図書館ではお静かに。舐めんなっ。
暦は五月の半ばに入り、教室内には五月病という精神病を患っているクラスメイトが大半だった。
「……うひひひっ……くふっ……うくくっ…………」
まぁ、一人だけは元気なんだけどな。
授業中、鏡に映る梓は何かの雑誌を読みながら笑い声を上げていた。表紙は隠してるから、いかがわしい雑誌であることは間違いない。梓の隣の坂本さんも、授業をしている男性数学教師の佐々木先生も、俺にどうにかしろと目で訴えるのはやめてくれ。教師ならたまにはガツンと言ってやればいいんだ。特に今はテスト前なんだし、それくらい注意するのが妥当だろ。いつも全然授業を聞いてない梓はテスト大丈夫なんかね。教師陣だって、いくらなんでも採点まで誤魔化すなんてことはなかろう。
背中をとんとん叩かれて鏡を見ると、梓が雑誌の中身を鏡に向けていた。
「ぶふっ!?」
思わず噎せた。いかがわしいものと思っていたけど、梓の奴、授業中にエロ本なんて読んでやがった。開かれたページには裸の男女が濃厚なベーゼを交わしている写真がでかでかと載せられていた。坂本さんも目を丸くさせて顔を真っ赤に染め上げている。だとしても、そのエロ本をちらちら見るのは思春期だからだね。それに気付いた梓は、今度は坂本さんの方にエロ本を向けて笑いかける。「ひゃっ」と小さく声を上げて顔を伏せる坂本さん。何をやってんだ梓。
これにはさすがの佐々木先生も黙っていられなかったらしい。
「じっ、神宮寺さんっ」
佐々木先生は声を裏返しながら、必死な形相で梓の名を呼んだ。
「はい?」
梓はきょとんとした声を上げ、それに教室のみんなも後ろを振り返る。一月もの間この教室で授業を受けてきて、梓が教師から名指しされるのは初めてのことだった。
佐々木先生は、梓が反応したことを確認して、すらすらと黒板に何かの数式を書き始めた。黙って見ていれば、教科書では次のページにあたる、次の授業で教えてもらう予定の公式を使う数式だった。
「こ、この問題を前に来て解きなさいっ」
しどろもどろになりながら、佐々木先生は言った。その勇気ある行動に敬意を表したい。偉大な力に立ち向かえる教師の鏡だろう。ただ、まだ教えていない内容で勝負するのは卑怯だと思うけど。スタンドミラーで梓の様子を見ると、明らかに不満そうな顔をしていた。
「梓がですかぁ?」
クラスメイトも興味津々で教師VS梓の戦いの成り行きを見守る。俺は明らかに去勢を張っている佐々木先生の味方をしたい。これで梓も授業を受ける必要性を感じてくれるといいんだけど。まぁ予習でもしてない限りは解けない問題だけどな。
俺は振り返り、ざまぁみろとにやけるのを押さえつつ、梓に目で『行けよ』と促した。
梓はぶすっとしながら「ぶぅ……」と呟き渋々前に歩き出す。みんなの前で恥をかいても、授業中遊んでいて佐々木先生の我慢の限界を超えさせたお前が悪い。
そして、俺は困り果てる梓を堪能しようと楽しみにして見ていれば、梓は何の躊躇いもなくチョークを取り、すらすらと問題を解いていった。どうして解けるんだ。いや、適当に書いてるだけか? 俺は予習など試みたことはないので答えが正解かどうかはわからない。問題を解き終えた梓はチョークを置き、不満そうに佐々木先生を見る。
「あの、できましたけど?」
「あ、ああ。ありがとうございます。席に着いて下さい」
佐々木先生が敬語になった。どうやら正解だったらしい。クラスメイトは唖然としながら悠々と席に戻る梓を目で追い、梓が席に着くとみんな前を向いた。
後ろの席からは、何事もなかったのように「うひひっ」と笑う声と、ページをめくる音が聞こえ始めた。
「さ、さぁっ。ここもテストに出るからな。みんな神宮寺さんを見習って予習しておくように!」
佐々木先生の完敗だった。
授業が終わると、佐々木先生は肩を落とし、溜息を吐きながら教室を出て行った。みんな可哀想な目で見るのはやめてやれよ。俺は佐々木先生は頑張ったと思うよ、うん。それにしても、梓の奴……。
「お前、どうしてあの問題解けたんだ? まさか授業中遊ぶために予習してるとか言わないよな? つーかそんなもんここで見るな」
いまだエロ本を眺めながら「うひひひ」と笑っていた梓からエロ本を没収して聞く。
「あっ、あっ」とおもちゃを取られた子供のようにエロ本に手を伸ばす梓。「もう、見たいならいつものように梓の裸見ればいいじゃないですか」
「見てねぇよ!」いや、坂本さん、そんな軽蔑の眼差しで僕を見ないで。下着までしか見てないから。って言うか見せられてる方だから。
「梓は一般の高校で履修する内容くらいもう頭に入ってますからね。昇級してきたのだって、ちゃんと試験を受けたんですよ?」
冗談じゃないらしい。こいつ、俺とのこと以外は興味がないのか、それがどうしたみたいな顔で首を傾げている。頭が良いとは聞いていたけれど、格が違う。年下にこんなこと思うのはいささか悔しいが、こんなのも含めて普通じゃないなお前。
「なら、今度の中間テストも余裕ってわけか」
「ついに先輩と梓の愛情テストが決行されるわけですね。中間ということは、び、びーまで……そ、それでも梓は満足です!」
「お前はエロ本じゃなくて教科書を読め。つーか、もうすぐテストなんだから、今までみたいに遊んだりしないからな。お前のせいでろくに勉強できないんだから、こんな時くらいそっとしておいてくれ」
予想通りと言うか、やっぱり梓は口を尖らせる。
「えーっ。テストなんてどうでもいいじゃないですか。どうせ梓の家に婿入りするんですから」
「ちっともよくない。何もかもよくない。お前がどう邪魔しようと俺はテスト勉強する。決めた。今日の放課後からテストが終わるまでお前とは遊ばない。一緒にも帰らない」
梓はほんとに鳩が豆鉄砲喰らったような、ぽっ、と目と口を開けて唖然とした。
「そっ、そそそんな殺生な。けけ決して勉強の邪魔などいたしませんとも。ですからどうか、この通り、先輩のお傍にいさせて下さい」
拝むように懇願された。そんなにお願いされても、お前がいたら絶対勉強にならないことはわかりきってるんだから、ここはやっぱりしばらくおとなしくしてもらう他にない。
「ダメだ。お前は絶対に邪魔をする」
「こっ、こんなにお願いしてもダメですか!?」
今度は頭を机に擦りつけ始めた。なんか、俺すげー。教師だって頭も上がらない梓が俺に頭下げてるんだぜ。優越感を感じるね。
でもそんな俺には、やっぱり天罰が下るのだ。
「ねぇ見て。可哀想だね、神宮寺さん」「うん。あんなにまでして」「来栖くんってひどい人だったんだ」「調子に乗んなよ」「勉強くらい一緒にすればいいのに」「あーいうプレイなんだよ」
クラスメイトの囁き声が聞こえる。冷や汗が、どこからともなく流れ出してきた。いつの間にか、俺が悪者になっていた。最後のは意味がわからんけど。とにかく、このままではまずい。このままじゃ例え梓が俺から離れたとしても何て噂されるかわかったもんじゃない。クラスの中で孤立するハメになる。
「あ、梓? わかったから頭を上げてくれな。そうだな、い、一緒に勉強するか?」
「はっ、はいっ!」
「な、泣くなよ」
まさに感無量といった様子だった。嬉し泣きするほど俺と一緒にいたかったのかよ。……ほんと、しょーがねー奴っはぁっ!?
不意に悪寒が走った。きょろきょろと周りを見渡し、殺気を感じて俺の目は外に向いた。
あの、物陰に隠れてこっちを見ているのは、梓の警護人の斎藤さんだ。
い、いやだなぁ、梓のこれは嬉し泣き、嬉し泣きですから。悲しませたりはぎりぎりしてませんから。はははっ。
……………………はぁ。
そういうわけで、今日の放課後から勉強すると言った手前、勉強しないわけにはいかず、俺と梓は市立図書館に来ていた。家の中や学校だと何かしらちょっかい出してきそうだからな、『館内では静粛に』と釘が打ってある図書館がベストプレイスと判断したのだ。不特定多数の人がいるここなら梓だって騒いだりすることはなかろう。
「どうして図書館なんですかぁ。勉強なら先輩の家ですればいいのに」
こいつ、やっぱり勉強する気なんてなかったな。俺だって策を何にも考えてないわけじゃないんだぜ。
「でも、図書館っていう静かで周りの目がある中でバレないようにこっそりするのも背徳感があっていいかもしれませんね」
お前は何をするつもりだ。
「こう、机の下に潜り込んで、周りにバレないように先輩のを……うひひ……」
「ほんとに潜り込んで来たらケリ飛ばすからな」
教室で少しでも可哀想かなって思った俺が馬鹿だった。こいつは裕也以上の真正の変態だ。
落ち着きのない梓の口を手で塞いで、その手を舐められながら館内に入り、変態のことを考えていたらほんとに変態がいた。あいつが一人で勉強なんて、珍しい。
館内に並べられた机には俺らと同じようにテスト勉強に励んでいる奴らや、純粋に読書を楽しんでいる一般の人たちが大勢いた。その中で、変態こと高橋裕也が難しそうな顔をして学校の教科書と向き合っていた。六人掛けの机の端っこに腰掛け、その対角線上には一人の女生徒がいる。うちの高校の制服じゃない。あれは近くの私立女子高の制服だ。端正な顔立ちで、ちょうど同じテスト期間なのか、その女生徒も黙々と勉強しているようだった。
知り合いを見つけて、俺の足は自然とそちらへ向く。
「よっ、裕也。お前がこんなとこで勉強なんて天変地異の前触れか?」
もちろん小声で話しかける。梓はぺこりとお辞儀をして挨拶と成した。
「やぁ。来栖くんじゃないか。君たちも勉強かい? お互い、テストには苦労しているからな」
紳士的な変態がそこにいた。
「ど、どうしちまったんだ裕也。お前らしくもない。ついには教科書に載っている文章にも性的興奮を覚えたか?」
「ははは、やめてくれよ来栖くん。ほら、あちらの方も迷惑そうだから。ここは静かに勉強するところだよ」
その女生徒は鬱陶しそうにこちらを見ていた。ヒンシュクをかったようで自粛する。裕也が爽やかな知的笑顔を女生徒に向けぺこりと謝り、俺と梓はいそいそと裕也の向かいに座った。すると今度は裕也が迷惑そうな眼差しを向けてきた。館内の蛍光灯が裕也のメガネに反射する。ぎらりと睨まれているように思えた。
不気味な裕也が気になるところではあるが、目的はテスト勉強だ。裕也も、梓も木だ。動かない、喋らない、ただ光合成を繰り返す木だ。さー、気合いを入れて勉強しよう。時間は約二時間。みっちりやってやる。
日本史の教科書を取り出し、年号暗記を試みる。簡単な記憶作業から、徐々に頭を使う勉強に切り替えていこう。と、教科書を開いたところで、俺に向けてノートが差し出された。訝しげに思い、差し出された方を見ると、裕也が真剣な表情で何かを訴えていた。
そのノートの片隅には『僕はあの子を狙ってるから、どこか行ってくれないか?』と書かれてあった。紳士的変態には恐れ入る。やはりこいつは俺が知っている裕也だったのだ。必死な形相からは真剣さが伝わる。
勉強もしないといけないし、俺には親友に対する嫌がらせをする理由なんて全くなく、本当に迷惑そうだったのでその場を離れようとした。したんだけど、梓の奴がそうはさせなかった。
梓は座っていた俺の膝を押さえ、裕也が見せて来たノートを奪い取った。裕也も、まさか梓がそんな行動を取ると思っていなかったのか、呆気に取られた顔を見せた。
「面白そうですね」
梓は小さく呟いた。倉敷さんの笑顔に近いものを今の梓からは感じる。
「梓に任せて下さい」
「ちょちょ、お前、何するつもりだ」
「じ、神宮寺さん。あ、あの、僕のことはいいから、君らは君らの愛の営みを」
「要は、あの人と仲良くなりたいんですよね。変態さんは」
「え? そ、そうだけど……」
「大船に乗ったつもりでいて下さい」
素敵な笑顔だった。
裕也の「いや、あの」と困惑してしているのなんてお構いなしに、梓は立ち上がりその女生徒のそばに寄って行った。
「すみません、その制服、純心校のですよね? 梓あなたの通ってる女子高に憧れてたんですよぉ。今どんな勉強してるんですか?」
梓は女生徒の隣に座り、友好スマイルを持って接近を試みる。上流階級の社交的な場に行く事も少なくはない梓は、お近づきになることには手慣れている様子だ。
「え? あ、ここ……」
律儀にもその女生徒は参考書か教科書を梓に見せる。戸惑っている様子だが、自分の高校が憧れの対象と聞いて悪い気はしなかったのか、嬉しそうに自分の制服を見回していた。
「あ、フランス語ですね? 懐かしいなぁ」
「懐かしい?」
「以前、父の仕事の関係でパリに住んでいたんです。とても綺麗な街でした」
「そうなの。あ、じゃあ、この問題わかる?」
「どれですか? ああ、この問題はですね……」
「――あ、そうなるんだ。えっと、ここも、聞いていいかな?」
「ええどうぞ。うふふ……」
見事なお手並みだった。ちなみに梓がパリに住んでいたというのは嘘っぱちだ。ただ、フランス語のことはわかるらしい。なんか、十ヶ国以上の言葉は話せますとか言いそうだな。お嬢様スキルだ。
ま、これはいい。梓がいろいろやっているうちは俺も勉強できそうだ。
そう思っていれば、裕也が俺の教科書をトントン叩いた。勉強したいんだけど、梓を連れて来たのは俺なわけだから、裕也を無視するわけにもいかないだろう。
「す、すごいじゃないか。神宮寺さん」
感嘆の声を上げ、羨望の眼差しを梓に向ける変態。
「まぁ、頭は良いみたいだぞ。このあとどうするつもりかは知らないけど、梓に頼ってみるのも面白いんじゃないか?」
「そ、そうだな。あとで何か要求されたりしないだろうか。体とか」
「……あ゛?」
「じょ、冗談だよ来栖くん」
別に梓がお前とどうなろうといいけどさ。ったく、何いらついてんだか。まぁ変態同士お似合いかもな。いやいや落ち着け俺、深呼吸。すぅー……はぁー……。よし、始めよう。
「先輩っ」
あー、今度は何だ?
「梓、読みたい本があるんですよ。先輩一緒に探してください」
と無理矢理俺の腕を掴み、立たせようとする。
「受付の人に聞けばいいだろ」
梓はウインクしながら「いいからいいからぁ」と俺を立ち上がらせた。なるほど、裕也とその人を二人っきりにしようってことか。ってかお前が仲良くなっただけで裕也とは何も進展してないじゃないか。
「優子さん、そこの知的な好青年は梓よりもフランス語ぺらぺらですから。あとはお任せします」
女生徒の名前は優子というらしいっていうか、
「お前、それ結構な無茶振り――」
「しーっ。行きましょっ」
連行された。残された裕也は先程とはうって変わって泣きそうな顔でこちらを見ていた。無念だな。やっぱり梓に関わるとロクなことにならん。
特に目的もなく、本が綺麗に陳列された本棚をぐるぐる回る。荷物は残してきたまんまだし、わかってたことだがこいつが一緒だと勉強にならねえ。二年になって初めてのテストでお粗末な結果になりたくないのに。
「やっぱ、勉強の邪魔したな」
ジト目を梓に向けて、俺は言う。
「優子さんと仲良くなった変態さんとダブルデートっていうのもいいかと思います。そして二人がいちゃいちゃしているのを見て先輩も梓に……くふふっ」
「聞け。そしてお前は少しは本音を隠すってのを覚えろよ」
「梓はいつも直球ストレートですっ」
ストライクゾーンには入らないけどな。
「どうすんだよ。教科書置いたまんまだし。何か戻りづらいし」
「資料ならここにいくらでもあるじゃないですか」
「資料はあってもテスト範囲わかんないからどれを見ていいかわかんねぇよ。全部教科書とノートに範囲書いてるんだから」
「むぅ~、それは困りましたね」
誰のせいだ誰の。
RPGなんかでは、どうしようもなく困ったときにお助けキャラが現れたりする。だけど現実ではそんなことは起こらない。とも限らないのだ。
「こんなところで逢引かい? 若い子たちは場所も選ばないから困ったものだね」
聞いたことのある声だった。二年になって知り合った友達で、おそらくは梓と一番気が合う女友達。現れたのはお助けキャラではなく長黒い髪を持つ悪魔だった。
「や、やぁ倉敷さん」
「みっちー先輩だ」
倉敷さんは何故か「ふふん」と自慢げに鼻を鳴らした。俺は自然と身構えてしまう。ペットショップの一件以来、苦手意識がついたのかもしれない。
「この前はジョンのおかげでいい首輪が買えたよ。深い青色で悲しみと悔しさに満ちた色の首輪」
「それ全然嬉しくないんですけど」
けらけらと、倉敷さんは声量を抑えて笑う。
「倉敷さん部活なんじゃないの? またサボり?」
「サボりとは心外だな。この前は一刻も争う事態だったんだよ。野良犬と間違われて保健所行きは困るだろう? それに、今日からテスト前で部活は原則禁止なのさ。ちーちゃんに勉強教えてもらってるんだ」
ちーちゃんって、千佳もいるのか。これは好都合かもしれないな。違うクラスの同級生が二人もいるんだから教科書だって大体揃ってるだろう。
「倉敷さんのクラスって今日日本史の授業あった?」
「うちはなかったけど、ちーちゃんのクラスは小テストがあったみたいだよ。一問間違えたって悔しがってたから」
「千佳どこ? 教科書見せてもらいたいんだけど」
「ん、入口側の列の一番奥にいるよ。私と二人だけだったから、今は一人で勉強してる。必要ならちーちゃんと二人だけの甘い時間を提供してあげるよ」
誰がそんなことを望んだか。
「だ、ダメ……っ!」
図書館の中で叫びそうになった梓の口を手で塞いだ。さすがにここではまずいだろお前。それとべろべろ舐めんな。
「くっくく。相変わらずだねあずあず。ジョンだってわざわざ教科書借りなくても、今日あった授業の勉強すればいいじゃないか」
「いやそれが……」
俺は先程の裕也の件についてかいつまんで説明した。
「ははっ、みんなお変わりなく健やかに過ごしているようじゃないか」
「まぁそだね」
倉敷さんはふむ、と顎に手を添えて考える人を演じる。
「どれ、私も少しちょっかい、もとい手助けでもして来ようかな」
「えっ、みっちー先輩が行くんですか? じゃあ梓も」
「そうだね。勉強はちーちゃんとジョンの二人でさせてあげよう」
倉敷さんが意地悪そうにそう言うと、梓は「うっ……」とジト目で俺を見てくる。俺はしっしっ、と手で追い払うように「行って来いよ」と厄介者払いを試みる。
「ま、まぁ、図書館の中でいろいろしようなんて梓くらいしか考えませんよね」
自分が特殊なことを自覚してるならやめろ。
それから梓は何度か俺を振り返りながら倉敷さんについて行った。俺はそれを笑顔で見送り、千佳がいるであろう一番奥の机を目指す。千佳は可愛いけれど、俺の中では最も普通に分類される友達なので、一般人に紛れて勉強する千佳を見つけるのに少し時間がかかった。そのまま無言で千佳の向かい側に座る。だけどこちらをちらりと見ることもせずに勉強し続ける千佳。集中してるんだな。でもさすがに座っているだけで本を開くこともしない俺を訝しく思ったのか、少しだけ顔を上げ、俺と目が合った。
「ん? あ、あれ? 真?」
「よう。随分熱心なんだな」
「あ、うん。最初のテストだし」
千佳はそう言いながら、辺りをきょろきょろと見回す。
「倉敷さんなら梓と一緒に裕也のとこ。裕也の奴、こんなとこでもナンパしようとしてるみたいでさ、二人とも面白がって茶化しに行ったよ」
「あ、やっぱり梓ちゃんもいるんだ」
「まあな。テスト前だからついて来るなって言ったんだけど、さすがに泣きつかれちゃな」
「ふーん……。そっ」
千佳はそれだけで、また手元に目を戻した。何かそっけない。勉強の邪魔したからだろうか。
「じゃ、邪魔したか?」
「別に」
下を向いたまま答えられた。やっぱ機嫌悪そうだな。教科書貸してくれってだけでも言いにくい。今日はこのまま帰ることになっちまうのかなぁ。そんなことを思っていれば、千佳が書き取りをしていた手を止め、俺を睨んだ。やっぱり目の前にいられるとウザいのか。
「真は勉強しなくていいの? いっっっつも梓ちゃんといちゃいちゃいちゃいちゃしてて、追試受けることになっても知らないから」
「い、いちゃいちゃはしてねえって。俺だって勉強しに来たんだぞ? でもいろいろあって教科書とか鞄ごと裕也のとこでさ。それで千佳に教科書見せてもらおうって思ったんだ」
「……それならそうと早く言ってよ。教科は?」
何か言える雰囲気じゃなかったんですって。
「に、日本史。年号覚えから始めようかなって」
「んー、それはオススメじゃないよ。記憶問題は時間が空いたら忘れちゃうかもしれないから。最初は数学の計算式とか、わかりにくいのをひたすら解いて頭に覚え込ませた方がいいよ」
もっともらしい。それが千佳のやり方なんだな。
「でも数学ねぇ。苦手なんだよな……」
そんな逃げ腰の俺に、千佳は「うーん」と唸る。
「じゃあ……お、教えてあげよっか? テスト範囲は、大体理解してるから……」
「ああそりゃ助かるけど、千佳の邪魔しちゃ悪いだろ」
「いいよ。今日は一応区切りのいいとこまでしちゃったし」
千佳がそう言うなら、お世話になるか。年号なんて覚えるだけだしな。
「それなら、千佳先生にお世話になろうかね」
「うんっ。じゃ、じゃあ隣に来て。そこじゃ教えにくいから」
言われるままに、俺は千佳の横に移動する。懐かしいな。中学の時はこうやって勉強を見てもらったりしてた。そういえばここの席、千佳の指定席だったか。
そして、まずは復習からという千佳の言葉通りにテスト範囲をおさらいしていた。非常にわかり易く、できれば数学の授業も千佳にお願いしたいくらいだ。でも、最初は要領良く教えてくれていた千佳の様子が俺が質問を重ねる毎にだんだんとおかしくなっていった。
「ここはこの式を当てはめるんだよな?」
「………………」
「千佳。……おい、千佳聞いてんのか?」
「へ? あ、ああ、うんそう」
時間が経つにつれ、考え事でもしてるのか、こうやって聞いても答えてくれないことが多くなっていた。
「さっきからどうしたんだよ。ぼーっとして。やっぱり邪魔なら――」
「ち、違うの。だ、大丈夫だから」
やっぱりおかしい。ぼーっとしてるかと思えば、こちらから話しかけると、慌てたように忙しなく自分の髪をとく。問題を解いている時なんかはじーっと見られているような感覚もあった。
俺が訝しく千佳を見ていると、千佳は少し照れくさそうに小さく「えへへ」と笑って頬を掻きながら、
「なんか……やっぱりいいなぁって……」
「ん、何が?」
「ううん、何でもないの。ごめんね。っていうか、これくらい授業聞いてたら誰でもわかるよ?」
「そ、そう言うなって」
こっちは授業中だって梓の相手で忙しいんだ。
「ふふ……続きしよっか」
「させませんっ」
ずいずいっと、俺と千佳の間に怪面ツインテール参上。空気椅子まで使って、無理矢理に体をねじり込む。それに合わせるように、倉敷さんがにやにやしながら向かい側に座り、「うーん」と俺と千佳を見る。
「いやー、すっごくいい雰囲気だったんだけどねー。あずあずが我慢できずに飛び出しちゃって。お姉さんとしては、幼馴染同士がいちゃつく姿をもう少し目に焼き付けたかったんだけどねー」
「い、いちゃつくなんて……っていうかずっと見てたの!?」
「ちーちゃんが熱っぽい瞳で幼馴染の横顔を愛しむように見ていた時から」
「ちっ、ちが……っ!」
千佳は顔を真っ赤に染めて立ち上がり、ガタンッと椅子の立てた音が館内に響き渡った。「あっ……」注目を浴びて、耳まで赤くしながら目を伏せて静かに座る。それから俺に頭を向けて頬を机につけ、「う~~~~……」と唸る。
「はははっ。可愛い幼馴染じゃないか。真くん」
倉敷さんがそう言うと、千佳が頬を擦りつけたまま抗議するように「違うもん~」体をくねらせる。
俺は嘆息しながら頭をかく。千佳はいつもいつもこんなふうにからかわれてるんだろうなぁ。
「梓の目の前で浮気とは、とんだ不埒物です」
猫が威嚇するように歯を見せ、梓が言う。
「勉強教えてもらってただけだって」
「勉強なら梓が教えてあげます。千佳先輩より上手に教えてあげます」
梓が鼻を鳴らしながら言うと、むくり、千佳がゆっくりと身を起こした。
「梓ちゃん、一年生の授業飛ばしてきた梓ちゃんには無理だよ」
あははははー、冷たい微笑を浮かべて千佳が言う。
「梓の方が千佳先輩より勉強できますもん」
しれっとして梓が反論する。自信満々だなー。千佳だってずっと学年上位なんだけど。ボウリングの時といい、どうして梓は千佳に対抗意識燃やすかな。
「ふーん、じゃあテストで勝負する?」
「いいですよ? ボウリングの時とは違って梓の得意分野ですからね。万が一にも負けはありません」
「私が勝ったら今度から真にはずっと私が勉強教えるから」
「ええいいですとも。梓が勝ったら真先輩と保健体育の実技指導をします。主に性教育の」
ちょっちょっちょ、待て待てーい!
「おいおいおいおい、お前ら勝手に決めんな。俺の意思はどうなる。千佳のはともかく梓のはダメだ」
「真は黙ってて」「先輩は黙っててください」いいのかよ千佳それで! 絶対の自信があんのか?
千佳はともかく梓にまで冷たい視線を向けられるとは。
「おおーっ。これが修羅場っやつだね。くわばらくわばら」
あんたも千佳をからかって梓を焚きつけたようなもんだろうが。
「それで、勝敗はテストの総合結果で決めるのかい?」
倉敷さんはすでにジャッジ気取りだ。いいよね、外から楽しむだけの人は。二人の勝負にどうして俺が巻き込まれなきゃならんのだ。しかも今回は下手すると梓が勝ってしまうようなこともあり得る。高校で勉強する内容が頭に全部詰め込まれてる梓と千佳じゃ、大学生と高校生の対決みたいなもんだ。範囲は限定されているとは言え、千佳が不利に思えてならない。
「梓は何でもいいです。千佳先輩の得意科目だけで勝負してもいいですよ?」
ほんとに相当な自信だ。ものすごく不安だ。
「それじゃあお言葉に甘えちゃうけど、本当にいいの?」
千佳も得意げにほくそ笑む。俺が一生入れない勝負だな。梓は「オフコース」と英語を持ち出した。それくらいなら俺でもわかるぞ。馬鹿にしているようだがそれだけで自慢げなお前の方がアホに見える。
「じゃあ、私は英語の真が取った点数で。梓ちゃんは真のどの教科にする?」
「……はい?」「あ?」「……なるほど」
梓、俺が疑問符を浮かべ、倉敷さんだけ納得していた。俺の取った点数って、えっと、何の勝負だったっけ?
「つまり、私と梓ちゃんがそれぞれ選んだ教科の勉強を真に教えて、その教科でテストの点が上だった方が勝ち。何でもいいって言ったからね」
「千佳先輩が英語を教えて、梓が他の教科を教えるってことですか?」
「そう。ただし、教える場所はここで。毎日お互いに一時間ずつ。それでどう?」
「場所と時間はいいですけど、千佳先輩が英語を選んだってことは、真先輩は英語が得意ってことなんじゃないですか?」
「そうかもね。でも、それは教え方次第じゃないかなぁ?」
千佳の奴、変に悪知恵が働くな。俺は確かに英語の点は割と良かった方だ。だけどどれも平均的で、そう大差があるわけじゃない。それも千佳は知ってるから、特別に有利っていうわけでもない。おそらく、俺の成績で勝負するのには他の狙いがある。千佳の思い通りなら、八割方千佳が勝つ勝負だ。
「確かにそうですね。でも、一応聞かせてもらいます。真先輩、英語の他にいけそうな教科はありますか? 後から選ぶんですからこれくらい構わないですよね?」
「いいよ。どれを選んでもそう大差ないけどね」
やっぱり、どの教科にするかは大した意味はない。
「俺は英語だって微妙だ。他にあえて言うなら社会系かな」
「じゃあ、日本史にします。真っ先に勉強しようとしてましたし」
日本史ね。覚えるばかりの教科でどう教えてくれるのかな梓先生は。
「じゃ、決まりだね。勝負はフェアに。家で教えたりしたらダメだよ?」
満面の笑みの千佳だった。勝負はフェアに、ね。よく言うよ。
「もちろんです」
「ふふふ、ちーちゃんも悪よのう」
「違うよみちる。これはね、戦略って言うの」
おおお、なんだか梓が可哀想にも思えてきた。その梓は二人の会話に訝しげな表情を浮かべる。
「真先輩、どういうことですか?」
俺に聞くのかよ。俺も勝負に巻き込まれるのはゴメンだし、千佳の戦略っていうのを教えてやろうか。
「お前、この勝負負けるぞ」
「先輩が弱気になったらダメですよぉ。任せて下さい。梓はとっても教えるの上手いですから」
胸を張る。そういう問題じゃないんだけどなぁ。倉敷さんなんか今にも噴き出しそうなくらい笑いを堪えてるし。
「はぁ……。お前なぁ、お前が勝ったら保健体育の実技が待ってるっつーのに、俺が日本史で英語より良い点取ると思うのか?」
「え? …………あっ! ず、ずるいですっ! よく考えたら全然公平な勝負じゃないじゃないですか!」
「お前、静かにしろっ」
立ち上がって猛抗議した梓を椅子に座らせる。俺が一つずって、俺と千佳で梓を挟んだ。
「あっははは。やっぱり面白いなあずあずは。今頃気がついたのかい?」
「むぅ~……。巧妙な罠です。こんな結果が見えている勝負はダメです」
「えーっ。もしかしたら真が梓ちゃんとの保健体育を心待ちにしてるかもしれないよ?」
「そうだねぇ。日本史頑張ればあずあずからのご褒美があるんだから」
千佳も倉敷さんも、勝負なんてどうだっていいって感じだな。千佳も一緒になって梓をからかっているみたいだ。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか」
言い切った。言い切りおったわこいつ。じゃあ最初っから気付けよ。
俺が嘆息すると、千佳は本当に面白そうに笑った。倉敷さんも、やれやれといった様子で微笑みを浮かべている。何か通じるものがあったらしい。
「案外、似たところにいるのかなぁ」
小さく、千佳が呟いた。
「一番の悪者はジョンってことだね」
何だ、何故俺がいきなり悪者扱いされるんだ。
「ふふっ。梓ちゃん、勝負はどうする? 真にはフェアにやってもらおうかなって思うけど」
「「え?」」
俺と梓は同時に目を丸くした。フェアって、俺が梓を勝たせるようなことするわけないじゃないか。
「フェアに、ねっ」
千佳がウインクで合図を飛ばす。ボウリングの時にもあった、何か考えがあってのこと。アイコンタクトで通じるなら言葉なんて必要ないんだぞ? まぁ、言わんとしていることはわかる。公平に、一緒にってことだよな。それはなかなか難しい。二人には本気で教えてもらわないと。
「やるか? 梓。満点が取れるくらいは教えてもらいたいけどな」
「そっ、それってこくは……っ!」
告白じゃねぇよ。叫ぼうとするな。塞いだ手を舐めるな。三回目。
「ぜ、ぜぜぜひやりましょう。覚悟は、いいいいいいですね?」
「ああ。フェアにやるよ」
梓は言葉にならないガッツポーズを何度も繰り返した。
結局、二人に教えてもらうのは明日からになった。中間テストまでは約十日。少なくとも二教科は平均以上が取れそうだ。
で、だ。今まで忘れてたんだけど。
「倉敷さん、裕也は?」
「ああ、何かいい感じに話してたのが面白くなくてね。彼女を泥棒猫呼ばわりしたら怒って帰っちゃってさ。変態ならそれを追っかけて行ったよ」
「……ひでぇ」
十日間、図書館に通いつつ二人にはみっちり教えてもらった。その間もあの二人にいろいろあったけど、それはまた話す機会があれば。
千佳の教え方もわかり易かったけど、梓もさすがで、覚えるだけにしろ歴史の背景からきっちり理解させてくれるので、自然と覚えられた気がする。
テストの出来はと言うと、梓も頑張ってくれてたけどやっぱり英語の方が良かった。
それで、だ。
「えっ。二つとも同じ点数だったんですか?」
「ああ。ほら、見るか?」
テストが返却され、梓に英語と日本史の結果を見せる。全く同じ点数だ。八十六点。過去最高の点数だったりする。他の教科は逆に僅かながら平均以下。
「むぅ。なら千佳先輩との勝敗は……」
「チャラだろ。同じなんだから」
「あーん……先輩との保健体育がぁ……」
がっかりする梓の頭を撫でて、外の雲を見上げる。
実は、英語の方は満点を取れていた。わざと回答を間違えて同じ点数になるよう調整した。俺なりにフェアな勝負結果にしたつもりなんだ。引き分けの取り決めはしてなかったしな。
だけど、今回の結果は運の要素が強かった。たまたま日本史のテストが自信のある英語より先にあったからうまく調整できたものの、逆だったらどうだったかわからない。日本史は、確実にわかる回答以外は書かなかったから。逆だったらどうなっていたか、考えたらお先真っ暗だな。下手すると人生を掛けた勝負だったかもしれん。
「ま、また次のテストの時はよろしく頼むな、梓先生?」
「はいっ。ところで、やっぱり先輩は女教師と言えばワイシャツにメガネですか?」
「着なくていいからな」