【紅の記憶・5 ―恩人・後編―】
聖都イグニア:通常作品
今回のフィデリオ隊の任務は、アリエーヌム森林地帯の奥にある水源で水辺ドラゴンの生育環境を調査することだった。少数編成だったため、イグニアとの交戦は可能な限り避けるように行動してきた。
その甲斐あって調査は無事に終了した。偽の情報にまんまと乗せられたイグニアの部隊が、実際のこちらの居場所とはまるで見当違いの方へ向かったという報告もあった。だから本当なら、接触を避けつつ予定通り帰還すれば良かったのだが。
『我々はイグニア本陣へ偵察に行く。叩けるようなら叩いておくべきだ』
調査中に竜騎士の一人、ヴェレーノが言い出して、部隊長のフィデリオが止める間もなく飛び出していった。
三人が彼に従った。アラム、エンティエロ、シュトローマン。いずれも戦闘行為を避けよと指令が下った時にやけに不満そうだった面々だ。
エミリアからすれば「何を考えているの」とでも言ってやりたいところだった。迷惑な話だ。彼らのおかげで隊全体でも戦闘を視野に入れざるを得なくなった。
フィデリオ隊は彼らを拾うために、予定していた進路を変えて森を進んでいる。エミリアも馬の背に揺られながら、少し前を駆ける騎士長フィデリオの様子を窺った。生真面目な騎士長の表情は険しい。
少し前の斥候によれば、イグニアの本隊と本陣は分断しているとのことだったが――
思い返しながら空を仰いだエミリアは、ふと、異変に気がついた。
「信号煙……!」
細く立ちのぼる煙の赤はアグリアで使用しているものではない。記憶違いではなければ、あれはイグニア軍が自陣への襲撃を伝えるものだった。
ぱっと前を見ると、フィデリオが兜の下できつく眉根を寄せ、声を張った。
「速度、上げ!! 戦闘に備えろ!!」
◇ ◇ ◇
身体強化のおかげで痛みはそれほどでもない。しかし力の入らなくなった脚は勝手に折れて膝をついた。
「うわ、わっ」
怯えた声と金属音が重なる。高く飛ばされた剣が木立の中に落ちて見えなくなった。得物を失った少年に向かいエンティエロが斧を振り上げる。
エリアスはとっさにダガーを放った。斧を持つ腕に刃が突き刺さり、落ちる方向のずれた斧がざくりと地面を抉る。
「行け!!」
はっとした様子の少年騎士が足をもつれさせながらも走り出す。同時に皮肉っぽい声が聞こえた。
「他人の心配をしている場合か?」
とっさに身をよじる。投槍が頬と上腕に浅い傷を刻んだ。
三本目は、見切って捉えた。くるりと返して穂先を持ち主に向ける。するとアラムは楽しげな、しかし毒のある視線で見返してきた。その後ろではヴェレーノが笑っている。
「せっかく手に入れたドラゴンがもう駄目になった。どうしてくれる」
「そう責めるな。待ちに待った獲物だ。この場に本隊不在とは聞いたが、兵糧さえ到着前とは予想外だったからな」
「これほど楽に制圧できると知っていれば、心配性の隊長殿も止めはしなかったろうに」
やはり、命令外での急襲か――
頭の片隅でそう思いながら、膝に手を置いて無理やり立たせようとする。まだどうにか動く。が、攻撃をかわせるほどでは、ない。
「非戦闘員が多かったようだな。逃げまどうばかりで実に退屈だった。貴様は連中よりももう少し骨がありそうだ」
ヴェレーノが手綱を引く。黒いドラゴンは声ひとつ立てずに動いた。
「せっかくだ。遊ばせろ」
とっさに跳ぼうとしてかなわず、身を低くして構えることしかできない。
「薙げ」
ドラゴンの長い尾が横面をはたいた。相当に手加減されようだが衝撃に脳が揺れる。こらえきれずに両手をつくと、頭上から含み笑う声と共に影が落ちた。
槍を握る手に、勢いをつけて軍靴が落ちる。さらに黒の手甲をつけた手が、まだ左腿に刺さったままの槍をつかんだ。
見上げるとアラムが口角を上げる。そうして、一気に槍を引き抜いた。
「――ッ!!」
中を引き切られる。離れた刃を追うように血が噴いて白い隊服を赤く染めた。
「シュヴァルツ。押さえろ」
それでもどうにか逃れようとしたところで、硬いドラゴンの足に背を踏まれ、強引に押し倒された。
「う、あ……あぁッ」
みしみしと骨が軋むほどの重さがかかる。肩には黒竜の鉤爪が食い込み、皮膚を破り肉を抉った。追い打ちをかけるように、槍を握っていられなくなった右手を丹念に踏みにじられる。
「やはりな。なかなか頑丈だ。狩りはこうでなくては」
「まったくだ……『あれ』のようにもろい獲物ばかりでは、つまらん」
同意したアラムの視線が動いた。
エリアスははっとして霞む目を凝らす。こちらへ歩いてくる二つの人影。その片方が何か大きなものを引きずっている。
ちょうど、ヒトの大きさの、何かを――
「仕留めたか」
「エンティエロが一撃でヤっちまったよ」
無造作に地面に投げ出された少年騎士の、のども顔も血に汚れ、目は大きく見開かれたままだった。思わずきつく歯噛みする。衝動のまま無理やり左手を伸ばし右手の下にある槍を取ろうとした。ともかく、武器を。
しかし。
「武器がほしいなら、これを返そう」
エンティエロが言って、不意にアラムの足がはずれた。と思いきや、イグニアの紋のあるダガーを手の甲に突き立てられた。
体が大きく跳ねた。それに反応したのか余計に竜の爪が食い込み、灼けつくような痛みが襲う。上げかけた声がのどの奥に絡まり、じわりと汗が滲む。このままでは。
「自慢の盾はそんなもんか、イグニア? そんなわけないよな? 徹底的にたたき壊すまではくたばるんじゃねぇぞ?」
「悠長に、構えていて……いいんですか」
圧迫に耐えながら発した言葉はひどいかすれようだった。それでも正面にしゃがんでのぞきこんできたシュトローマンに強い視線を投げる。琥珀の眼が怪訝そうな色を映し、一度ヴェレーノに向けられた。
「なんの話だよ」
「敵軍来襲の信号煙を、上げました。じきに、イグニアの本隊が、ここへ来ます」
「! あの赤いやつか!」
「苦し紛れのはったりはやめることだ」
狼狽したシュトローマンの上からヴェレーノの冷徹な声が降る。
やはり、騙されてはくれないか。
「あれは『襲撃、戻るな』の信号色だろう。そのくらいはつかんでいる。それにしても、まだ策を弄しようとする程度の気力はあるようだな」
気に入った。そうヴェレーノが笑い、他の者にも伝染っていった。対してエリアスはきつく眉を寄せ低くうめく。背にかかる圧力が一層増してきている。
もしこのまま、強化魔法が切れたら――
ぞっと背筋の冷えた、その時だった。
「貴様ら!! 何をしている!?」
怒号が響いた。かろうじて顔を上げると、歪んだ視界を、見る間に黒鎧の一団が埋め尽くしていった。
◇ ◇ ◇
フィデリオの大喝は、隊の中程まで下がっていたエミリアの耳さえ雷鳴のごとく打ち据えた。大激怒だ。
木立を抜け視界が開けたところでその理由は容易に知れた。設営途中の天幕の合間に点々と転がる白銀、濡れた赤。敵軍とは言えその状態はかなりひどいもので、エミリアは思わず眉をひそめた。
それにフィデリオが睨みつけている先、例の四人組の足下。ヴェレーノのドラゴンがイグニア騎士を組み敷いている。一見しただけでも私刑か拷問だ。まったくの無用の行為としか思えない。
「こちらへ、来い!!」
馬を下りたフィデリオの元に、渋々といった体で四人が歩み寄ってくる。ドラゴンが退いたところでイグニアの騎士は咳き込んだ。まだ生きていたようだ。
「ヴェレーノ・イネルティア。まずはこの状況を説明してもらおう」
「……イグニア本陣を発見した際、さほどの戦力は要していないと判断した。そのため、急襲をかけ」
「作戦内容!! 及び私がこの作戦の前になんと命じたかを復唱せよ!!」
フィデリオがヴェレーノの肩をつかみ上げた。エミリアからその表情は見えないが、きっと鬼の形相をしているところだろう。
整った眉をやや不快げにひそめてから、ヴェレーノは再び口を開いた。
「作戦内容、水源の調査。隊長の指令は『少数編成のためできる限り交戦を避けよ』であります」
「では、そのようにすることだ」
一転して低く告げ、フィデリオがヴェレーノを突き放す。その向こうで誰かが「平民上がりが」とつぶやいたようだったが、きっとフィデリオにも聞こえていたはずだが、それはそのまま流された。
「イグニア本隊が戻る前に帰還する! 騎乗!」
問答無用の命令だった。三名が馬を引きに走り、竜騎のヴェレーノは先んじて隊の横に並んだ。
全員が揃うのを待ってイグニア本陣――に、なりかけていた場所――を離れる。
しかしその途中、エミリアは、胸にわだかまるものをこらえきれなくなった。
「……フィデリオ様! 少しだけ、待っていただけませんか」
「どうしたオルドヴァル」
フィデリオに馬を並ばせる。どう説明すれば、許してもらえるだろうか。
「その、一度戻ってもいいでしょうか? できれば先ほどの現場の検分をしておいた方が良いのではないかと思います。今後『何か』あった時のための証明にもなりますし……」
最後の部分は極力小声で。目で後方の四人を示すと、フィデリオは思案するようにしばし沈黙し、ふとため息をついた。
「護衛は必要か」
「! いいえ、だいじょうぶです」
「できるだけ早く戻れ。もう少し先で待機する」
「ありがとうございます……!」
頭を下げ、急ぎ隊列を離れた。
ずっと気になっていたのだ。遠目に見ただけの、唯一の生存者。
意識はあったがひどく出血していたように見えた。あのままでは死んでしまうかもしれない。そう思うと、たとえ敵兵でもどうしても放っておくことができなかった。
――これって損な性分かしらね……
内心で自分に呆れつつも今さら引き返す気はない。
自分は医療者だから。その矜持を胸に、エミリアは再度、血臭の立ちこめる敵陣へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
右手からダガーを引き抜き、足を引きずりながら一番近くの天幕まで移動して、そこでとうとう強化魔法の効力が切れた。
内臓はおそらく無事だ。が、痛覚の通常化と強化の反動とで体がいうことをきかない。天幕の支柱に背を預けただけで激痛が走り、呼吸にさえ難儀する。
――馬は、もう無理だ。
朦朧とする意識を引き留めながら考える。この後生き残れる可能性はあるか、否か。
――本隊と後続隊から、まずは斥候が来るはず
――それまで体がもてば
――ただ、出血が
――高きものの爪にかかったのは
――なんとか止血だけでも
――反逆への相応の報いを
――できなければここで
――ああ、もう
肩を押さえていた右手から力が抜け、ぱたりと落ちた。鼓動に合わせ脈打っていた痛みも遠のいていく。少しずつ、意識が浸食される。
――疲れた……
流れ出る血が体から熱を奪う。その冷たさが、お前はもう消えるべきだと突きつけてくるようで。
町が赤く染まったあの夜に、縋れるものはすべてなくした。祈るべき存在にさえ刃を向けた今となっては、手を伸ばそうともどこにも届かない。わかっていた。もうずっと前から。
だから。罪にまみれたこの生は、もう閉じてしまえばいいだろうか。
「……さむい……」
吐息のようなつぶやきを最後に、呼吸がとぎれた。
その間近で、かすかに小石を踏む音がした。
◇ ◇ ◇
間に合わなかったのだと思った。若いイグニア騎士が目の前で動かなくなり、エミリアは落胆に肩を落とした。
戦争なのだから仕方がない――そう言ってしまえばそれまでだ。しかしなんとなくやりきれず、せめて状態を確認しようと歩み寄りながら、警戒することなど忘れていた。
「え――!?」
暗褐色の髪に触れようとした瞬間、大きく視界が揺れた。
ざくり。土を食む刃物の音が右耳のすぐ近くで聞こえ、眼前には深緑の瞳がある。避ける間もなく押し倒されたのだと、理解するなり心臓が跳ねた。
「いっ、いや……ッ」
「――……」
さらに上からのしかかられて悲鳴を上げかけた。が、彼はそのまま動かない。苦しげに浅い呼吸をくり返すばかりだ。おそるおそる肩に手をかけると、脱力して重い体がびくりと震えた。
「あ、あなた……大丈夫?」
幸いそれほど大柄な相手ではない。なんとか下から抜け出して、その背を見て、エミリアは軽く唇を噛んだ。
そもそもイグニアの白い隊服に血の赤は目立つが、それを差し引いてもひどい。すぐに止血する必要がありそうだった。
「大丈夫じゃ、ないわね。待ってて。すぐに手当をするから」
近くには天幕なるはずだったのだろう厚布がある。使えそうだ。ただ大きすぎるのでどこかに刃物はと見回すと、彼が左手にダガーを握っていた。
「これ、借りてもいいかしら」
触れようとするが、柄を握る手には力がこもり拒絶を表す。エミリアを襲ったところで本当に限界だったらしく、もう腕も上がらない様子だというのに。
「なにを……かんがえ、て……」
喘鳴に紛れそうなほど弱々しい声が聞こえた。エミリアは小さく息を吐いた。
「自分でもちょっとどうかしてると思うわ。敵を助けたなんてこと、ばれたら怒られるくらいじゃ済まないのにね。だけど……私は、騎士である前に医療者だから」
ここにいたのは、本当なら死ななくてよかったはずの人達だ。最後の一人くらいは助けたい。たとえ自己満足と言われようとも。
「だからお願い。その手を離して。あまり時間もないし、応急処置くらいしかしてあげられないけれど……」
つかの間の沈黙があった。そして、ダガーの柄からゆっくりと指が離れた。エミリアはそっとダガーを受け取り、すぐに包帯代わりの布を切り始めた。
作業をしながら、ふと思い出して身を震わせる。至近で垣間見た深緑は切迫していた。たぶん、向けられたのは本気の殺意だ。そしてそれだけではなく、焦燥と、何よりもひどく脅えたような色を感じた。それらの色がない交ぜになり――半ば狂気のように、自分の目には映った。
「少し痛むわよ」
それでも患者は患者だ。
自分に言い聞かせ、血まみれの体を抱き起こす。抵抗はなかった。さしあたり処置が必要なのは両肩と左脚、それに右手か。本当はしっかりと消毒したいところだがそこまでの余裕はなく、腰につけていた革袋から飲料用の水を落として洗った。
ある程度汚れが落ちたところで止血にかかる。彼は終始無言だった。時折体を強張らせながらどこかあらぬ方を見ている。それに気づいて、ひと段落したところでその先を追うと、彼よりもなお若い少年騎士の亡骸があった。
この距離からでもはっきりとわかる。あの少年の方は、もう。
「残念……だったわね」
思わず口にしてから、これほどむなしく響く言葉もないと思った。怒るだろうかと様子を窺うが、彼は、先ほどとはうって変わって感情の抜け落ちたような顔で、ただぽつりとつぶやいた。
「逃げてくれれば、よかったのに」
「自分を責めているのだとしたら、やめた方がいい。助けられないことなんていくらでもあるわ。悲しいことではあるけれど……」
最後に右手の傷に布を巻き追え、改めて正面から顔をのぞき込む。呼吸は少し落ち着いたようだ。深緑が動いてエミリアを捉える。その右手の近くにダガーを置き、エミリアは立ち上がった。
「ごめんなさい、私にできるのはここまでよ。あとのことは――幸運を祈ってるわ」
それなりに時間を使った。これ以上遅くなってはフィデリオが迎えをよこさないとも限らない。見られては、さすがにまずい。
彼は震える手でダガーに触れ、わずかに顔をしかめた。
「借りは、いずれ……どこかで」
「そんなことは気にしないで。あなたが生きて帰ってくれればそれでいいわ。それにこんな状況だもの。もしかしたら、私の方が先に死んでいるかもしれないし」
だから気にしないで。
くり返して離れようとすると、服のそでをつかまれた。ふり返ると、思いのほか強いまなざしに射抜かれる。
「必ず、返します。だからあなたも、それまでは、生きていてください」
一瞬気圧された。けれど、ふっと笑って言い返す。
「がんばってみるわ。一応ね」
手が離れたので背を向ける。散らばる遺体を簡単に確認し、エミリアは今度こそ、その場所を後にした。
◆ ◆ ◆
一方的に押しつけた約束を、エリアスは一年半経った今でもはっきりと覚えている。向こうがどうかは知らないが。
あれから彼女には会っていない。現実的にいえば、本当に借りを返せるかどうかあやしいものだ。七年前に、目の前でドラゴンを墜とし、自分を救ってくれた騎士と同じように――増して敵軍の騎士ともなれば、二度と会う機会はないのかもしれない。
それでも、どちらも忘れることはない。自分の中での決定事項だ。
「ここでいいわ」
もう帰るというアミンに騎士団の正門までつきそったところで、彼女はすいと離れてこちらに向き直った。
「急に押しかけたのに、話をしてくれてありがとう。……優しいのね」
「そんなことはありません」
苦笑しながら首を振る。するとなぜか、アミンが悲しげな顔になった。
「本気でそう思っているでしょう、エリアス」
「はい……?」
「あなたは優しい人よ。本当よ」
なぜ急にそんなことを言いだすのかわからず、「ありがとうございます」と返して軽く流した。
自分は優しいどころか自分の身ひとつに精いっぱいの、意志の弱い、どこまでも卑小な人間でしかないのだが。いつまで経っても何かをあきらめきれず、一度受け入れたはずの『終わり』さえ、ぎりぎりのところで拒絶するような――
「ごめんなさい……なんでもないわ。忘れて」
アミンが無理をするように笑い、二歩、三歩とこちらへ寄ってくる。
そうして不意に背伸びをした。
「!」
「また会えると嬉しいわ」
名残惜しそうに後ろへ下がり、くるりと背を向ける。軽い足取りで駆けだしてからはふり返ることはなかった。その後ろ姿を、エリアスは半ば呆然と見送った。
「……。どういう……」
唐突に唇を重ねられたこと自体よりも、「ドラゴンにも口付けという観念があるのだろうか」と妙なことばかりが気になって。
しかしすぐに、考えても仕方のないことと思い直した。ひとつ小さく息を吐いて、アミンが去った方から目をそらす。今ならまだ最後の座学講義に間に合いそうだった。
(続
【一部キャラクターをお借りしています】
11/14診断結果『【奇襲戦】[惜敗]負傷・兵糧・短期戦』を参考にしています。