敏雄という男
愛理は、とても手のかかる子供だった。
退院してきてからは毎日夜通し泣きわめき、私は一睡もできなかった。震えた手でミルクをあげながら眠る日々が続いた。生まれたばかりのころはまだ敏雄は単身赴任しておらず家にいたのだが、育児を積極的に手伝ってくれるというわけでもなかった。もちろん頼めば私に代わってミルクやおむつを仕事終わりに買ってきてくれた。でも、それだけ。愛理がいくら泣いていても「母の仕事だから」の一点張り。夜中一生懸命あやしているときに、「眠れないんだよ」とだるそうに言ってきたこともあった。
当時ベッドなんておしゃれなものはなく、二階の寝室で三人で寝ていた。眠れないならあやすの手伝ってよ、何度そういったことか。でも彼は聞こえないふりをして、イヤホンをはめて眠りにつくのだ。確かにあのころ敏雄の仕事は大変だった。でも、手伝ってくれないにしても、「お疲れさま」ぐらいはいってくれてもよかったのに。何度もそう思った。
「いい子だから泣き止んでねー… いい子だから…」
私は毎晩泣きながら愛理にそう呟いていた。
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いつからだっただろうか。愛理が「いい子」になったのは。
たしか、2歳ぐらいからだった。毎日泣きわめいていたことがうそのように、夜中ぐっすり眠るようになった。走り回れるようになってからも、行かないでといった場所には絶対にいかなかった。急激な変化ぶりに最初は戸惑ったが、そのうち何も思わなくなった。
(いい子だねって言い続けたから、いい子になったんだな)
私はそう思っていた。
そんな折、敏雄に転勤の話が出た。私は愛理をつれて転勤先についていくつもりだった。でも、それを告げると敏雄は一瞬だけいやな顔をした。そしてぎこちない作り笑顔を浮かべた。
「いいよ。僕も一緒にいたいけど、愛理がいると大変だろ?ちゃんと毎週戻ってくるから。高速乗れば二時間ぐらいだしさ。だから、ここにいな。」
私は黙って頷いた。でも、気づいていた。敏雄が愛理を疎ましく思っていることに。なぜだかわからないが、愛理は全く敏雄になつかなかった。だから私は、愛理と一緒に置き去りにされるのだ。そう思うと涙が止まらなかった。敏雄はあたふたしてはいたが、連れていくとだけは絶対言わず、転勤先に旅立っていった。
毎週戻ってくるから。
敏雄はあれから、一度も家に帰ってきていない。
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「はーい、ご飯ができましたよー」
「わーおいしそう!」
いつもと同じ、二人きりの夕食。今日はごはん、みそ汁、サバの味噌煮。もちろん愛理のは骨をとってある。毎月きっちりと振り込まれるお金。電話をすれば出てくるし、メールをしたら返事が返ってくる。でも。
(帰ってくる話になると、いつもうやむやにされてしまう…)
あつあつのみそ汁(愛理のは冷ましてある)をすすりながら、そんなことを考える。もう三年会っていない。思い切って愛理を連れて、転勤先の家の住所まで行ったことがあった。でも、そこに立っていたのは廃ビル。敏雄は、うその住所を私に教えていたと、そのときになって気づいた。
「あなたが言っていた住所に来たのに家がないんだけど、どういうこと?」
すぐに電話をかけ問いただした。
『ごめん、間違えたよ。えっとね、正しい住所はー…』
『ねー。誰と話してるの?』
受話器の向こうから聞こえる、知らない女の声。
「…知らない。」
『ちょ、まって友』ブツッ。
そのあとも何度も電話がかかってきたが、私は無視した。
浮気。
ありきたりな二文字が頭に浮かんだ。うすうす気づいていた。あとからあとから涙がこぼれた。そんな私を愛理は心配そうに見つめていた。
「おかあさん、だいじょうぶ?どこかいたい?」
「ううん、大丈夫よ、ごめんね愛理。」
すぐに敏雄から「あれは友人の彼女だ」という大量のメールが来た。
私は「わかった」とだけ送信した。だまされたふりをした。
愛理はこのときからますます「いい子」になっていった。