太陽の笑顔で Ⅰ
今日も梓の奴がしつこい。
何故かどうしてか俺の夢の内容を知っていた梓は「夢を現実にしましょう!」と学校中、俺を追いかけ回していた。いや、知っていたのは当然か。あいつがあのシナリオを用意したんだから。だからってその通りに夢を見てしまった俺が情けない。
「また始まったぞ」「いつもいつも元気よねー」「羨ましい……」「結婚しちゃえばいいのに」「廊下は走ってはいけません」
すでに俺が危惧していた事態に陥っていた。俺と梓の追走劇はもはや校内名物。知らぬ生徒はいないほどに噂を立てられることさえ飽きられてしまった。去年は地味な生徒として無難に高校生活を送ってきた俺も、梓と一緒にすっかり有名人。勘弁してくれよ。
「捉えたぁっ!」
昼休みに廊下を逃走中、後ろで梓の叫び声が聞こえて振り返ると、何やら武器?を構えていた。先が大きく開いたモデルガンのようだ。
パンッとクラッカーでも鳴らしたような音が響いてそこからネットが放出される。アニメなんかで見た事ある捕獲銃。それが俺に向けて発射された。
「おわっ!」
俺は見事にネットに絡まり廊下を転がる。捕獲された。身動き取れず。やはり俺の扱いは逃げ出したペット程度なのか。
「うへへへ……。すぐ済みますからねー。おとなしく下半身を投げ出して下さい。ただ快楽に身を任せればいいだけですよ。ぐへへ……」
やべぇ、目が据わってる……。
「ま、待て。校内じゃさすがにまずいだろ。ふ、二人っきりになれるところで、なっ、なっ?」
「二人っきりに……。くふふっ、ついにこの時が来たのですね」
よし、梓もそっちに乗り気だ。俺を運ぶ時に隙を見つけて逃げ切るしかない。
「斎藤さん、真先輩を」
なっ!?
「かしこまりました」
どこから現れた斎藤さん! どっかの漫画みたいな執事スキルなんて持ってんじゃねぇ!
これは非常にマズイ。斎藤さんがいたらとても逃げ出す隙なんて……。
その通りで、斎藤さんの鋭い眼光で金縛りにあった俺は体育倉庫へ拉致された。お姫様抱っこをされる俺は、どう見てもとてもシュールだった。
体育倉庫の鍵を無理矢理こじ開け、マットの上に投げ出された。梓が続けて入り、斎藤さんは出て行き外から鍵をガチャ。
もう古い木造の体育倉庫は、壁の隙間から日の光が差し込み真っ暗ではなかった。砂と埃の匂いで少し息苦しい。目が慣れてくると、梓がニヤニヤ薄気味悪い笑みを浮かべている姿が見えた。
「お、おい梓。マジで、やめとけよ?」
「今日はちゃんと、朝からお風呂に入ってきましたから。素敵なひと時にしましょう」
聞いちゃいねえ!
梓は小さく笑い、ブレザーを脱いで傍らに置いた。次にツインテールのゴム紐を解き、ワイシャツの胸元を開き、ついにはスカートまで脱いだ。少し大きめのワイシャツのおかげで太股の奥はギリギリ見えない。シャツの下に透けて見える下着が俺の欲望を膨らませる。
「そそるでしょう?」
梓はクスクスと意地悪そうに笑う。
俺は思わず生唾を飲み込んだ。梓の奴が知ってか知らないでか、俺は女性のワイシャツだけでその身を隠しているのが一番グッとくるのだ。たとえ梓でもそれは変わらない。弱点を突かれた俺は何も言えずにただただ梓を見つめていた。
梓は一歩一歩ゆっくりと俺に近付いてくる。
呆けていた意識が戻った時、梓は胸のボタンをもう一つ開け、俺の目の前まで迫っていた。そして膝をつき、朱色に染めた顔を近付ける。艶めかしい吐息がかかる距離で、石鹸とシャンプーの香りが鼻を撫でる。
「ふふっ。先輩、抵抗しないんですか?」
抵抗、しないと。でも動けないのは変わらない。抵抗しようにも、手足を動かせないまま無様に転がり回るくらいが精一杯だ。梓の妙な妖艶さに、頭を働かせる余裕もない。そして梓は俺の耳にふっと息を吹きかけ、呟く。
「それじゃ、いいんですよね? 梓の初めてを――先輩に」
このままでは、本当に夢が現実になる。いや、現実になるのは梓のことだけで、俺はこの世から存在を抹消されてしまうことになる。悪い夢すら見られなくなってしまう。
そうこう考えるうちに梓の顔は目前に。その唇は、ターゲットに向かって迫っていた。
「だ、ダメだ!」
咄嗟に叫んだのはそれだけで、俺は必死に唇を引き絞り首を捻った。頭の中は真っ白でうまい言葉が浮かんで来ない。
「あんっ。動かないで下さい。どうせ逃げられないんだから。一緒に子供を作りましょう」
必死に梓の口撃を回避し続ける。命を奪い去ろうとする死の接吻がマシンガンのように繰り出される。よけられるのを我慢しきれなくなった梓は、俺の顔が動かないように両手で力強く押さえつけた。
「うへへ、これまでです」
「ま、まま待て! 子供ができても俺が生きてなかったら意味ないだろっ!?」
「変なこと言いますね。幸せな家庭を築きましょう」
「んなことできるわけないだろっ! 俺はお前の親父に殺されるかもしれんのにっ!」
「えっ? どういうことですか?」
「だから俺がお前と関係を持てばお前の父親に…………っ!」
し、しまった! これは隠し通さねばならんこと。梓に父親から脅されていることを知られれば事態が悪化する恐れがあるのに。都合良く利用されかねないのに。父親のことをちらつかせて俺の身動きが完全に封じられるかもしれん。それは生きているけど、完全な人生の終わりだ。
「梓のパパに……なんですか?」
梓はぴたりと動きを止め、真剣な眼差しで聞いてくる。
「い、いやぁ、何のことだったかなぁ。はははっ……」
うまい誤魔化しが浮かんで来ない。とにかく知らぬ存ぜぬで通すか適当なことを言うしかない。
「とぼけないで、教えて下さい。梓のパパが先輩に何かしたんですか?」
「な、何もない何もない。ただ前に会ったことがあるだけで、節度ある付き合いをしろって言われただけさ。だから、な、こういうことはやめようぜ?」
…………沈黙。
お互いに黙り込んで、しばし音のない時間が訪れる。梓は身動き一つせずにうつむいていた。俺はいたたまれない空気に、細々と口にした。
「梓?」
「…………本当ですか?」
解いた長い茶色の髪が顔にかかり表情は掴めない。
「な、何が?」
「梓のパパに言われたことって」
「ほ、本当だよ」
「嘘ですね」
そこで顔を上げ、真っすぐに俺を見つめる。
「断言っすか」
「先輩の嘘なんてすぐに見抜けます。本当のことを教えて下さい」
本当のことなんて言えるわけないじゃないか。自分をより追い詰めることなんて口にできない。かと言って、さっき以上のうまい誤魔化しもできない。俺は無言で返事をするしかなかった。
「いいです。先輩が教えてくれないのなら。直接パパに聞くまでです」
梓は立ち上がり、制服を着直して俺に背中を向けた。
「ま、待てっ! 俺はいいのか? こんなチャンスなんて滅多にないぞ?」
自分を餌にするなんてな。俺が終わりかけてる。さー、こっちを向け。
「もし、先輩に対してパパが何かをしたと言うのなら、梓はパパを許しません」
梓は振り返ることなく言って、体育倉庫を出て行った。
えっと、あいつ、怒ってた? 今までに聞いたことのない梓の低い声。本気で怒ってたのか?
もしかしたら、俺は大きな勘違いをしていたのかもしれない。梓が俺の立場を利用するなんて、全く逆で、そんなことしたくないのかもしれない。自分の父親が俺に圧力をかけることを嫌がっているのかもしれない。だから、許せないなんて言ったのか?
そうだとしたら、止めないといけない気がする。俺のせいで、あいつが親子喧嘩をすることになる。俺のせいで。
はっ! そんなの大いに結構じゃないか。喧嘩でもなんでもして、俺に構うことをやめて欲しいね。そうだよ、お前ら親子に散々振り回されてきたんだ。金持ちだからって、人の人生までどうにかなると思ってんじゃねえよ。さすがの梓だって、完全に父親に逆らえるはずがない。娘に甘い父親だって、梓の我が儘を完全に放置することなんてしないさ。これを期に相応の相手を見つけておとなしくすればいいんだ。それが当たり前なんだよ。そもそも生きてる世界が違い過ぎるんだ。こっち側にしゃしゃり出てくるんじゃねぇ。家に閉じ込められて監禁されてしまえばいい。
……なんて。
何考えてやがる。そんなの、あまりに無責任じゃないか。あいつにはもう、友達がいる。それを紹介したのは誰だ。あいつはもう友達と触れ合う楽しみってのを覚えちまった。
このままじゃダメだ。本当に家に閉じ込められてしまうことになったら、可哀想すぎる。千佳にも倉敷さんにも裕也にも合わせる顔がない。やっぱり、どうにかしないと。
だけどその前に、
「ほどいてくれーーーーーーーーっ!」
体に絡みつくネットは、次の授業で鍵を開けに来た生徒に解いてもらった。俺の顔を見て「大変ですね」と納得されたことが少し残念だった。
俺は今、神宮寺家の前に立っている。正確に言うと、物陰から様子を覗っていた。先生には梓関連で早退すると言ったら快く承諾してくれた。便利だ。
神宮寺家が西洋を思わせるような立派な洋館で、正門から玄関までは車で行っても差し支えのないほど距離がある。屋敷の大きさもそれ相応で、下手をすれば高校のグラウンドくらいは建坪だけで埋まってしまいそうだ。
場所は知っているものの、中に入ったことがあるのは中学の時に梓の父親から脅しを受けた時のみ。それもいつの間にかあの人の前にいたから直接正面から中に入ったことはない。正門にはガードマンが一人、侵入者を防ぐべく警棒片手に直立不動していた。俺の顔が知られているのかわからないが、すんなり通してくれそうな雰囲気はない。
梓の携帯には繋がらなかった。繋がっていれば、こんなところに自ら足を運ぶなんてしない。なるべく近付きたくない場所だからな。
とは言え、このまま引き返すことはできない。学校には梓と斎藤さんの姿はなかった。梓は聞いてみると言って出て言ったのだから、直接聞くために帰って来てる可能性が高い。あれこれ考えてもこの状況が変わるでもなく、俺は一度息を飲みこんで、神宮寺家の正門へ近付いて行った。
ガードマンの鋭い視線が浴びせられる。少し強面の、四十歳くらいの男の人だ。どうやら梓の知り合いという認識はされていないようだった。興味本位に中を覗き込むことすら許してもらえなさそうな様子だ。どんなセキュリティーがかけられていても華麗に忍び込むルパンのような真似はできない。説明して通してもらうしか俺には道はないのだ。
「ここは神宮寺家です。用事がないのなら早々に立ち去りなさい」
まるでRPGの門番のような言い草で門前払いを喰らう。
「あの、神宮寺梓さんの友人で、ちょっと用事があって会いたいんですけど中に入れてもらえませんか?」
下手な理由はつけられない。忘れ物とか、連絡とか、中継されかねないから、あくまでも直接会いたいと伝えるんだ。
「申し訳ないけど、今日は旦那様にもお嬢様にもアポのない者は通さないように言われていてね。用事があるのならきちんとアポを取りつけてそれからにしなさい」
「梓さんの携帯に繋がらないんです。今日じゃないと、っていうか今すぐ会いたいんですけどどうにかなりませんか?」
「ダメだ。これ以上は警告になる。早く帰りなさい」
くそ、ダメか。隙を見て……どうにかなるもんじゃないか。警戒されれば近付くことだって叶わなくなりそうだ。俺は踵を返し、その場をあとにした。
でも、やっぱり梓は家に帰って来てるんだな。それがわかったところでどうにもできないのが現実だけど。
さて、どうしようか。どうするかなんて、ひたすら携帯に連絡するしかない。今はそれだけしかできない。帰りながら、何度も梓の携帯を鳴らしていた。コール音は虚しく響くだけで、あの元気な声が耳に届くことはなかった。メールも送ったけど、返事は来ない。
家に帰り、部屋の中でベッドに寝転がる。いつもより早い時間、部屋の中はまだ明るい。平日の夕方に家にいるなんてどれくらいぶりだろうか。天井を見上げながら溜息を吐いた。
あいつ、どうなったんだ。
相変わらず俺の携帯は鳴っていない。
起き上がり、試しに机の引き出しのモニターを操作してみたけど、電源が入ることはなかった。
「向こうからだけの一方的な機械かよ。ハイテクなのに、役立たず」
愚痴を吐いても返って来る言葉もない。
あの家には夜中に忍び込むなんてことも無理だろうな。本当に待つことしかできないのか。
再びベッドに寝転んだところで、バタバタと階段を駆け上がる音が聞こえた。
「梓!?」
思わず身を起こし、部屋のドアに目を向ける。
何かを期待していた。
「お兄ちゃん!」
勢い良くドアを開けて入ってきたのはあゆみだった。俺がこの時間に家にいることが珍しいのか梓がいることを期待してか、目を輝かせ満面の笑みを浮かべていた。
「あゆみ……」
俺はそのまま力なくベッドに背を預けた。
「あれぇ、お兄ちゃんひとり?」と不思議そうな顔で聞いてくる。
「ああ、そうだよ」
「なんだぁ、梓お姉ちゃんは?」
「……さぁ、途中で学校抜け出したからなぁ」
「ふ~ん。またどこかに行ってるなら、お土産買って来てくれるかなぁ?」
「どうだろうな」
この前、梓が日本にいなかった時とは違う。あのときは帰って来ることがわかっていた。一時の休日を楽しんで、また忙しない毎日が始まるものと嘆息していた。今度は違う。あいつが戻って来るのかわからない。顔を見せるかわからない。言いようのない不安が俺の中を駆け巡っていた。
「あゆみ。お前、梓のこと好きだよなぁ」
「うんっ。お姉ちゃん面白いし、いっぱいいろんなこと教えてくれるからぁ」
「……あんまり変なことは教えてもらうんじゃないぞ?」
その日、梓から連絡がくることはなかった。
翌日は静かな朝を迎えた。
朝食を取り外に出ると、眩しい太陽の光が俺を照らす。じんわりと汗をかく湿気を纏う暑さで、制服の衣替えが待ち遠しい。
これで左腕を梓に占領されていたらこの上なく鬱陶しかったはずなんだけど、やはりあいつは姿を見せなかった。こんな暑さの中でこそ、リムジンでのお出迎えがありがたく思えるもんだってのに、なぁ?
寂寞とした中、学校へ足を進め始めた。
梓のペースに合わせるでもなく、自分のペースで歩みを進める。足音は一人分。規則正しくリズムを刻み、迷うことなくまっすぐ進む。ちらほらと生徒の姿が見え始めると、それに紛れるように歩く。これは、去年まで当たり前だった登校風景だ。ただひたすらに、何を考えることもなく歩いた。たまに額の汗を拭い、鞄を空いている手に交互に持ち換えながら。
いつもより五分くらい早く学校に着いた。いつもの昇降口もどこか違って見える。上履きに履き替えて、廊下を進む。階段を一つ上ると、見知った人物に遭遇した。
「あ、おはよう」
「おはようジョン。なんだか久しぶりだね。あれ、今日は一人かい?」
いつもの柔和な笑顔で挨拶してくれる倉敷さん。何気ないことでも、友人に会ったことで少し安心できた。こんなにも、一人っていうのは心細いものだったのかな。
「ん、まぁね」
余計なことは話すまいと思うけど、俺が一人でいること自体珍しい。そんな俺の状況に、倉敷さんが口出ししないはずがなかった。
「へー、喧嘩?」
「喧嘩、じゃないけどね。ちょっと……」
「何だ、元気ないね。喧嘩じゃないとしたら……ひょっとして、おめでた?」
「違う!」
「はっはっはっ。冗談だよ。そんなに盛ってるようには見えないしね。で、どうしたんだい? お姉さんでよかったら相談に乗るよ」
そんなに悩んでるように見えるのか。気をつけないと。
相談……でもな、これは俺と梓と、あの父親の問題だから。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「そうかい」
倉敷さんは残念そうに肩を落とす。
「面白そうだと思ったのに」
「さいですか」
倉敷さんと別れ教室に入ると、少しだけ注目の的になった。
そんなに俺が一人でいることが珍しいのかね、クラスメイト諸君。珍しいよな。ひそひそと小声で話すのはやめて欲しい。ま、余計なことをいろいろ聞かれるよりかマシか。男女関係の恋話が楽しいお年頃だしね、みんな。
自分の席に着くと、背中が妙に肌寒かった。頬杖をつき、窓の外を眺める。話しかけてくるクラスメイトは誰もおらず、そのまま朝のHRが始まった。
静かな、本当に静かな一日だった。授業中にスタンドミラーを見ても、誰もいない席。いつもより目を向ける回数が多かったような気がする。昼休みも一人で過ごし、滅多に行かない図書室に足を運ばせてみた。賑わっているものの知り合いは誰も見当たらない。適当に本を取り、パラパラとページをめくり時間が過ぎる。生徒の数が減ってきたところで、それに合わせるように本を戻し教室に戻った。
何事もなく放課後まで時間は過ぎ、早々に荷物を持って教室を出た。俺と梓の噂話しが耳に入るのが嫌だったから。
これが、俺の望んでいたことだったのか。普遍的で、平和な日常。特に変わり映えのない学生生活を送ること。他人に紛れ、大衆の一員として、無難な時間を過ごすこと。目立つことなく、学業に専念し、たまに友達と遊び、テスト勉強にもがき、体育祭で汗をかき、クラスメイトと協力して文化祭の催しを考える。それが普通で、充実した学生生活だと思っていた。
生徒のほとんどが何かしらの部活に所属していて、放課後にそのまま学校を出る生徒は少ない。遠くでは千佳と倉敷さんがいる吹奏楽部の練習の音が聞こえる。グラウンドの方からは野球部かサッカー部かの掛け声が聞こえる。校内放送では放送部が古典作品を読み上げていた。
何にもしてないんだな、俺。
一人になって空っぽな自分に気付く。一年前はそんなこと考えなかった。それでも学校の外には梓がいたから。
「よっ。一人?」
いた。俺と同じで何もしてない奴が。
裕也が思わず腹が立ちそうなうすら笑いを浮かべて肩を叩いてきた。こんなときはこいつでも役に立つもんだ。
「おう、友よ」
「聞いた。神宮寺さんと喧嘩したんだって?」
「……倉敷さんか。意外だな、倉敷さんと交流があるなんて」
「馬鹿にしないでくれたまえ。自慢じゃないがこれでも十二回デートを断られている」
ほんとに自慢じゃないな。
「梓とは別に喧嘩してるってわけじゃないからな」
「その割には背中が寂しそうだったけどね」
「うっせ。たまに一人だからそう見えるだけだろ」
「はっは、強がるのはよしたまえ。たまには男同志で帰るかー」
この前は男同士がどうのとか言ってたくせに。でも、心強いのは正直なところだ。男同士で帰るのだって、どれくらいぶりかもう忘れた。
帰りはどこにも寄り道せずに、真っすぐ帰った。下校途中は裕也が知りたくもない女子の情報を俺に教えていた。見せてもらったマル秘ノートには女子の住所や血液型、性格やスリーサイズが事細かに書かれてあった。どうやってこの情報を手に入れているのか聞きたくもないが、女子の性格まで熟知しているのにうまくやれないこいつは相当馬鹿なんだろう。
家は近所だけど、俺の家の方が先に見える。家の前まで一緒に歩き、「じゃあな」と軽く片手で挨拶した。その別れ際、裕也がこんなことを言った。
「倉敷さんから言われたんだよ。真が元気なかったから、『私は部活だから、君が一緒に帰ってやってくれないかな』って。羨ましいよ、お前はさ」
それだけ言って裕也は「じゃーな」と背を向けて帰って行った。俺はそのまま呆然と裕也の背中を見送っていた。
なんだよ、それ。ははっ、気を遣わせちまって、情けない。
ちくしょうめ、良い奴じゃないか、裕也。倉敷さんにも、明日それとなく礼をしようかな。
部屋のベッドで横になっていると、あゆみが帰ってきてまた梓のことを聞いてきた。相変わらず、電話もなければメールもきていない。「風邪で休んでる」と適当に誤魔化してあゆみのゲームの相手をした。すっかり腕もなまってしまってあゆみに勝てなかった。練習する暇もなかったからなぁ。
その日も、梓から連絡がくることはなかった。
翌朝、家を出ると千佳が待っていた。
「あ、おはよう。真」
「よう、お出迎えか?」
なんとなく予想できたことで、それほど驚かなかった。
「な、なに? その当たり前みたいな感じ」
照れ臭そうにそっぽを向く千佳の横に並ぶ。
「行くか」
「う、うん」
今日の足音は二人分。少し距離があり、歩幅を合わせる必要もなかった。
しばらくは、二人とも無言で歩いていた。
多分、千佳は梓のことを聞きたいんだろうな。落ち着きがなくちょくちょく制服を気にしたり、髪を撫でたり、気を遣っているのか聞きにくいだけなのか。暑さと湿気が嫌な空気を生む。話しを切り出したのは、俺の方からだった。
「なぁ、倉敷さんから聞いたのか?」
「えっ? あ、うん、そう。梓ちゃんと喧嘩したって」
「はぁ……喧嘩じゃないんだけどな」
「そうなの?」
千佳は前から俺と梓の父親との兼ね合いは知ってるから、話してもいいかな。
「うん。まぁ、いろいろあって口を滑らせてさ、梓の親父さんのこと」
「それって、真が注意されてたってこと?」
「注意っつーかもう脅し。はっきりとは言ってないんだけど、梓の奴、どうも俺が親から圧力かけられていることが気に入らなかったらしい。それで、父親に事情を聞くって学校飛び出してそれっきり。連絡はないし、こっちからも連絡がつかない」
「じゃあ、携帯も取られて家から出してもらえなくなってるとか?」
「多分、そうだろうと思う」
「そっか……」
そのあと、お互いにまた長い沈黙が続いた。
長い上り坂も中腹に差し掛かり、校舎の屋上付近が見えてきたときだった。
「いいんじゃ、ないかな?」
千佳は足を止め、ばつが悪そうにおもむろに口にした。
「何が?」
通り過ぎた足を止め、振り返り尋ねる。
「このままでさ。真だって、困ってたでしょ?」
……そうさ、俺もそう思ったよ。
俺が望んで、梓の奴は別に望まなかったもの。無理矢理結びつけた形だったが、友達になった。千佳と倉敷さんと裕也。
「梓と遊ぶのって、迷惑だったか?」
「えっ? ……ううん。迷惑だなんて、思ってないよ」
「あいつさ、お前らと遊ぶのが楽しいって言ってたんだ。たしかに突拍子もないことだってするけど、街でショッピングしたり、ゲーセン行ったり、そんなのが楽しいんだとさ。楽しいって、知ってしまったんだ。俺だけじゃ教えてやれなかった。言い訳に使うようで悪いけど、このままじゃ梓に悪い気がしてさ。何とかしてやりたいって、思ったりする」
千佳はうつむいて黙り込んだ。その横を、登校する生徒が何人か通り過ぎて行く。
やっぱり、本心では迷惑と思ってるんだろうか。
そのまま、秒針が一周するくらいうつむいていた千佳はようやく顔を上げた。
「それで、真はどうするの?」
真剣な眼差しで真っすぐに俺を見て聞いてくる。
「どうするって、連絡がくるのを待つしかないんだ。梓の家に行ったけど、門前払いされたし」
「じゃあ、放課後にもう一度行こう。みんなで。みちると、裕也も誘って、四人で。梓ちゃんを遊びに誘いに行こう」
「お前……」
まったく、こいつは、本当に良い奴だ。
「……サンキュ」
「別に真がお礼言わなくても。梓ちゃんだって、と、友達だから」
頬を染めながら言う。
「でもほんとは……このままの方が……」
「ん、何か言ったか?」
「ううん! だ、ダメダメ……嫌な女になっちゃう。さ、学校行こっ。みちるには私が話しておくから」
「あ、ああ」
千佳に背中を押されて学校について、まず裕也に話しをした。おおまかに、梓が父親といざこざがあって家から出してもらえないようだから一緒に会いに行って欲しいと。裕也は怪訝な顔をしつつも了承してくれて、休み時間に千佳から倉敷さんも乗ってくれたことを聞いた。
――そして放課後。
昇降口で待ち合わせをして、それから梓の家に向かう。
千佳と倉敷さんはわざわざ部活を休んでくれた。コンクール前なのに、悪いことをしてしまったな。今度何か奢ってやらないと。裕也はなんだかんだで豪邸に興味津々のようだった。中に入れるかわからないのに。一番覚悟を決めないといけないのは俺だな。中に入れるとすれば、そこには梓の父親がいるんだから。
先頭に俺、並ぶように倉敷さん。後ろに千佳と裕也が並んでついてきていた。
「やっぱり、ジョンはご主人様思いだねぇ」
「ん、まぁこんな時くらいは」
「否定しないところが成長したね」と口端を吊り上げて言う倉敷さん。
不承不承、ではないが頷く。一緒に着いて来てくれるあたり、みんなも梓思いだと思うよ。
でも俺と梓とのことで迷惑かけることになるなんて。申し訳なく思うのは仕方がない。
後ろを振り向くと、千佳と裕也が細々と話しながら歩いていた。表情穏やかで、悪い顔はしていなかった。少し安心して前を向く。
「懸念は消えたかい?」と倉敷さんが俺の顔を覗き見ながら言う。
「あはは……。趣味は人間観察って答えそうだね」
「半分正解。友達思いなだけさ」
「そりゃいいことだ」
俺は苦笑して、もう一度後ろを一瞥した。
歩くこと約三十分。ちょっとした遠足気分だった。目的の洋館が見えてきて、僅かながら緊張を覚える。みんなも徐々に口数が減り、無言の思い空気が流れ出していた。
正門にはこの前と同じガードマンがいた。俺の姿を確認すると、深い溜息を吐いた。
「こんにちは。また来ました」
「また君か。残念だけど、中には通せないよ。今日はアポありのお客様はいないからね」
いきなりの門前払い。今日はせっかくみんなが一緒に来てくれたんだ。そうそう簡単に引き下がれるものか。
「そこを何とか、お願いします。いくら携帯に連絡しても繋がらないんです。家にいるんですよね?」
「連絡がつかないということは、お嬢様に会う意思がないということだ。帰りなさい」
「そんな、梓に会う意思がないなんて、そんなわけありません!」
ガードマンは頑なに首を横に振るだけ。どうあっても通してくれないってのかよ。
「私たちからも、お願いします」
俺の横に立ち、そう言ったのは千佳。続いて倉敷さん、裕也と続き、一斉に頭を下げた。
「みんな……」
俺も強くガードマンを見て、頭を下げる。願い倒しするしかない。ここまで来たんだ。みんなもここまでしてくれている。俺は馬鹿だな。合わせる顔がないなんて、みんなに助けてもらってばかりじゃないか。
「お願いします!」
「ん……んん……。と、とりあえず頭を上げなさい」
俺たちは頭を上げ、真っすぐにガードマンを見つめる。
「友達に会いに来ただけなんです」と千佳。
「うちのジョンが寂しがるので」と倉敷さん。
「学校の名物なんですよ。こいつと神宮寺さんって」と裕也。
みんなが背中を押してくれる。
「みんな、梓さんの友達なんです」
みんなを一瞥して、もう一度大きく頭を下げて俺は言った。
ガードマンは大きく溜息を吐いて、笑った。
「やれやれ、みんなでおじさんを睨まないで欲しいな。わかったよ」
え? や、やった!
思わず飛び跳ねたい衝動に駆られるのを抑えて、四人で顔を見合わせた。
「みんな、ありがとう」
「真のためじゃないって」
「飼い主は必要だからね」
「あゆみちゃんの友達でも紹介して欲しいな」
みんな笑っていた。裕也の頭を小突いて、俺も笑う。それぞれが何を考えているのかはわからない。何かを成し遂げた達成感か、充実感か、とにかく、これで梓に会える。あいつにみんなの顔を見せてやれる。
「ちょ、ちょっと待ちなさい君たち」
俺たちの過剰な喜びを余所に、ガードマンが慌てて言う。
「わかったとは言ったがね、こちらも仕事なんだよ。中に確認を取ってからしか通せない」
一気に、俺の中の熱が引いた。
「そんな、あなたが認めてくれるのならいいじゃないですか」
「そういうわけにもいかない。雇われている身だからね、こちらとしては雇い主のご機嫌を損ねるようなことはしたくないんだ。本来ならアポなしでは確認することすらしないんだよ。こればかりは仕方がない。今から連絡するから、おとなしく待っていなさい」
「でも……っ!」
俺がさらに抗議しようとすると、倉敷さんに肩を掴まれた。首を横に振って「仕方ないよ」と俺を止める。先程の喜びとは対照的に、千佳と裕也も影を落としていた。
ガードマンがトランシーバーで連絡を取り始める。
「あー、警備の山本です。今、お嬢様の友人という四人のお客様がいらっしゃってますが、どうしてもお嬢様に会わせて欲しいとおっしゃっています。いかがいたしましょう。名前は、えーと」
「来栖真です」
こちらの顔色を覗いながら話す。俺は睨むようにガードマンとトランシーバーを見つめた。
「えー、来栖真という者です。……はい…………わかりました」
そこでガードマンはこちらに手の平を向けて『待て』と合図した。
「…………はい……いえ…………了解しました。それでは……」
ごくり、生唾を飲み込む。告白の返事でも待っているかのように、緊張で胸が張り裂けるかと思う一瞬。
ガードマンの山本さんは一呼吸置いて、静かに言った。
「残念だけど、お嬢様が会わないとおっしゃっているそうだ。申し訳ないがここを通すわけにはいかなくなった。早く帰りなさい、君たち」
血の気が引くのがわかった。そして、急に頭に血が上る。
「そ、それは本当に梓が言ったんですか!? 何かの間違いです! 梓が会わないなんて言うはずないですよ! 直接会って話しますからここを通して下さい!」
「しつこいぞ! 先日も言ったはずだ、これは警告なんだよ。子供相手に手荒な真似はさせないで欲しい。これ以上は不審者としてしか対応できなくなる。少し考えればわかるはずだ。ここは神宮寺様のお屋敷だ、理由はそれだけで十分なはずだよ」
「ぐっ……!」
くそっ! くそっ! くそっ! 梓が俺たちに会わないだって? そんな馬鹿な話しあるわけないだろ! きっとあの父親だ。梓は俺たちが来たことを知らないはず。知ってたら、きっと……。
きっと……来るよな?
「真」
「千佳、あいつは俺らが来てるって知ったらきっと――」
「帰ろう」
「あっ……」
わかっていた。
千佳も、倉敷さんも、裕也も、俺も、諦めていた。
帰り道は誰も言葉を口に出さず、重苦しい空気の中、足取りも重かった。
梓が会いたくないなんて、そんなことを言うはずがないって、思ってる。思ってはいるけど、梓が言ったんだって、そう思う俺もいる。
本来なら、梓は俺らなんかとは知り合いになるはずもない世界の住人なんだ。梓が普通の高校に通って、一般人の友達がいるってこと自体不思議なことなんだ。あいつが前に言ってた友達なんかとはまるで違う。そこいらにいる普通の高校生なんだ、俺たちは。梓が俺たちと関係を切るって言ったとしても、何もおかしいことはないんだよな。いくら街の庶民的な遊びが楽しかろうと、それは一時の気の迷いで済ませられることなのかもしれない。俺とのことだって、そうじゃないのか。
そうだよ、何度も思ってきたことなんだ。梓は住む世界が違うんだ。梓は自分が住まうべき世界に帰ったのだ。それがごく自然で当たり前のことなんだ。梓だってきっと気付いたんだ、違うってな。
「ジョン」
「……なに?」
歩きながら倉敷さんが話しかけてくる。今ならば、無駄足だったねとか、フラレたねとか、捨て犬になった気分はとか、そんなこと言ってもらった方が気休めになる。
「何を考えてたんだい?」
「……別に」
「君がご主人様を信用しないで、誰が信用するんだい?」
「信用?」
「そうだよ。さっき言ってたじゃないか。あいつがそんなこと言うはずがないってさ。私はあずあずのことはまだよく知らないけど、ジョンがそう言ったんだから、そうなんだと思うよ」
……信用か。あいつがそんなこと言うはずがないなんて、よく咄嗟にそんな言葉が出たもんだ。
ああ――そうだ。
あいつが俺のことをどれだけ好きかよーく知ってる。散々追いかけ回されてたんだ。俺がどれだけあしらおうと、あいつは無理矢理にでも隣にいた。ここはひとつ、自惚れてやろうじゃないか。
あいつが俺に会いたくないはずがない!
今だって『せんぱ~い』とか言って特製俺抱き枕にでもしがみついているに違いない。倉敷さんと撮ったプリクラを眺めているに違いない。どうやって連絡を取ろうか考えているに違いない。隠し録った俺の声をレコーダーで聞いているに違いない! あいつは変態で、ストーカーだからな!
勘違いでも何でもいいさ、思いっきり自惚れてやる。
そう思うと、自然に笑みが零れた気がした。
「倉敷さんって、本当に人間観察が五割?」
「八割に訂正しようか?」
クスクスと、面白そうに笑う。
「それが懸命だね」
まったく、どれだけ人を見透かす気だよ。
「なーに話してるの、二人とも」
「うーん、趣味について?」
千佳も、今日はありがとうな。お前が言ってくれなかったら、ここにはいなかった。
「倉敷さんは僕が目をつけたんだからな!」
裕也も、わざわざありがとな。
「101回目のプロポーズ、同一人物で実現してみるかい?」
「え、えと、今何回断られたんだっけ?」
「覚えていないような変態はお断りだね」
「よっしゃ! 一回追加!」
「あっはははっ、何それー」
ははっ、最高だよ。お前ら。
――そして、梓の家にみんなで押し掛けてから、一週間が経った。
いまだ梓は姿を見せず、連絡もない。
教室からは梓が置いたスタンドミラーも取り除き、黒板までの見通しが良くなった。
いらぬ噂も立っている。フラレたとか、誘拐されたとか、妊娠したとか。耳に入る噂もいちいち否定して回るのが面倒なのでどうぞご勝手にって感じだ。
俺だって詳しいことはわからないんだ。梓から連絡がない理由なんて。閉じ込められているっていうのはただの憶測で、今は家にいるのかどうかもわからない。何と言われても仕方がないのが現状だった。
「あの、来栖くん……」
そんな中、梓の隣の席の坂本さんが話しかけてきた。意を決したかのように、恐れを抱いているようにも見える。そんなに話しかけにくいものかな、クラスメイトってのは。
「あー、なに?」
なるべく声色を明るく返してみた。
梓がいなかったら俺って普通だよね?
「あ、あの、神宮寺さんって、どうしてるの?」
………………こいつは驚いた。
千佳でも倉敷さんでも裕也でもなく、ただのクラスメイトである坂本さんが梓のことを尋ねてきたのだ。ただの、は失礼か。梓の隣の席だし、迷惑かけてたしな。そして、勘違いかもしれないけれど、坂本さんは心配そうな面持ちだった。
「来栖くん?」
「あ、ああごめん。梓ね、多分家にいるんじゃないかな? 俺も詳しいことは聞いてないんだ」
「あっ、そうなんだ。ごめんね、来栖くんなら知ってるんじゃないかなって」
それは正しい認識ですな。俺以外に梓のことをわかる奴がいたら少しだけ嫉妬してしまう。それよりも、
「でも、どうして?」
「それは、学校に来ないから心配で。病気か何かで寝込んでたりするのかなって。クラスメイトだし、他のみんなも心配してるよ? それに、神宮寺さんがいなかったら何か寂しいし。あっ、こ、これはね、来栖くんが困ってる様子が面白いんじゃなくて、教室が明るくなるっていうかさ……」
……だとよ、梓。よかったじゃないか。ぜひ、梓に聞かせてやりたい言葉だ、やべーよ、涙もんだぜ。
いつからだろう。梓がスタンドミラーを置いて、心底迷惑そうだった坂本さんが梓を心配している。他のクラスメイトもだって。ほとんど俺としか話さず、いつもいつも変なこと言ってて、それでもすっかりクラスの一員じゃないか、あのお嬢様も。もう二ヶ月以上経つもんな、このクラスにあいつが来てから。
あいつ、いつまで引きこもってるんだよ。
俺だけじゃなかったぞ?
心配かけさせやがって。
「坂本さん、お願いがあるんだけどさ」
「うん、何?」
「それをさ、今度梓の奴に言ってやってくれないかな。心配してたって」
「え? うん、言えばいいの?」
「ああ、言ってくれるだけでいいよ」
早く、戻って来いよな。
さすがによ、一週間以上も音沙汰なかったら俺もおかしくなってくるんだよ。
静か、過ぎるっつーの。退屈、裕也の相手も飽きた。寂しい、そんなもん通り過ぎた。
本当におかしいよ。おかしすぎるだろ。
俺は――梓に会いたかった。