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「と、二階の案内はこんなものか。まあ案内するところなんて風呂とトイレしかないしな。洗濯機の使い方とか、予備の石鹸の置き場所なんかはその都度聞いてくれ。それでは一階にもどるぞ」
庭と二階の説明をスラスラとこなして森治は階段を下りていく。案内開始から十分も経っていない。そもそも物が少なくて説明を必要とするものがほとんどないのだ。
「森治さん」
「トーコでいいよ。なんだ?」
「トーコさん」人吉は律儀に言い直し、「あとであいさつしようと思うんですけど、二階の方はいつごろ帰られるんですか?」
「誰も居ないよ。今ここに住んでいるのは私ときみの二人だけだ」
「他に誰もいないんですか?」
「一応六号室を貸しているが、貸しているだけだ。今は住んでいない。下宿屋を始めたのは最近でな。入居者募集中なんだ」
「そうなんですか」
「だが他の部屋も入居者は決まっている。来週にまた一人やってきて今月には四号室以外、埋まる予定だ」
「へえ」
一階に下りて、ここが最後だな、と先ほど通ったリビングにもどる。
「居間では特に何をしてても構わない。台所にあるものは自由に使ってくれていい。テレビは見るほうか?」
「まあ、ニュースていどは」言って、テレビの下に意外なものを見つける。「トーコさん、ゲームするんですか?」
そこには旧世代の据え置きゲーム機が埃を被っていた。ソフトのディスクケースも何枚か積まれている。
「それは前に住んでいたやつが置いていったんだ。捨てるのももったいないし、DVDも見れるから置いている。ゲームがしたいならしてもいいぞ」
埃の被り方からDVDを見ている様子はない。それをいえばテレビの前に置かれたリモコンももうずいぶん触れられていないようにも思える。
人吉はゲームをするほうではないが、ひとまずうなずいておいた。
「こんなもんかな」トーコは一息ついて、手近な椅子に腰かけ、「じゃあ、最後に一つ」と前置きする。
「これはここでの生活の基本なんだが、」
ゆるく両手を広げる。
「人吉……きみの叔父がここを『下宿屋』と言ったらしいが少し違う。『シェアハウス』って言い方が一番近い」
聞きなれない言葉が出てきて首をかしげる。
「シェアハウスってなんですか?」
「ルームシェアの家版」
わかりやすい説明だ。
「きみと私は同居人だ。どちらの立場が上ということはない。きみは居候でもヒモでもないし、私は大家というよりただの管理人だ。困ったことがあれば言えばいいと、それだけの話」
ああ、と人吉はうなずく。
「あくまでも共同生活ってことですか?」
「そういうこと。私が毎日掃除したり食事を用意したりするわけではなく、家事はあくまで分担だ。順番をどうするかはまだ決めていないが、それは追々で決めていこう」
そっちのほうが気疲れしなくていい。人吉としては気が楽になる話だった。
「それじゃあ案内はこんなもんでおしまい。家事については明日から教えるけど、何か質問は?」
「何も。ありがとうございました」
「どういたしまして。それではな」
そう言って、トーコは手をひらひらと振りながら自室の一号室に帰っていった。
人吉はトーコを見送ってから部屋に入ろうとドアを開ける。
と「そうそう」とトーコが振り返った。
「夕食は済んだか?」
「いえ」
「引っ越し作業で疲れてるところ悪いが、こっちも立て込んでてな。今日は駅前で適当に食べてくれ。もちろん台所を使ってもいい」
「となりの喫茶店は開いてないんですか?」
「悪いが臨時休業だ。明日の朝は開くから、朝食はあそこで取ればいい」
「わかりました」
今度こそ別れて、部屋に入る。
ダンボールが山積みになった部屋。荷解きに軽く五時間は持っていかれそうな荷物の数々だ。正面奥にあるのはガラス張りのベランダ窓。ダンボールを避けながら窓を開けて空気を入れ替え、外を眺める。目の前に庭があった。部屋から直通である。
庭の広さは幅五メートル、奥行き二十メートルというところか。車一台なら楽に駐車できそうだ。雑草すらまともに生えていない土の地面に、倉庫が一つある。庭というより空き地に近い。
窓を開けていると近所から夕食の臭いがしてくる。空腹感を覚えて腕時計を見ると時刻は五時を回っていた。
窓を閉めて、ポケットの財布を確認。入ってる。
「荷解きとかしたいけど、まずは夕飯かな」
部屋にあるダンボールをなるべく見ないようにしつつ、人吉は部屋を後にした。
□
人吉は歩くときに周囲を眺めるくせがある。集中力がないのか臆病なのか、自分でもよくわからないけれどつまりは暇潰しなのだろうと自分で納得している。
坂道を下りるとすれ違う人が増えてきた。それに合わせて街並みに現代的な建物が目立ってくる。坂道の上はまだ森林が残っているけれど坂道の下、駅のほうはもう自然が残っていない。自然といえば街路樹か公園の杉や桜くらいのものだ。不自然に配置された自然。ささやかで奇妙な矛盾。
人吉は公園を歩いていた。この公園を突っ切る歩道を抜ければ駅に出る。夕方の公園はまだ野球で遊んでいる子どもたちがいる。うらやましいような郷愁にかられて微笑ましい気分になる。のどかな夕方だ。日没はだいぶ遅くなって六時前なのにまだまだ明るい。
道のそばにベンチがある。人吉が目線を向けると、そこに小学生くらいの女の子が座っていた。小さな手には余るようなライトのスイッチをぱちんぱちんと鳴らしている。電池が切れているらしく、ライトはまったく点灯しない。
変な遊びをしていると思い、そういえば自分も子どものころはあんな他愛のない手すさびをしていたと思い出す。公園で拾ったゴムボールを自分の目の高さに投げ続ける、そんな暇つぶし。とはいえその行為にどんな意味があったのかという点は、たぶんあの子と全然違う。
そんなことを思い出しながらその子の前を通り過ぎてほんの十数秒。きん、と軽い金属音が聞こえてきた。
音のしたほうを見ると、野球をしている子どもがバットでボールを打ったらしい。野球ボールは空を飛んで行く。ホームラン。しかし、ボールの着地点にはベンチの女の子がいた。直撃コースだ。女の子は気づいていない。
「危な!」
人吉はすぐに判断して走り出した。一歩目から全力疾走。
野球をしていた子どもたちもボールの着地点に気づいて注意を叫ぶが間に合うはずもない。
目でボールを補足しつつベンチに走り寄る。ボールを受け止める自信はまったくない。下手にキャッチしようとすれば今度は自分の顔面に当たるだけだ。「となれば」と徐々に降下するボールに向かって手を突き出し力を込める。止まれ、と声に出さず命じる。その途端、ボールは一気に回転を失って空中で止まり、落下した。
バウントするボールを難なくキャッチし、吐く息に混じって「セーフ」と言葉を漏らす。
女の子のほうを見ると目を剥いて驚いていた。
「大丈夫?」
聞くと、女の子は音がしそうなほど何度もうなずく。それを見て口元に笑みが浮かぶ。
「すんませーん! だいじょうぶですかー!」
子どもの声が聞こえて、人吉はボールを持った手を頭上で大きく左右に振り、投げ返してやる。
子どもたちがボールを受け取ったのを確認すると、人吉は今日の夕食をなんにするか、思考を再開した。
□
バットを飛距離の出ない木製バットに変えて、子どもたちは再び野球に興じる。
しかし、ピッチャー役の一人は投げ返してもらったボールをいつまでも見つめていた。
「すげえな、どうやったんだろ」
まるで目に見えない手でボールが掴まれたようだった、と。




