【On Deep Lake /中編】
聖都イグニア:イベント
8/24診断結果『【上陸戦】[圧勝]手当て、長期戦、偽装』
与えられたのは手桶一杯の水に、気持ちばかりの薬と包帯だけだった。部屋には寝台もない。それでもエリアスは淡々と、手際よく処置を施していく。深い傷、古い傷から順番に。
それを腕組みして観察していたエドワルドがふと口を開いた。
「慣れていますね」
「……『これ』を、ずっと自分で手当てしてきましたから」
エリアスは治療の手を休め、顔の右半分を覆う前髪を掻き上げて見せた。幼い頃の大きな火傷の跡。エドワルドは「おや」という顔をした。嫌悪でも同情でもなく、軽い驚きだけのようだった。
会話はそこでとぎれ、エリアスは作業を再開する。
そうして、これは戦闘で負ったらしい腕の切り傷に包帯を巻き終えたときだった。
「!」
ジークが身動ぎした。うっすらと目が開く。橄欖石色の瞳がうつろにさまよった。言葉を交わすことは事前に禁じられていたため、エリアスは黙ったまま自分の仕事を続けた。
そこへエドワルドが薄ら笑いと共に歩み寄ってきた。
「お目覚めですか、ジーク・ソルダート殿。気分はいかがですか。ああ失礼、いいわけがありませんね。かつての部下に、それも離反した『元』部下に、こうも痛めつけられてはね」
ジークは反応を見せない。エリアスもまた、沈黙のうちにすべてを終わらせた。
「――これで、ひとまずは」
桶をわきにどけて立ち上がる。
その一瞬。ジークと視線が合った。
「ではエリアス殿、あなたはこちらへ。騎士長殿にも部屋へお戻りいただきましょう」
エドワルドに促されてエリアスは部屋を出た。入れ替わりに3人のアグリア兵が部屋に入っていった。
「空いている個室がまだあったはずです。ご案内しましょう。しばらくの間は護衛をつけさせていただきますが」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「その前に、確認しても良いですか」
湿ったにおいのする廊下の途中でエドワルドは立ち止まった。
「身体検査の際、ひとつだけ引き渡しを拒否した物があったそうですね。大したものではなかったのでお返ししたと聞いていますが、念のため、私に見せてください」
「これですか」
エリアスは上着の隠し縫いからそれを取り出した。
手の平よりも小さい、枯れ葉のような薄茶色の断片だった。透かすと半透明で、虹色の光沢が現れる。
「鱗……?」
「パートナーだったドラゴンの鱗です。彼女はこちらへ来てくれませんでしたので、せめてこれだけでもと、ゆずってもらいました」
「なるほど」
「これは笛にもなるんです。こんな風に」
ぱくりと口にくわえて見せる。息を当てる。うまく調整ができたところで、キン、と金属音にも似た高い音が響き渡った。
「失礼。屋内向きの音ではありませんね。それ以上は外でどうぞ」
エドワルドが遮った。エリアスは肩をすくめ、また鱗をもとのようにしまった。
「すみませんでした」
「いいえ。……まずは簡単に砦を案内します」
そう言われて案内されたのは、やはり差し障りのなさそうな場所ばかりだった。食堂、作戦室、下級兵士の共同部屋。エリアスには個室をあてがうというが、つまりは警戒の現れだろう。
「他に知りたいことはありますか」
その個室の前でエドワルドに問われた。即座に、エリアスは答えた。
「屋上には出られるのでしょうか」
「一応は。今から?」
「『これ』の練習ができればと」
エリアスは例の鱗を指さした。
少しの間、エドワルドは無言でこちらを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そうですか。まあ、夕食までの間であれば」
「ありがとうございます」
「私もご一緒します」
エドワルドが先に立った。屋上へ続く階段は少し離れた場所に、隠されるようにしてあった。二人がすれ違うのがやっとという狭い階段を上がっていく。と、不意に前方がぽかりと開けた。
外に出ると湖からの冷たい風が吹きつけた。胸までの高さの囲いに歩み寄る。眼前に広がるのは広大な泉と、その向こうにそびえる霊峰。しかし惜しいかな、絶景と褒め称えていられるような状況でもなかった。
さらに視線を下げていくと砦の全貌がうかがえた。
円筒形の砦は泉の岸を離れて建造されている。それを、砦の半分ほども高さのある分厚い塀がぐるりと取り囲んでいた。内側に水はないが塀も背が高い。泉から船で接近したとして、塀を登るには骨が折れそうだ。
加えて砦の上部階には、竜弩をはじめとした射撃用の武器がずらりと配置されている。その数は通常よりも遙かに多い。ドラゴンを置かない代わりにドラゴンさえ寄せつけない。それが、ウォルプタースの砦だった。
ざっとそこまで見て取ってから、エリアスはそっと鱗を口にした。
曲はあまり多くを知らない。昔聞いた子守歌くらいのものだ。おぼろげな記憶を頼りに、切れ切れに音を発してみた。
「……下手、ですね」
しばらく聞いていたエドワルドだったが、やがて含み笑いと共にそう言った。
「私は先に下りています。鐘が聞こえたら夕食ですので」
続いて階段を下りていく気配がした。
エリアスはそれを無視して音を紡ぎ続けていた。甲高い音は空気を切り裂くように、泉の上をわたっていった。
* * *
「それで、どうなのだ。あのエリアスとかいうのは」
「はっきりとは申し上げかねますが、今のところは、特に」
深夜。エドワルドはルースに呼びつけられた。用件はもちろんのこと、くだんの亡命者についてだった。
「ジーク・ソルダートの治療の際も夕食時も。そして先ほど彼の部屋をのぞいてきましたが、おとなしく眠っていたようです。いったい繊細なのか図太いのか」
「あやしい動きはないのだな」
「一度屋上に上がらせましたが、イグニア側と連絡をとっているようでもありませんでした。もっとも光信号による交信をしようとしても、フィアフィルとの距離を考えれば、おそらく難しいでしょうが」
ルースは「ふむ」とうなったきりで、面倒くさそうに手を振った。
「ならば良い。問題があれば報告しろ。場合によっては、殺せ」
「了解しました」
エドワルドは上官の部屋を辞した。
そして扉を閉めるなり、嘲るようにつぶやいた。
「まったく、さっさと援軍を要請しておけばこのような憂いはなかったものを。手間が増えた分の特別手当でもいただきたいくらいですよ……」
* * *
夜が明けた。とはいえフィアフィルに遮られるため、日が見えるのはしばらく先だ。
夕食は個室へ運んでもらえたが、さすがにエドワルドもそれ以上こちらにかまっていられないようだった。エリアスは1人、のんびりと食堂へ向かった。
扉を開くと、ざわりと妙な空気が流れた。当然といえば当然だ。ま正面から堂々と亡命を願い出た元イグニア騎士を、砦内で知らぬ者はもういないだろう。
しかしそんなことをいちいち気にしてはやっていられない。エリアスはそ知らぬふりで料理の皿を受け取り、めざとく長椅子の隙間を見つけてまっすぐに歩み寄っていった。
「隣り、いいですか」
先ほどからこちらを盗み見ていた、若い女性兵士声をかけた。彼女はぱっと頬を染め、あわて気味に立ち上がった。
「どうぞ! 私はもう終わりましたから!」
「ありがとうございます」
ふわりと微笑んで見せた。すると彼女はますます顔を赤らめた。
悪くない反応と見て、エリアスは耳元に顔を寄せた。
「すみません。このあとのご予定は?」
「えぇっ……あの、今日は遅番なので、しばらく休憩で……」
「そうでしたか。まだここの流儀がわからないもので、いろいろ教えていただきたかったのですが。お休みのところを邪魔するのは申し訳ないですね」
「いえっ! 私は別に……!」
「そうですか?」
衆目があるので長くは話せない。もう一言だけ、そっとささやいた。
「後ほど、屋上へ続く階段の前で」
「! はいっ」
逃げるように彼女が去ると、何やら痛いほどの視線が集まるのを感じた。それもかまわず席につく。そこへ。
「おい」
うしろから肩をたたかれた。
数十分後。
彼女は約束の場所でそわそわと歩き回りながら待っていてくれた。そのうちこちらに気がつくと、大きく目を見張り、手で口を覆った。
「どうしたんですか、それ!?」
「軽く殴られただけですよ」
よくあることと笑って言い添えながら、エリアスは切れた唇を指で拭った。
実際のところ、五人ほどに呼び出されて囲まれただけだ。そのくらいのことはあるだろうと踏んでいたため策は講じてあった。
「心配ありません。エドワルドさんに場を収めていただきましたから。笛を使って呼んだので『犬を呼ぶような真似をするな』とボクも怒られましたけど」
「あ……あは、なんですか、それ」
女性兵士はなんとも複雑そうに笑い、下から顔をのぞき込んできた。
「でもやっぱり、手当はした方がよくないですか。せっかくのお顔に跡が残っちゃう」
「せっかくの?」
「ああっ、いえ……とにかくですね!」
「手当てしてくださるんですか? ありがとうございます」
エリアスは彼女の手をさりげなく握った。びくりと硬直した彼女だったが、抵抗する気配はなかった。
「今さらですみません。お名前を聞いてもいいでしょうか」
「私、マーガレット、です。皆にはマギーと」
「エリアスです。それではマギー、良ければボクの部屋まで来ていただけますか」
彼女は何度もうなずいた。エリアスはそんなマギーの手をそっと引いた。
* * *
あっという間にまた夕暮れ時がやってきた。
エリアスは茜色に染まった屋上に上がり、前の日と同じように、ゲアマーテルの鱗を笛にして、とぎれとぎれに子守歌を奏でていた。
その合間にマギーから得た情報を反芻する。下級騎士だという彼女からも、いくらかは興味深い話を聞くことができた。
兵士達について。マギーは弓兵であり、他の者も主に弓や竜弩に特化した訓練を受けている。砦の内部構造。泉はそれなりに深く、礎石を安定させるために地下階は造られていないらしい。
そして、ここ数日砦の中間階に入り浸っているルース隊長のこと。その中間階に他の騎士は許可なく出入りを禁じられていること。隊長殿の過去の因縁にまつわる噂。これらが示すのは、つまり……
「エリアス殿」
唐突な呼び声に、エリアスは笛を吹きやめた。ふり返れば、あきれかえった表情のエドワルドがいた。
「はい。なんでしょう」
「あなたはご自分の立場をわかっておいでですか? せめてもう少しおとなしくされた方が良いのではないですか」
「なぜそのような必要が?」
「イグニアの襲撃があるのではないかと、ただでさえ皆が浮き足立っています。そこへいらぬ火種を投げ込むのがどれほどのことかはおわかりでしょう。そんな一銭の得にもならないようなことはやめるべきです」
「ああ、すみません。ボクはそんなつもりはなかったのですが」
しゃあしゃあと言い切って頭を下げる。エドワルドのため息が聞こえ、エリアスはそれを上目に窺った。
「ですがもうじき、軍都の援軍も着くのでしょう」
「そうですね。明日の夜、ようやくです」
「……噂を聞きました。ルース隊長はジーク・ソルダートが亡命した後、彼の率いる軍に大敗したことがある、と。軍都中央府への報告は、『わざと』遅らせたのですか」
まずは沈黙が返った。
エリアスは顔を上げる。エドワルドは特に感情の動きも見せず、さて、と首を傾けた。
「否定はしません。公然の秘密といったところです。ですがご本人の前でそれを口にしないように。殺されますよ」
「やっぱりそうだ。エドワルドさん。あなたの方が、あの隊長殿よりもよほど大局が見えている。尊敬します。早く昇進されることを願ってやみません」
矢継ぎ早に褒め称えながら握手を求めにいったところ、エドワルドはさりげなく体を引いて拒絶を示した。むしろ気味悪げに眉をひそめ、若干いやそうな顔をしていた。
「私はもう戻らなければなりません」
「ボクも何かお手伝いをした方がいいですか?」
「まず第一に、邪魔をしないでください。もう少しならここで笛の練習をなさっても結構です」
「いいんですか。それは嬉しいな」
「そうですか。では」
エドワルドは足早に去った。
残されたエリアスは、気配が完全に消えるのを待って、つぶやいた。
「明日の夜……か……」
フィアフィルに目を向けた。霊峰はただ静かにたたずむばかりだった。『何か』が起きそうな気配はない。本当に何も起こらなければ、このままジークは軍都へ移される。
だが……本当に?
視線はフィアフィルから離さずに、エリアスはゲアマーテルの鱗を空へとかざした。
* * *
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