後悔が早くも胸に去来していた。
「まぁそんな自慢するほどの過去でもないんですが、店をやって、結局だめで潰しました」
口の中に広がる苦味は、コーヒーのせいかわからない。
奈津が押し黙って、すでに飲みほしたプラスチックのカップを名残惜しそうにストローで弄ぶ。
「そうですか、それで野菜のムースに注目してくださったんですね」
注目してくださった、その言い方に三保は「知り合い」に対する親しみを感じる。おそらく野菜のムースの料理人は奈津の恋人なのだろう。
「その野菜のムースの彼は、今は」
「いろいろあって料理人を辞めることになって。今は野菜を作っています」
三保はそこで口をつぐんだ。自分も「いろいろあって」店をたたみ、仕事として料理を作ることから離れた人間だ。他人が立ち入ることではないのだろう。
「その人、実は原因不明なんですけれど、突然舌の機能がおかしくなって、それで料理を作れなくなったみたいなんです」
ああ、入ってしまった。三保は急に居心地が悪くなる。他人の深い事情に入るのはあまり得意ではない。自分も痛い腹があるからだろうけれど、ズケズケと入り込んであれこれ言うのは好きではない。
「なんてすみません。急にこんなこと言われても困りますよね」
よほど三保が困った顔をしたのだろう。奈津は察して瞬時に笑顔を作った。もしかして、何か相談したかったのか。三保が昔料理を作っていて、今は作っていないことに関して、もう少し突っ込んで聞きたかったかもしれない。ただ、三保がそれを拒否し、それを奈津は察知した。
「美人を恋人にするってどんな気分かなぁ」
真瀬がいつの間にかまた隣に座って、うっとりと息を吐いている。どうやら自席のコーヒーを取ってまた戻ってきたらしい。
「これまでの自分の恋人を堂々とけなすな」
「けなしてなんかないけどさ、気が強くてあそこまで美人だと気後れするなぁ俺だったら」
三保は奈津の顔を思い出す。辛辣な口調からは想像もつかないほど柔らかな印象だった。
「記事と本人とは違うかもしれないぞ」
「お、なになに。早速また自慢ですか。美人の素顔に俺は触れたぞ、みたいな」
ランチの誘いを断るために、奈津とのランチの事をつい言ってしまったけれど、三保は早くも後悔した。こいつは妙なところに引っかかる癖がある。
「彼氏ってどんなやつかなぁ。本当に料理人だったら辛いなぁ」
「何で?」
「あんなに味にうるさい美人の彼女がいてみろ。俺が料理人だったらいたたまれないね。褒められてもけなされても、本心かどうかわかんないもん」
「美人にやけにこだわるなぁ」
苦笑しながらも、三保は彼女の「私の人生に関わっている」という言葉を思い出す。もしかして三保に影響を受けて始めた仕事を後悔しているのではないか。
彼女の言葉をそのまま受け取れば、おそらく恋人だろう元料理人の男は今は野菜を作って暮らしている。舌の異常を感じ、料理人の道を諦め、他の職業についた男の恋人がグルメライター。男にとって感激すべき状況ではない。
三保は想像する。
三保は自分の舌を信じ、だからこそ料理に自信を持っている。ただそれは他人が「美味しい」と言ってくれるからこそであり、自分の価値観だけでは到底なしえないものだ。その他人の意見と自分の味覚に隔たりが生まれたとしたら、それはもう料理から見放されたとしか思えないだろう。或る日突然、自信が奪われる。それは想像を絶する苦しみだったに違いない。
「味にうるさい女がランチに誘った店ってどこ。俺だったら食べた気しないよ、そんなランチ。やっぱ無理だわ、グルメリーゼとは」
「お前は誘われてないけどな」
奈津が誘った店は、夫婦二人でやっている落ち着いた喫茶店だった。三保はどうしても「アポロン」を思い出してしまって参った。