天より出ずる水の巫女
ーーとある、人里離れた山奥の村に雨季が訪れた。
連日降り続く雨の中、一人の男が浴衣を着たままでうっそうと茂る草花の上に寝転び、身体中で雨を浴びていた。
天から舞い降りる光の雫が、休むことなく地面を打つ脈動を感じる。耳を傾ければ、水滴の一粒一粒が、それぞれまるで意思をもって音を奏でているようだ。さながら、自然の音楽隊といったところか。
音楽隊と言うのは、一度街に降りた時に、見世物小屋で見た異国の者たちのことである。奇妙な笛や太鼓を叩き、聞いたことのない音を立てて演奏していた。できることならば、もう一度見たいと男は考えていた。
雨は弱まるどころか、より強さを増す。ふと、男は気づく。雨の雫と言うものは、地面に落ちた瞬間からただの水となり、『雨』という名前を失ってしまう。よくよく考えてみると、なんて儚いのであろうか。しかし、儚いからこそこんなにも美しいのだ。男にはこの雨が愛おしく、長年連れ添った恋人のような感覚に陥っていた。
ーー目をこする。
余りにも長く雨を浴びていたからか、男には幻覚のようなものが見えた気がした。降り落ちる雨と一緒に、何か小さな虫のようなものが落ちてこようとしているのだ。
「あ〜〜〜〜れ〜〜〜〜!」
奇妙な声を出しながら落ちてくるその虫を、包み込むように手で収める。やはり見間違いではない。こうして手で触れることができるのだ。しかし男にはまだ、この不思議な虫の存在を信じることができなかった。見間違いではないかと言う気持ちが、男の頭の中の大半を占めていたのだ。
ゆっくりと包み込んでいた手を開く。
「もうっ! なんでもっとこう優しく受け取れないかな! 確かに僕みたいな可愛い水巫女が落ちてきて、目を奪われてしまったのは認めるよ! でもさぁ、もうちょっとマシな受け取り方ってものが......」
手を閉じた。
「ちょっと〜、なんで閉じるのよ! 開けなさいよ!」
よく喋る虫だ、と男は思った。しかしそれよりも、虫が喋るものか、と言う考えが頭をよぎる。自分を水巫女と話すその小さな虫は、数回しか行ったことのない神社で見かけた巫女の服装をしていた。一つだけ違うところといえば、青い袴を着ていると言うことぐらいだ。
渋々、もう一度手を開いた。
「あのさぁ、聞いてる? 僕は天より召されたありがた〜い存在なんだよ? お供えの一つや二つあってもいいんじゃないかな」
偉そうな虫だ、と男は思った。しかしながら、やはり自分は夢でも見ているのではないかと言う考えが男の頭を駆け巡る。男が生きてきた二十年の月日の中で、初めての出来事だったからである。
「これは夢だ。今日は雨に当たりすぎたらしいな」
「夢じゃない。僕は君の眼の前にこうして立っているじゃないか。どうしてこれが夢だと言えるのか、僕にはさっぱりだよ」
男の手の中にいる巫女の姿をした小人は、両手を左右に広げ、訳がわからないと言う仕草をした。
信じられない。しかし、やはり夢ではないらしい。その小人は、異国の民のようにもの珍しい青い髪が、腰の方まで伸びていた。こんな髪色は見たことがない。よくよく見ると、その小さな顔はクリクリとした目が愛らしく、以前姪っ子に買ってやった日本人形をほうふつとさせた。
「お前は一体なんなんだ。なぜ空から降ってきたんだ」
「そうだった! 僕はお勤めの途中だったんだ! こうしちゃいられない! ねえねえ、お兄さん。僕の足になってくれないかな?」
「突然空から降ってきた虫の、足になんてなる義理はない。それよりも俺はそろそろ家に戻らないと、仕事をサボってたのが親父にバレて怒られてしまう」
「親父さん、もうこの世にはいないよ」
突然、水巫女は感情の全くない喋り方でそう言った。
クリッとしたその目は輝きを失い、濁った沼のような色で宙を眺めている。
今までと違う小人の反応に、男の背筋に寒気が走った。
「どういうことだ? 親父がこの世にいないだって? そんなバカなことがあるか。親父とは、つい一刻程前に会ったばかりだというのに」
「もう一度言おうか? 君の親父さんはもうこの世にはいない、死んだってことさ。これはもうどうしようもない事実。そして、君はかなり運がいい。なにせ、神に仕えるエリート中のエリートである僕の足として動けるってことは、君の寿命が伸びたってことだからね」
「なにをバカな。まるで、お前と会わなければ俺は死んでいたとでも言うのか? そんな胡散臭い話、信じる訳がないだろう。そもそも親父が死んだというのも、ちゃんちゃらおかしな話だ。お前さては、最近山に出るという化けたぬきの類か」
「僕をそんな低級な化け物と一緒にしないでくれないかな。信じないなら信じないで、僕は一向に構わないよ。そもそも、僕は君を守るためにわざわざ天から降りてきた訳じゃないんだから。まあでも、ここは僕に力を貸した方がいいと思うけどな」
「そ、それは......」
男は次に吐く言葉が思いつかなかった。家へ戻ると死んでしまうと言う小人の言葉が頭の中を駆け巡る。全く脈絡がなく、信用性もほとんどない。しかし、現に自分の手の中で話をしているこの小人さえも、普通では考えられないことの一つだ。その小人が予言することが嘘だとは到底考えられない。という事は、やはり自分の親父はすでに......
ついには雨で濡れたこの浴衣のように、重くひんやりとした影が男の意識を包み込んでいたのだ。
「......わかった。お前に力を貸そう。しかし、一つだけ教えてくれ。お前はなぜ親父が死んでいるとしっているんだ? それに、親父を殺したのは一体誰なんだ?」
手のひらに立っている小人は、服の袖を口に当てフフフと気味悪く笑ったかと思うとこう答えた。
「シグレオニ。そいつが君の親父を殺した化物だよ」
気づけば雨は勢いを増し、もう一寸先さえ拝む事はできない。それはまるで、これから訪れる本格的な雨季の始まりを、予言しているかのような激しさだった。